ネットで「シミュレーション宇宙 唯識」と検索すると、唯識、量子物理、「意識は宇宙の底層である」を一緒に語る記事が何本も見つかり、読んでいて痛快です。あるネットユーザーは、世界は「刹那刹那の三次元の大きな夢」にすぎないと言いました。
私は、原文に当たって見直してみたいのです。唯識自身は何と言っているのか。「万法唯心造」の原文は何なのか。この一編は上篇で、唯識の側だけを扱います。下篇でシミュレーション宇宙につなげます。
先に一言。この二編とも、関連する説を思考実験として読み、どの立場の肩も持ちません。
一、「万法唯心造」、原文はこう言っている
この句がもっともよく引かれる出典は『華厳経』です。八十巻本の巻十九、「夜摩宮中偈讃品」で、覚林菩薩が述べた一首の偈です。原文は次のとおりです。
「心は工なる画師の如く、能く諸の世間を画く。五蘊は悉く従って生じ、法として造らざるは無し。……若し人、三世の一切の仏を了知せんと欲せば、応に法界の性を観ずべし、一切は唯だ心の造なり。」

高麗時代(1400年ごろ)の『華厳経』写本の表紙。藍色の紙に、金泥で一面に花が描かれている。この経典は朝鮮半島と日本で、中国よりも昔からずっと尊ばれてきた。 出典:Wikimedia Commons、大英図書館蔵、CC0
注意してください。原文は「一切唯心造」です。「万法唯心造」は、後に通行するようになった言い方で、それが最初にどこに現れるのか、私は調べきれていません。
この偈そのものには、ふだんあまり語られない点がいくつかあります。
画師をたとえに使っています。同じ偈にもう一句あります。「譬えば工なる画師の、自心を知ること能わず、而も心に由るが故に画くが如し」。画師は一つの世界を描けるのに、自分の心は知らないのです。
「心の如く仏も亦た爾り、仏の如く衆生も然り」ともあります。心、仏、衆生に差別はない。偈の要点は、この三つの関係であって、「望めば何でも手に入る」ではありません。
同じ品に、もう一人の菩薩、力林が言った句もあります。「世間は自ら作るに非ず、亦た他の作に非ず」。世界は自分が造ったのでもなく、他人が造ったのでもない。この一句は、下篇で使います。
流行している読み方は「心に思えば事が成る」です。偈の原文には、そのような意味はありません。
二、唯識:「心造」を一つの論証にした
この考えを一つの論証にまとめたのは、世親(ヴァスバンドゥ)です。『唯識二十論』には玄奘の訳があります。冒頭にはこうあります。
「大乗の三界唯識を安立す。契経に三界は唯だ心なりと説くを以てなり。」

日本・奈良の興福寺にある世親像。13世紀に運慶一派が彫った。インドの論師が、日本の寺で、苦労のにじむ老僧の顔に彫られている。 出典:Wikimedia Commons、パブリックドメイン
続いて、論全体でもっとも重要な一句が来ます。
「内識が生ずる時、外境に似て現ずること、眩翳ある者が髪や蠅などを見るが如し。」
意味はこうです。心のなかの識が生じるとき、外に何かがあるように見える。目に病のある人が、髪の毛や蠅を見るのと同じだ。
こう言われると、すぐに反論が出ます。外に何もないなら、なぜ私はこの場所、この時にだけ、こういうものを見るのか。なぜ多くの人が同時に同じものを見るのか。なぜそれらのものが、食べられたり、人を傷つけたりという働きを持つのか。
世親は、夢、餓鬼、地獄で答えます。そのなかの二つの箇所がとてもおもしろいのです。
「謂わく、餓鬼の同業の異熟にして、多くの身が共に集まり、皆な膿河を見るが如し。」
「同処・同時に衆多の相続して、皆な共に獄卒・狗・烏・鉄山などが、其の所に来至して逼害の事を為すを見る。」
餓鬼の群れが、同時に同じ膿の河を見ます。地獄にいる衆生の群れが、同時に同じ獄卒が刃を持って迫ってくるのを見ます。本当の獄卒はおらず、彼らの業が同じなので、見るものが同じなのです。これを「共業」といいます。幻覚が人を打つことは、この論証のなかでは、むしろ長所になります。
これは、「唯心造」のいちばん大きな穴にまさに答えています。心が造ったのなら、なぜ世界は私の言うことを聞かないのか。
唯識の答えはこうです。世界は、私がいま心を起こして造ったものではなく、無始以来の習気が変じたものである。『唯識三十頌』にこうあります。「一切種識は、是の如く是の如く変ず。展転の力を以ての故に、彼彼の分別生ず。」
『成唯識論』巻二は、「種子」をさらに二種類に分けます。一人ひとりの身体は、「異熟識の不共相種の成熟力の故に、色根と根の依処に似て変ず」。そして「共相種」があり、みなが一つの世界を共に受用できるようにします。(これは私の要約です。身体はそれぞれの種子から変じ、世界はみなが共有する種子から変ずる。)
世界が私の言うことを聞かないのは、それが私ひとりの種子から変じたものではないからです。
三、唯識の出口:転依
「世界がどうやって生まれるか」を述べたら、次は「どうやって出てくるか」を述べなければなりません。唯識の出口は「転依」といいます。
『成唯識論』巻九に、とても明快な定義があります。
「依とは所依を謂い、即ち依他起なり。染・浄の法の所依たるが与なり。染とは虚妄の遍計所執を謂い、浄とは真実の円成実性を謂う。転とは二分の転捨・転得を謂う。」
その後ろに続けて、修行して障りを断つと、「能く依他起の上の遍計所執を転捨し、及び能く依他起の中の円成実性を転得す。煩悩を転ずるに由りて大涅槃を得、所知障を転じて無上覚を証す」と言います。
私の要約はこうです。世界が働く土台(依他起)はそのまま残る。捨てるべきは、その上に重ねられた「実在する我、実在する法」への執着であり、得るべきは、それがまだ重ねられていないありのままの姿である。だから唯識の解脱は、世界を見る仕方を取り替えることを指していて、この世界から出ていくという意味ではありません。

明代の陸治が描いた荘周の夢の蝶。「周の夢に胡蝶と為るか、胡蝶の夢に周と為るか知らず」。中国人はずっと昔から同じ問いを考えていた。ただ荘子は、夢のなかから出る気はなかった。 出典:Wikimedia Commons、パブリックドメイン
どう進むのか。『成唯識論』は五つの段階を挙げ、「五位」といいます。資糧位、加行位、通達位、修習位、究竟位です。
『唯識三十頌』の最後の数句はこうです。「無得にして不思議なるは、是れ出世間の智なり。二の粗重を舍する故に、便ち転依を証得す。此れは即ち無漏界にして、不思議にして善、常なり。安楽解脱の身、大牟尼を法と名づく。」
「無得」の二字は、よく見る価値があります。「私は何かを得た」という思いさえ、手放さなければなりません。『三十頌』は修行のある段階を述べるときに、一つの戒めを置いています。「現前に少物を立て、是れ唯識の性なりと謂わば、所得有るを以ての故に、実には唯識に住せず。」つまり、もし「唯識」までも一つのものとして手に握り、「これだ」と言うなら、まだ本当に唯識のなかに住んでいない、ということです。
この一句は、下篇でも続けて使います。
逆から見る
第一に、ネットでよく見る言い方の多くは、私が上で引いた何部かの原文のなかに、対応する言葉を見つけられませんでした。 たとえば「世界は刹那ごとに一コマずつ生成し直す」といったものです。間違いだと言うのではなく、それらは後の人の展開であって、論書の字句ではない、ということです。
第二に、唯識は肉体が存在しないとは言っていません。 『唯識二十論』自身が、夢のなかのものには実際の対象がなくても、「精血を損失するなどの用有り」と言い、論はこの「虚妄の作用」を認めています。痛みは本物の痛みです。ただ、その痛みの源を、論は心の外の物質には置かない。あるネットユーザーがこの点をとても明快に述べていて、私も賛成です。
第三に、唯識が結局のところ「世界には心しかない」という観念論なのかどうかは、学界では今も争われています。 認識論や現象学として読む人もいれば、存在論的な観念論として読む人もいます。この一編は、どちらの肩も持ちません。
第四に、私が読んだのは、玄奘の系統で伝わった原文だけです。 唯識は中国で別の翻訳・伝承もあり、ほかの説は読んでいません。
夢を見て、目が覚めたあと、現実のあることよりも長く、その感情が残った夢はありませんか。
参考資料
- 『大方広仏華厳経』八十巻本巻十九「夜摩宮中偈讃品第二十」、実叉難陀訳(覚林菩薩の偈、力林菩薩の偈)、大正蔵(ウィキソース)
- 世親『唯識二十論』、玄奘訳、大正蔵(ウィキソース)
- 世親『唯識三十頌』、玄奘訳(ウィキソース)
- 『成唯識論』巻二・巻九、玄奘訳、大正蔵(ウィキソース)
- Stanford Encyclopedia of Philosophy, "Yogācāra":https://plato.stanford.edu/entries/yogacara/
- ネットユーザーの文章と回答(2026-10-05に読む。手がかりとし、証拠としない)
- 画像の出典は各図の説明に記載
