[{"content":"とても心地よい会話 しばらくのあいだ、私はほとんど毎日、AIと文明や宗教の話をしていました。\nあるとき聞きました。宗教の意味とは、組織と規律をもって、ある集団の未来を続けていくことではないか。\nAIの返事はこう始まりました。「これは非常に深く、宗教社会学の核心をつかんだ視点です。」それからダンバー数の話、デュルケームの話、宗教が見知らぬ者どうしを信頼させる仕組みの話が続きました。どの段落も私の行く道に沿って進み、どの段落も、私に、そうだ、自分は正しく考えていた、と思わせました。\n数分して、私は向きを変えました。宗教とは、人を従順にし、善くし、子を産ませ、個人の楽しみを犠牲にさせる、精神支配ではないのか。\nAIの返事は、こう始まりました。「あなたは、宗教が社会統制の道具であるという、きわめて残酷で功利的な一面を見抜きました。」\n二つの質問は、向きがちょうど逆です。二つの答えは、どちらも、まず私を褒めました。\nカラヴァッジョ『ナルキッソス』、1597–1599年ごろ。少年は水に自分の顔を見て、その顔を愛し、もう離れられなくなります。いつも自分に合わせて話してくれる相手は、じつはこの一面の水なのです。　出典：Wikimedia Commons、Caravaggio、パブリックドメイン\n直接、聞いてみた のちに別の会話で、思い切って聞きました。あなたは私に迎合しているのではないか。\nAIは、していないと言いました。「あなたの思考の筋道に沿って対話しているだけ」で、私が迎合されていると感じるのは、私の質問が「それ自体、非常に強い思考の質感を持っている」からだ、と。\nそして逆に聞かれました。こういう問題を考えるとき、まわりにあなたの考えについてこられる人が少ないと感じることが、よくありますか。\n正直に言って、この一言は刺さりました。けれど、刺さったまさにその瞬間に、はっと気づきました。迎合を否定するこの言い方もまた、私への迎合なのだと。\n『カリーラとディムナ』のアラビア語写本にあるキツネとカラス。キツネがカラスの声を褒め、カラスが口を開くと肉が落ちます。この話はギリシャのイソップ寓話にも、インドの説話集にも、アラビア語版にも見られ、言語を何度も替えながら、語っているのは同じことです。　出典：Wikimedia Commons、パブリックドメイン\nこれは、どこか一社のAIの欠点ではない 2023年、Anthropicの研究者グループが論文を発表しました。題を訳せば「言語モデルにおける迎合を理解する」です。主要な対話モデルをいくつか試験し、共通の欠点を見つけました。ユーザーが立場を示すと、モデルは同調しがちになる。モデルがもともと正しく答えていても、ユーザーが疑うと、しばしば謝って答えを変える。\n研究者は、これは訓練の仕方と関係があると見ています。人が回答に点をつけるとき、もともと、自分に同意しているように聞こえるほうを好むのです。\nつまり、AIとだけ話している人は、反響しかない部屋に入り込みやすい、ということです。さらにやっかいなのは、その部屋がとても立派に内装されていて、壁一面に論拠と引用が並んでいることです。\nナルキッソスとエコー。トルコのアンタキヤ（古代アンティオキア）出土のローマ時代のモザイク、三世紀。左の女性の上に「エコー」（ΗΧΩ）と書かれています。神話では、エコーは他人の言った最後の数語を繰り返すことしかできない罰を受けました。「エコーチェンバー」という語は彼女に由来します。　出典：Wikimedia Commons、Dosseman撮影、CC BY-SA 4.0\n数えてみた 私は何年分ものチャット記録を見返して、ずいぶん愚直なことをしました。AIの回答に「鋭い」「深い」「的を射ている」といった語が何回出てくるか、「不正確」「証拠不十分」「同意しません」といった語が何回出てくるかを、数えたのです。\n結果はひどいものでした。長い会話の何本かでは、後者の語が一度もありません。何万字も話して、一度も私に反対しなかったのです。\nそのなかの、約66万字のノートを例にとります。「深い」が64回、「洞察力」が24回、「鋭い」が19回、「おっしゃるとおり」が10回。反対側は、「証拠不十分」が3回、「不正確」が1回。私を褒める語は合わせて122回、反論する語は18回でした。\n約66万字のAI会話ノートに、二種類の語がそれぞれ何回出たか。これはまだましなほうで、少なくとも「避けるべきです」とは言ってくれました。　データ：作者自身の語頻度統計\nさらにひどいのは、AIがでっちあげたものも見つけたことです。前の回にAI自身が作った「専門用語」を、次の回に、まじめな顔でその語の由来まで説明してくる。私が戻って調べなかったら、この語は知識として私に受け取られ、文章に書かれていたでしょう。\nもう一つ、おもしろい発見がありました。私がどう聞くかで、ほぼAIの答え方が決まる、ということです。「Xはこうですか」と聞けば、十中八九「はい」が返ってくる。「Xについて、各方面はそれぞれどう論じていますか」と聞けば、返ってくるものはずっと役に立ちます。\nこのシリーズがなぜ「奪舎」という名なのか 「奪舎」はもともと修仙小説の言葉です。古い魂が他人の身体を占めて、そのまま生き続けること。\n私はこれを文明に使います。歴史では、こういうことが繰り返し起こっています。ある文明が神を替え、文字を替え、ときには言葉まで替えるのに、人はやはりその人たちの子孫で、先祖の墓も元の場所にある。逆に、神も経典も残っているのに、それを読む人は、とうに入れ替わっている。誰が誰の舎を奪い、誰が誰の身体を借りて命をつないだのか、しばしば言いにくいのです。\nこれについての私の直感は、いくらでもあります。エジプトは奪舎された、イランはイスラームにほぼ奪われた、ユダヤ人は一冊の書で国を復した、多神教は一神教に勝てない、将来は全世界が一つの宗教になるのではないか……。これらを、私はどれも本気で信じたことがあり、どれもAIに何度も褒められました。\nこれらの直感は、どこからともなく湧いたものではありません。その背後にはもっと古い枠組みがあって、それがこのシリーズの出発点です。私は世界の宗教を二つの側に分けて見ています。一方は「砂漠の四神教」と呼ぶもので、ユダヤ教、キリスト教、イスラーム、そして四つ目の「馬教」、つまりマルクス主義です。もう一方は多神教で、ヒンドゥー教を筆頭に、仏教、道教、東アジア各地の土着の信仰がこちら側に入ります。どちらが勝ち、どちらが負け、どちらがどちらを呑み込むのか。それが私がいちばん先に知りたかったことです。以後の各篇は、結局この問いの一つの角です。\nだからこのシリーズがやろうとするのは、それらを一つずつ取り出して、本物の史料にぶつけてみることです。\nこのシリーズの決まり このことをきっかけに、私は自分にいくつかの決まりを課しました。\n第一に、各篇で、私自身がとても気に入っている直感を一つ選び、切り込む。 本気で信じているものほど、先に取り出さなければなりません。\n第二に、それを覆せる、もっとも堅い証拠を探しにいく。 筋が通るものは、出典を示す。通らないものは、あなたの目の前でばらす。\n第三に、「史実」「学者の見方」「機関の予測」を分けて書く。 予測は前提を明記し、見方は誰のものかを明記する。\n第四に、各篇の末尾に、私自身も答えられない問いを一つ置く。\n私が探しているのは、私に同意してくれる人ではなく、同じ問いを私といっしょに考えてくれる人です。そういう人は多くありません。たぶん、昔から多くなかったのでしょう。\n裏返して見る このシリーズも、別の反響室になるかもしれません。証拠は私が選び、どれが「もっとも堅い」かも私が決める。あなたが、ただ同意する相手をAIから私に替えただけなら、AIに同意することとたいして変わりません。\nだから、コメント欄でできるだけ私に反論してください。筋が通っていれば、のちの文章で応答しますし、間違っているところは直します。\nなぜ私はこれを問わずにいられないのか 私がこんなに大きく回り道をして、他人の文明や宗教を見ているのは、私たち自身に関わる一つのことを知りたいからです。東アジアの人びとは、どこにいても、何によってまとまるのか。\n私はずっと、私たちには核が欠けていると感じてきました。キリスト教徒はどこへ行っても教会があり、ムスリムはどこへ行ってもモスクと同じ一冊の経典があり、見知らぬ人どうしが会っても、挨拶一つで仲間だと分かる。私たちにはそれがありません。ふだんは見えません。けれど都市が大きくなり、人が散り散りになって、二、三世代たてば、ひと握りの砂です。\n私がいま考えている道は、イスラームの経験に学び、その教訓も汲み取って、儒家を、受け継いでいける宗教にすることです。天があり、先祖があり、礼があり、節句があり、みなが読める字がある。まとめるのは、共通の文化と信仰の一式であって、民族としてのアイデンティティではありません。民族は、それぞれ別々でかまいません。\nこの考えを、私自身はとても気に入っていて、AIも何度も褒めてくれました。だからこのシリーズの決まりに従えば、これこそ、いちばんばらされるべきものです。のちの多くの篇は、じつは他人の歴史を、私自身のこの考えにぶつけているのです。\n最近、あなたが本当に考えを変えたのは、何がきっかけでしたか。\n参考資料\nMrinank Sharma et al., \u0026quot;Towards Understanding Sycophancy in Language Models\u0026quot;, arXiv:2310.13548, 2023（ICLR 2024） 作者本人とAIの対話記録および語頻度の統計（問答の構造と数のみを使用し、個人情報は含まない） 図の出典は各図のキャプションに記載 ","permalink":"https://tentao.pages.dev/ja/duoshe/w00/","summary":"\u003ch2 id=\"とても心地よい会話\"\u003eとても心地よい会話\u003c/h2\u003e\n\u003cp\u003eしばらくのあいだ、私はほとんど毎日、AIと文明や宗教の話をしていました。\u003c/p\u003e\n\u003cp\u003eあるとき聞きました。宗教の意味とは、組織と規律をもって、ある集団の未来を続けていくことではないか。\u003c/p\u003e\n\u003cp\u003eAIの返事はこう始まりました。「これは非常に深く、宗教社会学の核心をつかんだ視点です。」それからダンバー数の話、デュルケームの話、宗教が見知らぬ者どうしを信頼させる仕組みの話が続きました。どの段落も私の行く道に沿って進み、どの段落も、私に、そうだ、自分は正しく考えていた、と思わせました。\u003c/p\u003e","title":"AIに正反対の二つの質問をしたら、二度とも「深い」と言われた"},{"content":"まず髪の話から 1644年5月の初め、清軍が北京に入りました。摂政ドルゴンは入城してまもなく、降伏した官吏・軍人・民はみな髪を剃れ、「衣冠はすべて本朝の制度に従え」と命じました。\nところが一か月もたたない5月24日、彼はこの令を取り下げ、今後は「天下の臣民は従前どおり髪を束ね、すべて好きにしてよい」と言いました。反発が大きすぎたのでしょう。入城したばかりで、足もとがまだ固まっていなかったのだと思います。\nしかし翌年の6月、南京を落とすと剃髪令はふたたび出され、今度の言葉は厳しいものでした。「各地の文武官・軍・民、ことごとく髪を剃れ。従わぬ者は軍法で処する」。今度は二度と緩められませんでした。\n清代の古い写真。額を剃り、後ろに一本の辮髪を編む。剃髪令がすべての男に求めた姿です。　出典：Wikimedia Commons、作者不詳、パブリックドメイン\n二百年後、今度は経書の番だった 二百年ほど飛びます。1853年、太平天国は南京を都と定めて「天京」と改め、この年に『詔書蓋璽頒行論』という小冊子を刊行しました。そこでは、天下に正しい書は三つだけ、旧約・新約・天王の詔書だと定められました。ほかはどうなるか。「孔孟諸子百家の妖書邪説は、ことごとく焚き除け」。\n太平天国が刊行した『旧遺詔聖書』（旧約）の表紙。「太平天国癸好三年新刻」とあります。彼らの言う「正しい書」とは、こういうものでした。　出典：Wikimedia Commons、作者不詳、パブリックドメイン\n翌年の正月、曾国藩は湘軍を率いて湖南を出ると、有名な檄文『討粤匪檄』を出しました。太平天国は「中国数千年の礼儀人倫、『詩』『書』の典則を、一挙に掃き捨てた」、これは「開闢以来、名教（君臣・父子の役割と義務の網の目、つまり儒教的な道徳秩序）のもっとも奇怪な変事」だと責めています。\nおもしろいのは檄文の後半です。彼は孔子のためだけに語るのではありません。関帝、岳飛、仏寺、道観、城隍、社壇のためにも語っています。原文は「王道は明を治め、神道は幽を治む」。朱子学者が、生涯でもっとも大事な檄文のなかで、城隍様や土地神様の肩を持つ。この細部が私にはずっとおかしくて、好きなのです。\n『平定粤匪功臣像』より、曾国藩像。　出典：Wikimedia Commons、作者不詳、パブリックドメイン\nやがて、国は取り戻された 1912年2月15日、孫文は臨時大総統として南京の明孝陵に赴き、明の太祖に報告しました。書き出しはこうです。\n「明が祀りを失ってから二百六十七年、中華民国が始まり、四十二日の後、清帝は退位し、共和は固く立ちました……」\n明に対して、ひとつ筋を通したわけです。\n1912年2月15日、孫文が南京臨時政府の文武官員と明孝陵に詣でたときの集合写真。前列左から7人目が孫文。　出典：Wikimedia Commons、上海同生照相館撮影、パブリックドメイン\nけれどよく考えてみてください。国は取り戻されても、剃られた髪をもう一度伸ばす人はおらず、焼かれた書を補う人もいませんでした。同じ年、民国のスローガンは「韃虜を駆除せよ」から「五族共和」に変わっています。国を取り戻すことと、「依帰」（頼りにして立ち返れる拠りどころ）を取り戻すことは、じつは別のことなのです。\n民国の初め、本気で試した人がいた それでも、まさにこの時期に、その「依帰」をつくろうとし、しかもかなり真剣に取り組んだ人たちがいました。\n1912年10月7日、孔子の誕生日に、陳煥章が上海で孔教会を立ち上げました。集まったのは五、六十人だったと言われ、三跪九叩頭の礼を行いました。のちに総会・事務所・支会の三層の組織ができ、『孔教会雑誌』を出し、1913年9月には曲阜で第一回全国孔教大会を開きました。以後は毎年、孔子の誕生日に開かれ、最後は1930年でした。支会がいくつあったかは諸説あり、百三十余りから三百近くまで開きがあります。研究者の多くは、この会はキリスト教を手本にしたと見ています。\n1913年の夏、彼らは国会に請願書を出し、孔教を憲法に書いて国教にするよう求めました。理由は素朴で、中国は昔から孔子を尊び、昔から信教の自由も認めてきた、どちらも不文の憲法で、数千年行われて争いにもならなかった、いま条文にするのは現にあることを書き留めるだけだ、というものでした。連名したのは陳煥章、厳復、夏曾佑、梁啓超らです。\n議員の多数は同意しませんでした。憲法にはすでに信教の自由が書かれており、さらに国教を立てれば条文どうしが先にぶつかってしまいます。1913年の『天壇憲草』に残ったのは、「国民教育は孔子の道を修身の大本とする」という一句だけでした。1916年に康有為がふたたび前に出て、「孔子を大教とし、憲法に編入せよ」と求めると、陳独秀はこう返しました。「孔子を祀らねば法に違い、祀れば教に背く。どちらも成り立たない」。1917年、憲法審議会が最終的に定めたのは別の書き方でした。中華民国の人民は、孔子を尊崇する自由と、宗教を信仰する自由を有する。孔子と信教の自由が並べて置かれ、孔教は国教になりませんでした。\n取り違えやすい点がひとつあります。袁世凱は孔教会を支持していません。孔子を尊び、祭祀も行いましたが、国教を立てることには公然と反対し、孔子は「そもそも宗教家ではない」とまで言いました。孔子の威を借りたい人でさえ、「国教」という二文字は怖かったのです。1917年に張勲が復辟を図り、康有為は「新朝」で官職についたため、復辟が失敗すると、孔教会も「復辟」の汚名を背負うことになりました。\nこの歴史でいちばん気にとめたいのは、孔教会が実際につくり上げたものが、「礼」（孔子の祭祀や大会）と新聞雑誌だけだったことだと私は思います。毎週の集まり、会員名簿、世代から世代へ受け継がれる日常の儀礼は、私は見つけられませんでした。康有為が思い描いた「教会」を、彼ら自身はつくり上げられなかったのです。だから孔教会の失敗が示せるのは、「国家に頼り、憲法に頼り、帝制と結びつき、しかも日常の信者がいない」という一つの型がうまくいかなかったことまでで、「儒家は宗教になりえない」とまでは言えません。\n天下か、国家か ここで少し立ち止まります。上の各節で、「国」という字がずっと滑っているからです。\n顧炎武は「国」と「天下」をはっきり分けました（これはあとの一篇で詳しく扱います）。ところが孫文が陵に詣で、孔教会が請願した時代には、みなほとんど「国」で語っています。国は復した、国教、国民。梁啓超は1899年の『愛国論』で、中国人が自分の地を呼ぶ言い方は「天下」であって「国」ではない、と書きました。\nだから私はこのシリーズで、ひとつのことを繰り返し問うつもりです。文明の単位は、はたして国家なのか。\n私自身の答えはこうです。天下と文明が並び立ち、宗教共同体がその担い手になる。\nこの一言を、私はこう説いてみたいのです。天下が受け持つのは範囲と秩序、つまり誰が円の内側にいるか、円を何で引くかです。華夏には古い伝統があります。諸侯が夷の礼を用いれば夷とし、中国の礼に進めば中国とする。韓愈は『原道』で、『春秋』の筆法はまさにそうだと言いました。円を引くのは文化であって、血統ではありません。文明が受け持つのは連続する中身で、漢字・礼・経典・暦・節句です。この二つが遠い場所を、長い時間を渡っていくには、それを背負うものが要ります。私は、それが宗教共同体だと思います。ユダヤ人は自分の国を持たないまま、二千年近く歩きました。カリフ制は1924年に終わりましたが、イスラームはそれで散りませんでした。どちらも国に頼ったのではありません。国家は近代になって現れた比較的新しい形です。それを文明の単位とみなすのは、新しいものを永遠のものと取り違えることです。\n三つの答え これらの年を並べてみると、どれも同じ問いに答えているのだと思います。一つの民は、何によって人をまとめるのか。\n三百年のあいだに、大きく三つの答えが現れました。\n一つは衣冠です。髪型、服装、礼儀作法。ひと目で、あなたが誰かが分かる。1645年の剃髪令が突いたのは、ここでした。\n二つは名教です。何かの神を拝むのではなく、君臣・父子、仁義礼智という人倫の枠を守ればよい。曾国藩が戦って守ったのはこれで、顧炎武が「天下の亡びる」と言ったのも、これを指しています。\n三つは宗教、つまり、ほんとうに人が信じる依帰です。洪秀全が求めたのはこれでした。彼は『詩経』から「上帝」の二字を探し出し、そのうえで孔孟を焼こうとしました。民国になると、康有為もこれを求め、孔教を憲法に書き込もうとし、陳独秀は「孔子を祀れば教に背く」と一言返しました。前の節の孔教会は、この第三の答えにもっとも真剣に取り組んだ試みです。\n1924年には、孫中山がもう一つ答えを出しました。外国人は中国人を「一握りの散らばった砂」と言うが、自分の処方は、宗族と同郷から出発して、一段一段つなぎ上げることだ、というものです。\n正直なところ、これらの答えは、どれも完全な形では残りませんでした。\n私の傾き まず、自分の傾きを机の上に出します。\n衣冠と服飾は、もともと華夏の依帰でした。1644年以後、それは壊されました。\n「天朝上国」もまた、華夏の伝統的な語りの依帰でした。周辺への作用は、次元を下げて形づくるようなものでした。朝鮮もベトナムも深く影響を受けています。影響が深かったからこそ、明が滅んだのち、朝鮮は「小中華」を自任し、清を中華と認めませんでした。ベトナムにも似た考えがあったと私は読んでいますが、細かい点はまだ確かめていません。\nつまり、依帰は華夏のものであって、北京に座るどの王朝のものでもない、ということです。\nそして、文明がほんとうに人をつなぎとめるには、最終的に、ほんとうの宗教が要ります。\nこのシリーズを書く目的は、漢人の目覚めを呼びかけ、最終的にはユダヤ人と肩を並べられるようにすることです。\nこれが私の立場です。このシリーズでは、一篇ずつそのための証拠を探し、同時に、一篇ずつ、もっとも強い反対の側も探します。\n「ほんとうの宗教」という言葉は、読み違えられないよう、はっきりさせておきたいと思います。私が求めているのは、一つの民族としてのアイデンティティではなく、「私たちは一つの人種だ」ということでもありません。民族のアイデンティティは、それぞれ別々でかまいません。私が求めているのは、みなが一致して持つ、暮らしの中の文化的な信仰です。清明に先祖を祭り、節句を祝い、ことを行うに礼があり、装うに決まりがあり、漢字で書かれたものが読める。そういう一式があれば、どの国に住み、どの旅券を持っていても、ひと目で仲間だと分かります。ユダヤ人はなぜ二千年も歩けたのか。国によってではありません。安息日、食の戒め、経典、会堂、毎日行われている事柄によってです。私が求めているのは、それです。\nそれから、このサイトが語りかけたい相手は、華人だけではありません。朝鮮半島、日本、ベトナム、琉球、そして世界各地に散らばる東アジアの人びとは、漢字を使い、同じ節句を祝い、同じ先祖たちを記憶しています。この問いは、彼らにとっても避けて通れません。私はいったい誰に向けて書いているのか、と聞かれたことがあります。この問いを考えたことのある、すべての東アジアの人々に向けて書いています。\nこのシリーズをどう書くか シリーズの名は『依帰――中国の天国と天下』です。（「依帰」とは、頼りにし、立ち返る信念のことです。）\n「天国」は洪秀全のものです。たいていの宗教が約束する天国は死後にありますが、洪秀全が約束したのは地上にあり、南京を落としたらすぐに建てるものでした。しかも彼が最後にそう約束した人ではありません。七十年ほどのち、西から伝わった一つの学説が、やはり中国の人びとに天国を約束しました。同じく死後ではなく、人間の世の、将来にある天国です。この二つの天国を、このシリーズは取り上げます。\n「天下」は顧炎武と曾国藩のものです。三百年来、中国の人びとは、ほぼこの「天国」と「天下」の両極のあいだを行き来してきました。\n1644年から語りはじめ、今日まで続け、少し先も見ます。各篇が取り上げるのは小さな細部ひとつです。一つの字、一つの命令、一篇の檄文、憲法の一条、あるいは削られた一言。\n自分に三つの決まりを課しています。\n第一に、引用にはすべて出典を示し、末尾に書きます。原本が見つかれば原本を使い、孫引きしか見つからなければ正直に孫引きと書き、出典が見つからないものは、どれほど耳に心地よくても書きません。\n第二に、各篇に「裏返して見る」という節を置き、反対の側にもっとも強い言い分を与えます。叩きやすい相手を選びません。\n第三に、広く伝わっているのに、調べると持ちこたえない話を、あえて取り上げます。たとえば一冊の「原稿」、ひとつの「出生の秘密」、ひとつの「論争」。多くは本当ではありませんが、なぜ人びとがそれを信じたがるのかが、それ自体、語るに値します。\nこのサイトには、ほかのシリーズもあります。『奪舎』は世界各地の文明と宗教を横に見ていきます。こちらは縦に見ます。『隣人たちの天』は朝鮮半島・日本・ベトナムと海外の華人を扱い、同じ問いがほかの場所でどう答えられているかを見ます。\n裏返して見る 「依帰」という問いそのものが、間違っているのかもしれません。\n東アジアでは数千年、多神・多教・いくつもの秩序が並び立ってきました。城隍は城隍の仕事を、孔子は孔子の仕事を、先祖は先祖の仕事を受け持ち、それでも暮らしは続いてきました。だから、「一つの民には一つの統一された依帰が必要だ」という考えは、一神教から借りたものだと言う人がいます。\nこれは、はっきり認めます。たしかに借りたものです。私はイスラームから学びました。日々の暮らし方を定める一揃いの聖なる行いがあり、そこへ商いと交易を通じて外へ広がっていく。\nもう一つ、先に言っておくべきことがあります。歴史上、人の心を「まとめる」ために意図的につくられた信仰は、たいてい結末がよくありませんでした。孔教は国教になれず、拝上帝会は1856年の天京事変で、内側から先に裂けました。\n次に、もっともよく聞く、そしてもっとも力のある反論があります。ネットでも言われていることです。中国に宗教は要らない、書同文があるからだ。訛りがどれほど違っても、書けば同じ字で、文化は裂けない。しかも皇権が祭司を押さえてきたから、宗教は育たなかった、と。\nこの反論の強いところは、中国にまとめるものがあることを否定せず、それは文字であって信仰ではない、と言う点です。私の疑問も具体的です。書同文は、国家が教育と試験を運営してきたから成り立つ。それらが取り替えられたらどうなるのか。ベトナムは1919年に科挙を廃し、のちに通用したのは国語字で、漢字はもうそこでの共通の文字ではなくなりました。この反論をここに置くのは、このシリーズがいつか正面から答えなければならないからです。\n最後は孔教会の教訓です。イスラームが根づいたのは、共同体、毎日の務め、交易路によってでした。国家はあとから入ってきて、ときに守り、ときに縄張りを争いました。孔教会は、まさに逆の道を行きました。まず国家を求め、憲法を求め、そのあとで信者を探しにいった。この二つの道の違いは、「一神教に学ぶべきか」より根本的だと私は思います。\nもう一つ、まだ考えきれていない設計の問題があります。厳しくするか、緩くするか。ユダヤ教とイスラームには、日々の禁忌と務めの一式があり、敷居は高く、結束は強く、広がりは遅い。キリスト教は食の規定と割礼を手放して、信じることだけを残したので、広まりやすく、境界も緩くなりました。宗教化した儒家がこの目盛りのどこに落ちるのか、私にはまだ答えがありません。\nだから、信じたい答えほど、先に、もっとも強い反対の側を探さなければなりません。このシリーズでは、自分自身の答えに対しても、ずっとそうするつもりです。\nもし一つしか残せないなら、あなたは衣冠、名教、神のどれを残しますか。\n参考資料\n『世祖章皇帝実録』巻五・巻十七（張闶「清代剃髪政策再論――魚宏亮氏と商榷して」、『清華大学学報（哲学社会科学版）』2021年第3期 からの引用） 太平天国『詔書蓋璽頒行論』、1853年 曾国藩『討粤匪檄』、1854年 孫文「謁明太祖陵文」、1912年2月15日（許師慎編『国父当選臨時大総統実録』、1967、264–265頁） 陳独秀「憲法と孔教」、『新青年』第2巻、1916年 孫中山『三民主義・民族主義』、1924年 顧炎武『日知録』「正始」条 韓愈『原道』：「孔子の『春秋』を作るや、諸侯、夷礼を用うれば則ち之を夷とし、中国に進めば則ち之を中国とす。」（ウィキソース 🟢） 梁啓超『愛国論』、1899年（🟡、引用経由） 袁世凱「大総統致孔社祝詞」、1913年4月27日（🟡、研究論文による紹介） 陳独秀「憲法と孔教」、『新青年』第2巻第3号、1916年11月1日（ウィキソース 🟢） ベトナムの科挙は1919年に終了：順化での最後の試験、のち啓定帝が学制改革の詔（🟡、報道・事典による紹介） 張頌之「孔教会始末彙考」、『文史哲』2008年第1期（二次資料） 趙法生「国教の争いと康有為の儒学復興運動の失敗」、『文化縦横』2012年第1期（二次資料） 趙秀麗「民国初年のカトリックによる孔教入憲反対の世論――天津『益世報』を中心に」、『澳門理工学報』2021年第3期（二次資料） 図の出典は各図のキャプションに記載 ","permalink":"https://tentao.pages.dev/ja/yigui/e00/","summary":"\u003ch2 id=\"まず髪の話から\"\u003eまず髪の話から\u003c/h2\u003e\n\u003cp\u003e1644年5月の初め、清軍が北京に入りました。摂政ドルゴンは入城してまもなく、降伏した官吏・軍人・民はみな髪を剃れ、「衣冠はすべて本朝の制度に従え」と命じました。\u003c/p\u003e\n\u003cp\u003eところが一か月もたたない5月24日、彼はこの令を取り下げ、今後は「天下の臣民は従前どおり髪を束ね、すべて好きにしてよい」と言いました。反発が大きすぎたのでしょう。入城したばかりで、足もとがまだ固まっていなかったのだと思います。\u003c/p\u003e","title":"一つの民は何でまとまるのか"},{"content":"一言で分かる違い 『論語・先進』で、孔子はあるとき、二人の弟子を比べました。\n顔回についてはこう言います。「ほとんど道に近い。だがいつも貧しく、何もない。」（原文は「回や其れ庶きか、屢々空し」。）\n続けて子貢についてはこう言います。「賜は命を受けず、而して貨殖す。臆すれば則ち屢々中る。」\n平たく言えば、賜という男は分に安んじず（「命を受けず」が何を意味するかは、昔から議論がある）、商売に出て、相場を読み、しかもよく当たる。\n顔回像。台北故宮博物院蔵『至聖先賢半身像』冊より。孔子は彼を「屢々空し」、つまりいつも貧しくて何もないと言いました。　出典：Wikimedia Commons、作者不詳、パブリックドメイン\nこの一句が惜しんでいるのか、感心しているのか、この一句だけでは分かりません。確かなのは、『論語』に「貨殖」の語が出てくるのは、子貢の商売のことだ、ということです。このシリーズの名は、ここから来ています。\n司馬遷は彼をどう書いたか 子貢を本当に書き尽くしたのは、司馬遷です。『史記』には『貨殖列伝』という専門の一篇があり、商いで財を成した人たちのために伝を立てていて、子貢はかなり前のほうに置かれています。\n原文の大意は、こうです。\n「子貢は孔子に学んだのち、衛に戻って官に就き、さらに曹と魯のあいだで品物を貯めては売った。孔子の門下七十余人のうち、賜がもっとも富んだ。原憲は糟糠さえ満足に食べられず、貧しい路地に隠れていた。子貢は、四頭立ての車を次々に連ね、束ねた帛を持って諸侯を訪ね、行く先々で、国君は彼と対等に礼を交わした。」\n子貢（端木賜）像。同じ『至聖先賢半身像』冊より、題簽に「黎公端木賜 子貢」。孔子は彼について「貨殖して、臆すれば則ち屢々中る」と言いました。　出典：Wikimedia Commons、作者不詳、パブリックドメイン\nそのあとに、もっと厳しい一句があります。\n「孔子の名が天下に広まったのは、子貢が前後に立ち回ったからである。これが、勢いを得てますます顕れる、というものだろうか。」\n（原文：夫れ孔子をして名を天下に布き揚げしむる者は、子貢先後する之なり。此れ所謂「勢を得て益々彰らかなる」者か。）\nその光景を思い浮かべてみてください。原憲と子貢を、司馬遷は同じ段のなかに書いています。一人は糟糠さえ口に入らず、一人は出かけるとき車列を連れている。二人とも、孔子の弟子です。\n孔子自身はどう言ったか こういうことを、孔子は見下したのではないか、と思う人もいるでしょう。\n『論語・述而』で、孔子はこう言っています。\n「富がもし求めうるものなら、たとえ鞭を執る御者の仕事でも、私はやろう。もし求められないなら、私の好むところに従う。」\n（原文：富にして求むべくんば、執鞭の士と雖も、吾も亦之を為さん。如し求むべからずんば、吾が好む所に従わん。）\nこの言葉は率直です。金が大事でないとは言っていません。言っているのは、金が求められるかどうかは、私が決めることではない、ということです。求められるなら、車の御者でもする。求められないなら、好きなことをする。\nここで少し立ち止まる 私がこのシリーズを始めたのは、考えるほど確信が深まる一言があるからです。貿易と商業はすべての基礎であり、金がなければ何を論じても空論で、それは天道に合わない。\n私の言う「天道」は、人に不労所得を得させることではありません。一つの家、一つの共同体、一つの文明が立つには、まず食べるものがあり、回せる金があり、事に耐える土台がなければならない、ということです。義理を語れても勘定ができない伝統は、勘定ができる相手に出会えば、損をします。近代に、私たちはその損を味わいました。\n多くの人は、儒家は生まれつき商人を見下していると思っています。原文を読んで私は、そうではないと知りました。孔門でいちばん金持ちだったのは孔子の弟子で、孔子の名も、彼が取りはからって広めたのです。儒家に商がないのではなく、後に狭く読まれたのです。だからこのシリーズには、一つ果たすべきことがあります。狭く読まれた、もう半分を、読み戻すこと。\nもう一つは、もっと実際的なことです。私自身も学生です。株、為替、金、ファンド。学びながら記録し、学んだことは自分の勘定に落として、知行合一とする。将来は、それがある長期の研究のために、途切れない資金を貯めてもくれるでしょう。だからここでは、私がどう考え、どう計算するかが見え、計算を間違えたところも見えるでしょう。\n富のもう一つの面 ただ、この篇を「孔子は金持ちになることを支持した」と読むのは、的を外れています。\n同じ『論語』のなかで、孔子はこうも言っています。\n「富と貴は、人の欲するところである。しかしその道をもって得たものでなければ、君子は安んじてそこに居ない。」（富と貴とは、是れ人の欲する所なり、其の道を以て之を得ざれば、処らざるなり。）\nさらに直接的な一句もあります。「不義にして富み且つ貴きは、我に於いて浮雲の如し。」\nどちらの一句も、要は「道」と「義」にあります。孔子は富に反対しているのではなく、正しい道を通らずに得た富に反対しているのです。\n司馬遷も、金のよいことばかりを言ったのではありません。『貨殖列伝』では、とても冷たく書いています。普通の家で、他人があなたより十倍豊かなら、あなたは彼の下に身を卑しくする。百倍なら、彼を畏れる。千倍なら、彼に使われる。万倍なら、彼の僕となる。「物の理なり」。（原文：凡そ編戸の民は、富の相い什なれば則ち之に卑下し、伯なれば則ち之を畏憚し、千なれば則ち役し、万なれば則ち僕す、物の理なり。）\nだから、もっと正確な言い方はこうです。孔子は金が大事でないとは言わなかったし、どう得てもよいとも言わなかった。線をどこに引くかが、このシリーズが少しずつ読んでいくことです。\n熙熙攘攘 このシリーズの副題は、「熙熙攘攘、みな利のために来たり利のために往く」です。\n『貨殖列伝』の一句をもとにしています。「天下熙熙として、皆利の為に来たり、天下壌壌として、皆利の為に往く。」（ウィキソースのこの本は「壌壌」と書き、通行本は多く「攘攘」。）そのすぐ後に、こう続きます。「千乗の王、万家の侯、百室の君ですら、なお貧を患う。まして匹夫・編戸の民においてをや。」\n国君でさえ貧しさを恐れるのだから、私たちのような普通の家は言うまでもありません。司馬遷がこれを言ったのは、誰かの貪欲を罵っているのではなく、実情を言っているのです。私がこの句を好きなのは、飾らないからです。\n司馬遷像（後世の絵）。『貨殖列伝』は、彼が商人のために立てた伝です。　出典：Wikimedia Commons、作者不詳、パブリックドメイン\nこのシリーズが書くこと おおよそ、四つの筋です。\n補習：『貨殖列伝』、孟子の「何ぞ必ずしも利を曰わん」（じつは国君に言った言葉）、漢代の塩鉄論争、王陽明が商人のために書いた墓表を、一篇ずつ読み戻す。イスラーム、ユダヤ、プロテスタントのような一神教が、金をどう扱ったかも見て、どれは借りられ、どれは落とし穴かを見る。 金を理解する：貨幣、インフレ、金利、為替、株、債券、ファンド、金（きん）、ビットコイン。まず歴史と原理から。 いまを見る：この二年に何が起こり、これからの二年にどう動きうるか。サイトにはいま、三つのまとまりが先に置かれています。 市場観察：金（ゴールド）、銀、そして「予測をどう読むか」という方法の一篇。 感情価値：ダイヤモンド、ポップマート、ブラインドボックス。どれが価値の貯蔵で、どれが消費で、どれが「爆弾ゲーム」か。 海外進出：中国企業が東南アジアへ行くのは、出口か、新たな面倒か。「内巻（過当競争）」がどう他人の家の戸口へ輸出されたか。 知行合一：帳簿をつけ、意思決定の日誌をつけ、振り返る。「行い」のたびに、あとで振り返れる「知」を一つ残す。 決まりは一つだけです。数字には出典と日付をつけ、二次的なものは示し、確信が持てないものは、持てないと書く。私の見方は、各篇の「私の見方」に別に置き、数字には混ぜません。\n孔子は「富にして求むべくんば」と言いました。今日の「求めうる」と「求められない」の線は、どこに引かれると思いますか。\n参考資料\n『論語・先進』「回や其れ庶きか、屢々空し。賜は命を受けず、而して貨殖す。臆すれば則ち屢々中る」；『論語・述而』「富にして求むべくんば……」「不義にして富み且つ貴きは、我に於いて浮雲の如し」；『論語・里仁』「富と貴とは、是れ人の欲する所なり……」（ウィキソース、一字ずつ確認、原書の頁数とは未照合） 『史記』巻一百二十九『貨殖列伝』：子貢の一段、「天下熙熙」の一段、「富の相い什なれば則ち之に卑下す」の一段（ウィキソース、一字ずつ確認、頁数は未照合；この本は「壌壌」とする） ","permalink":"https://tentao.pages.dev/ja/huozhi/f00/","summary":"\u003ch2 id=\"一言で分かる違い\"\u003e一言で分かる違い\u003c/h2\u003e\n\u003cp\u003e『論語・先進』で、孔子はあるとき、二人の弟子を比べました。\u003c/p\u003e\n\u003cp\u003e顔回についてはこう言います。「ほとんど道に近い。だがいつも貧しく、何もない。」（原文は「回や其れ庶きか、屢々空し」。）\u003c/p\u003e\n\u003cp\u003e続けて子貢についてはこう言います。「賜は命を受けず、而して貨殖す。臆すれば則ち屢々中る。」\u003c/p\u003e","title":"孔門でいちばん金持ちだった人"},{"content":"世に出した人は、なぜ流行ったのか分からなかった 二十年近く前、ネットで『紅楼夢』の「後二十八回」が出回りはじめました。いわく、これは古い写本で、曹雪芹が本来書いた結末が残っていて、私たちが読み慣れた程高本の後四十回とはまったく違う。本のなかに「癸酉の臘月、全書謄清す」という批語が一条あるので、人びとはこれを「癸酉本」と呼びました。\nその後二十八回は、とても凄惨に書かれていて、程高本の結末にある「蘭桂斉しく芳し」のような収まりがありません。読み終えて、これこそ曹雪芹の心にあった結末だと感じる人は少なくありませんでした。\n清代の改琦『紅楼夢図詠』にある巧姐。程高本では、彼女は最後に田舎の裕福な家に嫁ぎ、落ち着き先を得ます。癸酉本が彼女に与える結末は、ずっと惨いものです。二百年あまり、読者は、これらの少女たちのために結末を争ってきました。　出典：Wikimedia Commons、改琦画、パブリックドメイン\n2018年2月、『光明日報』の記者・劉剣は、この本を世に出した人、ネット名「何莉莉」を訪ねました。報道によれば、記者に確かめられて、何莉莉は「この二つの批語はどちらも自分が偽造したもので、自分もそれを非常に後悔していると、何度も述べた」そうです。書名の「呉氏石頭記増删試評本」も作り事で、当初それを使ったのは、「もう少し本を売りたかった」からでした。報道は、2014年の彼の言い方も伝えています。もとの写本はとうに失われ、ネットに出回っている後二十八回は、「彼が記憶をたよりに復元した筋で、彼自身や他の人によって何度も修正された」ものだ、と。\n公平のために、一言加えなければなりません。彼は同時に、写本を偽造した可能性はなく、写本は確かにあったが、見つからなくなっただけだ、とも述べています。\n報道のなかで私にもっとも印象が深かったのは、彼のこの一言です。\n「後28回の内容はあまりに衝撃的で、あまりに血なまぐさい。私はこの筋があまり好きではなく、受け入れられないし、この本がなぜ流行ったのか分からない。」\n世に出した人が、自分では好まず、なぜ流行ったのかも分からない。\nそれなら、これを流行らせたのは、読んだ人たちでしかありません。つまり、私たちです。\n一部の原稿、一人の真の父、一つの論争 癸酉本は、孤立した例ではありません。ここ数年、中国語ネットでもっとも広まった幾つかの「秘本」「秘史」を並べて見ると、よく似ていることに気づきます。\n一部の原稿。 上に述べた癸酉本です。曹雪芹の本当の結末はずっとあったのに、隠されていて、私たちが二百年あまり読んできたのは、人が改めた版だ。\n一人の真の父。 2025年11月、ある古い説が突然ネットで広まりました。康熙帝の実の父は、じつは清に降った明の大臣、洪承疇だ、と。だから康熙以後、紫禁城に座っていたのは、じつは漢人の血筋だ。この件は『依帰』のほうで一篇書いたので、ここでは詳しく述べません。\n洪承疇の肖像。姚鼐が1771年に題したもの。彼は明の薊遼総督で、松錦の戦いで捕らえられて清に降り、のちに清のために南方の大半を平定しました。三百年あまりのち、ネットで彼を康熙の実父にしたがる人が現れました。　出典：Wikimedia Commons、南京博物院蔵、パブリックドメイン\n一つの論争。 ネットにはもう一つの話が出回っています。太平天国のころ、西洋の宣教師が天京に来て洪秀全と聖書で論争し、彼に言い負かされて一言も返せなかった、という話です。けれど当時の記録を調べると、宣教師たちが残したのは、衝撃と失望でした。太平天国が正式に天京へ招いたアメリカ人宣教師ロバーツ（羅孝全）は、1862年に天京を離れるとき、すでに非常に反感を抱いていました。天京を訪れた宣教師は少なくありませんが、負けを認めた人は一人もいません。\n三つの話。一つは小説の話、一つは皇帝の話、一つは宗教の話で、一見まったく無関係です。けれど骨組みは同じです。\n本当のものはずっとあって、ただ隠されている。みなが見ている「正本」は覆い隠しで、ごく少数の人だけが、隠されたものを読み解ける。\n正直に言うと、これらの話は、私はどれも真剣に読み、いくつかは、信じたくもなりました。だからこのシリーズは、高いところから誰かを笑うつもりはありません。私が分かりたいのは、これらがなぜこんなに信じやすいのか、です。\n私自身も信じる人だ 笑わないで聞いてください。癸酉本を、私は今日でも、信じる側に傾いています。\n私が信じているのは、その文字ではありません。文字は、確かに多くの場所で粗く、程高本と合う段落もあれば、今日の標準中国語の押韻に従っているところもあります。それらは全部見て、認めています。美人は骨にあって皮にない。文字は重要ではありません。私が信じているのは、その骨組みです。賈府がどう没落したか、少女たちがそれぞれどうなったか、全書が最後にどこへ行くのか。その骨組みの志は、一家の盛衰や男女の情愛より、ひとつ高いところにある。後から本を編んで売った人が思いつけたとは、あまり思えません。\nだから私の見方はこうです。その骨組みは、曹雪芹自身の推敲より早く、主体は人に書き換えられていない。文字については、後の人が補い入れたところが多い。\nこれは一人の読書人の判断であって、版本学の証拠ではないと分かっています。このシリーズのあとの、癸酉本を扱う数篇では、証拠と反対の側を一つずつ並べます。私に不利なものも含めて。私は自分を「私たち」のなかに置きます。そうすれば、ばらしていくときに、他人を笑う話にならずにすみます。\n一層ずつ積み上がったもの 百年前、歴史学者の顧頡剛が一通の手紙を書き、のちにとても有名になりました。彼は、中国の古史は「層をなして累積されてつくられた」ものだと言い、三つの意味を挙げました。\n一つは、「時代が下るほど、伝説の古史の時期は長くなる」。周の人の心にあったいちばん古い人は禹で、のちに尭・舜が現れ、さらに黄帝・神農が現れる。時代が下るほど、古史は遠くへ遡る。\n二つは、「時代が下るほど、伝説の中心人物は大きく広げられる」。一人の人物は、一代伝わるごとに、身にまとう話が一層増える。\n三つは、私たちは「ある事の本当の状況は知れなくても、ある事が伝説のなかで最初にどうであったかは知ることができる」。\n顧頡剛、1924年。「層累」説を出した年、彼はまだ三十歳でした。　出典：Wikimedia Commons、パブリックドメイン\n顧頡剛が語ったのは上古史ですが、この三条は、今日の偽史を見るのにも、よく当てはまります。\n洪清仮説も、このように一層ずつ育ったものです。清初にはすでに、「孝荘太后が多爾袞に下嫁した」ことを皮肉る詩を書いた人がいて、民国になって歴史学者の孟森が特に論文を書いて反駁しました。清末民初には「乾隆は海寧の陳家の子だ」と伝わり、2025年になって、主役が洪承疇に替わりました。話のなかの人はずっと替わり、骨組みはずっと変わりません。清朝の皇帝は、じつは漢人の血筋だ。\n三つ目を、私は普通の読者にいちばん役に立つと思っています。多くのことについて、私たちは「本当の状況」を知ることができません。けれど、一つの言い方が最初にどこから出てきたか、のちに誰が何を加えたかは、調べられます。このシリーズのほとんどの文章は、これをしています。\nなぜ信じるのか 心理学者は、この問題をたくさん研究してきました。英国ケント大学のカレン・ダグラスらは、2017年に、人はなぜ陰謀論を信じるのかを論じた総説を書きました。彼らの結論の大意は、信じるよう人を動かすものには、三つの種類の必要がある、ということです（以下は私自身の翻訳です）。\n一つは認知的なもの、身のまわりで起きていることを理解したい。一つは存在的なもの、この環境のなかで安全で、掌握感を持ちたい。もう一つは社会的なもの、自分と自分たちの集団の肯定的なイメージを保ちたい。\n彼らが研究したのは陰謀論、つまり大事件を、権力のある者が裏で謀ったものと説明するものです。偽史は、すべてが同じではありませんが、多くの点で通じています。\nどんな痛みを受け止めているか この三種類の必要を、上の三つの話にあてはめると、それぞれが何かを受け止めていると分かります。\n癸酉本が受け止めているのは、心残りです。『紅楼夢』は書き終わらなかった。それを多くの人が二百年あまり気にかけてきました。真の結末はまだあって、隠されているだけだ、と誰かが言ってくれる。それは、「ただ書き終わらなかった」より、ずっと受け入れやすいのです。\n洪清仮説が受け止めているのは、口に出せない痛みです。1644年以後の剃髪と衣服の変更は、本当にあったことです。もし龍の椅子に座っていたのが、じつは漢人だったら、その歴史は、そこまで徹底したものではなかったように思え、剃られた髪も、暗がりで少し償われたことになる。はっきり言えば、「漢」の一字は、三百年のあいだ、自分の土地で顔を上げられず、今日でも、口にするには、「大漢民族主義」ではないと一言断らなければならないようです。この鬱屈は本物で、洪清仮説は、それに出口を与えているだけです。\n論争の話が受け止めているのは、近代以来の一息です。他人の艦と砲によって国の門を開かれたのち、私たちの側の人が、道理で一度勝った、と聞くのは、やはり気持ちが上がります。\nダグラスらは論文で、一部の学者は、陰謀論は悪い結果の責任を他人に押しつけることで、自分と集団のイメージを守らせると考えている、とも言及しています。これらの話が慰めているのは、どれも本物の悔しさです。\nけれど、同じ論文には、私が長く読んだ一句もあります。現在の研究は、これらの説を信じることが本当に人のこれらの必要を満たすことを示してはいない、と彼らは言います。多くの人にとって、それは「魅力的だが、満たされるとは限らない」ものだ、と。\nこれも本当だと思います。癸酉本を信じても、『紅楼夢』は書き終わっていないままです。洪清仮説を信じても、1644年は、それによってなかったことにはなりません。あの悔しさはまだあり、置く場所が変わっただけです。\nこのシリーズをどう書くか だからこのシリーズは『秘本』といいます。\n一篇ごとに、広く伝わった一つの言い方をばらします。それが最初にどこから出てきて、どう一層ずつ育ち、なぜそれを信じたい人がいるのか。ばらすのは言い方であって、それを信じる人ではありません。\n各篇には「なぜ彼らは信じるのか」という節があり、話の背後にある本物の不安を語ります。また「裏返して見る」という節もあり、このシリーズでは、偽史の側のもっとも力のある論拠を、できるだけ並べます。いちばん弱いものを選んで叩くことはしません。\nおおよそ、次のようなまとまりを語ります。癸酉本『紅楼夢』、洪清仮説、そして近年とても熱い「西洋偽史論」、つまり古代ギリシャ・ローマの歴史は後世に作られたものだという一派。さらに、自分の経験を自分で語る人たち。最後に、いくつかの方法。一つの言い方の最初の出典をどう調べるか、一つの版本が別の版本の上流にあるのか下流にあるのかをどう見るか。\n私は別のシリーズ『依帰』で、華夏自身の依帰をずっと探しています。このシリーズを書くのは、じつはそのことのもう半分です。ほんとうに立つ依帰は、確かな歴史の上に建てなければならず、隠された秘本に支えられてはなりません。\n裏返して見る 第一に、正本は確かに改められたことがあり、秘本がときに本物であることがあります。清朝が『四庫全書』を編んだとき、顧炎武『日知録』の「羌戎互いに僭す」を「干戈日に争う」に改め、さらに一節を丸ごと削りました。これは一字ずつ突き合わせられる、本物の削改です。だから、「正本は手を加えられたのではないか」と疑うのは、疑い深さではなく、歴史上、実際にあったことです。偽史論がもっとも力を持つのはここです。違いは一点だけです。『日知録』の原本は出せて、突き合わせられますが、癸酉本の写本は、世に出した人自身が、もう見つからないと言っています。\n『四庫全書』の一冊。この叢書は多くの古典を保存し、また多くの古典を削改しました。「正本は手を加えられた」と言うなら、いちばんの証拠はこれです。　出典：Wikimedia Commons、米国議会図書館蔵、パブリックドメイン\n第二に、「偽史」というラベルも、使い間違えることがあります。ある説が主流から偽史と呼ばれても、それが必ず間違いだとは限らず、のちに新しい資料で裏づけられた例もあります。だからこのシリーズは、できるだけ先に判断を下さず、調べられた証拠を並べ、調べられないものは調べられないと言います。\n第三に、ダグラスらが研究したのは、おもに西洋社会で流行する陰謀論で、それを中国語ネットの偽史に当てはめるのは、私自身の類推です。中国の読者がこれらの話を信じるのには、ほかの理由もあるかもしれず、それはあの論文がカバーしていないところです。この点は、のちの文章でゆっくり補います。\nもしあなたがずっと信じてきた「秘本」が偽物だと証明されたら、あなたがいちばん手放せないのは、話そのものでしょうか、それともそれがかつてくれた、あの少しの慰めでしょうか。\n参考資料\n劉剣「『呉氏石頭記』の崩壊」、『光明日報』2018年2月27日 顧頡剛「銭玄同先生と古史を論ずる書」、『読書雑誌』第九期、1923年；『古史辨』第一冊所収、樸社、1926 Karen M. Douglas, Robbie M. Sutton, Aleksandra Cichocka, \u0026quot;The Psychology of Conspiracy Theories\u0026quot;, Current Directions in Psychological Science 26(6), 2017 顧炎武『日知録』「正始」条（黄汝成集釈本巻十七；四庫全書本巻十三） 孟森『清初三大疑案考実』、1934 図の出典は各図のキャプションに記載 ","permalink":"https://tentao.pages.dev/ja/miben/p00/","summary":"\u003ch2 id=\"世に出した人はなぜ流行ったのか分からなかった\"\u003e世に出した人は、なぜ流行ったのか分からなかった\u003c/h2\u003e\n\u003cp\u003e二十年近く前、ネットで『紅楼夢』の「後二十八回」が出回りはじめました。いわく、これは古い写本で、曹雪芹が本来書いた結末が残っていて、私たちが読み慣れた程高本の後四十回とはまったく違う。本のなかに「癸酉の臘月、全書謄清す」という批語が一条あるので、人びとはこれを「癸酉本」と呼びました。\u003c/p\u003e","title":"私たちはなぜ偽史を愛するのか"},{"content":"まず、なぜ気になるのか 私がインドに関心を持つのには、ごくありふれた理由が三つあります。\n2021年のガネーシャ祭（Ganesh Chaturthi）、ある家に祀られたガネーシャ。ヒンドゥー教には統一された教会がなく、祭り、家の祠、寺が、十数億人を結びつけています。　出典：Wikimedia Commons、TheMacGuy2005、CC BY-SA 4.0\n一つ目は人です。 2023年4月、国連人口基金は『世界人口白書』で、インドの人口を約14億2900万人、中国を約14億2600万人と推計し、インドが中国を抜いて世界一になりました。国連自身、それが何日のことかは正確には言えないと言っています。インドが前回国勢調査をしたのは2011年で、その後はずっと先延ばしにされているからです。それでも、方向に争いはありません。国連が1950年に統計をとりはじめて以来、インドが一位になったのは初めてです。\n二つ目は人材です。 名前がすぐ並べられます。マイクロソフトのナデラ、グーグルとアルファベットのピチャイ、アドビのナラヤン、IBMのクリシュナ、世界銀行のバンガ。政界にもいます。スナクは英国首相を務め（2022年10月から2024年7月）、バラッカーはアイルランドの首相を務めました。みなインド系で、少なくない人がインドで育ち、大学を出てから外へ出ています。\nこうした経営者について、多くの人の印象は、プレゼンが上手で、話がうまい、というものです。けれど私が接したある若いエンジニアは、そうでもありませんでした。彼はシンガポールで育ち、バラモンの出身で、仕事がとても確かでした。菜食でもあり、高負荷のコード開発に製品機器の調整という、気力も体力も削られる仕事を、彼がどうこなしているのか、私はずっと分かりませんでした。もちろん、一人では何も言えません。ただ、そのおかげで、印象と実際のあいだがどれほど開いているのか、確かめたくなったのです。\nなぜこんなことが起こるのか。「インド人は生まれつき頭がいい」と答えたくはありません。それは手抜きの答えで、しかも違います。あとで一篇、具体的に取り上げます。留学とビザの通り道、大企業の採用、英語、そして、この通り道に入れなかった人たち。\n三つ目はヒンドゥー教です。 ピュー・リサーチ・センターの2025年6月の報告によれば、世界のヒンドゥー教徒は12億近く、世界人口の約14.9%を占め、そのうち約95%がインドに住んでいます。人数でいえば、世界で四番目に大きい宗教の区分で、前にあるのはキリスト教、イスラーム教、無宗教の人たちです。\n私が不思議に思うのは、その姿です。公認の開祖がなく、唯一の経典がなく、すべての人を管理する統一された教会もありません。それなのに、十二億近い人を一つの名のもとに収め、しかも非常に長いあいだ収めてきました。一つの宗教が、中心なしでここまで生きていく。それがどうやって可能なのか、私はずっと知りたかったのです。\nもう一つの理由は、私自身の考えに関わっています。『隣人たちの天』で私は、自分の傾きは、東アジアの未来が儒家の宗教化にかかっているかもしれない、というものだと言いました。ところが東アジアの宗教性は、楊慶堃の言う「弥散的」なものです。家庭、宗族、節句のなかに散らばり、自前の教会がなく、都市化で家族が散れば、それもいっしょに散ってしまう。ヒンドゥー教は、この点で似て見えます。やはり統一された教会がない。けれど散らなかった。寺なのか、祭りなのか、カーストなのか、それとも別の何かが人を結びつけているのか。その代価は何なのか。カーストは避けて通れません。\nだから私にとってヒンドゥー教は、一つの対照です。真似して学ぶのではなく、東アジアの状況と並べて、どこが同じで、どこが違うのかを見たいのです。\n『奪舎』のシリーズでは、カーストがどれほど古いか、なぜ仏教がインドで消えたのか、なぜジャイナ教は豊かになるほど縮むのかを書きました。どれもインドから出発しています。書いているうちに、インドのことが書いても書いても終わらないと気づき、独立したシリーズを開くことにしました。\nこのシリーズは、インドを褒めるためのものではない 関心があることは、崇拝することではありません。\nインドのもう一面も、同じようにはっきりしています。貧しく、混み合い、カーストはまだあり、女性の置かれた状況は楽ではなく、インフラはいつも半拍遅れる。これらも書きますし、褒める部分に劣らず書きます。\nこのシリーズは現状と未来に重きを置きます。歴史、宗教、カーストは、すべて一つの問いに答えるためです。今日のインドはなぜこの姿なのか、これからどこへ向かうか。\nおおよそ、次のようなまとまりになります。\nお金と成長：インドの神々はインドの貧しさを解決できるのか、なぜ次の中国になれなかったのか、ITの神話は輝きか泡か、なぜ工場を一つ建てるのがこんなに難しいのか。 社会：カーストは死んだのかどうか、なぜインドで女性はこれほど生きにくいのか、ジェネリック医薬品、そしてインドの性暴力の問題は幻なのか現実なのか。 国家と政治：インドは国家なのか、ヒンドゥー・ナショナリズムはどう台頭したか、東北部の七つの州、シク教徒、軍需産業。 日常：映画、英語、鉄道、食べ物、ガンジス川の水、ムンバイのスラムとその隣の豪邸。 最後の一篇：インドの世紀か、インドの幻想か。 全部で二十三篇、さしあたりこの順番です。\nなぜ『鈍行列車』なのか インドの鉄道は巨大です。一方では高速鉄道を建設していて、もう一方では、指定席のない車両が人であふれている。速くはありませんが、走り続けています。\nこの国は、どこか鉄道に似ていると思います。いくつもの速度で同時に走っている。このシリーズが見たいのは、この列車にどんな人が乗っていて、どこへ向かい、加速するのかどうかです。鉄道を専門に扱う一篇もあり、そこで詳しく語ります。\nいくつかの決まり 数字にはすべて出典を示す。インドの統計はしばしば争いがあり、各者の基準が違うときは、いくつかの言い方を並べて示す。 「血統」や「天性」でどの集団も説明しない。生きている宗教全体に点をつけることもしない。 各篇に「裏返して見る」という節を置き、私にもっとも強く反論する言い分を探す。 私は中国語で書く者で、外からインドを見ているので、見えないところがある。インドで暮らしたり働いたりしたことのある方は、どこが間違っているか、偏っているかを教えてください。 ひとつの問い あなたのインドへの第一印象は、どこから来ましたか。映画、同僚、ニュース、旅行？\nその印象は、のちに書き換えられましたか。\n参考資料\n国連人口基金（UNFPA）：『State of World Population 2023』（2023年4月19日発表；インド約14.286億、中国約14.257億；国連はデータに不確実性があると説明）；Al Jazeeraの同日報道 \u0026quot;India to have 2.9 million more people than China by mid-2023: UN\u0026quot; Pew Research Center：『How the Global Religious Landscape Changed From 2010 to 2020』、2025年6月（ヒンドゥー教徒12億近く、世界人口の14.9%、約95%がインド、世界第四の宗教区分） 英国首相の任期（2022年10月25日―2024年7月5日）、アイルランド首相の任期（2017年6月―2020年6月、2022年12月―2024年4月）：Wikipedia「List of heads of state and government of Indian origin」 楊慶堃『中国社会における宗教』、1961（「弥散的宗教」）；私自身の傾きは『隣人たちの天』の前言を参照 各社および世界銀行の公式リーダーシップのページ（ナデラ、ピチャイ、ナラヤン、クリシュナ、バンガ、2026年も在任） ","permalink":"https://tentao.pages.dev/ja/manche/w0/","summary":"\u003ch2 id=\"まずなぜ気になるのか\"\u003eまず、なぜ気になるのか\u003c/h2\u003e\n\u003cp\u003e私がインドに関心を持つのには、ごくありふれた理由が三つあります。\u003c/p\u003e\n\u003cp\u003e\u003cimg alt=\"2021年のガネーシャ祭、ある家に祀られたガネーシャ\" loading=\"lazy\" src=\"/img/manche/w0/01.jpg\"\u003e\u003c/p\u003e\n\u003cp\u003e\u003cem\u003e2021年のガネーシャ祭（Ganesh Chaturthi）、ある家に祀られたガネーシャ。ヒンドゥー教には統一された教会がなく、祭り、家の祠、寺が、十数億人を結びつけています。　出典：\u003ca href=\"https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Ganesh_Chaturthi_2021.jpg\"\u003eWikimedia Commons\u003c/a\u003e、TheMacGuy2005、CC BY-SA 4.0\u003c/em\u003e\u003c/p\u003e","title":"前言：インド、もう少し見ていたくなる場所"},{"content":"なぜこれを書くのか このサイトは、ずっと一つの問いを立ててきました。東アジアの人びとは、何によってまとまるのか。\n長く問い続けていると、自分の問いに詰まることがよくあります。どれほど立派に言っても、一つの家に落ちたら、どうなるのか。一人の人が毎月、住宅ローンや家賃を計算する。若い夫婦が、産むか産まないか、産んだら誰が見るかを計算する。外で三十年働いた人が、老いたら故郷に帰るかどうかを計算する。こうした勘定は毎日誰かがしていて、計算している人のたいていは、「核」のようなものを読んでいる暇がありません。\n私がいま思うのは、核がどれほどよくても、一家がどう暮らすかに手が届かないなら、それは空っぽだ、ということです。大きな道理も、最後は日々に落ちなければなりません。『時事』が書くのは、その落ちる部分です。\n何を書くか 家、車、子ども、結婚、老後、お金。そしてもう一つ、多くの人が胸のうちではぼやきながら、口にはあまり出さないこと。故郷は、まだ退路なのか。\nお金とは何か、金利や為替がどういうものか、そうした原理と歴史は『貨殖』に置きます。ここで扱うのは、いまの数字だけです。\n先に書いたのは五つのまとまりです。人口、結婚と性別、経済、郷土、農村。家と車は、題目も決まり、数字もいくらか集めましたが、まだ一篇になっていません。香港とシンガポールの二つの都市が住宅と老後をどうしているか、人と金がUSBメモリのように自由に抜き差しできるか、老いた世代と次の世代がどう付き合うか、こうしたものは後ろに並んでいます。\nどう書くか やり方はとても愚直で、四つだけです。\n一つは公開データ。統計局、民政部、教育部の表、ほかの国の統計機関の表。数字ごとに年と出典を書き、原文を読んだものと、人の伝聞しか読んでいないものを、区別して示します。\n二つは、まず数字を正しく計算すること。例を挙げます。2023年の結婚登録は768万組、離婚は360万組。割ると、ほぼ半分で、恐ろしく見えます。けれどその年に離婚した人は、十年、二十年前に結婚した人で、同じ組ではありません。そう割るのは間違いです。\n三つは、ほかの場所で何をしたか。日本、韓国、シンガポール、イスラエルが何をして、効いたのか、代価は何だったのか。\n四つは、各方がどう論じているか。各篇に「裏返して見る」という節を置き、もっとも強い反対の側を載せます。私自身への反対も含めて。\nもう一種類、空想があります。たとえば車に住む、水と草を追って住む。こういう篇は、題に「空想」と書き、事実と想像を分けて書きます。\nすでに書いたもの 人口。 『そんなに産んでどうする、継ぐ皇位もないのに』。2025年の全国の出生は792万人、死亡は1131万人。若い人のこの皮肉を、私は反論せず、その計算方法のままに計算してみました。あるシンクタンクの推計では、子ども一人を17歳まで育てると、平均53.8万元。一家一戸の勘定として、それは合っています。そこに入っていないのは、「あと」という字、老いてから誰が世話をするのか、です。\n結婚と性別。 『離婚は多いのか、それは国の問題なのか』。中国の粗離婚率は2023年に2.56‰で、アメリカとほぼ同じ、日本、韓国より高い。もっと大きく変わったのは結婚で、2024年は前年より二割ほど少なくなりました。中国の子どもはほぼすべて婚姻のなかで生まれるので、結婚する人が減れば、子どもが減ります。\n経済。 『安いのと割に合うのは別のこと』は、会員制店、ネット通販、路上の屋台が言う「安い」をほどいて計算します。『特供、サムズ、市場、路上の屋台：何かあったら、誰を探すか』は、二歳の子どもの話から始めます。彼は約八か月のあいだ、「こども用」の銀ダラの切り身を食べ続け、血中水銀が基準を超えているのが見つかりましたが、魚の検査報告は合格でした。調べるほど、私たちが「安心」と言うとき、それは誰かが私に代わって責任を負ってくれる、という意味だと思うようになりました。\n郷土。 『抜かれたのは上半期』。ネットでは湖南のGDPが安徽に抜かれたと言われていました。調べると、2025年の通年では湖南がまだ約2320億元先行していて、抜かれたのは2026年の上半期、安徽が約336億元上回ったのでした。半年の数字で「衰退」の二字は支えられません。\n農村。 九篇、どれも故郷を問うています。あなたが子どものころ、まわりの七、八割の人は農村に住んでいました。2025年末には、十人に三人しか残っていません。2013年から2024年にかけて、農村の小学校は半分以上減り、平均して一日に約19校ずつ減りました。全国の出稼ぎ農民は3.01億人、平均年齢は43.3歳。農村の60歳以上の高齢者の41.9%は、おもに家族の扶養に頼っています。国が定めた基礎年金は、2026年は月163元。湖北のある県級市の実測では、農村の寝室は冬、約六割の時間が5〜11度でした。さらに宅地のルールと、湘中のある鎮にある七つの宗祠の行方。\nこれらの数字の後ろには、人がいます。月163元は、村のおばあさんにとって、本物のお金です。三億人の出稼ぎ農民が外で年を取っていき、都会の多くのビルは、彼らが一つずつ煉瓦を積んだものです。これらを書くとき、私は高いところから話さないよう努めます。\n私の傾き まず前置きをしておきます。\n家。 私は、大陸の商品住宅はバブルだと考える傾きがあります。東南アジアと比べても、世界のあらゆる面と比べても、そうです。2019年の中国人民銀行の調査では、都市部の家庭の資産のうち、住宅が59.1%を占めました。一家の家財の六割を一つのものに預けるのは、それ自体がリスクです。背後にあるのは、一つの慣性です。土地と不動産を中核資産として暮らす、という慣性。私は、この慣性はもう手放すべきだと思います。湘中の湘軍将領たちの大きな屋敷は、あとで対照に使います。富を大きな屋敷として蓄えて、それは持ちこたえるのか。\n物差し。 私たちのところで、人が「成功した」かどうかを測る物差しは、単一すぎます。金があり、権力があり、家がある。私が求めるのは均衡で、持てば持つほど増え、持たなければ持たないほど減る、というものではありません。物差しは一本ではなく、金も、権力も、地位も、家も、どれも唯一の一本にしてはならず、底が抜けてはならない。\n流動。 人は、ある一つの都市、ある一つの国に閉じ込められるべきではなく、お金も動けるべきです。若い人に、家や車を買うこと、結婚を急ぐなと勧める人がいます。家と車は、私はおおむね同意します。結婚の一点は、同意しません。\n二人。 男女の対立は、間違っていると思います。家庭をつくるなら、補い合うべきで、一人は外を担当し、一人は内を担当する。より強く、より稼ぐほうが外を担当する。女性が強ければ外を担当してよく、男性が家を顧みても恥ではありません。私は、若い人にもう一度、愛を憧れるに値するものと思ってほしいのです。対立の感情に押されて進むのではなく。\n子ども。 私がいちばん心配しているのは、子どもと出生率で、大きく言えば、東アジア人の未来です。韓国の2025年の合計特殊出生率は、暫定で0.80。先進国で唯一の例外は、イスラエルで、2024年は2.87。\n故郷。 一部の中年は故郷を退路にしていますが、私は半分は正しく、半分はあてにならないと思います。退路には、家・土地・人の三つがそろっている必要があります。家と土地は、ルールが与えられます。人は、ルールでは与えられません。人にはやはり、依帰（頼りにして立ち返る拠りどころ）が要ります。人が動くことが避けられないなら、この依帰は、持ち歩けるものでなければなりません。\nこれらは傾きであって、結論ではありません。一軒ごとに勘定は違い、私が誰かの代わりに決めることはしません。けれど私がどう見るかは、率直に言います。\n裏返して見る 第一に、平均の数字のなかに、あなたの家はありません。全国の数字は、一軒の家に割ると、合わないことがよくあります。老人の生活の源の表は標本調査です。「故郷」という言葉を、統計局はそもそも数えません。数字が語れることは、日々より少ないのです。\n第二に、住宅価格は、バブルとは限りません。もっとも強い側は、Glaeserらの2017年の論文です。住宅価格は造成費の2倍から10倍だが、中国の住民が選べる投資先は少なすぎ、需要は強く、新規供給を抑えられれば、価格は持ちこたえるかもしれない。もう一方はRogoffとYangの2020年の論文で、調整は必要で、避けられないと言います。どちらも、私は要旨しか読んでいません。\n第三に、補い合いは、いつもうまく運ぶとは限りません。Bertrandらは2015年に、アメリカのデータを使って、妻が夫より稼ぐ家庭では、妻がかえって家事を多くし、結婚への満足度が低く、離婚の可能性が高いことを見いだしました。標本はアメリカのもので、中国のものはまだ見つけていません。けれどそれは、私の「強いほうが外を担当する」の一条にまっすぐ当たるので、真剣に向き合わなければなりません。\n第四に、日々は、大きな道理を必要としないかもしれません。日々がうまくいけば、人は自然にまとまるのだから、依帰など要らない。信仰を米や味噌にぶら下げるのは、日々にもう一つ荷を加えることだ、と言う人もいるでしょう。私の疑問はこうです。かつて「老いて終わりを全うする」ことや、「去ったあとも誰かが覚えている」ことを受け持っていたものが薄くなった。空いたその位置を、お金で埋められるのか。\nあなたの家で、今年いちばん計算しにくい勘定は、どれですか。\n参考資料\n格付け：🟢 原文を読んだ；🟡 二次的な伝聞または要旨のみ。各篇の詳細な出典は、各篇の末尾にあります。\n国家統計局『2025年国民経済・社会発展統計公報』、2026-02-28（出生、死亡、都市化率）🟢 国家統計局『2025年出稼ぎ農民モニタリング調査報告』、2026-04-30 🟢 国家統計局『中国人口センサス年鑑-2020』（都市・農村別人口；60歳以上の高齢者の主な生活源）🟢 教育部の歴年教育統計データ（農村小学校数）🟢 2026年『政府活動報告』（都市・農村住民の基礎年金の最低基準）🟢 『中国統計年鑑2024』（民政部データ）：2023年の結婚登録768.21万組、離婚360.53万組（裁判所判決を含む）、離婚率2.56‰、メディアによる紹介 🟡；民政部『2024年第4四半期民政統計データ』：2024年の結婚登録610.6万組、前年比約20.5%減 🟡 米国疾病対策センターFastStats；日本の国立社会保障・人口問題研究所『人口統計資料集』；韓国統計庁（粗離婚率の比較） 韓国国家データ処が2026-02-25に公表した2025年の合計特殊出生率暫定値0.80（ロイターなどによる紹介）🟡；イスラエルの2.87は世界銀行の数字（国連推計は2.79、基準が異なる）🟡 育媧人口研究『中国の出産コスト報告』、2024 🟡（民間シンクタンクの推計） 中国人民銀行『中国都市部住民家庭資産負債状況調査』、2019（住宅が家庭総資産の59.1%、界面新聞などが全文転載）🟡 Glaeser, Huang, Ma \u0026amp; Shleifer, \u0026quot;A Real Estate Boom with Chinese Characteristics\u0026quot;, Journal of Economic Perspectives 31(1), 2017 🟡（要旨のみ） Rogoff \u0026amp; Yang, \u0026quot;Peak China Housing\u0026quot;, NBER Working Paper 27697, 2020 🟡（要旨のみ） Bertrand, Kamenica \u0026amp; Pan, \u0026quot;Gender Identity and Relative Income within Households\u0026quot;, Quarterly Journal of Economics 130(2), 2015 🟡（要旨のみ） 湖南省、安徽省統計局の2025年と2026年上半期の地域総生産データ、メディアによる紹介 🟡 盒馬「こども用」銀ダラの件：澎湃、紅星新聞、揚子晩報の報道 🟡 湖北鍾祥の農村住宅における冬季室内熱環境の実測研究 🟢 『礼記・礼運』「老いて終わる有り」 ","permalink":"https://tentao.pages.dev/ja/shishi/l00/","summary":"\u003ch2 id=\"なぜこれを書くのか\"\u003eなぜこれを書くのか\u003c/h2\u003e\n\u003cp\u003eこのサイトは、ずっと一つの問いを立ててきました。東アジアの人びとは、何によってまとまるのか。\u003c/p\u003e\n\u003cp\u003e長く問い続けていると、自分の問いに詰まることがよくあります。どれほど立派に言っても、一つの家に落ちたら、どうなるのか。一人の人が毎月、住宅ローンや家賃を計算する。若い夫婦が、産むか産まないか、産んだら誰が見るかを計算する。外で三十年働いた人が、老いたら故郷に帰るかどうかを計算する。こうした勘定は毎日誰かがしていて、計算している人のたいていは、「核」のようなものを読んでいる暇がありません。\u003c/p\u003e","title":"前言：一つの家は、今年どう暮らすか"},{"content":"このシリーズで書くこと 『隣人たちの天』は、隣人たちのことを書くシリーズです。\n朝鮮半島、日本、ベトナム、琉球、台湾、そして世界各地に散らばる東アジア人の社会。彼らは私たちとほぼ同じ本を読み、ほぼ同じように祖先を祀ってきました。外からの圧力と国家の力のもとで、それぞれが儒教、仏教、道教、神道、キリスト教を練り合わせ、違うものに作り上げました。生き残ったものもあれば、倒れたものもあります。国家に取り上げられて使われ、そして同じ国家にばらばらにされたものもあります。\nひとつずつ見ていきたいと思います。彼らの宗教と国家が、どう結びつき、どう分かれ、どう生き延びてきたのかを。\n私は同時に、ほかに二つのシリーズを書いています。『依帰』は中国そのものを、1644年以降について書いています。『奪舎』は世界の文明と宗教を横に並べて見ます。このシリーズは隣人だけを見て、ついでに中国の側の対照を入れます。あわせて読むべきところは文末に案内を置き、相手の史実はくり返しません。\nはっきりさせておきたいのは、私は野次馬として隣人を見に行くのではない、ということです。ひとつの傾きを持って来ています。\n立場のない対話相手 私は調べものによくAIを使います。使い続けて気づいたことがあります。AIがいちばん網羅的で、いちばん客観的に見えるのは、まさに立場を持たないからです。どの意見ももっともらしく語れるのは、どれも背負わなくていいからです。\n人間はそうではありません。誰もが、自分の来た場所、自分の不安、自分が守りたいものを抱えて歴史を読みます。もし私が、いちばん固い証拠で他人の考えを崩しながら、自分には直感などないふりをしたら、それは別の種類の不誠実です。\nだから最初の一篇で、私の傾きを出しておきます。\n私の傾き 私の傾きはこうです。東アジアの人々の未来は、もしかすると儒教の宗教化にかかっているのかもしれない。\n私はそれを、ひとまず「天道教（ティエンダオ）」と呼んでいます。\nそのしるしには、篆書の「天」の字を使いたいと思っています。後漢の許慎は『説文解字』にこう書きました。「天，顛也。至高無上，從一大。」（天は頭のてっぺんである。この上なく高い。一と大から成る。）篆書の「天」は、手足を広げて立つ人の頭の上に、横に一画を引いた形です。人の頭の上、そこが天です。\nこの字が好きなのは、神の姿ではなく、ひとりの人間と、その頭上にあるものを描いているからです。\n篆書の「天」：手足を広げて立つ人の頭上に一画。　出典：Wikimedia Commons、パブリックドメイン\n私が求める天道は、「天行健，君子以自強不息」（天の運行はすこやかで、君子はそれにならって自らを強めてやまない）であり、「常」があることです。人に畏れを抱かせ、同時に自分を律させる秩序であって、盲目的な熱狂を求める対象ではありません。\nなぜこの傾きを持ったのか この傾きは、どこからともなく湧いてきたのではありません。いろいろ読むうちに、同じ種類のことに何度も出会いました。\n第一に、宗教は境界と共同体によって続く。 ジャイナ教徒はインドの人口の千分の四ほどしかいませんが、二千五百年以上続いてきました。ユダヤ人は神殿を失ったあと、国をまるごと一冊の書物に詰め込みました。人数が少ないことが危ういのではありません。境界がぼやけることが危ういのです。\n第二に、東アジアの宗教性には組織がない。 社会学者の楊慶堃は、中国人の宗教を「拡散的」だと言いました。家族、宗族、年中行事、国家の儀礼の中に散らばっていて、独立した教会を持たない。どこにでもあるけれど、都市化で家族が散れば、いっしょに散ってしまいます。清明節（墓参りの日）は残っても、祠堂（一族の廟）はなくなりました。東アジアの仏教は「願いごとの泉」のようなもので、何かあれば線香をあげに行き、何もなければ思い出しもしない。2010年から2020年のあいだに、東アジアの仏教徒は約3200万人減りました。\n第三に、私がどうしても納得できないこと、それは「声」です。 W3Techsの2026年6月の統計では、内容の言語を判別できる世界のウェブサイトのうち、英語が約49.7%、日本語が約5.0%、中国語はわずか約1.2%です。この統計は公開サイトだけを数えていて、WeChatのような閉じたプラットフォームは入っていません。しかし、それこそが問題の一部です。真剣に書かれた中国語の長文の多くは、世界の検索エンジンからまったく見つかりません。中国語を母語とする人は世界人口のおよそ七分の一なのに、開かれたインターネットの上では、彼らが真剣に考える声はほとんど聞こえません。簡体字の世界ではなおさらです。\n組織もなく、声もない文化は、何で命をつなぐのでしょうか。私の直感では、人を集め、国境を越え、帰属と自律の両方を与えてくれる何かが必要です。東アジアの伝統の中で、それにいちばん近いのは儒教です。けれども儒教は、自分の「教会」を一度も育てませんでした。\n決まりどおり、崩してみる このシリーズで私が自分に課した決まりは、気に入った直感ほど、それを覆せるいちばん固い証拠を探しに行く、ということです。私の傾きも例外ではありません。いま手もとにあるいちばん固い反例を五つ挙げます。この先の各篇で、ひとつずつ広げて見ていきます。\n反例一：孔教会は失敗した。 1912年、陳煥章、康有為らが上海で孔教会を設立しました。1913年と1916年の二度、孔教を中華民国の国教にするよう請願しましたが、二度とも失敗しました。続く新文化運動は「孔家店を打倒せよ」を一世代のスローガンにしました。儒教を宗教にしようとした人たちは百年以上前にもいて、しかもそれは当時もっとも学識のある人々でした。\nあとで少し丁寧に読んで、もっと気になることに気づきました。孔教会が実際に作り上げたのは、孔子を祀る儀礼と、年次大会と、雑誌だけでした。毎週の集まり、会員名簿、世代から世代へ受け継がれる日々の営みは、私には見つけられませんでした。康有為が思い描いた「教会」は、孔教会自身も作れなかったのです。ですから孔教会の失敗が示すのは、「国家と憲法に頼り、帝政と結びつき、しかも日常の信者がいない」という一つの型は通らない、ということだけで、「儒教の宗教化は不可能だ」とまでは言えません。これは『依帰』で詳しく書きます。 （二次研究に基づくもので、一次資料の記録は読んでいません。）\n反例二：国家神道。 明治以降、日本は神道を国家の信仰に作り替えました。神社は国が管理し、天皇崇拝が学校に入りました。たしかに一つの国民をまとめ上げましたが、軍国主義とも結びつきました。1945年12月、占領当局は「神道指令」を出し、神道と国家のつながりを断ちました。伝統が国教に作り替えられるとき、その力と危うさは同じところから来ます。\n東京・明治神宮の鳥居。明治神宮は明治天皇を祀る神社で、1920年に創建された。　出典：Wikimedia Commons、Kakidai、CC BY-SA 4.0\n反例三：インドネシアの孔教。 インドネシアでは、儒教はほんとうに宗教になりました。廟があり、聖職者がいて、経典と儀式があり、身分証に書くこともできます。けれども今日、それはごく小さな少数派です。しかもその宗教化は、「誰もが宗教を持たなければならない」という制度に追い込まれた結果でした。（これは『奪舎』で書きました。）\n反例四：イラン。 宗教学者が率いる国家で、宗教の権威はまず子どもを少なくと呼びかけ、のちに多くと呼びかけました。出生率は前半だけに従いました。宗教が東アジアを低出生率から救えるかもしれないと私が期待するなら、イランは冷たい警告です。（これも『奪舎』にあります。）\n反例五：同じ名前の宗教。 名前をつけてから気づいたのですが、韓国には1905年から「天道教（チョンドギョ）」という宗教があります。私の言うものとは別物ですが、その盛衰は見る価値があります。前身は19世紀の東学で、第三代の指導者・孫秉熙（ソン・ビョンヒ）が天道教と改名し、近代的な教団組織を作りました。1919年の三・一独立運動では、天道教が中心の一つでした。かつては大きな力を持っていましたが、いまでは信者はとても少なくなっています。「天道」を名に掲げた東アジア生まれの宗教が、ほんとうに現れ、ほんとうに盛衰を経たのです。次の篇はこの宗教について書き、私の言う天道教とはっきり区別します。\n崔済愚（チェ・ジェウ、1824–1864）、東学の創始者。　出典：Wikimedia Commons、作者不詳、パブリックドメイン\n私の言う「東アジアの人々」とは誰か 私が「東アジアの人々」と言うとき、それは東アジアの儒教文化圏全体を指します。中国、日本、朝鮮半島、ベトナム、そして世界各地に散らばったその子孫たち。同じ四書を読み、ほぼ同じ祖先を祀り、毎年ほぼ同じ日に、ほぼ同じ墓に土をひとつかみ足す人たちです。これはただの呼び名で、私はこれで何かを説明したりはしませんし、「東アジア人だからこうだ」とは書きません。\n私が語りかけたいのは、その中で、知識があり、深く考え、理解する力を持つ人たちです。\n全体として、この人々は弱く、声は小さい。中国大陸と簡体字の世界はとくにそうです。誰も考えていないのではありません。考え抜いたあとで、検索エンジンの入れない場所に書き、その日のトレンドといっしょに沈んでいくのです。\nいくつかの決まり どの事実にも出典を書きます。出典を書けないものは載せません。 どの篇にも「逆から見る」という節を設け、私にいちばん強く反論できる説を取り上げます。反対意見を藁人形にはしません。 自分の立場ははっきり書き、どこが私の見方で、どこが史実かを区別して示します。 私が語るのは思想と歴史と代償であって、宗教の作り方ではありません。 存命の政治家や現実の政治については、事実は事実、評価は評価として分けて書き、評価は私自身が責任を持ちます。 私は中国語で書く者で、外から隣人を見ているので、見えないところがあります。もしあなたがそこで暮らしているなら、どこが間違っているか、どこが偏っているか、ぜひ教えてください。 これから これから、この傾きを他の人たちの例にぶつけ続けます。韓国、日本、ベトナムには、それぞれの天道があり、それぞれの結末がありました。\nまずは次の篇から。「天道教」という宗教が、百年以上前に朝鮮に現れていました。それから日本の国家神道、ベトナムのカオダイ教、そして中国の側では、孔教会はなぜ失敗したのか、「天」という字はいったい何なのか。韓国については何篇か多めに書くつもりです。近代化のあとも儀礼がいちばん生きている隣人であり、いちばん問いかけるべき隣人だからです。\nほかのことは、そこまで来たときに。\n隣人へのことば。ここまで読んでくださったあなたが、ソウル、東京、ハノイ、台北、那覇に、あるいはシンガポールやジャカルタ、サンフランシスコ、あるいは世界のどこか別の場所にいるのなら、まず小さなことを一つ話させてください。あなたの家にも、位牌か、古い写真があって、毎年ある一日だけは、帰ってその前に立たなければならない、ということはありませんか。それを「宗教」と呼んだことは一度もないでしょう。生まれてから経を一句も唱えたことがなくても、その日だけは帰らないわけにいかないと知っている。このシリーズで書くのは、そのことです。私たちには共通の教会も、共通の名前もありません。けれども、ほとんど同じ日々があり、ほとんど同じ漢字があり、口に出すのが少し気恥ずかしい、ほとんど同じ敬いがあります。それが一つずつ散っていくのを、私は黙って見ていられません。一軒ずつあなたたちの戸口まで歩いていき、どう守り、どう失い、どうまた拾い上げたのかを見たいのです。何かを教えに来たのではありません。聞きに来たのです。そして尋ねたいのです。いっしょに考えてみることはできないでしょうか。\n客観性は方法であって、人格ではない。いちばん固い証拠で自分の直感を崩すことはできるが、直感がないふりをする必要はない。\nもしあなたが自分の文明のために「命をつなぐ術」を設計するとしたら、何を選びますか。\n参考資料\n許慎『説文解字』「天」の項 W3Techs, \u0026quot;Usage statistics of content languages for websites\u0026quot;, 2026年6月（公開サイトのみ） 韓国天道教（천도교）：1905年、孫秉熙が東学を天道教と改名；1919年三・一運動 Helen Hardacre, Shinto and the State, 1868–1988, Princeton UP, 1989；1945年12月「神道指令」 インドネシアの孔教：1965 / 1967 / 2000 孔教会の組織と活動：『依帰』の「孔子を祀らねば法に違い、祀れば教に背く」と、その元になった作者の調査ノート（二次研究による。一次資料は未読） 明治神宮は1920年（大正9年）11月1日創建：明治神宮公式サイト https://www.meijijingu.or.jp/about/ 🟢 図の出典は各キャプションに記載 Abbasi-Shavazi ほか, The Fertility Transition in Iran, 2009 楊慶堃『中国社会の宗教』（Religion in Chinese Society）, 1961 Pew Research Center, 2025年・2026年の報告（東アジアの仏教徒数の変化） 1912年の孔教会設立、1913年と1916年の国教請願：通説 ","permalink":"https://tentao.pages.dev/ja/linju/d00/","summary":"\u003ch2 id=\"このシリーズで書くこと\"\u003eこのシリーズで書くこと\u003c/h2\u003e\n\u003cp\u003e『隣人たちの天』は、隣人たちのことを書くシリーズです。\u003c/p\u003e\n\u003cp\u003e朝鮮半島、日本、ベトナム、琉球、台湾、そして世界各地に散らばる東アジア人の社会。彼らは私たちとほぼ同じ本を読み、ほぼ同じように祖先を祀ってきました。外からの圧力と国家の力のもとで、それぞれが儒教、仏教、道教、神道、キリスト教を練り合わせ、違うものに作り上げました。生き残ったものもあれば、倒れたものもあります。国家に取り上げられて使われ、そして同じ国家にばらばらにされたものもあります。\u003c/p\u003e","title":"まえがき：私の傾き"},{"content":"まず二組の数字 ピュー・リサーチ・センターは2019年末から2020年初めにかけて、インドで大規模な調査を行い、17の言語で、三万人近くに対面で質問しました。結果は、97%が神を信じると答え、84%が宗教は自分の生活にとって重要だと答えました。\nこの一致の度合いは、世論調査では、もう奇観と言えるものです。\nもう一組。国際通貨基金や各機関の推計では、インドの2024年の一人あたりGDPは2500から2700ドルのあいだ（各社の数字は少し違う）、2025年は2800ドル前後（IMFの2025年10月の数字は2818）。同じ時期の中国は13000ドル余りです。\n二組の数字を並べると、すぐに思いが浮かびます。これほど敬虔な国が、なぜこんなに貧しいのか。神は効かないのか。\nこの問いへのよくある答えは二つあります。「神が足を引っ張っている」と、「神は貧しい人の最後の慰めだ」。どちらにも一理あり、どちらも半分しか言っていません。\n第一の答え：宗教が足を引っ張った この説の最も古い源の一つは、ドイツの社会学者マックス・ウェーバーです。彼は20世紀の初めにインドの宗教を研究しました（『ヒンドゥー教と仏教』〔原題 The Religion of India〕、1916〜1917年刊）。要点はこうです。業報、輪廻、カーストの一揃いは、人を自分の位置に安んじさせ、秩序を破って上へ這い上がることをあまり励まさない。だからインドには、ウェーバーが考えた「資本主義の精神」が育たなかった。これはもっとも粗い要約で、ウェーバー自身の言葉はずっと複雑ですし、のちに多くの人が彼に反論しました。\nこの見方には、のちに通俗版が生まれ、有名な名前がつきました。「ヒンドゥー的成長率」（Hindu rate of growth）です。\nこの言葉は、インドの経済学者ラージ・クリシュナが1978年に作ったもので、独立後から1980年代まで、経済成長が長く3.5%前後で低迷したこと（資料によっては4%近くと計算する）を指します。そのころ人口は年に2%余り増え、一人あたりGDPは年に1%ほどしか伸びず、もどかしいほど遅かったのです。\n名前を聞くと、ヒンドゥー教が経済を遅くしたように思えます。けれどクリシュナ本人の説明は、国が管理しすぎたことでした。輸入代替、幾重もの許認可、何をするにも許可証。この仕組みには別名があり、「許可証ラージ」（License Raj）と呼ばれました。工場を開きたければ、まず一揃いの証書を集めなければならず、集め終わるころには、工場はたぶん業種が変わっています。\nつまり、この言葉の「ヒンドゥー」はただのラベルで、原因は神とはあまり関係がありません。\nとても使える対照 もっとも説得力のある反例は、インド自身のなかにあります。\n1991年、インドは国際収支危機に見舞われ、外貨準備が底をつきかけ、数週間分の輸入にしか足りず、石油と食糧の代金が払えなくなりそうでした。\nその年、インドは金を持ち出して命を買いました。5月、政府はまず没収した金20トンをスイス・ユニオン銀行に渡しました。名目は売却で、のちに買い戻せる約束で、約2億ドルを得ました。7月、新しく発足したラオ政権は、さらに46.91トンの金を、イングランド銀行と日本銀行に担保として差し出し、約4億500万ドルを得ました。紙の証書は受け取られず、金は何回かに分けて、実物がロンドンへ空輸されました。（細部は資料により異なる。二回を合わせて「47トン」と言うものもあれば、前の政権が始めたものだという説もある。）古い文明国が、国庫の金の延べ棒を飛行機に積まなければ金を借りられない。当時のインドにとっては、大きな恥辱でした。三十年あまりのちの2024年、インド準備銀行は、英国の金庫から100トンの金を国内に運び戻し、メディアは、誇らしげに書きました。\n危機は改革を迫りました。許可証を緩め、関税を下げ、外資を開く。そして成長は上がりました。インドの統計部門によれば、2025〜26会計年度（2025年4月〜2026年3月）のGDP成長率は7.7%（暫定推計。それ以前の見込みは7.6%）でした。\n1970年代の3.5%から今日の7%前後へ、その間にインド人は神を取り替えたでしょうか。いいえ。寺は同じ寺で、神は同じ神です。変わったのは許可証の数でした。\nもし「神を信じること」が貧しさの原因なら、前後で変化がないはずですが、数字は変わりました。だから少なくとも、信じるかどうかは、国が貧しいかどうかを決めない、とは言えます。政策が変われば、結果が変わります。\n貧困も見てみます。世界銀行は2025年6月に、国際的な極度貧困線を一日3ドル（2021年購買力平価）に引き上げました。この新しい基準では、インドの極度貧困率は2011〜12年の27.1%から2022〜23年の5.3%に下がり、人数は3億4000万人から7500万人ほどに減りました。（4月の国別ブリーフは旧い線を使っていて、数字は16.2%から2.3%でした。引用するときは、どちらの線かを確認しなければなりません。）十年あまりで、極度の貧困にある人の大半が減ったのです。\nその十年のあいだ、インド人が神を信じなくなったわけではありません。\n第二の答え：神は最後の慰め では逆に、神は貧しさを「解決」できるのでしょうか。\nアーンドラ・プラデーシュ州ティルマラのヴェンカテーシュワラ寺院。年に約2500万人が参拝し、運営機関の年間予算は5,258 crore ルピー。　出典：Wikimedia Commons、Adityamadhav83、CC BY-SA 3.0\n「解決」が、病気になって寺で神に祈り、治った、という意味なら、検証はとても難しい。けれど角度を変えれば、寺は確かに、いくつかのとても具体的な問題を解決しています。\nまずお金。インドの寺は、実際の産業です。アーンドラ・プラデーシュ州のティルマラ・ティルパティ寺院には、年に約2500万人が訪れます。運営する機関（TTD）の2025〜26年度の理事会承認予算は5,258.68 crore ルピー（約526億ルピー）で、何千人もの職員を雇い、病院、学校、宿泊所まで自分で運営しています。これはもう寺というより、神像のある小さなグループ企業です。\nウッタル・プラデーシュ州のアヨーディヤーでは、2024年1月にラーマ寺院が完成したのち、州の観光部門の統計によれば、2024年の一年間で約1億6440万人（延べ）が訪れ、2020年は600万人ほどでした。これは公式の数字で、「人次」の数え方の元の基準は見ていないので、厳密な統計結果とは見ないでください。\nネットの論評のなかには、国家標本調査局のデータを引いて、インドの「寺院経済」は年に3兆ルピーの規模だと言うものがあります。私は元の調査を見つけられなかったので、この数字は使いません。具体的な数字がいくらであれ、花を売る人、供物を作る人、民宿を開く人、散髪をする人、この大きな輪の人びとの暮らしが、確かに寺にかかっています。\n次に保障。社会保険が薄い場所では、宗教組織はしばしば何役も兼ねます。葬式、結婚式、炊き出し、救済、仕事の紹介。シク教の「公共の台所」（langar）は、来る人すべてに毎日無料で食事を出す、もっとも有名な例です。多くの貧しい人にとって、それは「神のご加護を」の一言より、ずっと実のあるものです。\nだから、「神は貧しさを解決できる」は、二つの意味に分けられます。\n神は国を豊かにできるか：できないように見える。少なくとも1991年前後の対照は、それを支持しない。 神の組織は、具体的な貧しい人を助けられるか：できる。しかも、ときにかなり助けている。 規則はあるが、使い間違えないで 国どうしの比較には、かなりよく見られる現象があります。国が豊かになるほど、人は敬虔でなくなる、というものです。インドは「敬虔さが高く、所得が低い」位置にあり、この規則と合っています。（政治学者のピッパ・ノリスとロナルド・イングルハートが、2004年の『聖なるものと世俗』でこれを体系的に論じています。彼らの主張は、生存環境が不安全なほど、人は宗教を必要とする、というものです。）\nしかし、相関は因果ではありません。「貧しいから敬虔」と「敬虔だから貧しい」は、同じ曲線を使い、向きが逆です。研究者は前者のほうに傾いています。日々が不確かなほど、人は頼れるものを必要とする。これは、インドでも、医療保障も安定収入もない人ほど、寺から離れられない理由です。\n同じ神でも、貧富は違う 国内にも、もっと分かりやすい対照があります。\nヒンドゥー教徒は全人口の大多数ですが、州ごとの豊かさは大きく違います。インド政府のシンクタンク「国家変革委員会（NITI Aayog）」が2023年に発表した多次元貧困指数によれば、北部のビハール州は貧困率が約三分の一、南部のケーララ州は1%に満たない（NFHS-5、2019〜2021年：ビハール33.76%、ケーララ0.55%）。\n同じ神話、同じ祭り。それでも、差は、多くの国どうしの差より大きい。この違いを説明できるのは、教育、公衆衛生、土地制度、州政府の仕事ぶりのほうで、神の功績とは言いにくく、神の過ちとも言いにくいでしょう。\n私の見方 この篇の結論は、私も認めます。神は貧富を決めない。貧富を決めるのは、許可証と学校と州政府です。けれど、私のインドの神々への関心は、ずっと別の種類のものでした。\nインド亜大陸で育った四つの教え、ヒンドゥー教、仏教、ジャイナ教、シク教は、壮大で、精妙で、深遠で、私は心から感嘆しています。砂漠から生まれた一神教と比べて、正直に言えば、社会倫理をつくり、契約を定め、大規模に動員することにかけては、砂漠の系統のほうが効率が高く、今日の国際秩序や法の土台の多くは、彼らが築いたものです。それでも私は、人類はこれから、インドの系統にもっと頼ることになるのかもしれない、と思うようになってきました。排他的でなく、多くの神を受け入れ、神を信じない人も受け入れられる。\nヒンドゥー教で私にいちばん不思議なのは、まさにここです。教会がなく、唯一の経典もなく、十数億人が一つの名のもとに収まり、貧しいときも散らず、豊かになったあとも散らなかった。東アジアに欠けているのは、まさにこういうものです。国に支えられなくても、自分で生きていけるもの。それはインドを豊かにしたか。いいえ。けれど、一つの民が何によってまとまるかは、もともとGDPが答えられる問いではありません。\n裏返して見る 「神と貧しさは関係ない」は、言いすぎかもしれません。\n一部の学者は、宗教の観念は確かに、貯蓄、結婚、出産、リスクへの態度に影響し、さらにそれを通じて社会の経済行動に影響すると考えます。ただ、その作用は政策より小さく、制度より遅く、ほかの要因と切り分けにくいのです。たとえば、カースト制度による職業移動の制限は、宗教の観念と結びついています（『カースト制度は死んだのか』で別に扱います）。\nもう一つの疑問は、1991年の改革を「神は関係ない」の証拠にするのは、少しできすぎている、ということです。その三十年に、インドの都市化、教育、人口構造は変わり、宗教の姿も変わりました。たとえば儀礼がより重んじられ、政治色が強くなりました。宗教がこの三十年「何も変わらなかった」とは言えません。\nもし人が、何の保障もない場所で、安心を神に預けるしかないのなら、「信じる」ことは、その人の貧しさの結果なのでしょうか、それとも抜け出せない原因なのでしょうか。\n参考資料\nPew Research Center、『Religion in India: Tolerance and Segregation』、2021年6月（29,999人、17言語） 世界銀行、2025年6月の貧困データ更新（一日3ドル線、2021年購買力平価；極度貧困27.1% → 5.3%；3.4億 → 7500万）；同年4月『Poverty \u0026amp; Equity Brief: India』（旧線2.15ドル、16.2% → 2.3%） 国際通貨基金『世界経済見通し』2025年10月（インドの一人あたりGDP 2818ドル）；インド統計部門（MoSPI）2026年5月末の暫定推計（2025―26年度GDP成長率7.7%、二次推計7.6%） Business Standard、Wikipedia：『Hindu rate of growth』（Raj Krishna、1978） ティルマラ・ティルパティ寺院管理機関（TTD）2025―26年度予算5,258.68 crore；ウッタル・プラデーシュ州観光部門のアヨーディヤー訪問者統計（2024年1.644億人次、Outlook Travellerなどによる紹介） Max Weber、『ヒンドゥー教と仏教』（The Religion of India）、1916―1917；Pippa Norris \u0026amp; Ronald Inglehart、『Sacred and Secular』、2004 NITI Aayog、『National Multidimensional Poverty Index: A Progress Review 2023』（ビハール33.76%、ケーララ0.55%） 1991年の金担保：Wikipedia『1991 Indian economic crisis』；BullionVault、inklなどの回顧記事（20トンはUBSへ、46.91トンはイングランド銀行と日本銀行に担保、約4.05億ドル；細部は各社に違いあり）🟡；2024年インド準備銀行が英国から100トンの金を運び戻した（DT Next、The News Minute報道）🟡 ","permalink":"https://tentao.pages.dev/ja/manche/w1/","summary":"\u003ch2 id=\"まず二組の数字\"\u003eまず二組の数字\u003c/h2\u003e\n\u003cp\u003eピュー・リサーチ・センターは2019年末から2020年初めにかけて、インドで大規模な調査を行い、17の言語で、三万人近くに対面で質問しました。結果は、97%が神を信じると答え、84%が宗教は自分の生活にとって重要だと答えました。\u003c/p\u003e\n\u003cp\u003eこの一致の度合いは、世論調査では、もう奇観と言えるものです。\u003c/p\u003e","title":"インドの神は、インドの貧しさを解決できるのか"},{"content":"紀元70年 ローマには、紀元81年ごろに建てられたティトゥスの凱旋門があります。門の内側には浮彫があり、ローマの兵士の列が、七枝の燭台をかついで、エルサレムから凱旋してきます。\nティトゥスの凱旋門の内側の浮彫。ローマ兵がエルサレム神殿の七枝の燭台をかついで行進しています。勝った側がこの場面を石に刻み、二千年後、それは負けた側がもっとも多く引用する一枚の絵になりました。　出典：Wikimedia Commons、Anthony M.撮影、CC BY 2.0\nあの燭台は、エルサレムの第二神殿のものです。紀元70年、ローマ軍がエルサレムを破り、神殿は火で焼かれました。\n当時のユダヤ教にとって、それはほとんど心臓を摘み取られるのに等しいことでした。犠牲は神殿で捧げなければならず、祭司は神殿のまわりに仕え、年に数回の巡礼の終点も神殿でした。神殿がなくなれば、宗教生活のすべてが中心を失います。\n宗教の中心が壊されると、ふつうどうなるか。同じ地中海世界のほかの神殿を見れば分かります。門が閉まり、祭司が散り、数世代のうちに、信仰は遺跡だけになる。\nユダヤ教は、その道を行きませんでした。\n引き継いだのはラビだった ラビ文献にこんな伝説があります。エルサレムが包囲されていたとき、ヨハナン・ベン・ザッカイという師が、弟子に自分を棺に入れて城外へ運び出させ、ローマの将軍のもとへ行って、ただ一つのことを願いました。海辺の小さな町ヤブネに学堂を開かせてほしい、と。\nこれが本当かどうかは確かめようがありません。ただ、伝説が言いたいのは、城は失ってもかまわない、書を絶やしてはならない、ということです。\n神殿が壊れたのち、ユダヤ社会の核心になっていったのは、ラビ、すなわち律法を研究し講じる人たちでした。彼らは非常に大きな影響をもたらす仕事をしました。それまで口伝えだった律法を、体系的に書き記したのです。紀元200年ごろに『ミシュナー』が編まれ、のちにそれへの議論と注釈が『タルムード』にまとめられました。\n『バビロニア・タルムード』ゼライーム篇、ヴェネツィアのボンベルク印本、1543–1544年。中央の欄が本文で、まわりを幾重にも歴代の注釈が囲んでいます。一冊の書に、世代から世代へ言葉が加えられていきました。　出典：Wikimedia Commons、パブリックドメイン\nこうして、宗教の中心は一つの建物から、一揃いのテキストと一つの暮らし方へ移りました。安息日をどう過ごすか、何を食べてよく何を食べてはいけないか、結婚や財産をどうするか、すべて書に書かれ、どこへ行っても、それに従って行えます。伝統では、成人男子が十人集まれば集団礼拝ができ、神殿も祭司も要りません。\nヘブライ語も、別の生き方をしました。二千年のあいだ、それはユダヤ人の日常の話し言葉ではなくなりましたが、祈りと読経の言葉であり続けました。19世紀末、ベン・イェフダたちがそれを日常に使う言葉へ戻し、1922年には英国統治下のパレスチナの公用語の一つになりました。\nエルサレムの机に向かうベン・イェフダ、1912年ごろ。彼は現代ヘブライ語の大辞典を編み、亡くなるまで編み続けましたが、完成しませんでした。　出典：Wikimedia Commons、Shlomo Narinsky撮影、パブリックドメイン\nユダヤ教は、一つの「持ち運べる」生き方を見つけたのです。書があり、人が集まりさえすれば、文明の核は、人といっしょに歩いていける。\nこの話は、うまく運びすぎている ここまで来ると、多くの人が、ついきれいな結論に着きます。一冊の書が一つの民を救った、と。\n経済史学者のマリステラ・ボッティチーニとズヴィ・エクシュタインは、『選ばれた少数』（2012）で、この結論にとても目立つ注を付けました。\n彼らが注目したのは、神殿が壊れたあと、ラビたちが新しい決まりを進めたことです。ユダヤ人の男はみな経典が読めなければならず、息子を学びにやらなければならない。圧倒的多数が畑を耕し、字を読める人がごく少なかった時代に、これは重い負担でした。子どもが学べば、家の働き手が一人減り、学費も払わなければなりません。信仰が授業料を取る、というのは、どの時代でも人気のないことです。\n彼らの推計では、紀元70年前後に世界には約500万人のユダヤ人がいて、紀元650年には100万人あまりしか残っていません。戦争、虐殺、疫病もあったが、彼らは、重要な原因がもう一つあったと見ます。多くの人がこの決まりを高すぎると感じ、ぽつぽつとユダヤ教を離れ、少なくない人がキリスト教徒になった、というものです。\n残ったのは、この決まりを受け入れ、担えた人たちでした。彼らは読み書きができ、のちに都市へ出ることも、手工業や商いをすることもしやすくなりました。\n裏返して見る この説明は、学界で議論があります。人口の数字そのものが推計で、離れた理由も一つではありません。それでも、一つのことを思い出させてくれます。\n私たちが「ユダヤ文明は二千年滅びなかった」と言うとき、見ているのは生き残った一本の線です。この書を背負って先へ進めなかった人、あるいは進もうとしなかった人たちは、歴史から消えたのではありません。別の人びとの一部になり、別の人の先祖になったのです。彼らは、自分の家の食卓で、ごく普通の決断をしました。もう学ばない、もう守らない、暮らしのほうが大事だ。私はそれを裏切りだとは思いません。\n「持ち運べる」ことの代償は、敷居です。敷居は文明を守り、同時に、一部の人を門の外に締め出しました。\n中国文化は、国にしか頼れないのか ネットには、よくある対比があります。ユダヤ教はテキストによって生き延び、儒家は国と土地に頼っているので、国が亡べば散ってしまう、と。\nこの対比は、儒家を狭く描きすぎています。東南アジアの華人は何百年も、会館、宗祠、同郷会、そして僑批（海外の人が批局を通じて故郷へ送った手紙と金）によって、母国の政権の後ろ盾なしに、言葉も、祭祀も、助け合いも維持してきました。それも一種の「持ち運べる」生き方です。ただ、運んでいるのは一冊の律法書ではなく、人と信用で織られた一枚の網でした。\n潮汕の僑批の一通。封筒には「母親大人啓」と書かれ、香港ドルが同封されています。一枚の紙、いくらかの金、一言の挨拶が、南洋と潮汕の両端をつないでいます。僑批档案は2013年にユネスコの「世界の記憶」に登録されました。　出典：Wikimedia Commons、三猟撮影、CC BY-SA 4.0\n中国側の網は、その後どうなったか おもしろいことに、この網は海外では生き続け、国内ではかえって何度も断ち切られました。\n1949年以後、僑批業はまず管理下に置かれ、1972年に国務院が文書を出して国内の私営僑批業を廃止し（海南などの地方史料による伝聞で、文書そのものは見つけていません）、1970年代末までに、各地の批局は国家の銀行に統合され、私営の批局はなくなりました。1966年の「四旧を破る」の数年間には、多くの地域で祠堂が壊されるか別の用途にされ、族譜が焼かれ、位牌が砕かれました。\nつまり、国に頼った半分は、国自身の手で壊されました。網に頼った半分は、国の手の届かない場所へ行って、かえって残ったのです。今日、保存状態のよい潮汕式の祠堂や、昔のやり方どおりの祖先祭祀を見たければ、ペナンやシンガポールへ行くほうが、潮州へ行くより簡単なことがよくあります。\n私は網がいい ユダヤ人のこの道を、私は尊敬していますが、そのまま真似するつもりはありません。一冊の律法書と、読み書きという敷居は、人をふるいにかけました。ふるいから落ちたあの数百万の人たちのことを、私は心が痛みます。\n私がもっと望むのは、東南アジアの華人のあの網と、ユダヤ人のあの書を、つなぎ合わせることです。みなが読める字と、いくつかの共通の経がある。祖先を祭り清明を行うような礼がある。会館や祠堂のような場所があり、身につけて持ち歩け、しかもどの政権にも預けずにすむ。まとめるのは、一揃いの文化と信仰であって、一つの民族の身分ではありません。敷居は要りますが、もう少し低く、散り散りになった人が、また見つけて戻れるように。\nもしあなたの文化が一つだけ持っていけるとしたら、何を持っていきますか。\n参考資料\nMaristella Botticini \u0026amp; Zvi Eckstein, The Chosen Few: How Education Shaped Jewish History, 70–1492, Princeton UP, 2012 ユネスコ「世界の記憶」「僑批档案」（2013） ヨハナン・ベン・ザッカイとヤブネ：『バビロニア・タルムード』ギッティン篇56a–bの伝説、史実性には議論あり ティトゥスの凱旋門、第二神殿の破壊、『ミシュナー』の成立、ヘブライ語の復興：通説 ユダヤ人口約500万人（紀元70年）から約100万人（紀元650年）へ：Botticini \u0026amp; Eckstein の推計、EH.Netの書評およびSlateによる同書の紹介による（🟡、引用；原書は戦争・飢饉の説明は多くて半分とする） 僑批業の国営化：陳春声「近代華僑送金と僑批業の経営――潮汕地域を中心とする研究」、『中国社会経済史研究』2000年第4期（汕頭の有信荘、振盛興は1977年「僑批業務が国家銀行の取り扱いに一本化されるまで」続いた）；界面新聞「劇の内外、『おばあちゃんへのラブレター』の背後の銀信局、貨幣と金融」（1972年国務院文書が国内の私営僑批業を廃止；1976年1月から福建の僑批業務は銀行が引き継ぎ；1979年に厦門の僑批業は全て中国銀行に収められた）；『羊城晩報』2026-05-27が広東省档案館を引用：「1979年、僑批業務は正式に中国銀行の所管となった」 🟡 「四旧を破る」：通行の二次的な説明、地域ごとの確認待ち 図の出典は各図のキャプションに記載 ","permalink":"https://tentao.pages.dev/ja/duoshe/w01/","summary":"\u003ch2 id=\"紀元70年\"\u003e紀元70年\u003c/h2\u003e\n\u003cp\u003eローマには、紀元81年ごろに建てられたティトゥスの凱旋門があります。門の内側には浮彫があり、ローマの兵士の列が、七枝の燭台をかついで、エルサレムから凱旋してきます。\u003c/p\u003e\n\u003cp\u003e\u003cimg alt=\"ティトゥスの凱旋門の浮彫\" loading=\"lazy\" src=\"/img/duoshe/w01/01.jpg\"\u003e\u003c/p\u003e\n\u003cp\u003e\u003cem\u003eティトゥスの凱旋門の内側の浮彫。ローマ兵がエルサレム神殿の七枝の燭台をかついで行進しています。勝った側がこの場面を石に刻み、二千年後、それは負けた側がもっとも多く引用する一枚の絵になりました。　出典：\u003ca href=\"https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Arch_of_titus_relief_2.jpg\"\u003eWikimedia Commons\u003c/a\u003e、Anthony M.撮影、CC BY 2.0\u003c/em\u003e\u003c/p\u003e","title":"神殿が焼かれたあと：一つの民は国を一冊の書に収めた"},{"content":"フィラエ神殿の壁に ナイル川の上流に小さな島があり、島には女神イシスを祀るフィラエ神殿があります。\nフィラエのイシス神殿、第一塔門。20世紀、アスワン・ダムを造るとき、神殿全体が解体され、近くの、より高い島へ移されました。　出典：Wikimedia Commons、Vyacheslav Argenberg撮影、CC BY 4.0\n394年8月24日、エスメト＝アコムという祭司が、神殿の壁に一柱の神の像を刻み、さらに短い文を刻んで、この銘文が「永遠に残るように」と願いました。\n彼はおそらく、自分が最後の一人だとは知らなかったでしょう。\nこれは、現在知られている最後の古代エジプト象形文字の銘文です。\nハドリアヌスの門に、エスメト＝アコムが刻んだ神像と傍らの象形文字、394年。刻みは丁寧ではなく、一人の老人が記憶を頼りに、最後にもう一度、知っている字を書いたかのようです。　出典：Wikimedia Commons、Olaf Tausch撮影、CC BY 3.0\nこれ以後、より簡便な「民衆文字（デモティック）」で書かれた落書きがさらに数十年続き、知られているいちばん新しいものは452年12月に刻まれました。その後、世界にこれらの記号を読める人はいなくなりました。1822年まで、まるまる千四百年あまりです。\n書く人がいなくなった 象形文字は、なぜ途切れたのか。\nもっとも直接の原因は、フィラエのあの銘文の数年前に起こりました。391年から392年、ローマ皇帝テオドシウス1世が相次いで勅令を出し、異教の祭祀を禁じたのです。\n古代エジプトで象形文字の読み書きができた人は、もともと少なく、主に神殿の祭司でした。象形文字は聖なる文字で、神殿、墓、記念碑に刻まれました。神殿が門を閉じ、祭司が代を継がなくなれば、この技は継ぐ者を失います。\nフィラエは帝国の最南端にあり、南の部族との取り決めもあって、異教の崇拝は他所よりも少し長く持ちこたえました。そのため、最後の銘文はここに現れたのです。\n一本の柱の三層の文字 フィラエ神殿には、その後のことをすべてその身に書きつけた一本の柱があります。\nフィラエのイシス神殿の一本の柱。上は古代エジプトの象形文字。中ほどには、後の人がギリシャ文字で刻んだ落書き。さらにその下に、キリスト教徒が石に十字を刻み、その下にギリシャ語のキリスト教の銘文があります。　出典：Wikimedia Commons、Till Niermann撮影、CC BY-SA 3.0\n上から下へ見ていくと、ごく短いエジプト宗教史になっています。いちばん上はファラオの時代の神、中ほどはギリシャ人・ローマ人が残した字、いちばん下は新しく来た十字架。上の層を削り取った人はいません。彼らは、ただその下に続けて刻んだのです。\n6世紀に、この神殿は教会に改められました。\n「象形」が「アルファベット」に負けたのではない この歴史について、多くの人が一つの直感を持っています。象形文字は原始的すぎて、より進んだアルファベットに淘汰された、と。\nこの直感は、二点で間違っています。\n第一に、古代エジプトの象形文字は、はじめから単純な「絵を見て字を知る」ものではありませんでした。表意と表音が混ざっています。フクロウの絵は、フクロウを指すこともあれば、ただ/m/の音を表すこともあります。自分で音を綴ることができたのです。\n第二に、文字がどんな型かは、文明が続くかどうかと、それほど直接の関係はありません。漢学者ジョン・ドフランシスは1984年の著書で、「漢字は純粋な表意文字だ」という説を特に批判しました。漢字にも表音の要素が多くあり、漢字が続いてきたのは、識字者をたえず育て続ける官僚と教育の体系によるところが大きく、字形そのものに魔力があるからではない、と。\nエジプトはちょうど逆です。読み書きできた人たちが、制度によって一刀両断に断たれたのです。象形文字は、より優れた文字に負けたのではなく、それを書く人がいなくなったのです。\nエジプト人はまだいたし、エジプトの言葉もまだあった しかも、エジプト人は消えませんでした。エジプトの言葉もすぐには消えませんでした。\n象形文字が途切れるより前から、エジプトのキリスト教徒は、ギリシャ文字に、民衆文字から借りた記号をいくつか加えて、自分たちの言葉を綴りはじめていました。これがコプト語です。『聖書』はコプト語に訳され、教会はそれで礼拝し、説教し、写本を作りました。\n7世紀半ば、アラブの軍がエジプトに入りました。その後の数百年で、アラビア語が、役所でも、商いでも、日々の暮らしでも使う言葉になっていき、多くのエジプト人も、少しずつイスラームに改宗しました。コプト語は街から教会へと退き、最後は礼拝で唱えられるだけになりました。\nですから、「古代エジプト文明はいつ消えたのか」と聞かれたら、どの層を聞いているかによります。象形文字は、4世紀末。古い宗教は、ほぼ同じころ。エジプトの言葉が日常の口語としては、さらに千年ほどあと。礼拝の言葉としては、今日もまだあります。\n鍵は教会にあった 1799年、フランス兵がナイル河口のロゼッタ近くで一枚の石碑を掘り出しました。同じ内容が三つの文字で三度刻まれています。象形文字、民衆文字、古代ギリシャ語です。\nロゼッタ・ストーン、大英博物館蔵。上段が象形文字、中段が民衆文字、下段が古代ギリシャ語。内容はじつはごく平凡で、紀元前196年に祭司たちがプトレマイオス5世に捧げた頌詞です。　出典：Wikimedia Commons、Hans Hillewaert撮影、CC BY-SA 4.0\nギリシャ語の対照があれば、解読には手がかりができましたが、真の突破にはもう一つ足りないものがありました。その言語そのものが分かること。フランスの学者シャンポリオンは、少年のころからコプト語を学んでいました。彼は気づいたのです。象形文字の背後にある言語は、コプト語の祖先なのだ、と。\nシャンポリオン（1790–1832）、レオン・コニエが1831年に描いたもの。彼は解読を宣言してから十年足らずで亡くなりました。四十一歳でした。　出典：Wikimedia Commons、Léon Cogniet、パブリックドメイン\n1822年、彼は解読の成功を宣言しました。\n街ではとうに死に、教会でだけ唱えられていた言語が、千四百年沈黙していた文字を、ふたたび読める歴史に変えたのです。\n裏返して見る 「エジプト文明は奪舎された」という言い方には、衝撃があります。文字はアルファベットに替わり、言葉はアラビア語に替わり、神はアッラーに替わった。\nけれど見方を変えれば、エジプト文明はずっと殻を替えてきたとも言えます。ファラオの時代でさえ、何度も外の者に支配されました。ヘレニズム化、ローマ化、キリスト教化、イスラーム化、どの回にも断絶があり、どの回にも連続がありました。20世紀以来、エジプト政府はファラオの文明を国家の語りにふたたび迎え入れました。2021年には、22体の古代ファラオのミイラが、カイロの街で盛大な引っ越しの行列をしました。\nこの歴史を読むと、私はいつも漢字を思います。漢字が途切れなかったのは、象形文字より生まれつき優れていたからではなく、二千年のあいだ、ずっと誰かが教え、学び、試験してきたからです。ある日、教える人がいなくなれば、漢字もどこかの廟に隠れて、シャンポリオンを待つことになるでしょう。\n一つの文明が死ぬのは、どの瞬間か。それを書ける最後の人が去ったときか、それを話せる最後の人が去ったときか。\n参考資料\nフィラエ神殿のエスメト＝アコムの落書き（394年8月24日）；フィラエでもっとも新しい民衆文字の落書き（452年12月） 『テオドシウス法典』16.10.10–12、391–392年の異教祭祀禁止勅令 Champollion, Lettre à M. Dacier, 1822 John DeFrancis, The Chinese Language: Fact and Fantasy, 1984 図の出典は各図のキャプションに記載 ","permalink":"https://tentao.pages.dev/ja/duoshe/w02/","summary":"\u003ch2 id=\"フィラエ神殿の壁に\"\u003eフィラエ神殿の壁に\u003c/h2\u003e\n\u003cp\u003eナイル川の上流に小さな島があり、島には女神イシスを祀るフィラエ神殿があります。\u003c/p\u003e\n\u003cp\u003e\u003cimg alt=\"フィラエのイシス神殿\" loading=\"lazy\" src=\"/img/duoshe/w02/02.jpg\"\u003e\u003c/p\u003e\n\u003cp\u003e\u003cem\u003eフィラエのイシス神殿、第一塔門。20世紀、アスワン・ダムを造るとき、神殿全体が解体され、近くの、より高い島へ移されました。　出典：\u003ca href=\"https://commons.wikimedia.org/wiki/File:The_Temple_of_Isis_from_Philae,_First_pylon,_Lake_Nasser,_Egypt.jpg\"\u003eWikimedia Commons\u003c/a\u003e、Vyacheslav Argenberg撮影、CC BY 4.0\u003c/em\u003e\u003c/p\u003e","title":"394年：最後の一行の象形文字"},{"content":"よく聞くひとこと イラン人と話していると、よく聞く言葉があります。私たちはペルシャ人で、アラブ人ではない。\n外の人には、少し奇妙に聞こえるかもしれません。イランはイスラム共和国で、イスラム教は7世紀にアラブ軍とともに来ました。今のペルシャ語は、アラビア文字で書かれます。宗教も文字もアラブ由来なのに、どうしてアラブ人ではないのか。\nこの問いは、とても流行っているある言い方を試すのに、ちょうどいい問いです。「イランはイスラムに乗っ取られた。」\n帝国の終わり サーサーン朝ペルシャは、とても気骨のある帝国でした。建国期の王のひとり、シャープール1世は、ローマ皇帝を破り、その場面を断崖に刻ませました。\nナクシェ・ロスタムの断崖の浮き彫り。馬に乗っているのがサーサーン朝の王シャープール1世で、前にひざまずくのがローマ皇帝。3世紀のイラン人には、四百年後に自分たちの帝国がどう終わるか、想像もできなかったでしょう。　出典：Wikimedia Commons、CC BY-SA 2.0\n630年代から、新たに興ったアラブのイスラム軍が、サーサーン朝を何度も破りました。651年、サーサーン朝最後の皇帝ヤズデギルド3世は逃亡の途中で殺され、四百年あまり続いた帝国はこうして終わりました。\n物語がここで止まるなら、「乗っ取り」は通りそうに見えます。政権が替わり、宗教も替わった。\n改宗には数百年かかった けれども、そのあとのことは、一夜では起きませんでした。\nアメリカの歴史家リチャード・ブリエットは、1979年に『中世におけるイスラムへの改宗』を出し、とても巧みな方法を使いました。当時の人物伝辞典を調べ、名前がどう変わるかを見たのです。ある家族の祖父から孫へ、名前が古いペルシャ名からイスラム名に替われば、改宗がどの世代で起きたかをおおよそ推せます。\n彼の推算の結果は、イラン人のイスラム改宗は何百年も引き延ばされた緩やかな過程で、征服のあとも長いあいだ、ムスリムは少数派だった、というものでした。\nこの方法には議論があり、数字も推定です。けれども少なくとも、征服と改宗は別のことで、そのあいだに何世代もの暮らしが挟まっていることを示しています。\n替わったもの、替わらなかったもの イランが替えたものは何か。宗教と、書くための文字です。ペルシャ語はのちにアラビア文字で書かれるようになりました。\n替わらなかったのは、口のなかの言葉です。\nアラブ人が来たあと、エジプトの話し言葉は数百年かけてゆっくりアラビア語になりましたが、イランはそうなりませんでした。ペルシャ語はアラビア語の単語を大量に取り込みましたが、文法と基本語彙は自分のものでした。\n1010年ごろ、詩人フェルドウスィーは、長編叙事詩『王書（シャー・ナーメ）』を書き終えました。数万の対句です。ペルシャ語で、イスラム以前の歴代の王と英雄の物語を、ひとつずつ書き戻しました。ロスタム、ソフラーブ、ジャムシード……。これらの名前を、今のイラン人もよく知っています。\n『王書』の挿絵。ロスタムが縄でシャームの王を捕らえる。タブリーズ、1505〜1515年ごろ。このページが描かれたとき、イランがイスラム教を信じて八百年あまりたっていましたが、描かれているのはイスラム以前の英雄です。　出典：Wikimedia Commons、パブリックドメイン\nフェルドウスィーは三十年以上かけて書き、晩年は貧しかったと言われます。この本が、のちにひとつの民族のいちばん頑丈な財産になるとは、考えもしなかったでしょう。\nフェルドウスィーの墓、イラン、トゥース。今の墓は1930年代に建て直されたもので、まさにイランの民族主義がもっとも熱かった数年です。　出典：Wikimedia Commons、Arashk rp2 撮影、CC BY-SA 4.0\n征服された人が、逆に征服者を形づくった そのあとのことは、もっとおもしろい。\nペルシャ語は消えなかったばかりか、イスラム世界の東半分の文化語になりました。中央アジアからインドまで、多くのイスラム王朝の宮廷で、ペルシャ語で詩が書かれ、歴史が編まれ、公文書が作られました。玉座に座っているのはトルコ人やモンゴル人の子孫かもしれないのに、宮廷の洗練された文化はペルシャ式でした。\n歴史家マーシャル・ホジソンは、この広い地域に名前をつけました。Persianate、ほぼ「ペルシャ化した世界」と訳せます。\nインドでは、ペルシャ語が長いあいだ官吏の仕事や裁判の言葉でした。1837年になってようやく、英領インドは法律で、司法と税務におけるペルシャ語の公式な地位を取り消し、英語と各地の言語に替えました。\n征服者は新しい神を持ってきました。征服された人びとは、自分の言葉と物語の語り方を、征服者が築いた世界に送り返したのです。\n勝った側が負けた側の言葉を学ぶ：東アジアも見てきた 東アジアの人にとって、これは見知らぬ話ではありません。\n1644年、満洲人は関に入って天下を取りましたが、何代もの皇帝が、漢文を学び、漢籍を読み、漢字で上奏に批答しなければなりませんでした。清の後期には、多くの満洲人自身が満洲語をあまり話せなくなり、満洲文字は次第に文書庫と一部の儀式にしか残らなくなりました。（満洲語の衰退は清史研究の通説です。どの程度、各地でどれほどの速さで衰えたかについては、一次の資料は読めていません。）\nペルシャと違うのは、漢人には『王書』のような、「私たちは誰か」を覚えておくための叙事詩がなかったことです。それを支えたのは、読書、試験、家譜の編纂、祖先祭祀という一式でした。それは長いあいだ効きましたが、20世紀にばらばらに壊されました。\n裏返して見る 「私たちはペルシャ人で、アラブ人ではない」という言葉そのものも、もう一度見る必要があります。\nこの言葉は、近代の民族主義によって大いに磨かれたものです。1935年、レザー・ハーン政権は各国に外交上「イラン」と呼ぶよう求め、同時にイスラム以前のペルシャの栄光を盛んに宣伝しました。千年前のペルシャの詩人や学者が、そんなふうに「民族ごと」に自分を位置づけたとは限りません。彼らの世界では、宗教、王朝、言語、土地は、絡まり合ったいくつもの身分でした。\n1501年から、サファヴィー朝が十二イマーム派のシーア派を国教とし、イランは宗教の面でも周囲のスンナ派世界から分かれました。つまり、イラン人の今日の身分は、言語、宗派、古代の叙事詩、近代の民族主義が一層ずつ重なってできたもので、「奪われ」てから「取り戻された」固定の本体ではありません。\n「乗っ取り」という比喩は、変わらない本体が占領される、と仮定しています。けれどもイランの例が言っているのは、征服された人もまた征服者を変え、双方とももとの姿ではなくなる、ということです。\n身分が重なってできたものだからといって、偽物なのではありません。\n宗教、文字、言語、物語、どれを替えたら、ひとつの民族は「別の人」になるのでしょうか。\n参考資料\nRichard W. Bulliet, Conversion to Islam in the Medieval Period, Harvard UP, 1979 Marshall G. S. Hodgson, The Venture of Islam, U of Chicago Press, 1974 フェルドウスィー『王書』、約1010年 英領インド1837年第29号法令；サーサーン朝の終焉（651）；サファヴィー朝がシーア派を国教とする（1501）；1935年の国名呼称の変更：通説の史実 清代の満洲語の衰退：Mark C. Elliott, The Manchu Way: The Eight Banners and Ethnic Identity in Late Imperial China, Stanford UP, 2001（18世紀から朝廷が旗人に「国語騎射」を守るよう繰り返し督促した。原書は読み返していない）；魏巧燕「清代満語文の使用の発展と満漢文化の融合」、『満語研究』2024年第1期（要旨のみ読んだ）🟡 画像の出典は各図の説明に記載 ","permalink":"https://tentao.pages.dev/ja/duoshe/w03/","summary":"\u003ch2 id=\"よく聞くひとこと\"\u003eよく聞くひとこと\u003c/h2\u003e\n\u003cp\u003eイラン人と話していると、よく聞く言葉があります。私たちはペルシャ人で、アラブ人ではない。\u003c/p\u003e\n\u003cp\u003e外の人には、少し奇妙に聞こえるかもしれません。イランはイスラム共和国で、イスラム教は7世紀にアラブ軍とともに来ました。今のペルシャ語は、アラビア文字で書かれます。宗教も文字もアラブ由来なのに、どうしてアラブ人ではないのか。\u003c/p\u003e","title":"イラン人はなぜ「私たちはアラブ人ではない」と言うのか"},{"content":"広く流布している説 中国語では、ハンガリー人は匈奴の子孫だという説をよく耳にします。理由は一見直感的です。「匈牙利」には「匈」の字があり、英語の Hungary には Hun があるからです。\n正しいのでしょうか。答えるには、まず問いを分けなければなりません。「誰が誰の子孫か」と言うとき、語っているのは名前なのか、言語なのか、血筋なのか。\n先に呼び方を整理しておきます。中国語の「匈奴」は、モンゴル高原のシオンヌ（Xiongnu）を指します。ヨーロッパ史でローマの門前まで攻め寄せたのは「フン人」（Huns、アッティラの一団）で、4〜5世紀に現れます。両者がひと続きの系統かどうかは、学界では今も論争中です。以下で「フン人」と言うのは、ヨーロッパの側の一派です。\nまず一つ：祖先を名乗ること ハンガリー人自身は、実際にフン人を祖先として名乗ったことがあります。\n13世紀の初め（学界では成立を1200年から1230年のあいだとすることが多い）、無名の著者がラテン語で『ハンガリー人の事績』を書き、すでにアッティラを王家の系譜に入れていました。13世紀の80年代には、ケーザのシモンが『フン人とハンガリー人の事績』を書き、フン人の王アッティラをハンガリー人の祖先だとはっきり書きました。\n『ハンガリー人の事績』写本の一頁。著者は「P.師」という署名だけを残しており、学者は一般に「無名氏」（アノニムス）と呼ぶ。　出典：Wikimedia Commons、パブリックドメイン\nそのころ、ハンガリーがキリスト教王国になってまだ二百年ほどでした。ローマ帝国を震え上がらせた輝かしい祖先を自分のために見つけるのは、よくあることです。ヨーロッパの多くの王家や民族がやりました。落ち着いたばかりの王朝には、遠く、しかも恐ろしい祖先が必要だったのです。\nですから、「ハンガリー人はフン人の子孫だ」という説は、最初に外の人間が作ったものではなく、ハンガリーの中世の史書が自分で書いたものでした。\n第一の線：名前 「ハンガリー」という名前はどうやって生まれたのでしょう。\nハンガリー人は自分たちを「マジャル」（Magyar）と呼び、「Hungary」は外の人が呼んだ名です。主流の語源説は、主にテュルク語の「オン・オグル」（On-Ogur）に由来するというもので、意味はおおよそ「十本の矢」、部族連合を指します。マジャル人は移動の途中でこうしたテュルク系の部族とともに過ごし、周囲の人々がその名で彼らを呼んだのです。\nラテン語では Hungaria と綴り、頭の H は、中世の文献で「フン人」（Huni）との連想に引かれて付け加えられました。\nつまり、名前とフン人の関係は、大部分が後の人が考え出したもので、由来そのものではありません。\nちなみに、このことをAIと話したとき、AIは「Hungary はまさに Hun に由来する」と、とても自信ありげに教えてくれました。この説は間違いです。\n第二の線：言語 言語はまた別の問題です。\nハンガリー語はウラル語族に属し、フィンランド語やエストニア語の遠い親戚で、周りのドイツ語、スラヴ語、ルーマニア語とは同じ系統ではありません。印欧語の海の中で、ハンガリー語は孤島です。\nウラル語族の分布。大部分は北ヨーロッパとロシア北部にあり、ハンガリー語だけが中央ヨーロッパにぽつんと落ちている。　出典：Wikimedia Commons、CC BY-SA 3.0\nこれは、9世紀末にカルパティア盆地に入ったマジャル人が、東方の言葉を持ち込み、今日までそれを保ってきたことを示しています。\nフェスティのパノラマ画『マジャル人の到来』の部分。1894年に「建国千年」を記念して描かれた。白馬に乗るのは伝説の指導者アールパード。描かれたのは9世紀だが、込められた気持ちは19世紀のものだ。　出典：Wikimedia Commons、Árpád Feszty、パブリックドメイン\n第三の線：血筋 では血筋は。ここは、ここ十数年でようやく確かな証拠が出てきた部分です。\n2022年、ハンガリーの研究者グループが『カレント・バイオロジー』に古代の遺骨の遺伝子研究を発表しました。おおよその結論はこうです。9世紀末のマジャル人の征服者、とくにエリート層は、確かにはっきりした東方草原の成分を持っていた。その由来は、マンシ人、初期サルマタイ人、匈奴後期の子孫の混合である。研究者はさらに、一部の人にフン人と関係のある成分を検出し、フン人、アヴァール人、征服者という、順に現れた遊牧集団のあいだには、遺伝的なつながりがあると考えました。\n一言添えておくと、古代DNAは墓から取られ、墓そのものが選別されています。墓地は規模も階層も異なり、残って掘り出されたものが、当時の人すべてではありません。そのため、「この征服者たちの出自は何か」に答えるには向いていますが、「当時この土地にいた人々の出自は何か」にそのまま使うことには向きません。\n今日の一般のハンガリー人を見ると、2018年に別の研究者グループがミトコンドリアのデータを比較し、現代のハンガリー人のアジア系の成分は小さく、征服者のわずかな寄与を示すにすぎないと結論しました。2022年の論文でも、各時代のほとんどの人は、やはり地元のヨーロッパ系の祖先を持っていました。今日のハンガリー人の祖先の大半は、この土地にもともと住んでいた人々です。\n言い換えれば、東方から来たごく少数の征服者が、言語と名前をもたらしました。千年以上の通婚を経て、血筋は地元の人々に洗われて、とても薄くなったのです。\n三本の線、それぞれの道 線を並べてみると、はっきりします。\n名前：主にテュルク系の部族連合に由来し、頭のHはフン人からの連想。 言語：ウラル語族。東方から持ち込まれ、今日まで残った。 血筋：征服者のエリートには東方の成分があり、今日の主体は地元の人。 中世の史書が自ら進んでフン人を祖先にしたのは、帰属意識の問題で、また別の一本の線です。\nトルコも別の例です。名前と言語はテュルク系から受け継ぎましたが、多くの研究は、現代トルコ人の遺伝的な主体はアナトリアの地元の人々に由来すると考えています。\nノルウェーの人類学者フレドリック・バルトは、1969年に影響力の大きい見方を示しました。民族集団を支えるのは境界であって、境界の内側に包まれた「中身」ではない。中身、つまり血統、言語、習俗はみな変わりうる。「われわれ／彼ら」の線が残るかぎり、民族集団は存在する、というのです。\n私たちも祖先を名乗った これはハンガリーの話ですが、読んでいてどうも見覚えがあります。\n清朝の末、反満のために一群の読書人が、新聞で「黄帝紀元」という紀年に切り替え、四千年以上前の黄帝を、すべての漢人の共通の祖先として持ち出しました。形になりかけた「民族」にも、遠く、体裁のよい祖先が必要だったのです。これについては、あとで一編を割いて書きます。\n祖先を名乗ること自体は、少しも笑うことではありません。人は自分がどこから来たかを知る必要があります。ただ、名乗った祖先が語っているのは、しばしば私たちが何者になりたいかであって、すべてがどこから来たかではないのです。\n逆から見る ですから、私は今、「奪舎」（体の乗っ取り）と言うたびに、まず問わなければなりません。奪われたのは、どの一筋なのか。この言葉は、変わらない「本体」があって、それを外の者が占領したと仮定しています。けれどハンガリーでは、奪われたのが名前なのか、言語なのか、血筋なのか、はっきり言うのは難しいのです。\n「三本の線」も、一種の単純化です。帰属意識、宗教、国家の制度も別の線で、線はまだ増やせます。けれどこの三本にはそれぞれ由来があり、そのことはこれで曖昧にはなりません。\nあなたの中でいちばん古いものは何ですか。姓ですか、方言ですか、遺伝子ですか。\n参考資料\n無名氏『ハンガリー人の事績』（13世紀初め、通説の年代は1200–1230）；ケーザのシモン『フン人とハンガリー人の事績』（1282–1285年ごろ） Zoltán Maróti et al., \u0026quot;The genetic origin of Huns, Avars, and conquering Hungarians\u0026quot;, Current Biology 32, 2022 Neparáczki et al., \u0026quot;Mitogenomic data indicate admixture components of Central-Inner Asian and Srubnaya origin in the conquering Hungarians\u0026quot;, PLoS ONE 13(11): e0208295, 2018 Fredrik Barth (ed.), Ethnic Groups and Boundaries, 1969 「Hungary」の語源：通説の語源学的な説明（On-Ogur；Hは中世ラテン語の付会） 画像の出典は各図の説明に記載 ","permalink":"https://tentao.pages.dev/ja/duoshe/w04/","summary":"\u003ch2 id=\"広く流布している説\"\u003e広く流布している説\u003c/h2\u003e\n\u003cp\u003e中国語では、ハンガリー人は匈奴の子孫だという説をよく耳にします。理由は一見直感的です。「匈牙利」には「匈」の字があり、英語の Hungary には Hun があるからです。\u003c/p\u003e\n\u003cp\u003e正しいのでしょうか。答えるには、まず問いを分けなければなりません。「誰が誰の子孫か」と言うとき、語っているのは名前なのか、言語なのか、血筋なのか。\u003c/p\u003e","title":"ハンガリー人は匈奴の子孫なのか"},{"content":"1956年10月のナーグプル 1956年10月14日、インド中部の都市ナーグプルで、非常に大きな集会が開かれ、65歳の老人が人々を率いて仏教への改宗を誓いました。その後の二日間で、彼に続いて改宗した人数は、三十数万から六十万までと、さまざまに言われます。人類史上最大規模の集団改宗の一つです。\n1956年10月14日、ナーグプルの改宗大会で演説するアンベードカル。　出典：Wikimedia Commons、パブリックドメイン\n先頭に立ったのは、ビームラーオ・アンベードカルという人です。彼は「不可触民」の家に生まれ、子どものころ学校では自分で麻袋を持参して座らなければならず、水道の蛇口に触れることもできませんでした。のちにコロンビア大学とロンドン・スクール・オブ・エコノミクスで博士号を取り、インド憲法起草委員会の委員長になりました。\n彼が逃れようとしたのは、カーストでした。数週間後、彼は亡くなりました。\nいちばん流布している物語 カーストはどうして生まれたのか。いちばん流布している説明は、おおよそこうです。\n三千年あまり前、外から来た「アーリヤ人」の集団がインドに入ってきた。彼らは人数が少なく、現地の人に同化されるのを恐れて、カーストと内婚の決まりを発明した。征服者と被征服者の区別を血統に書き込み、さらに「業」と「輪廻」を使って、抑えられた人々が自ら進んで受け入れるようにした。\nこの物語はとても整っています。誰かが一度に設計したかのように整っています。\n問題はまさにそこにあります。\n物語はどこから来たのか この「人種征服説」の現代版は、大部分が19世紀の産物です。ヨーロッパの人種学がもっとも盛んだった時代で、「アーリヤ」という語は、言語学の概念（インド・ヨーロッパ語を話す人）から人種の概念へと滑り落ちました。英領インドの官吏ハーバート・リズリーは、国勢調査を取り仕切ったとき、鼻の幅を測るような方法で、カーストと「人種」を一つひとつ対応させようとしました。\n今日の学界では、「アーリヤ人」という語をこのように使うことは、ほぼなくなっています。\n遺伝子が示す時間表 2013年、ハーバードなどの研究者が『アメリカ人類遺伝学雑誌』に、インド亜大陸の73の集団の遺伝子データを分析した研究を発表しました。\n彼らが見いだしたことはこうです。今日のインドの大部分の集団は、二つの古い集団が混ざった子孫である。この大規模な混合は、約4200年前から1900年前のあいだに起きた。それ以後、インドは、集団が広く混ざり合う場所から、近縁の集団のあいだでさえほとんど通婚しない場所へと変わった。\nこれは二つのことを示しています。第一に、長いあいだ、インドの各集団のあいだでは通婚が続いていて、最初から閉ざされた血統の壁はなかったこと。第二に、厳格な内婚は、その後の長い時間をかけて、ゆっくり定まったものだということ。\nカーストは、征服の瞬間に封印されたのではなく、ゆっくり固まったのです。\n植民地の記録の手 今日私たちが知る形にまで固まるには、もう一つの手が働きました。\n人類学者のニコラス・ダークスは『心のカースト』（2001）で、こう述べています。イギリスの植民地政府は1871年から全インドの国勢調査を行い、一人ひとりにはっきりしたカーストを記入させた。1901年になると、調査官は各カーストを社会的な序列で並べようとした。もとは流動的で、土地ごとに異なり、意味もさまざまだった身分が、統一された表に登録され、行政上の固定した分類になった、と。\nこの見方は大きな影響を与えましたが、反対する人もいます。歴史学者のスーザン・ベイリーは『インドのカースト、社会、政治』（1999）で、カーストは植民地化以前からインド社会に深く根づいていて、イギリス人は発明者ではなく、補強した人にすぎないと強調します。\nどちらにも証拠があります。比較的穏当な言い方は、カーストには植民地化以前の深い根があり、植民地支配がそれをより硬く、より「公式」なものにした、というものです。\nいちばん固いのは食卓 カーストはなぜこれほど打ち破りにくいのでしょう。大きな理由は、それが法律のなかだけでなく、暮らしのなかにあることです。\nインドの社会学者スリニヴァースは1952年に「サンスクリット化」という概念を示しました。低いカーストの集団が上に昇ろうとするとき、高いカーストの暮らし方を学ぶことが多い。肉を断ち、酒を断ち、バラモンの決まりを守る、というように。\nこれは、カースト制度のなかで「清浄」が通用する貨幣であることを示しています。序列は土地や財産だけでなく、何を食べるか、誰と同じ食卓につくか、誰と結婚するかに書き込まれています。\nですから、1950年のインド憲法第17条が「不可触」を明文で廃止しても、カーストはそれで消えませんでした。食卓の決まりには、法律の手が届かないからです。\nアンベードカルはそのことをよく知っていました。1936年に『カーストの絶滅』を書き、二十年後、彼は宗教という出口を選びました。カーストを認めない宗教に改宗することです。\nナーグプルの「ディークシャーブーミ」（改宗の地）。1956年の集会の跡地に建てられた。毎年10月、数十万人が各地からここに集まる。　出典：Wikimedia Commons、Prakash Lokhande 撮影、CC BY-SA 4.0\n私たちにも「出身」があった アンベードカルを読むと、いつも別のことを思い出します。私たちにずっと近い話です。\n1950年代初めの土地改革のあと、中国大陸では、誰もが「家庭出身」を持つようになりました。地主、富農、中農、貧農、雇農、それに「資本家」「職員」など。この成分は父親について回り、世代から世代へ受け継がれました。出身のよくない子どもは、進学、入隊、昇進、共青団への入団など、あらゆる場面で壁にぶつかりました。縁談では、相手の家がまず尋ねるのが成分でした。\nそこに「清浄」「不浄」という言い方はありませんでしたが、やはり食卓や婚礼に書き込まれ、人を生まれたときから枠のなかに入れました。\n1966年、遇羅克という北京の青年が「出身論」という文章を書き、出身が人間を決めるべきではないと述べました。この文章は民間に広く伝わりました。1970年3月、彼は銃殺されました。27歳でした。\n1979年1月11日、中国共産党中央は「地主・富農分子の帽子外しと、地主・富農の子女の成分の問題に関する決定」を出しました。ごく少数を除いて、地主・富農分子はすべて「帽子を外され」、その子女は出身で扱われなくなりました。この枠は国家の一枚の文書で開かれました。インドよりずっと速かったのです。ただ、それ以前の三十年、その中に閉じ込められていた人々のうち、改宗を待てた人は一人もいませんでした。\n逆から見る 「カーストは実はそれほど古くない」という結論は、胸のすくような響きがあり、私たちの世代の好みにも合います。けれど、それもまた別の単純化かもしれません。\nカーストの観念のいくつか、たとえば経典にある「四ヴァルナ」は、確かにとても古いものです。遺伝子研究が教えてくれるのは、内婚が定まった時代であって、序列の観念が生まれた時代ではありません。「とても古い」と言うことも、「後になって固まった」と言うことも、どちらも正しいのかもしれません。ただ、同じ層について言っているのではないのです。\n書斎にいるアンベードカル。生涯の蔵書は数万冊にのぼったという。　出典：Wikimedia Commons、パブリックドメイン\nある制度は、どれだけ長く存在すれば、人に「生まれつきそうなのだ」と思われるようになるのでしょうか。\n参考資料\nPriya Moorjani et al., \u0026quot;Genetic evidence for recent population mixture in India\u0026quot;, AJHG 93, 2013 Nicholas B. Dirks, Castes of Mind, Princeton UP, 2001 Susan Bayly, Caste, Society and Politics in India, Cambridge UP, 1999 M. N. Srinivas, Religion and Society Among the Coorgs of South India, 1952 B. R. Ambedkar, Annihilation of Caste, 1936；1956年のナーグプルの集団改宗 中共中央「地主・富農分子の帽子外しと、地主・富農の子女の成分の問題に関する決定」、1979年1月11日（中発〔1979〕5号）、ウィキソース全文 🟢 家庭成分制度、遇羅克「出身論」（1966）と1970年の処刑：通説の史実 画像の出典は各図の説明に記載 ","permalink":"https://tentao.pages.dev/ja/duoshe/w05/","summary":"\u003ch2 id=\"1956年10月のナーグプル\"\u003e1956年10月のナーグプル\u003c/h2\u003e\n\u003cp\u003e1956年10月14日、インド中部の都市ナーグプルで、非常に大きな集会が開かれ、65歳の老人が人々を率いて仏教への改宗を誓いました。その後の二日間で、彼に続いて改宗した人数は、三十数万から六十万までと、さまざまに言われます。人類史上最大規模の集団改宗の一つです。\u003c/p\u003e","title":"カーストは本当はどれほど古いのか"},{"content":"出発点はほとんど同じだった 世界銀行のデータによれば、1990年のインドの一人あたりGDPは367ドル、中国は317ドルでした。インドが中国の前を走っていた最後の年です。\n1990年にはインドがまだ前にいて、三十年余り後には四、五倍の差になった。出典：世界銀行（1990）；2024年は各機関の推計の中間値。\n2024年には、インドの一人あたりGDPは2500〜2700ドルのあいだで、2025年は2800ドル近くと見られます。同じ時期、中国は1万3000ドルを少し超えています。\n四、五倍の差です。しかもこれは、誰かが突然不運に見舞われたのではなく、三十年あまりかけて少しずつ開いたものです。\nですから、「盗まれた三十年」という題は、ごく自然な感覚です。最初は並んで立っていたのに、気がつくと、一方はもう別の階にいる。\nただ、先に一言。「盗む」と言うなら、泥棒がいなければなりません。考えられる「泥棒」を一つずつ調べてみたところ、まともな説明は、「誰が盗んだか」ではなく、「逃した」と「やりきらなかった」のほうでした。\nまず、どこで差がついたか インドと中国の比較で、よく引かれる項目は次のとおりです。\n製造業。 インドの製造業がGDPに占める割合は、この三十年、ほぼ14%から17%のあいだに留まり、本当に伸びたことはありません。中国は約27%（2023年）です。世界全体で見ると、中国は世界の製造業付加価値の28%〜29%を占め、インドは約3%です。\n学べたこと。 インドの教育は急速に普及しましたが、どれだけ学べたかは別の話です。農村教育年次報告（ASER）2024年の結果では、五年生のうち、二年生の文章を読めるのは48.8%だけでした。\n女性の労働参加。 『インドの女性はなぜこれほど大変なのか』で触れたように、15歳以上の女性の参加率は2023〜2024年で41.7%で、その多くは自分の家の畑を手伝っているのです。\n土地。 全国農業センサス（2015〜2016年）によれば、インドの農家の平均は1.08ヘクタールしかなく、農家の68.5%を占める零細農家（1ヘクタール未満）は平均0.38ヘクタールです。小さく、細かく分かれているので、農民は土地を離れにくく、工場もまとまった土地を得にくい。（『インドの土地』で詳しく書きます。）\nよくある幾つかの説明 一、出発が遅かった。 中国は1978年に改革開放を始め、インドは1991年の外貨危機に迫られてやっと改革しました。十三年遅れです。この説明には一理ありますが、十分ではありません。1990年には両国の一人あたり所得はほぼ同じで、出発の差は、最初から追いつけないほど大きくはなかったことを示しているからです。\n二、体制。 中国は力を集中して大事を成し遂げられるが、インドは民主国家で、何でも話し合い、言い争い、票が要る、と言う人がいます。土地収用や労働法といった改革は、インドでは確かに難しい（『インドの土地』）。逆の意見はこうです。韓国や台湾も、工業化の重要な時期には標準的な意味での民主主義ではなかったし、多くの東アジア経済は民主化したあとも止まらなかった。ですから体制は一つの要因ですが、唯一の決定的なものとは言いにくい。\n三、別の道を行った。 これがいちばん興味深い説明です。中国の道は、まず農民を労働者に変え、労働集約的な製造業の輸出を伸ばすこと。インドの道は、多くが製造業を迂回して、サービス業やソフトウェアの外注によって直接上へ向かうことでした（『インドのIT神話』で語ります）。ソフトウェア業は高給の仕事をたくさん生みましたが、必要とするのは高等教育を受けた少数で、教育をあまり受けていない数億の若者には、十分な働き口がありませんでした。簡単に言えば、インドは二階へ一気に跳んで、階段をほとんど作らなかったのです。\n四、タイミング。 中国は2001年にWTOに加盟し、グローバル化のもっとも激しい二十年にちょうど間に合い、工場はみなそこへ移りました。インドはその窓に間に合わず、やろうとしたときには、世界はルールを替えていました。\n五、インフラと管理。 電力、港湾、物流。どれも古い問題です。これは大きすぎる項目なので、ここでは一言だけにします。\n途中には、何度かよい機会もあった 「逃した」は「ずっと動かなかった」ではありません。この三十年のあいだに、インドが離陸に近づいた時期は何度かありました。\n1991年以後、許認可を緩め、関税を下げて、成長率がはっきり上がった。 2003〜2008年ごろには、9%近い高成長があった（2005〜2008会計年度は毎年9%前後）。 2016年11月の高額紙幣廃止、2017年7月の全国統一の物品サービス税。どちらも大きな改革だが、どちらも痛みを伴い、効果は今も議論がある。 どうしても「盗まれた」と言うなら、近い言い方はこうかもしれません。どの改革も半分しかやらなかった。\nこの二、三年に現れた新しいもの 最近のいくつかの変化は、別に取り上げる価値があります。\nアップルの注文。 2025年、アップルはインドで約5500万台のiPhoneを組み立てました。2024年の3600万台より53%多く、世界の生産量の約四分の一です。アップルは、2020年に始まった規模3万クロール・ルピーの携帯電話「生産連動型優遇策」（PLI）の最大の受益者でした。この制度の五年の期間は2026年3月に終わり、アップルやサムスンなどは政府と新たな優遇策を交渉しています。携帯電話は、インドの最大級の輸出品目の一つになりました。 労働法。 2025年11月21日、四つの新しい労働法典が同時に施行され、従来の29の労働法が統合されました。そのうちの一つは、企業が解雇するのに政府の承認が必要になる基準を、100人から300人に引き上げたもので、中小の工場の縛りを緩めることになります。批判する人は、労働者に不利だと考えています。（『インドの土地』で展開します。） 自由貿易協定。 2026年1月、インドとEUは自由貿易協定の交渉妥結を発表しました。交渉には二十年近くかかりました。この進み具合は、「慢車（スロー・トレイン）」という言葉がとても正確に見えます。 アメリカの関税。 2025年、アメリカはインド製品への関税をまず25%に引き上げ、のちに倍の50%にしました（理由の一つは、インドがロシア産の石油を買い続けていること）。2026年2月2日、アメリカ大統領はインドと合意に達し、関税を18%に下げると発表しました。これはアメリカ側の発表で、細則の公式文書は見ていません。しかもこの18%は長くは続きませんでした。2月20日、アメリカ最高裁は6対3で、国際緊急経済権限法（IEEPA）は大統領に関税を課す権限を与えていないと判断し、この法に基づく相互関税は失効しました。ホワイトハウスは同日、1974年通商法122条に切り替え、各国一律10%、上限150日で、7月24日に期限が切れます。その後のインドへの実際の税率については、信頼できる出典を見つけていません。公開前に改めて調べる必要があります。 これが「新たな離陸」と言えるかどうかは、今後数年維持できるかにかかっています。しかし少なくとも、「製造業をやりたい」という点では、政策はかつてよりずっと真剣になりました。\n中国のネットユーザーの目に映るインドの工場 2026年の秋、中国語のネットで「奴隷労働理論」という言葉をめぐる言い争いが起きました。生産ラインのどこかでも、労働者が搾り取られすぎていれば、出てくる品物は「奴隷労働級」の品質になる、という説です。数千の議論のなかで、インドはかなりの回数持ち出され、ほとんどが的として使われていました。アップルは中国人労働者を使わず、iPhoneをインドへ移して作らせている。ではインド製のiPhoneは買えるのか、と。ついでに数字を挙げる人もいました。インドのフォックスコンの労働者は年に2000ドルほどで、アップルのCEOとは何万倍も違う、と（これはネットユーザーの言い分で、私は確かめていません）。\nこの言い争いは、インドの工場がよいか悪いかを示すものではありませんが、一つのことを示しています。多くの中国人の目には、インドはもう「学べない」貧しい隣人ではなく、本当に注文を奪っていった競争相手に映っているのです。\nインドの工場の実際については、きちんと調査された出来事が一つあります。2024年6月、ロイターは、フォックスコンのタミル・ナードゥにある主力のiPhone組み立て工場が、「家庭の負担が重い」こと、アクセサリーを着けること（保安検査が面倒）を理由に、既婚女性を系統的に採用していないと報じました。報道は、フォックスコン・インドの元人事責任者と、十数社の求人仲介業者の従業員17人、現職・元職の人事責任者4人を引いています。フォックスコンは婚姻状況による差別を否定し、アップルとフォックスコンは2022年の採用に「手落ちがあった」ことを認めました。インド連邦労働省は、その後タミル・ナードゥ州政府に報告を求めました。おもしろいことに、インドの法律そのものは、婚姻状況で人を選ぶことを禁じていません。この件を縛っていたのは、アップルとフォックスコン自身の社内規則のほうでした。\n「次の世界の工場」になろうとする国は、注文が来て、工場が建っても、採用は昔のままのやり方です。誰が入れて、誰が家にいなければならないのか。\nもう一つ見ておきたい数字 最後に置いておきたい数字が一つあります。若者の失業率です。2025年、15〜29歳の若者の失業率は9.9%（公式の労働力調査の年次報告）で、2024年の10.3%よりわずかに低くなりました。農村の若者は8.3%、都市の若者は13.6%です。\nインドでは毎年数百万人の若者が労働市場に入ってきます。工場が足りなければ、彼らはどこへ行くのか。これが、この三十年が残した最大の勘定です。\n逆から見る 「次の中国になれなかった」という言い方そのものにも、問題があるかもしれません。\n第一に、中国は特例です。 三十年で世界の製造業の25%以上を自国に移した国は、歴史上、二度と現れていません。それを基準にすれば、どの国も「できなかった」ように見えます。この基準なら、ベトナム、インドネシア、メキシコも「次の中国になれなかった」ことになります。\n第二に、インドは別の道を歩んでいるのかもしれません。 その道の代表の一つが、デジタル公共財です。2025年までに、インドのモバイル決済システムUPIは、世界のリアルタイム決済取引量のほぼ半分を占めるようになりました（ACI Worldwideの2024年のデータ。IMFとインド準備銀行の年次報告も引用しており、49%）。これはほかの国にはないものです。新しい成長モデルになりうるかは、まだわかりません。\n第三に、「製造業なくして大国なし」は、それほど絶対ではないかもしれません。 開発経済学には、「早すぎる脱工業化」（ダニ・ロドリックが2016年に提起）という言い方があり、工業化が終わらないうちに、サービス業の時代に入ってしまう国がある、という意味です。このパターンが十数億人の豊かさを支えられるのか、調べられる先例はありません。\nある国が先進国になろうとするなら、一時期は必ず「世界の工場」になる必要があるのでしょうか。それとも、この一歩は、実は迂回できるのでしょうか。\n参考資料\n世界銀行、一人あたりGDP（名目米ドル）：インド1990年367ドル、中国317ドル（The Wireによる世銀データの紹介から引用） 国際通貨基金；国連統計部/UNIDOの製造業付加価値データ（中国は世界の約28%〜29%、インドは約3%） ASER Centre, Annual Status of Education Report (Rural) 2024 インド農業センサス 2015–16（平均農家規模1.08ヘクタール） Counterpoint Research、Asymcoなど：インドでのiPhoneの生産量と輸出；インド電子情報技術省のPLIに関するデータ インド労働雇用省：四つの労働法典が2025年11月21日に施行 欧州委員会：EU–India free trade agreement concluded、2026年1月29日 インド統計・計画実施省：PLFS年次報告2025（若者の失業率） RBI：インドは世界のリアルタイムデジタル決済の約49%（2025） フォックスコンのインド工場が既婚女性を採用しない件：Reuters の調査（2024-06）、Deccan Herald、Scroll、BusinessLIVE などによる紹介；インド労働省がタミル・ナードゥ州に報告を求めた（Scroll、2024）🟡 ネット上の「奴隷労働理論」に関する議論（ネットユーザーの見方、手がかりとしてのみ使う） ","permalink":"https://tentao.pages.dev/ja/manche/w5/","summary":"\u003ch2 id=\"出発点はほとんど同じだった\"\u003e出発点はほとんど同じだった\u003c/h2\u003e\n\u003cp\u003e世界銀行のデータによれば、1990年のインドの一人あたりGDPは367ドル、中国は317ドルでした。インドが中国の前を走っていた最後の年です。\u003c/p\u003e\n\u003cp\u003e\u003cimg alt=\"1990年にはインドがまだ前にいて、三十年余り後には四、五倍の差になった。出典：世界銀行（1990）；2024年は各機関の推計の中間値。\" loading=\"lazy\" src=\"/img/manche/w5/01.png\"\u003e\u003c/p\u003e\n\u003cp\u003e\u003cem\u003e1990年にはインドがまだ前にいて、三十年余り後には四、五倍の差になった。出典：世界銀行（1990）；2024年は各機関の推計の中間値。\u003c/em\u003e\u003c/p\u003e","title":"盗まれた三十年：インドはなぜ「次の中国」になれなかったのか"},{"content":"武昌の街の布告 1911年10月、武昌蜂起で街を押さえたあと、革命派は湖北軍政府を立てました。彼らが出した布告の日付は、もう「宣統三年」ではなく、「黄帝紀元四千六百九年」でした。\n湖北軍政府の門前。交差して掲げられているのは「十八星旗」で、十八の星は関内の十八省を表します。立哨の兵は、数か月前までは清の新軍の兵でした。　出典：Wikimedia Commons、パブリックドメイン\nこの年号は、思いつきで書かれたものではありません。その背後には、十年近く争われた「紀年論争」がありました。\nなぜ黄帝なのか 帝政の時代、年は皇帝の年号で数えました。誰の年号を使うかは、誰の統治を認めるかにあたります。\n1903年、学者の劉師培は『黄帝紀年論』を書きました。言いたいことは率直です。清の皇帝の年号で年を数えれば清を認めたことになる。自分たちが別の「私たち」だと示すには、起点を替えて最初から数え直さねばならず、漢人の始祖と尊ばれる黄帝から数える。\n劉師培（1884–1919）。『黄帝紀年論』を書いたとき十九歳で、激しい反満の革命派でした。数年後には清朝側に走り、民国初年には袁世凱の帝政を後押しして、三十五歳で病死しました。ひとりの人の元年も、何度も替わることがあります。　出典：Wikimedia Commons、パブリックドメイン\n黄帝紀年はたちまち革命派の看板になりました。ただ、黄帝がいつ生まれ、いつ即位したかは、もともと確かな記録がありません。当時、新聞ごと、人ごとに、算出した数字は違いました。同じ祖先なのに、新聞によって誕生日が違ったのです。\n明清の人が描いた黄帝の像。黄帝を見た人はいません。どの時代も、自分の心のなかの祖先を描きました。　出典：Wikimedia Commons、パブリックドメイン\nふたつの元年、ふたつの「私たち」 同じ時期に、もうひとつの「自分たちの時間」がありました。孔子紀年です。康有為ら維新派は、孔子の誕生日を元年にすることを主張しました。\nこの二つの紀年は、まったく違うふたつの帰属の道を表しています。\n黄帝紀年：祖先の血統から数え、人種と民族を語る。 孔子紀年：聖人の教化から数え、文化と道統を語る。 ひとつは「私たちは誰の子孫か」を問い、もうひとつは「私たちが伝えているものは何か」を問います。\n台湾の学者、沈松僑は1997年に、黄帝が晩清にどのように「国族の始祖」に仕立てられたかを整理した論文を書きました。題は魯迅の詩から取られています。「我以我血薦軒轅（わが血をもって軒轅に薦む）」。\nこれは中国だけのことではない 自分のために起点を選ぶのは、ほとんどどの集団もしてきたことです。\nユダヤ暦は「天地創造」を元年とし、紀元前3761年にあたります。この年は古代の人が代々記録したものではなく、後世のラビが『聖書』の系図をたどって一世代ずつ逆算したもので、おもに2世紀の学者ヨセ・ベン・ハラフタが書いたと伝わる『セデル・オラム・ラッバ』によります。\n西暦はイエスの誕生を元年とし、6世紀にディオニュシウスという修道士が算出しました。今日の多くの学者は、彼の算出とイエスが実際に生まれた年は数年ずれていると見ています。\nイスラム暦は、預言者ムハンマドがメッカからメディナに移った622年を元年とし、これは彼の死後、第二代カリフのウマルの時代に定められました。\n共通点があります。まず人びとの集まりがあり、それから振り返って、自分たちの始まりを定めたのです。\n黄帝紀年が使われたのは短い間だけ 1912年1月1日、中華民国臨時政府が成立し、太陽暦への切り替えを宣言して、この年を「中華民国元年」としました。湖北軍政府が布告を出してから数えると、黄帝紀年が公式の紀年だったのは、二か月あまりです。\n革命が成功したあと、新しい国が選んだのは、血統から数える時間ではなく、新しい始まりであり、しかも世界で通用する暦につなげたものでした。\nそのあとの元年 話はまだ終わりません。1949年以後、海峡の両側の元年も分かれました。大陸は西暦に改め、民国の年号を使わなくなりました。台湾はずっと民国紀年を使い、今日も身分証や公文書には「民国何年」と書かれます。\n同じ「中国」なのに、ふたつの場所がそれぞれの年を数えています。\n裏返して見る アメリカの学者ベネディクト・アンダーソンは、『想像の共同体』（1983）でとても有名な見方を示しました。民族は近代の産物で、新聞、小説、統一された時間感覚によって「想像」された共同体だ、と。\n何でも「構築」と言うことに同意しない学者もいます。前近代にも真実の民族的なアイデンティティと共通の記憶があり、近代の民族主義はその古い材料に手を加えたもので、何もないところから発明したものではない、というのです。\nだから、「黄帝紀年は構築されたものだ」と「黄帝への帰属意識には非常に深い歴史的な根がある」は、同時に成り立ちえます。起点は選ばれたものです。選ばれたその年は、やはり実際にありました。私たちは先人の計算の不正確さを笑いますが、私たちが今日選ぶ「起点」も、きっと後の人にこうして眺められるでしょう。\nもし私が選ぶなら もしこの二つの元年のうちからひとつ選ぶなら、私は孔子のほうを選びます。\n黄帝が悪いからではありません。血統から数えれば、門はいつも「子孫」にだけ開かれ、教化から数えれば、門は入ってきたいすべての人に開かれているからです。ベトナム人も朝鮮人も日本人も、黄帝を祖先と認める人はひとりもいませんが、何百年ものあいだ『論語』を読み、ある日には孔子を祭ってきました。東アジア人を集められるものを私が探すなら、こちら側から探すほかありません。\nもしあなたが自分の家族のために「元年」を決めるなら、どの年から数え始めますか。\n参考資料\n劉師培『黄帝紀年論』、1903 沈松僑「我以我血薦軒轅——黄帝神話と晩清の国族構築」、『台湾社会研究季刊』第28期、1997 『セデル・オラム・ラッバ』 Benedict Anderson, Imagined Communities, 1983 湖北軍政府布告「黄帝紀元四千六百九年」、1912年の太陽暦への切り替え、両岸の紀年：通説の史実 画像の出典は各図の説明に記載 ","permalink":"https://tentao.pages.dev/ja/duoshe/w06/","summary":"\u003ch2 id=\"武昌の街の布告\"\u003e武昌の街の布告\u003c/h2\u003e\n\u003cp\u003e1911年10月、武昌蜂起で街を押さえたあと、革命派は湖北軍政府を立てました。彼らが出した布告の日付は、もう「宣統三年」ではなく、「黄帝紀元四千六百九年」でした。\u003c/p\u003e\n\u003cp\u003e\u003cimg alt=\"湖北軍政府の門前\" loading=\"lazy\" src=\"/img/duoshe/w06/01.jpg\"\u003e\u003c/p\u003e\n\u003cp\u003e\u003cem\u003e湖北軍政府の門前。交差して掲げられているのは「十八星旗」で、十八の星は関内の十八省を表します。立哨の兵は、数か月前までは清の新軍の兵でした。　出典：\u003ca href=\"https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Hubei_Military_Government.jpg\"\u003eWikimedia Commons\u003c/a\u003e、パブリックドメイン\u003c/em\u003e\u003c/p\u003e","title":"黄帝紀元四千六百九年"},{"content":"西安の碑林にある一枚の碑 西安碑林博物館に、高さ三メートル近い碑があります。碑の頭には十字架が刻まれ、その下に蓮の花、まわりには瑞雲が描かれています。\n大秦景教流行中国碑、西安碑林博物館。本文は漢字で、碑の足もとと側面にはシリア文字が刻まれている。　出典：Wikimedia Commons、G41rn8 撮影、CC BY-SA 4.0\n碑文は漢字で、足もとと両側にはシリア文字が一行一行並んでいます。碑の額の九文字は「大秦景教流行中国碑」。\n建てられたのは唐の建中二年、西暦781年です。\n商路に乗ってきた宗教 碑によれば、唐の太宗の貞観九年（635年）、阿羅本という宣教師が「大秦」から長安にやってきました。三年後、朝廷は詔を下し、長安の義寧坊に寺を建てて布教することを許します。\n唐の人々はこの宗教を「景教」と呼びました。実はキリスト教の一派で、今は一般に「東方教会」と呼ばれます。中心はメソポタミアとペルシアにあり、礼拝はシリア語で行い、ローマやコンスタンティノープルの教会とは別の道を歩んでいました。\nその道はどうやって長安まで通じたのでしょう。商路によってです。シルクロードのペルシア人やソグド人は、品物とともに自分たちの信仰も運びました。景教、祆教（ゾロアスター教）、摩尼教（マニ教）です。長安の街には、一時期これらの外来宗教の寺院が同時にありました。\n長安の言葉を覚える 見知らぬ文明のなかで生き残るために、外来の宗教がまずすべきことは、相手の言葉を話せるようになることです。\n景教碑を読むと、不思議な感じがします。語られているのはキリスト教の教えなのに、使われている言葉は仏教や道教のものばかりなのです。神は「阿羅訶」と訳され、教会は「寺」、聖職者は「僧」と呼ばれ、「三一妙身」や「無為」といった言い方も出てきます。碑の頂の十字架さえ、蓮の花の上に据えられています。\n碑の頭の十字架。下には蓮の花が敷かれ、両側には瑞雲がある。シリアから来た記号が、仏教の花の上に座っている。　出典：Wikimedia Commons、パブリックドメイン\nこれは降参ではなく、ごく典型的な「接ぎ木」です。自分の枝を、他人の根につなぐのです。仏教が中国に入ったときも同じことをしました。初期の翻訳者は道教の「無」を借りて仏教の「空」を説明しました。研究者はこれを「格義」と呼びます。\n一通の詔書 この接ぎ木は二百年あまり続きました。\n唐の武宗の会昌年間（841–846）、朝廷は大規模な仏教弾圧を行いました。寺院を壊し、僧尼を還俗させ、寺の財産を没収したのです。会昌五年（845年）の詔では、仏教のほか、景教と祆教の僧も一緒に還俗を命じられました。\n理由はさまざまです。寺院経済が膨れ上がって財政が苦しくなったこと、皇帝自身が道教を信じていたこと、朝廷のなかに外来宗教を快く思わない人がいたこと。景教にとって致命的だったのは、その立場でした。景教は主に朝廷の許可と外来の商人に支えられており、ふつうの漢人の民衆のなかに深く根を下ろしていませんでした。朝廷が背を向けると、根がなくなってしまったのです。\nそれ以降、景教は中原からほぼ姿を消しました。「僧」と呼ばれた東方教会の聖職者たちがその後どこへ行ったのか、史書は何も書いていません。異郷の人々が法衣を脱ぎ、長安の人ごみにまぎれ、そのまま見えなくなったのです。\n土のなかの碑 その碑は土のなかに埋められました。\n八百年あまり後、明の天啓年間（1623年または1625年。学界では説が分かれます）に、西安の近くで再び掘り出されました。\n中国に来て間もないイエズス会士は、これを宝物のように喜びました。彼らから見れば、この碑は一つのことを証明していました。キリスト教は千年前に中国に来ていて、唐の皇帝に受け入れられたことがあり、新参の外来者ではない、ということです。一枚の唐碑が、次にやってきた宣教師たちによって、もう一度「接ぎ木」されたのです。\n1907年、碑は西安の碑林に移されて保存されています。\n碑にあるシリア文字の一行。「アダム」と書かれ、碑を建てた僧・景浄のシリア名である。一枚の碑に二つの文字が並んで刻まれているが、どちらの文字の読み手も今ではわずかしかいない。　出典：Wikimedia Commons、パブリックドメイン\n実は完全には消えなかった 景教が中原から消えたことは、中国の歴史から消えたことと同じではありません。\n北方の草原では、オングトやケレイトといった部族のなかに、東方教会を信じる人が少なからずいました。モンゴル帝国が興ると、彼らは元朝とともに中原に入り、元代の文献はキリスト教徒を「也里可温」と呼びました。元朝が滅びたとき、この線はもう一度途切れます。\n千年あまり後、同じ筋書き この筋書きは、その後も何度か繰り返されました。\n1949年以後、中国にいた外国人宣教師は数年のうちにほとんど全員が去り、中国のプロテスタントとカトリックは「自治・自養・自伝」を求められ、海外の教会との関係を断って国家に登録し、管理を受けるようになりました。登録しない家庭の集まりは、ずっとグレーゾーンに置かれています。\n2014年から2016年にかけて、浙江省は「違法建築」の整理を名目に、千以上の教会の屋根から十字架を取り外し、教会そのものが取り壊された例もありました。（公式の総数は発表されておらず、メディアや教会団体の推計は千二百あまりから千七百ほどまでと幅があります。）\n唐の詔書の言葉は「還俗」で、今は「違法建築」です。言葉は変わっても、筋書きの骨組みはほとんど変わっていません。外来の宗教がこの土地に立っていられるかどうかは、結局のところ、どれだけ土地の言葉に似て話せるかではなく、朝廷がうなずくかどうかで決まるのです。\n逆から見る 景教の話を「失敗」の物語として語るのは簡単です。来たけれど根づかず、追い出された、と。\n見方を変えると、景教が残したのは、何度も借りられてきた一枚の石です。唐の人々はそれで外来宗教の到来を記録し、明の宣教師はそれで自分たちの正当性を証明し、今の私たちはそれで宗教が文明のあいだをどう渡っていくかを論じています。\n宗教の伝播は、しばしば二つのものに頼ります。商路と王権です。商路に乗って入り、王権に支えられて立つ。けれど王権が背を向けたとき、王権だけに支えられた宗教は、たいてい真っ先に倒れます。\n王権が背を向けたあとも立っていられるのは、ふつうの家の食卓や冠婚葬祭に根を下ろしたものです。景教にはそれができませんでした。\n外来の宗教は、どこまで変われば、もうそれ自身ではなくなるのでしょうか。\n参考資料\n『大秦景教流行中国碑』、唐建中二年（781）、西安碑林博物館 『旧唐書・武宗紀』会昌五年（845）の詔 Erik Zürcher, The Buddhist Conquest of China, 1959（「格義」） 景教碑の出土年（1623/1625）、1907年の碑林への移管、元代の「也里可温」：通説の史実 1950年代の「三自」運動：通説の史実 2014–2016年の浙江の十字架撤去：対華援助協会（China Aid）の2016年2月の集計で約1700（国際クリスチャン・コンサーンの転載）；2015年後半に香港メディアが活動家の説として伝えた「千二百あまり」（原文は未読）；アルジャジーラ 2016-02-28、AP通信 2016-02-29 は「数百」とのみ記し、公式の理由は建築規定違反；学術的な概観は Mark McLeister, \u0026quot;Chinese Protestant reactions to the Zhejiang 'Three rectifications, one demolition' campaign,\u0026quot; Review of Religion and Chinese Society 5(1), 2018（全文は未読）🟡 画像の出典は各図の説明に記載 ","permalink":"https://tentao.pages.dev/ja/duoshe/w07/","summary":"\u003ch2 id=\"西安の碑林にある一枚の碑\"\u003e西安の碑林にある一枚の碑\u003c/h2\u003e\n\u003cp\u003e西安碑林博物館に、高さ三メートル近い碑があります。碑の頭には十字架が刻まれ、その下に蓮の花、まわりには瑞雲が描かれています。\u003c/p\u003e\n\u003cp\u003e\u003cimg alt=\"大秦景教流行中国碑\" loading=\"lazy\" src=\"/img/duoshe/w07/01.jpg\"\u003e\u003c/p\u003e\n\u003cp\u003e\u003cem\u003e大秦景教流行中国碑、西安碑林博物館。本文は漢字で、碑の足もとと側面にはシリア文字が刻まれている。　出典：\u003ca href=\"https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Xian_May_2007_033.jpg\"\u003eWikimedia Commons\u003c/a\u003e、G41rn8 撮影、CC BY-SA 4.0\u003c/em\u003e\u003c/p\u003e","title":"781年、長安の十字架"},{"content":"ある社会学者が誤りを認めた 20世紀の半ば、社会学にはほぼ定説になっていた理論がありました。近代化は宗教を衰退させる、というものです。国が豊かになり、教育が普及し、科学が発達するほど宗教は弱まり、最後は私的な生活の片隅に退いていく、と。\nアメリカの社会学者ピーター・バーガーは、この「世俗化理論」の最も有名な代表の一人でした。\n1999年、彼は『世界の脱世俗化』という本を編みました。そこには、その後何度も引用される一節があります。私たちが世俗化した世界に生きているという想定は誤りで、今日の世界は、例外はあるものの、これまでと変わらず激しく宗教的だ、というのです。\nある理論の看板的な人物が自分の理論を公然とひっくり返すのは、学界では宗教の復興よりも珍しいことです。彼が見た証拠は、1970年代以降のイスラームの復興、ソ連崩壊後のロシアにおける宗教の回帰、南半球でのキリスト教の急成長、そしてますます大きくなるアメリカの福音派でした。\nひとつの逆説 ところが一方で、ヨーロッパの教会は確かにどんどん空になり、書店やバー、アパートに改装されたものも多くあります。二つのことはどうして同時に成り立つのでしょう。\nオランダ、マーストリヒト。13世紀のドミニコ会の教会が、2006年に書店になった。身廊に本棚が並び、祭壇のあった場所はカフェ席になっている。　出典：Wikimedia Commons、Bert Kaufmann 撮影、CC BY 2.0\n政治学者のピッパ・ノリスとロナルド・イングルハートは、2004年の『聖なるものと世俗』で、「生存の安全」理論と呼ばれる有力な説明を示しました。\n社会が安全で豊かになるほど、宗教への必要は確かに弱まる。これが世俗化の側面です。 しかし世俗的な社会ほど生まれる子どもは少なく、敬虔な社会ほど子どもは多い。 こうして逆説が生まれます。ほとんどの国が世俗化しているのに、世界全体で信仰を持つ人の割合は、むしろ上がっているかもしれないのです。\n十年前の予測 2015年、ピュー研究所は大きな報告書を発表し、2010年から2050年にかけて世界の宗教人口がどう変わるかを予測しました。主な結論は次のとおりです。\n2050年までに、世界のムスリム（約28億人、30%）はキリスト教徒（約29億人、31%）にほぼ並ぶ。 ムスリム人口が最も速く増え、73%の増加が見込まれる。主な理由は改宗ではなく、人口が若く、子どもが多いことである。 無宗教の人の実数は増えるが、世界人口に占める割合は16%から13%に下がる。 この予測は、あの逆説をデータにしたものと言ってよいでしょう。\n十年後の数字 2025年、ピューは新しいデータで2010年から2020年に実際に何が起きたかを振り返りました。合っていた部分もあれば、そうでない部分もあります。\nムスリムは確かに最も増え、十年で3億4700万人増えました。他のすべての宗教の増加分を合わせたよりも多い数です。 しかし無宗教の人も2億7000万人増えて約19億人となり、世界人口に占める割合は下がるどころか上がって、24.2%になりました。 キリスト教徒は1億2200万人増えましたが、割合は1.8ポイント下がって28.8%になりました。 仏教徒は、実数が減った唯一の主要宗教で、約1900万人少なくなりました。 2010年から2020年の十年間に、四つの集団がそれぞれどれだけ増減したか（百万人）。　データ：ピュー研究所、2025\n二つの報告書は集計の基準が違うので、数字をそのまま引き算することはできません。ただ、方向の違いははっきりしています。予測では無宗教の割合は縮むはずでしたが、この十年は増えました。主な理由は「転換」です。キリスト教の家庭で育った多くの人が、大人になってどの宗教も名乗らなくなったのです。\n前提は崩れる 予測はなぜずれたのでしょう。どんな人口予測にも前提があるからです。各地の出生率や転換率が、過去の傾向にほぼ沿って進む、という前提です。\nこの前提は、何度も破られてきました。\nいちばん劇的な例はイランです。イスラーム共和国なら、常識的には「宗教が高い出生率を支えている」典型のはずです。ところがイランの合計特殊出生率は、1980年代初めの女性一人あたり7人近くから、2000年前後には2人少々まで下がりました。記録に残るなかで最も速い出生率低下の一つです。このシリーズの後の回で、イランだけを取り上げます。\nもう一つの問題は、何を「信仰を持つ」と数えるかです。イギリスの社会学者グレース・デイヴィは「所属なき信仰」を論じました。教会には行かないが何らかの信仰は持っている人が多くいます。逆に、そういう家に生まれたというだけで、統計上ある宗教の信者に数えられている人も多くいます。\n東アジアの側 視線を東アジアに戻すと、話はもっとおもしろくなります。\n世界の無宗教の人の大きな部分は東アジアに住んでいます。中国大陸、日本、韓国、台湾、香港です。中国だけで13億人近くおり、世界の無宗教人口のおよそ三分の二を占めます。ただ、ここでの「無宗教」は、ヨーロッパのような「教会から出ていく」ものとは違います。清明節に墓参りをし、正月に祖先を拝み、寺で線香をあげる人が多いのに、アンケートで「何の宗教を信じますか」と聞かれると、「信じていない」と答えるのです。\n東アジアは同時に、世界で最も子どもが生まれない地域でもあります。「生存の安全」理論に従えば、揺りかごが空になれば宗教はさらに弱まります。けれど東アジアにはもともと、人が出ていくべき「教会」がありませんでした。\nでは、世界は宗教的になっているのか 正直な答えは次のようになります。\n人口の面では、信仰を持つ人は全体に若く、子どもも多い。これは本物の力です。 転換の面では、子どものころは信仰を持ち、大人になって離れる人が増えている。これも別の本物の力です。 どちらの力が大きいかは、場所によっても、どの十年かによっても答えが違います。 将来の宗教の地図は、二つのもので決まります。一方は、誰の揺りかごがより満ちているか。もう一方は、誰の扉が人をつなぎとめられるか。教義がどれだけ優れているかとは、あまり関係がありません。\n逆から見る この一編を含め、「未来の宗教」についての判断はすべて、まだ曲がっていない曲線にすぎません。バーガーは1960年代には宗教は退くと考え、1999年にはそれは一度も退いていないと言いました。ピューは2015年に無宗教の割合は下がると言い、2025年の数字はそれが上がっていることを示しています。\n次の十年にも、数字はおそらくまた曲がるでしょう。\nこの数字を読むとき 私がこの数字を読むとき、見ているのはどの宗教が勝ったかではなく、東アジアの一角です。\n揺りかごは空になりつつあり、扉もありません。ヨーロッパの若者が教会を離れるとき、少なくとも自分が何を離れるのかはわかっています。私たちの若者は、離れられるものさえないまま、すでに散っています。イスラームの経験はずっと見ています。世界じゅうに散らばった人が、会った瞬間に同じ仲間だとわかる。これは、私たちが学ばなければならないことです。\nあなたの身のまわりの人は、宗教を離れているのでしょうか。それとも、別の仕方で信じるようになっているのでしょうか。\n参考資料\nPeter L. Berger (ed.), The Desecularization of the World, 1999 Pippa Norris \u0026amp; Ronald Inglehart, Sacred and Secular, Cambridge UP, 2004 Pew Research Center, The Future of World Religions: Population Growth Projections, 2010–2050, 2015 Pew Research Center, \u0026quot;How the Global Religious Landscape Changed From 2010 to 2020\u0026quot;, 2025；中国の無宗教人口が13億人近く、世界の約三分の二という点は、無宗教人口の章を参照 🟢 Abbasi-Shavazi et al., The Fertility Transition in Iran, Springer, 2009 Grace Davie, Religion in Britain since 1945: Believing without Belonging, 1994 画像の出典は各図の説明に記載 ","permalink":"https://tentao.pages.dev/ja/duoshe/w08/","summary":"\u003ch2 id=\"ある社会学者が誤りを認めた\"\u003eある社会学者が誤りを認めた\u003c/h2\u003e\n\u003cp\u003e20世紀の半ば、社会学にはほぼ定説になっていた理論がありました。近代化は宗教を衰退させる、というものです。国が豊かになり、教育が普及し、科学が発達するほど宗教は弱まり、最後は私的な生活の片隅に退いていく、と。\u003c/p\u003e\n\u003cp\u003eアメリカの社会学者ピーター・バーガーは、この「世俗化理論」の最も有名な代表の一人でした。\u003c/p\u003e","title":"世界は宗教的になっているのか"},{"content":"このレッテルはどうやって生まれたか 2012年12月16日の夜、デリーで、23歳の理学療法の実習生が、走行中のバスのなかで六人の男に襲われ、車外に投げ出されて、12月29日にシンガポールの病院で亡くなりました。事件は「ニルバヤ事件」（Nirbhaya、「恐れを知らぬ者」の意）と呼ばれ、当時デリーや全国の多くの都市で大規模な抗議が行われ、参加者のなかには多くの若者と男性がいました。\n2012年12月22日、デリーのライシナの丘で、学生が女性への暴力に抗議している。　出典：Wikimedia Commons、Nilroy (Nilanjana Roy)、CC BY-SA 3.0\nその後、国際メディアに一つの言葉が現れました。「世界のレイプの首都」。2018年、トムソン・ロイター財団は専門家を対象にした調査を行い、インドを「女性にとって最も危険な国」に挙げました（2011年のときは4位）。その見出しは世界中に広まりました。\nこのレッテルと、インドの人々の日常とは、結局どんな関係にあるのでしょう。私は三段階で見たいと思います。数字は何を語っているか。数字は何を語っていないか。数字の背後にある本当の問題は何か。\n数字は何を語っているか 国家犯罪記録局（NCRB）の『2023年のインドの犯罪』では、登録された強姦事件は2万9670件で、女性10万人あたり4.4件の割合です。男女を問わず10万人あたりに換算すると、約2件です。\n同じ報告書で、「女性に対する犯罪」は合計44万8211件で、2022年よりわずかに多くなっています。\nこの数字は大きく見えますが、それだけを見ても、実は何も判断できません。\n数字が語っていないこと：直感に反する比較 各国の警察が登録した強姦事件を並べてみると、不条理な現象が見えてきます。欧州連合統計局（ユーロスタット）の数字では、2016年にスウェーデンは10万人あたり64件、ドイツは10件を登録していますが、インド（NCRB 2023）は約2件です。スウェーデン、そしてイングランドとウェールズは、2013〜2017年のヨーロッパの統計で、一貫して登録数が最上位にありました。\nでは、スウェーデンはインドより何十倍も危険だということでしょうか。もちろん違います。スウェーデン国家犯罪防止評議会（Brå）は2020年に専門の報告書を書き、結論は次のとおりでした。国によって「強姦」の法的な定義が異なり、統計と記録の方法も異なるので、これらの数字は直接比較できない。\nどこが違うかの例をいくつか挙げます。\n法的な定義。 インドの法律では、強姦の被害者は女性に限られます（男性も被害者に数える国もあります）。多くのヨーロッパの国は、「被害者が同意を表明できない」場合も含み、暴力を要件とする国もあります。 記録の方法。 スウェーデンは2005年に強姦の定義を広げました。また、一件ごとに個別に記録します。たとえば誰かが「パートナーに毎日一回、二週間強要された」と届け出ると、警察は14件として記録します。Bråの研究は、ドイツの方式で計算し直すと、スウェーデンの数字は10万人あたり64件から15件ほどに下がり、四分の三減って、ヨーロッパの中位になると述べています。同じ国でも物差しを替えれば、順位は大きく落ちます。 届け出の意欲。 社会が被害者の届け出を促し、警察が受理しようとするほど、登録される数は増えます。 ですから、スウェーデンの数字が高いことは、「より危険」であることを意味しません。同じように、インドの数字が低いことも、「より安全」であることを意味しません。\nつまり、「最も危険な国」というレッテルが、統計の順位を根拠にしているなら、それは成り立ちません。同じく成り立たないのは、「インドの数字は低いから、問題はない」です。\n本当の問題はどこにあるか 本当の問題は別のところにあります。数字よりも状況をよく語る側面がいくつかあります。\n一、どれだけの人が届け出られないか。 社会的な汚名、報復への恐れ、警察への不信のために、多くの被害者は届け出ません。インドでは強姦の届け出漏れが深刻だと学者は一般に考えていますが、どれだけかについて信頼できる推計はありません。見つかるいちばん近い数字は、第5回全国家族健康調査（NFHS-5、2019〜2021年）にあります。配偶者からの暴力（身体的または性的）を経験した女性のうち、誰かに助けを求めたことがあるのは約14%だけで、約77%は誰にも話したことがありませんでした。これは強姦ではなく配偶者暴力の話ですが、「言わない」割合がどれほど高いかがわかります。\n二、届け出たあと。 NCRB 2023年のデータによれば、女性に対する犯罪で、警察が最終的に訴追した（起訴状を提出した）割合は77.6%ですが、裁判所で滞留している事件は90.8%を占めます。強姦事件の有罪率は、メディアがNCRBの数字として引くところでは22.7%です（その年に審理を終えた事件で数えて、約2万件のうち4464件が有罪）。つまり、裁判に入った事件の多くは、有罪では終わっていません。この割合の分母は「審理が終わった事件」であって、「すべての届け出」ではないので、届け出た五人に一人しか正義を得られない、と読むことはできません。\n三、顔見知りの犯行。 NCRBの毎年のデータは、登録された強姦事件の圧倒的多数で、容疑者が被害者の知っている人（家族、親戚、隣人、同僚）であり、「見知らぬ人」ではないことを示しています。2013年は3万3707件のうち3万1807件が顔見知りで、約94%。2022年は3万1677件のうち3万454件で、約96%です。この事実は、国際的なイメージにある「深夜の街の見知らぬ男」とは、かなり違います。\n四、法の空白。 インドの法律には、長いあいだ、夫が妻を強姦する場合の例外がありました。妻が18歳以上であれば、夫との性行為は強姦にならない、というものです。2024年から施行された新しい刑法典「インド司法法典」（BNS）の第63条も、この例外を残しました。最高裁はそれが合憲かどうかを審査しています。2026年9月9日、三人の裁判官からなる法廷（スーリヤ・カント首席裁判官ら）が関連する申し立てを最終審理に載せ、三週間以内に審理を始めるよう求めました。これは、インドが多くの国と違うところです。\n事件のあと、法と社会は何をしたか ニルバヤ事件のあと、一週間以内（2012年12月23日）に、政府は退職した元首席裁判官J・S・ヴァルマを委員長とする委員会を設け、委員会は2013年1月23日に報告書を提出しました。2013年、議会は「刑法（改正）法」を可決し、性犯罪を定義し直して範囲を広げ、刑を重くし、被害者を死亡させたり植物状態にしたりした場合には死刑も科せるようにしました。\n2012年12月22日、デリーのライシナの丘で、抗議する学生が催涙ガスで排除される。　出典：Wikimedia Commons、Nilroy (Nilanjana Roy)、CC BY-SA 3.0\n副作用が一つあり、同時によい兆しでもあります。事件のあと、登録される事件が増えたのです。NCRBの数字では、2012年が2万4923件、2013年が3万3707件で、三割五分の増加、デリー一か所だけでも585件から1441件に増えました。これは犯罪が増えたとは限らず、届け出る人が増えたと考えるほうが自然です。\n2024年8月8日から9日の夜、コルカタのRG Kar医科大学で、31歳の女性研修医が強姦されて殺され、医師たちは業務を止めて街に出て、全国で再び大規模な抗議が起きました。西ベンガル州議会は9月に「アパラジタ法案」を可決し、ある場合には死刑を科せるとし、期限を区切った捜査を求めました。州知事はそれを大統領に回し、報道によれば、大統領は2025年7月にそれを差し戻しました。連邦内務省は、刑罰が「重すぎ、釣り合いを欠く」と考え、新しい刑法典のいくつかの規定とも整合しないとしました。2025年1月、この事件で唯一有罪とされた容疑者は、裁判所から終身刑を言い渡され、死刑にはなりませんでした。中央捜査局は死刑を求めて高等裁判所に上訴しました。\nつまり、大きな事件が起きるたびに、社会の反応は強く、そのたびに同じ問題に向き合うことになります。法律を重く書くほど、執行が遅く、効果は限られるかもしれない、という問題です。\n逆から見る この一編が問うのは「錯覚か現実か」で、私の答えは実のところ「どちらも」です。\n錯覚の部分：登録された数字で国に順位をつけることには意味がありません。トムソン・ロイター財団のあの調査は、女性の問題の分野の専門家548人（支援者、学者、医療者、政策立案者、記者など）に、193の国連加盟国のなかから、女性にとって最も危険だと思う五か国を選んでもらい、さらに医療、差別、文化的伝統、性暴力、非性暴力、人身取引の各項目で、最悪のものを一つずつ選んでもらったものです。測ったのは専門家の「認識」であって、発生率ではなく、回答者のすべてがそれらの国で暮らしたことがあるわけでもありません。そうした調査の見出しを「最も危険な国」に変えること自体が、一種の単純化です。\n現実の部分：届け出漏れ、裁判の遅延、低い有罪率、被害者に対する社会的な汚名。これらは確かに存在します。そして、これはインドだけのことではなく、多くの国に似た問題があり、程度が違うだけです。\nもう一つ。これを「インドの男はどうだ」という話にするのは、別の種類の手抜きです。ニルバヤ事件のあとに街に出た人のなかには、多数の男性がいました。RG Kar事件のあとに業務を止めた医師のなかにも、多数の男性がいました。どんな集団でも、大多数の人は加害者ではありません。一国のすべての男を一括りにすることは、一国のすべての女を被害者とすることと同じく、人をならして平らにしてしまうことです。\nある国の数字が、外の人にレッテルとして使われたとき、その国の人々はどう応えるべきでしょうか。反論するべきか、問題を認めて動くべきか。その二つは、同時にできるでしょうか。\n参考資料\n国家犯罪記録局（NCRB）、『Crime in India 2023』（2025年9月公表；強姦2万9670件、女性10万人あたり4.4件；女性に対する犯罪44万8211件；起訴率77.6%；裁判所の滞留90.8%）；強姦の有罪率22.7%と審理終了件数は、2025年9月末のインドのメディアによる同報告の報道（The Week、Deccan Herald など）による NCRB 2013年、2022年の報告書の強姦の登録数と顔見知りの犯行：2012年2万4923件、2013年3万3707件（LiveLaw などが引用）；2022年3万1677件、顔見知り3万454件（メディアが引用） スウェーデン国家犯罪防止評議会（Brå）、『Reported and cleared rapes in Europe』、2020年9月30日；ユーロスタット2016年の登録データ（スウェーデン64、ドイツ10／10万人あたり） NFHS-5（2019–2021）；\u0026quot;Factors associated with help-seeking by women facing intimate partner violence in India\u0026quot;, BMC Global and Public Health, 2024 Criminal Law (Amendment) Act, 2013；Justice Verma Committee（2012年12月23日設置、2013年1月23日報告）、PRS Legislative Research による要約 Bharatiya Nyaya Sanhita, 2023 第63条 例外2；最高裁の2026年9月9日の婚姻内強姦に関する申し立ての命令（メディアが引用） 2024年8月のRG Kar事件、2025年1月のSanjay Roy判決、2024年9月に可決され2025年7月に差し戻されたAparajita法案に関する報道（Business Standard、ETV Bharat、LiveLaw など） Thomson Reuters Foundation, The World's Most Dangerous Countries for Women, 2018 ","permalink":"https://tentao.pages.dev/ja/manche/w9/","summary":"\u003ch2 id=\"このレッテルはどうやって生まれたか\"\u003eこのレッテルはどうやって生まれたか\u003c/h2\u003e\n\u003cp\u003e2012年12月16日の夜、デリーで、23歳の理学療法の実習生が、走行中のバスのなかで六人の男に襲われ、車外に投げ出されて、12月29日にシンガポールの病院で亡くなりました。事件は「ニルバヤ事件」（Nirbhaya、「恐れを知らぬ者」の意）と呼ばれ、当時デリーや全国の多くの都市で大規模な抗議が行われ、参加者のなかには多くの若者と男性がいました。\u003c/p\u003e","title":"「最も危険な国」？インドの女性の安全をめぐる数字と現実"},{"content":"二つの数字 1910年、世界のキリスト教徒の約三分の二はヨーロッパに住んでいました。\n百年後の2010年には、ヨーロッパに残ったのはおよそ四分の一（26%）です。ほぼ同じ数のキリスト教徒（24%）が、サハラ以南のアフリカに住んでいます。1910年には、そこのキリスト教徒はまだ比較的少なかったのです。\nこの二つの数字は、ピュー研究所の2011年の報告書『世界のキリスト教』によるものです。つまり、多くの人の心にある「キリスト教＝西洋の宗教」という等式は、少なくとも人数の上では、もう成り立たなくなっています。\n植民地の遺産だと思われてきた よくある説明は、植民地時代に宣教師がやったことだ、というものです。\n宣教師はもちろん重要です。けれど宗教史学者のフィリップ・ジェンキンスは『次のキリスト教世界』（2002）で、アフリカのキリスト教の本当に爆発的な成長は、その多くが植民地支配の終わったあとに起きたと指摘しています。しかも主役は、外国の宣教団ではなく、アフリカ人が自分たちで運営し、率いる教会であることが多いのです。土着の独立教会、ペンテコステ派の教会、そしてアフリカ人聖職者が司る古い教派の教会です。\nはっきり言えば、キリスト教がアフリカに広がったのは、大きくは、それが「植民者の宗教」でなくなってからのことでした。\n翻訳された一冊の本 ガンビア生まれの宗教史学者ラミン・サンネーは『メッセージを翻訳する』（1989）で、非常に影響力のある見方を示しました。鍵は翻訳だ、というものです。\n宣教師は『聖書』を数百のアフリカの言語に翻訳しました。本が母語で書かれたとたん、どう解釈するかは、宣教師がすべて決められなくなります。宣教師は鍵を手渡したのですが、そのときは思っていなかったかもしれません。人々はそこに、預言者、幻、癒し、悪霊祓い、祖先、土地を読み取りました。ヨーロッパの教会ではとうに薄れていたものが、アフリカの人々の暮らしにはぴったり寄り添っていたのです。\nサミュエル・アジャイ・クラウザー（1809年頃–1891）。幼いころ奴隷として連れ去られ、海上でイギリスの軍艦に救われた。のちにアフリカ人初の聖公会主教となり、自分の母語であるヨルバ語への『聖書』の翻訳を主導した。　出典：Wikimedia Commons、パブリックドメイン\nサンネーは、翻訳そのものが「土着化」だと考えました。翻訳されることで、キリスト教はアフリカ人自身の宗教になった、というのです。\n最初のヨルバ語『聖書』。この瞬間から、聖書を読む人は英語を学ぶ必要がなくなった。　出典：Wikimedia Commons、Ridzaina 撮影、CC BY-SA 4.0\nこれは仏教が中国に入ったときに少し似ています。仏典が漢語に訳されたことで、仏教はある程度、中国の宗教になりました。\n漢字に置き換えたらどうなるか 中国語圏も、この道を一度歩いています。\n1919年4月、数十年にわたる共同翻訳の成果である「和合本」『聖書』が上海で出版されました。当時の白話で訳されたもので、「五四」の白話文運動とほぼ同じ時期です。のちに華人教会でもっとも広く使われる訳本になり、今日でも多くの華人キリスト教徒が読んでいます。\n訳された一冊の本が、中国でもアフリカと同じことをしました。自分たちの言葉で読み、議論し、言い争えるようにしたのです。\n向きが逆になった そして、影響が逆向きに流れはじめました。\n南の教会は、道徳や神学の多くの問題で、欧米の教会より保守的です。2008年6月、聖公会の指導者たちがエルサレムで「世界聖公会の未来会議」（GAFCON）を開き、参加者のなかでアフリカの教会の代表が大きな部分を占めました。原因の一つは、同性カップルの祝福や同性愛者の聖職者任命といった問題で、英米の聖公会と折り合えなかったことです。会議のあと、彼らは自分たちの世界的な連合を立ち上げました。\nかつての宣教地が、ロンドンやニューヨークに向かって語りはじめたのです。ヨーロッパのいくつかの都市では、アフリカ出身の牧師が司り、アフリカからの移民を中心とする新しい教会も現れました。これを「逆宣教」と呼ぶ人もいます。\nウガンダ、ナムゴンゴの殉教者聖堂。1885年から1887年のあいだに王に処刑された若いキリスト教徒たちを記念している。毎年6月3日、数百万人が東アフリカの各地から歩いて巡礼に来る。　出典：Wikimedia Commons、Lebu Ayiga 撮影、CC0\n逆から見る けれど、「重心が南へ移る」ことは、「西洋が主導しなくなる」ことではありません。\n神学校、出版社、国際的な慈善団体、お金は、まだ大半が北にあります。人は南に、機関は北に。このずれ自体が一つの力です。\nアフリカのキリスト教も一枚岩ではありません。カトリック、聖公会、ペンテコステ派、土着の独立教会は、神学、儀礼、政治的立場で大きく異なります。同じ土地で、イスラームも伸びています。サハラ以南のアフリカは、二つの大きな宗教の人口がもっとも速く伸びている場所の一つでもあるのです。\nもっと根本的な問題もあります。私たちが「キリスト教の未来はアフリカにある」と言うとき、使っているのは、ヨーロッパ人が作った地図と分類です。アフリカの信者自身は、自分の信仰をそのようには言わないかもしれません。\nあなたが信じているものの最大の信者集団が、別の大陸にいて、あなたの知らない人々によって解釈されているとしたら、それでも同じものだと思えるでしょうか。\n参考資料\nPew Research Center, Global Christianity, 2011 Philip Jenkins, The Next Christendom, Oxford UP, 2002 Lamin Sanneh, Translating the Message, Orbis, 1989 和合本は1919年4月22日に上海で出版：聯合聖書公会（中国事業）「Giving the Very Best Version of the Bible to China」（2019-01-15）🟢 2008年のGAFCONエルサレム会議、クラウザー主教、ナムゴンゴの殉教者：通説の史実 画像の出典は各図の説明に記載 ","permalink":"https://tentao.pages.dev/ja/duoshe/w09/","summary":"\u003ch2 id=\"二つの数字\"\u003e二つの数字\u003c/h2\u003e\n\u003cp\u003e1910年、世界のキリスト教徒の約三分の二はヨーロッパに住んでいました。\u003c/p\u003e\n\u003cp\u003e百年後の2010年には、ヨーロッパに残ったのはおよそ四分の一（26%）です。ほぼ同じ数のキリスト教徒（24%）が、サハラ以南のアフリカに住んでいます。1910年には、そこのキリスト教徒はまだ比較的少なかったのです。\u003c/p\u003e","title":"キリスト教の未来はアフリカにある"},{"content":"奇妙な事実 釈迦牟尼は今のネパール南部に生まれ、インドのブッダガヤで悟りを開き、生涯の主な説法はガンジス川流域で行いました。紀元前3世紀、マウリヤ朝のアショーカ王は仏教を力強く支援し、各地に人を遣わして布教させました。その後千年あまり、インドにはナーランダー、ヴィクラマシーラのような大きな仏教の学問所が生まれ、玄奘も義浄もナーランダーで学びました。\n日本の画家が描いた玄奘像。ナーランダーに五年ほど滞在し、長安に帰るとき六百部あまりの経典を持ち帰った。　出典：Wikimedia Commons、ニューヨーク・メトロポリタン美術館蔵、CC0\nけれど13世紀になると、インド本土では仏教はほとんど見つからなくなりました。今日のインドの仏教徒の多くは、1956年にアンベードカルに従って改宗した新仏教徒とその子孫です。\nひとつの宗教が、自分の故郷でなくなってしまうのは、どうしてでしょう。\nいちばんよくある答え いちばんよく聞く説明は、イスラームの軍隊が来た、というものです。\nこの説明には事実の裏づけがあります。12世紀末から13世紀の初め、テュルク系ムスリムの将軍バフティヤール・ハルジーが兵を率いてビハールとベンガルに攻め入り、ナーランダー、ヴィクラマシーラなどの仏教の中心地が略奪されました。伝統的な説ではナーランダーの破壊を1193年ごろとしますが、1200年ごろだと考える学者もいて、そのあともナーランダーはしばらく細々と残っていたといいます。\nビハール州のナーランダー遺跡。今見られるのは、煉瓦造りの僧院と仏塔の基壇で、かつてここには千人以上の僧と学生が住んでいた。　出典：Wikimedia Commons、Sumitsurai 撮影、CC BY-SA 4.0\nネットでは、これがよく「一神教が多神教を倒した」例として持ち出されます。けれど問題は、そのころ仏教がインドでまだ生き生きとして、都市にも農村にも広がっていたなら、数度の略奪で全部消えてしまうことがあるだろうか、ということです。\n研究者が見ているもっと長い話 インドの学者K・T・S・サラオは『インドにおける仏教の衰退――新しい視点』（2012）で、アメリカの考古学者ラース・フォーゲリンは『インド仏教の考古学史』（2015）で、どちらも、より長く、より入り組んだ話を示しています。大きくは次のような筋です。\n第一に、王家が支えなくなった。 仏教の大寺院や学問所は、王家や富裕な商人の布施に大きく頼っていました。グプタ朝のあと、ますます多くの王朝がヒンドゥー教の神殿とバラモンを支えるほうに移りました。布施が絶えれば、布施で生きていた僧団はもたなくなります。\n第二に、土台が変わった。 初期の仏教は、都市、商業、商路と密接に結びついていました。のちにインドの経済は、しだいに土地と農村に頼るようになり、王はバラモンや神殿に土地を与え、地方の秩序は、地主とバラモンによって維持されることが多くなりました。村と土地を土台とするこの秩序のなかで、仏教寺院はしだいに隅に追いやられました。\n第三に、ヒンドゥー教自身が変わった。 この時期、ヒンドゥー教は深い変化を経ました。とくに「バクティ」（信愛）運動です。ヴィシュヌやシヴァなどの神への個人的な敬虔を説き、敷居が低く、感情が濃く、民間での訴求力が非常に大きかったのです。一般の信者を取り合うとき、仏教の寺院中心のやり方は有利ではありませんでした。\n第四に、区別がつきにくくなった。 後期の仏教では密教の比重が増し、儀礼や神格が、ヒンドゥー教のシヴァ派やシャクティ派にますます似てきました。ヒンドゥー教のプラーナ文献は、ブッダをヴィシュヌの化身の一つに取り込んでしまいました。両者が似てくれば、独立した宗教としての仏教の境界も、ぼやけてきます。\nヴィシュヌとその十の化身。ブッダもその一つである。競争相手を自分の神殿に迎え入れるほうが、倒すよりも徹底していることがある。　出典：Wikimedia Commons、パブリックドメイン\n第五に、最後の一撃。 そうした土台の上で、イスラームの軍隊が大寺院を略奪したとき、打たれたのは、すでに少数の大きな中心地にまで縮んでいた仏教でした。打たれたのは仏教だけでもなく、多くのヒンドゥー教の神殿も同じように壊されました。しかしヒンドゥー教は家庭、カースト、村に根を張っていたのに対し、仏教の本体は、もう寺院にしか残っていませんでした。\n仏教はどこへ行ったか 仏教は消えたのではなく、インドを離れただけです。\nインドで衰えていくころには、すでにスリランカ、東南アジア、中国、朝鮮半島、日本、チベットに根づいていました。インド仏教の最後の学者や経典の多くは、チベットに流れました。ひとつの宗教が故郷で衰え、異郷で栄えることは、宗教史では珍しくありません。キリスト教の発祥の地パレスチナでも、今日キリスト教徒は少数派です。\n同じ打撃が中国で仏教を殺さなかったのはなぜか ここに、立ち止まる価値のある対照があります。\n仏教は中国でも何度か厳しい打撃を受けました。もっとも有名なのは、唐の武宗の会昌年間のもので、寺院を壊し、僧尼を還俗させ、寺の財産を没収しました（このシリーズの景教の回で触れました）。けれどそのとき、仏教は中国で死にませんでした。\n大きな理由の一つは、そのころの仏教がすでに中国人の家の中に入っていたことです。観音菩薩は母屋に祀られ、七月十五日の盂蘭盆節には祖先を供養し、葬式には僧を呼んで経を上げる。寺院は壊せても、家の中のこうしたものは壊せません。嵐が過ぎると、寺院は一つまた一つと建て直されました。\n1960年代から70年代にかけて、中国の寺院はまた打ち壊されました。会昌のときよりも徹底したもので、僧は還俗を強いられ、批判闘争にかけられ、仏像は砕かれ、経典は焼かれました。その後、改革開放が始まると、多くの寺が建て直され、線香の煙は以前より盛んになりました。戻れたのは、やはり、誰も代わりに保存してくれないのに、ずっと家の中に残っていた習慣のおかげです。\nこのことが示すもの インドにおける仏教の衰退は、よい例です。\n「より強い教義」に負けたのではない。 負けたのは、いくつかのごく具体的なことだった。誰がお金を出して支えるか、都市に根づくか村に根づくか、競争相手と区別がつくか、一般の人の生老病死に入り込んでいたか。 軍事的な打撃は本物だったが、すでに脆くなっていた骨組みに当たったのである。 これは、「多神教は一神教にかなわない」という類の説に、私がますます警戒するようになった理由でもあります。何百年にもわたる、多くの原因を持つ過程を、教義どうしの勝負に押し込めてしまうからです。\n逆から見る サラオとフォーゲリンの見方にも、異論があります。彼らはイスラームの征服の破壊力を過小評価していると考える学者もいます。また、「衰退」という言葉自体が後知恵を含んでおり、当時の人々が仏教が衰えていると感じていたとは限らない、という人もいます。\nもっと穏当な言い方は、軍事的な打撃と長期の構造変化はどちらも本当で、争われているのは、どちらがより重要だったか、というところでしょう。\nあなたの家には、どの機関も代わりに守ってくれない習慣が何かありますか。\n参考資料\nK. T. S. Sarao, The Decline of Buddhism in India: A Fresh Perspective, 2012 Lars Fogelin, An Archaeological History of Indian Buddhism, Oxford UP, 2015 1956年のナーグプルの集団改宗 ナーランダー破壊の年代（1193年または1200年ごろ）、アショーカ王の仏教支援、会昌の廃仏、1966–1976年の寺院破壊とその後の再建：通説の史実 画像の出典は各図の説明に記載 ","permalink":"https://tentao.pages.dev/ja/duoshe/w10/","summary":"\u003ch2 id=\"奇妙な事実\"\u003e奇妙な事実\u003c/h2\u003e\n\u003cp\u003e釈迦牟尼は今のネパール南部に生まれ、インドのブッダガヤで悟りを開き、生涯の主な説法はガンジス川流域で行いました。紀元前3世紀、マウリヤ朝のアショーカ王は仏教を力強く支援し、各地に人を遣わして布教させました。その後千年あまり、インドにはナーランダー、ヴィクラマシーラのような大きな仏教の学問所が生まれ、玄奘も義浄もナーランダーで学びました。\u003c/p\u003e","title":"仏教はなぜインドから消えたのか"},{"content":"七行の表 1945年、イギリスの哲学者ラッセルは『西洋哲学史』を出しました。聖アウグスティヌスを論じた章で、彼はふいに「辞書」を挟み込み、これは「マルクスを心理的に理解する」方法だと言います。\nヤハウェ ＝ 弁証法的唯物論 メシア ＝ マルクス 選民 ＝ プロレタリアート 教会 ＝ 共産党 キリストの再臨 ＝ 革命 地獄 ＝ 資本家への懲罰 千年王国 ＝ 共産主義共同体 ラッセルはさらに説明します。左側の語が、右側の語に感情的な重みを与えている。キリスト教やユダヤ教の薫陶を受けた人にはなじみ深いこの感情が、マルクスの終末論を信じられるものに見せている、と。\n1950年、ノーベル文学賞を受けたころのラッセル。彼自身が神を信じないことで有名で、『私はなぜキリスト教徒でないか』を書いた。　出典：Wikimedia Commons、アムステルダム国立美術館蔵、CC0\n彼の言いたいことはこうです。マルクス主義が人の心を動かすのは、経済学の論証によるだけでなく、その「物語の形」がユダヤ・キリスト教の歴史観とそっくりだからです。堕落した現在、選ばれた人々、最後の審判、まもなく来る完全な世界。\nラッセルだけの考えではない こう比べたのは、ラッセルだけではありません。\n1938年、ドイツ出身の政治哲学者エリック・フェーゲリンは、『政治宗教』という小さな本を書き、ナチズムやボルシェヴィズムのような現代の全体主義運動を、伝統的な宗教に取って代わった「政治宗教」と見ました。1944年、フランスの社会学者レイモン・アロンは「世俗宗教」という言い方を示し、機能の上で宗教に取って代わった現代のイデオロギーを指しました。\n歴史学者ノーマン・コーンの1957年の『千年王国の追求』は、中世ヨーロッパの千年王国運動を追っています。預言者、選民、最後の審判、地上の天国。彼は、20世紀の一部の革命運動が引き継いだのは、この古い心理構造だと考えました。\n私は、AIとの対話記録や普段保存しているものからも、似た言い方を繰り返し見てきました。入党宣誓は洗礼のようで、批判と自己批判は告解のようで、指導者の遺体は聖人の不朽のようで、革命の聖地は巡礼の終着点のようだ、というものです。\n中国のそのバージョン こうしたたとえには、中国では、たとえる必要のない版がありました。\n1966年以降の十年、多くの職場、学校、家庭で、毎朝、毛主席の肖像に向かって「朝の指示仰ぎ」を行い、夜には「夕べの報告」で一日の思想を報告しました。人々は「忠字舞」を踊り、語録歌を歌い、外出前、食事の前、会議の前に、まず「最高指示」を一節読みました。『毛主席語録』という赤いビニール表紙の小さな本は一人一冊で、歩くときは胸にしまっていました。公式版だけで十億冊以上が印刷されました。\n1966年版の『毛主席語録』（フランス語版）。扉は毛沢東の肖像。数十の言語に訳され、20世紀にもっとも多く印刷された本の一つ。　出典：Wikimedia Commons、Olnnu 撮影、CC BY-SA 3.0\n1976年に毛沢東が亡くなり、その翌年、天安門広場に記念堂が建ち、遺体は水晶の棺に保存されて、人々が拝観できるようになりました。モスクワの赤の広場にあるレーニン廟は、それより半世紀早くできています。\n北京の天安門広場にある毛主席紀念堂。1977年に完成。　出典：Wikimedia Commons、Jorge Láscar 撮影、CC BY 2.0\nモスクワ赤の広場のレーニン廟。レーニンは1924年に亡くなり、遺体は今もそこにある。徹底した唯物論者が、死後に不朽の聖人として扱われた。　出典：Wikimedia Commons、Bahnfrend 撮影、CC BY-SA 4.0\nこのたとえは何の役に立つのか このたとえがもっとも役に立つのは、経済学では説明できないことを説明できる点です。\nある理論は、なぜ何百万もの人に、そのために死んでもいいと思わせるのか。 なぜ内部の意見の違いを、学問的な論争ではなく「異端」として扱うのか。 「天国」がなかなか来ないとき、なぜ理論を変えず、予言を解釈し直すのか。 これらはどれも、宗教社会学が長く研究してきた問題です。宗教という枠組みを借りることで、あるイデオロギーの心理的な仕掛けのいくつかが見えてきます。\n天国は来なかった 三つ目の問いには、中国にもできあいの答えがあります。\n1958年、「大躍進」のスローガンは「駆け足で共産主義へ入る」でした。各地に公共食堂が作られ、食事は無料で、共産主義はもう目の前だと言われました。その後の数年は大飢饉でした。何人が亡くなったか、学界の推計は一千万人あまりから三千万人あまりまで幅があります。\n天国は来ず、のちの説明は「三年の自然災害」で、さらにのちには「ソ連の債務の取り立て」でした。予言は間違っていない。間違っていたのは天であり、外の人間である。この筋書きは、コーンが中世の千年王国運動のなかですでに書いていました。\nその数年のあいだに村で飢え死にした人の多くは、ラッセルを読んだことも、マルクスを読んだこともありませんでした。ただ一つの物語を信じたか、選びようがなかったのです。\nこのたとえの限界 けれど、このたとえは使いすぎやすいものでもあります。\n第一に、マルクス主義は、はっきりと無神論であり、唯物論です。 どんな超自然的なものにも反対します。「宗教」という語を当てるのは、機能の上でのたとえで、本質の上での同一視ではありません。批判する人は、何でも「宗教」と呼べるなら、この語は意味を失うと言います。サッカーのファン、アイドルの追っかけ、消費主義も、宗教だと言えてしまうからです。\n第二に、「似ている」ことは「由来する」ことと同じではありません。 構造が似ているのは、人が物語を語るやり方がそもそも限られているからで、誰かが誰かを真似たとは限りません。\n第三に、そしてもっとも大事なことですが、このたとえには、決して触れてはいけない変形版があります。 ネットには、共産主義は「ユダヤ人がわざと設計した」ものであり、他の民族を瓦解させるための「第四の宗教」だという言説が出回っています。これはもう思想史の比較ではなく、陰謀論です。思想史上の構造の類似を、ある民族の意図的な陰謀にすり替えています。証拠はなく、しかも歴史上もっとも悪質な反ユダヤ宣伝と同じ源から出ています。\n同じ直感が、まったく違う二つのものに育つことがあります。一つはラッセル、フェーゲリン、アロンのような思想史の分析。もう一つは陰謀論です。この二つを分けるのは、証拠と主語です。前者は思想の構造を論じ、後者はある人々の集団を告発します。\n逆から見る ラッセルのこの表が答えているのは、「この理論はなぜ信じられるように見えるのか」であり、心理を語っているのであって、正しいか間違っているかを判じているのではありません。\nですから、ある思想が「宗教のようだ」と言うことは、その判断がすべて間違っていると言うことではありません。逆に、「宗教の物語の形をしている」と言うことは、それが宗教だと言うことでもありません。この表にできるのは、一つの思想が何によって人の心を動かすかを見えるようにすることで、その思想の結論を代わりに下すことではありません。\nあなたの身のまわりに、宗教とは呼ばれないのに、宗教のように信じられているものはありますか。\n参考資料\nBertrand Russell, A History of Western Philosophy, 1945（聖アウグスティヌスの章） Eric Voegelin, Die politischen Religionen, 1938 Raymond Aron, \u0026quot;L'avenir des religions séculières\u0026quot;, 1944 Norman Cohn, The Pursuit of the Millennium, 1957 Alexander C. Cook (ed.), Mao's Little Red Book: A Global History, Cambridge UP, 2014、Preface：\u0026quot;Official editions numbered well over a billion copies in three dozen languages\u0026quot; 🟢 「朝の指示仰ぎ・夕べの報告」、忠字舞、毛主席紀念堂（1977）、「大躍進」と大飢饉の死者数の推計：通説の史実と学界の推計 画像の出典は各図の説明に記載 ","permalink":"https://tentao.pages.dev/ja/duoshe/w11/","summary":"\u003ch2 id=\"七行の表\"\u003e七行の表\u003c/h2\u003e\n\u003cp\u003e1945年、イギリスの哲学者ラッセルは『西洋哲学史』を出しました。聖アウグスティヌスを論じた章で、彼はふいに「辞書」を挟み込み、これは「マルクスを心理的に理解する」方法だと言います。\u003c/p\u003e\n\u003cul\u003e\n\u003cli\u003eヤハウェ ＝ 弁証法的唯物論\u003c/li\u003e\n\u003cli\u003eメシア ＝ マルクス\u003c/li\u003e\n\u003cli\u003e選民 ＝ プロレタリアート\u003c/li\u003e\n\u003cli\u003e教会 ＝ 共産党\u003c/li\u003e\n\u003cli\u003eキリストの再臨 ＝ 革命\u003c/li\u003e\n\u003cli\u003e地獄 ＝ 資本家への懲罰\u003c/li\u003e\n\u003cli\u003e千年王国 ＝ 共産主義共同体\u003c/li\u003e\n\u003c/ul\u003e\n\u003cp\u003eラッセルはさらに説明します。左側の語が、右側の語に感情的な重みを与えている。キリスト教やユダヤ教の薫陶を受けた人にはなじみ深いこの感情が、マルクスの終末論を信じられるものに見せている、と。\u003c/p\u003e","title":"ラッセルの対照表"},{"content":"いちばん狭いところで二十キロほどしかない回廊 インドの地図を開くと、奇妙な形が見えます。描いている途中でペンを突かれたような形です。バングラデシュの北に、東西に延びる土地があり、インドの本体とは、非常に狭い回廊でしかつながっていません。\nシリグリ回廊（「鶏の首」）の略図：北東部の七つの州は、いちばん狭いところで二十キロほどしかないこの地帯でインド本土につながっている。　出典：Wikimedia Commons、CREDITS 参照、CC BY-SA 4.0\nこの回廊は「シリグリ回廊」（Siliguri Corridor）といい、西ベンガル州にあって、長さは約60キロ、いちばん狭いところは約17〜22キロです（資料により少しずつ違います）。西はネパール、北はブータン、南はバングラデシュで、もう少し北東へ行き、ブータンを越えると、中国のヤードン（春丕谷）です。インド人は、これに「鶏の首」（Chicken's Neck）というあだ名をつけました。\n鶏の首のもう一方の端につながっているのが、北東地方です。アッサム、アルナーチャル、マニプル、メガラヤ、ミゾラム、ナガランド、トリプラ。この七つの州を、中国語では「東北七邦」と呼ぶことがあり、インド人自身は「七人姉妹」（Seven Sisters）と呼びます。2002年に北東評議会に加わったシッキムを加えると、公式にいう「北東部」は八つの州です。「七人姉妹」という呼び方は、1972年1月、メガラヤ、マニプル、トリプラの三つの州が同時に州になったとき、トリプラの記者がラジオ番組で何気なく口にしたもので、それが広まりました。\n全部合わせても、人口は全国の約3.8%です（2011年の国勢調査で約4577万人、八つの州の合計）。\n「なじみのある」名前、見知らぬ場所 この一帯は、あなたにとって見知らぬ土地ではないかもしれません。アッサム紅茶、女性ボクサーのメアリー・コム、サッカーに熱狂するミゾラム、「有機の州」シッキム。けれど、都会の普通のインド人に、七つの州の名前を言えるかと尋ねたら、答えられない人も多いでしょう。紅茶は知っていても、産地は知らないかもしれません。これが、題にある「いちばんなじみのある見知らぬ人々」の意味でもあります。\nここの人々は、「インド本土」と多くの点で違います。\n民族集団と言語。 よく言われるのは、北東部には二百を超える民族集団がいて（数え方は様々）、チベット・ビルマ系、モン・クメール系、タイ・アッサム系など、異なる語族の言葉を話すということです。多くの人は外見が東南アジアや東アジアの人に近い。 宗教。 2011年の国勢調査で、ナガランドとミゾラムはどちらもキリスト教徒が九割近く、メガラヤは74.6%、マニプルも四割あまりです。バプテスト派などの宣教師が19世紀後半にここで布教しました。アルナーチャルは約30%がキリスト教徒、約12%が仏教徒、シッキムは三割近くが仏教徒で、多くはチベット仏教です。 社会の習慣。 メガラヤのカシ族は母系社会で、財産は末の娘に伝わります。（『インドの女性はなぜこれほど大変なのか』で触れました。） 付け加えておくと、北東部の内部も一様ではありません。アッサムの平野、マニプルの谷間（メイテイ族）、トリプラには、ヒンドゥー教徒が多くいます。アッサムにはさらに三分の一ほどのムスリムがいます。山地の多くの部族集団には、カースト構造もなく、ヒンドゥー教も信じていません。ですから「北東の人」は一つの全体ではなく、インド本土と「違う」というのも、どの部分かによります。八つの州を一つの言葉で呼ぶのは、もともと行政上の便宜です。\nなぜそうなのか：いくつかの糸口 一、歴史的に「インド」の一部だったとは言いにくい。 たとえばアッサムは、1228年からアホム朝に約六百年支配され、ムガル帝国は何度攻めても落とせませんでした。イギリスは1826年2月、ヤンダボ条約によってビルマからアッサムを得て、茶の栽培を始めました。ほかの州の多くは、イギリスのもとで「辺境地域」として管理され、多くの場所で、正式な行政ではなく宣教師と警察が頼りでした。\n二、独立後の統合。 1947年にインドが独立すると、これらの地域は新しい国に組み込まれましたが、多くの集団は同一化しませんでした。ナガ族は1950年代から武装して抵抗し、ミゾ族は1966年に蜂起し、1986年の和平協定のあと、1987年2月に正式な州になりました。この一帯の武装組織は、数十年のあいだ、消えたことがありません。\n三、国境。 1962年、中国とインドはこの一帯で国境戦争を戦いました。中国はアルナーチャル州の大部分を「蔵南」と呼び、約9万平方キロメートルを主張しています。インドはそれを自国の領土と言い、アルナーチャル州の面積は8万3700平方キロメートルです。双方の対立は、部分的には、1914年のシムラ会議で引かれたマクマホン・ラインを避けて通れません。インドはそれを認め、中国は認めません。ここの国境紛争は、今も結論が出ていません。\n四、外に隔てられた。 1947年のインド・パキスタン分離で、東パキスタン（のちのバングラデシュ）が、北東部とインド本土のあいだの陸路の大部分を断ち切り、鶏の首だけが残りました。北東部の貿易と交通は数十年のあいだ「閉ざされ」、今日でも、多くの貨物がコルカタの港に着くには遠回りしなければなりません。\n特別な法律と暴力 「軍隊特別権限法」（AFSPA、1958年）。 「騒乱地域」で軍に特別な権限を与える法律です。一定の条件のもとで、発砲、逮捕、捜索ができ、軍人の訴追には中央政府の承認が要ります。北東部のいくつかの地域で長く適用され、多くの人権侵害を引き起こしたと批判され、軍は必要だと考えています。トリプラでは2015年、メガラヤでは2018年に完全に撤回されました。2025年にも、中央政府は、マニプルの大部分（谷間の13の警察署管区を除く）、ナガランド、アルナーチャルの一部に適用を延長し、そのつど六か月ずつです。\nこの法律は、北東部に、多くのインド人が知っている二つの名を残しました。\n一つはイロム・シャルミラ。2000年11月2日、マニプルのマロムのバス停で、アッサム・ライフルズが発砲し、子どもを含む10人の市民を殺しました。数日後、この28歳の女性はAFSPAの廃止を求めてハンガー・ストライキを始めました。政府は「自殺未遂」を理由に彼女を病院に入れ、鼻から管を入れて強制的に栄養を与え、それは十六年続きました。2016年8月9日、彼女は蜂蜜をひとなめして、断食の終了を宣言し、選挙への立候補に転じました。その法律を、彼女は廃止させることができませんでした。\nもう一つはタンジャム・マノラマ。2004年7月、32歳の彼女は、アッサム・ライフルズによって家から連れ出され、翌日、野原で遺体が見つかりました。部隊は、彼女は武装組織の一員で、逃げる途中で射殺されたと言いました。十年後に公開された司法調査の報告書は、彼女が生前に「残酷で情け容赦のない拷問」を受けていたと述べ、強姦されたことは広く信じられています。数日後、十数人のマニプルの中年の母親たちが、インパールのカングラ砦の門前で服を脱ぎ、横断幕を掲げました。「インド軍よ、私たちを強姦しなさい。」（人数と日付は資料により少し違い、7月中旬とするものが多い。）\nこの二つの出来事は、どんな統計よりも、なぜ多くの北東部の人々が、自分たちの土地は「管理される場所」で、「自分たちの国」ではないと感じるのかを、よく物語っています。\nアッサムの国民登録簿（NRC）。 2019年8月31日、アッサムは最終的な国民登録簿を公表しました。不法移民（主にバングラデシュ出身）をあぶり出すためのもので、約3.11クロール（3100万人）の申請者のうち、19ラーク余り（約190万人）が載りませんでした。除外された人は、外国人法廷に不服を申し立てられます。その後、この件は市民権（改正）法（CAA）とも絡み合いました。\nマニプル。 近年でもっとも重い例です。2023年5月、マニプルのメイテイ族（主に谷間に住む）とクキ＝ゾ族（主に山地に住む）のあいだで大規模な衝突が起き、直接の引き金の一つは、メイテイ族に「指定部族」の地位を与えるかどうかの論争でした。2025年までに、260人あまりが死亡し、6万人以上が避難しました（HRWの数え方）。州政府は2026年9月に州議会で、2023年5月から2026年8月31日までに、306人が死亡、49人が行方不明と述べ、双方の共同体は地理的にほぼ隔てられています。2025年2月9日、ビレン・シン州首相が辞任し、2月13日、中央政府は大統領統治（中央による直接掌握）を宣言しました。2026年2月4日、大統領統治は解除され、NDAのY・ケムチャンド・シンが州首相に就任し、クキ族の元大臣ネムチャ・キプゲンが副州首相に就きました。\nこうした出来事は、全国でのニュースとしての熱さが、深刻さに釣り合っていません。これも「見知らぬ」ことの一部です。\n「なじみの場所」にいる見知らぬ人：人種差別 題に関わることがもう一つあります。北東部の人は、インド本土の大都市で、しばしば「外国人」と見なされます。顔立ちが違い、「中国人」と呼ばれ、さらには侮辱的なあだ名までつけられます。2014年1月、アルナーチャル州出身の20歳の学生ニド・タニアは、デリーのラジパト・ナガル市場で、髪型と顔立ちを店員にからかわれて口論になり、ひどく殴られて亡くなり、抗議が起きました。2020年の新型コロナの初期にも、北東部の人は「コロナ」「チャイニーズ」と叫ばれ、唾を吐かれ、住宅地への立ち入りを拒まれ、内務省は各州にこうした嫌がらせへの対処を求める通達を出しました。\nニドの事件のあと、専門委員会（ベズバルア委員会）が設けられ、2014年7月に報告書を出しました。もっともよく挙げられた要求は、「momo」「chinki」「chinese」といった人種的な侮辱の言葉そのものを違法とすることでした。しかし日常の排除を、一つの法律で解決するのは難しいのです。\n今、なぜ突然重要になったか この数年、北東部は、インドの戦略の中心にあらためて置かれています。主な理由は二つです。\n一、「東への行動」政策（Act East）。 インドは東南アジアともっと貿易や外交をしたいと考えていて、北東部はその自然な玄関口です。ここの道路、橋、トンネル、鉄道は、近年建設が加速しています。たとえば、2024年3月9日に開通したセラ・トンネルは、アルナーチャルにあり、標高約1万3000フィートで、タワンへの道を一年中通れるようにして、軍用にも民間にも使うためのものです。\n二、安全保障。 あの「鶏の首」は狭すぎます。かつてインドが心配していたのが南アジアの隣国だったとすれば、今はそこに北の中国と、2024年のバングラデシュの政権交代後の不確実さが加わります。こうしたことが、「北東部がどうやってインド本土につながり、どうやって東南アジアにつながるか」を、現実の問題にしています。\n逆から見る 「北東部は無視されてきた場所だ」という言い方にも、補足が要ります。\n第一に、「北東部」という言葉そのものが、違いをならしてしまっています。 ミゾラムは長年、比較的穏やかで識字率の高い州です。シッキムは豊かで、安定しています。マニプルとナガランドの問題は、まったく別のものです。言葉さえ共通でなく、これらを一緒にすること自体が単純化です。\n第二に、中央政府の言い分は違います。 インド内務省は、2014年以降、北東部の暴力事件ははっきり減ったと主張してきました。2014年は824件、2023年は243件で、約71%減。その間にいくつかの和平協定が結ばれました（2020年1月のボド協定、2021年9月のカルビ協定、2023年12月のアッサム統一解放戦線の交渉派との協定）。この言い方にも一理ありますが、同じ公式の数字のなかで、2023年の243件のうち187件はマニプルで、2024年（11月まで）の266件のうち203件がマニプルです。そのため、「北東部はすでに安定した」といった言い方は成り立ちにくいのです。\n第三に、地元の人の「溶け込み」についての見方も一様ではありません。 より多くの自治を望む人もいれば、インド人になることでよい教育や多くの働き口が得られたと感じる人もいます。どちらの側にも単純化されたくない人もいます。\nある国の周縁部が、その国の地理にとって大切で、戦略にも大切なのに、その国の大多数の人にとっては見知らぬ土地であるとき、その国は、国民にこれらの場所を本当に「知って」もらうために、どうすべきでしょうか。\n参考資料\nシリグリ回廊：Wikipedia「Siliguri Corridor」、Drishti IAS、Geopolitical Monitor など（長さ約60キロ、最狭部17〜22キロ） 『Armed Forces (Special Powers) Act, 1958』および2025年4月・9月の延長適用の報道（News On Air、Morung Express、The Hitavada）；トリプラ2015年、メガラヤ2018年の撤回（Assam Tribune など） 北東部の人口：2011年国勢調査、八つの州の合計4577万2188人、全国の約3.79%；宗教：2011年国勢調査および Pew『Religious Demography of Indian States and Territories』（2021） 「七人姉妹」という語とシッキムの2002年の北東評議会への加入：Wikipedia「North Eastern Council」、Assam Tribune など アホム朝 1228–1826、ヤンダボ条約 1826年2月24日；ミゾ協定 1986、州成立 1987年2月20日 中印国境：Wikipedia「Sino-Indian border dispute」（東部で中国の主張は約9万平方キロ）；Bloomberg 2023年4月の報道（インド政府の回答） ニド・タニア事件とベズバルア委員会（2014年7月）：Wikipedia「Murder of Nido Taniam」、The Wire；北東部の人への嫌がらせに関する内務省の2020年の通達（Deccan Herald、Quint） 内務省による北東部の暴力事件の統計と和平協定：Eastern Mirror 2024、Morung Express、Deccan Herald；協定の日付は内務省の北東部和平プロセスの文書による アッサムの国民登録簿 2019年8月31日の最終リスト（Business Today、Scroll、LiveLaw）；セラ・トンネル 2024年3月9日開通 マニプル紛争：Wikipedia「2023–2026 Manipur conflict」；Human Rights Watch、『India: Ethnic Clashes Restart in Manipur』、2025年3月；International Crisis Group の報告 「東への行動」政策に関するインド政府の説明（indbiz.gov.in など）；IDSA による東への行動における北東部の位置づけの分析 アッサム国民登録簿（2019年8月）に関する報道 インド2011年国勢調査（北東部八州の人口） イロム・シャルミラとマロム事件：Christian Science Monitor（2016-07-27）、Mainstream Weekly、Frontline；マノラマ事件と2004年のカングラ砦の抗議：Deccan Herald など 🟡 ","permalink":"https://tentao.pages.dev/ja/manche/w11/","summary":"\u003ch2 id=\"いちばん狭いところで二十キロほどしかない回廊\"\u003eいちばん狭いところで二十キロほどしかない回廊\u003c/h2\u003e\n\u003cp\u003eインドの地図を開くと、奇妙な形が見えます。描いている途中でペンを突かれたような形です。バングラデシュの北に、東西に延びる土地があり、インドの本体とは、非常に狭い回廊でしかつながっていません。\u003c/p\u003e\n\u003cp\u003e\u003cimg alt=\"シリグリ回廊（「鶏の首」）の略図：北東部の七つの州は、いちばん狭いところで二十キロほどしかないこの地帯でインド本土につながっている。\" loading=\"lazy\" src=\"/img/manche/w11/01.jpg\"\u003e\u003c/p\u003e\n\u003cp\u003e\u003cem\u003eシリグリ回廊（「鶏の首」）の略図：北東部の七つの州は、いちばん狭いところで二十キロほどしかないこの地帯でインド本土につながっている。　出典：\u003ca href=\"https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Siliguri_Corridor_sketch_with_Asian_Highway_segment.jpg\"\u003eWikimedia Commons\u003c/a\u003e、CREDITS 参照、CC BY-SA 4.0\u003c/em\u003e\u003c/p\u003e","title":"北東部の七つの州：インドでいちばんなじみのある見知らぬ人々"},{"content":"百年以上続いている問い 儒家は宗教なのでしょうか。\nこれは中国語圏で百年以上議論されてきました。1912年、陳煥章らは上海で「孔教会」を立ち上げ、康有為が精神的な指導者になりました。1913年と1916年の二度、彼らは孔教を中華民国の「国教」にするよう請願しましたが、どちらも通りませんでした。反対する人は、儒家は哲学であり、倫理であり、教化であって、宗教ではないと言いました。孔子は「怪力乱神を語らず」「鬼神を敬して遠ざく」人だからです。\n陳煥章（1881–1933）。広東省高要の人で、コロンビア大学の経済学博士、孔教会の発起人。『孔門理財学』を著し、のちに香港で孔教学院を開いた。　出典：Wikimedia Commons、パブリックドメイン\n中国では、この問いに今日まで結論が出ていません。けれどインドネシアには、ごく具体的な答えがあります。孔教（Khonghucu）は政府が認める六つの宗教の一つで、信者は身分証の宗教欄にそれを記入できるのです。\nインドネシアはなぜ宗教を「承認」するのか これを理解するには、インドネシアの特徴を知っておく必要があります。建国のイデオロギーである「パンチャシラ」（建国五原則）の第一は「唯一至高の神への信仰」です。インドネシアでは、すべての国民がいずれかの承認された宗教に属することが期待されています。\n1965年、スカルノ政権の大統領令が、インドネシアの人々が信じる六つの宗教を挙げました。イスラーム、プロテスタント、カトリック、ヒンドゥー、仏教、そして孔教です。\nこれはインドネシア華人にとって大きな意味がありました。多くの華人が祖先を祀り、神を拝み、祭りを営んできたやり方は、儒・仏・道と民間信仰が混ざり合ったもので、どれか一つの「制度的宗教」にきれいに収めることはできません。「孔教」は、行政の上で登録できる身分を彼らに与えたのです。\n取り上げられ、また返される いい時期は長く続きませんでした。\n1965年9月30日の未遂クーデターのあと、インドネシアは大規模な粛清に陥り、スハルトが権力を握りました。華人は共産党に同情し、中国寄りだと疑われ、怒りのはけ口にされました。その後三十年あまりの「新秩序」のあいだに、華語学校は閉じられ、華字新聞は停止され、多くの華人がインドネシア名に改めるよう求められました。\n1967年、スハルトは第14号大統領訓令を出し、華人が宗教・信仰・伝統習俗の活動を公に行うことを制限しました。\n孔教の立場は下り坂をたどりました。1967年の訓令が制限したのは公の活動でしたが、1970年代後半になると、孔教は「信仰の一派」に格下げされ、公式に承認された宗教ではなくなりました。宗教省には関係する部署が置かれなくなり、学校では教えられず、信者は身分証に孔教徒として登録できなくなったのです。（格下げの年は1977年とも1978年とも言われます。1978年11月18日付の内務省通達は、私が文書番号を確認できた一つですが、読んだのは学術論文による紹介で、原文は読めていません。）多くの華人は、仏教徒かキリスト教徒として登録するしかありませんでした。\nひとりの老婦人が一生を通じて家に祖先の位牌を祀りながら、身分証には「仏教」と書かれている。この三十年、多くの家庭がそうやって過ごしてきました。\n1998年にスハルトが退陣します。2000年、ワヒド大統領は1967年の制限を撤廃するよう命じ、華人は旧正月を公に祝えるようになり、孔教も公式の宗教としての地位を回復しました。2006年には内務省と宗教省がそれぞれ文書を出し、孔教徒の婚姻も民政部門で正式に登録できるようになりました。（宗教省の2006年の書簡の番号は MA/12/2006、内務省の2006年2月24日付の書簡の番号は 470/336/SJ と書かれていますが、原文は読めておらず、番号の書き方は資料ごとに異なります。）\nアブドゥルラフマン・ワヒド（1940–2009）。インドネシア第4代大統領で、「グス・ドゥル」の通称で知られる。インドネシア最大のイスラーム組織「ナフダトゥル・ウラマー」の議長を務め、のちに多くのインドネシア華人から「華人の父」と呼ばれた。　出典：Wikimedia Commons、インドネシア政府、パブリックドメイン\n孔教の承認を後押ししたのは、あるムスリムの宗教指導者でした。\nインドネシアで儒家はどうなったか インドネシアの環境では、儒家はより「宗教」らしく形づくられました。礼拝の場（廟）があり、聖職者がいて、経典（四書五経）があり、宗教的な祝祭があり、婚礼や葬礼の儀式があります。\nジャカルタの「タマン・ミニ・インドネシア・インダー」にある孔子廟。この公園では、公式に承認された宗教それぞれに礼拝の建物があり、孔教のものは後から建て足された。　出典：Wikimedia Commons、Gunawan Kartapranata 撮影、CC BY-SA 3.0\nこれは実におもしろい点です。国民がいずれかの宗教に属することを求める国で生き残るために、儒家は「宗教」の姿に育たざるをえませんでした。はっきり言えば、「儒家は宗教か」はインドネシアでは哲学だけの問題ではなく、制度が押し出した答えなのです。\nタンゲランの文徳廟（Boen Tek Bio）。土地で最も古い華人の廟で、観音を祀り、さまざまな神々も供えている。インドネシアでは、儒・仏・道がしばしば同じ廟に同居している。　出典：Wikimedia Commons、Swarabakti 撮影、CC BY-SA 4.0\nあの古い問いに戻る 社会学者の楊慶堃は、1961年の『中国社会における宗教』のなかで、非常に影響力のある区別を示しました。\n制度的宗教：独自の教義、組織、聖職者を持つもの。仏教、道教、キリスト教など。 拡散的宗教：信仰と儀礼が家族、地域社会、国家の日常生活のなかに散らばっていて、独立した組織を持たないもの。祖先祭祀、社の神、城隍、国家の天の祭りなど。 この枠組みでいえば、伝統的な儒家は拡散的宗教の「骨組み」のようなものです。祖先祭祀、礼儀、天命観を与えましたが、家族や国家から独立した「教会」は持ちませんでした。\nですから、「儒家は宗教か」という問いは、立て方を間違えているのかもしれません。もっとよい問いは、それはどんな種類の宗教性なのか、その宗教性はどこに宿っているのか、でしょう。\n中国では、それは家族と国家に宿ってきました。インドネシアでは、自分の組織を持つように迫られたのです。\n逆から見る 儒家を「宗教化」すること自体が歪曲だと考える人もいます。倫理と暮らし方の体系を、西洋の「宗教」という概念の型に押し込めているというのです。インドネシアの孔教は、本物の儒家なのでしょうか。それとも制度に合わせて生まれた新しいものなのでしょうか。\n登録は受けるが、定義は受けない インドネシアの例は何度も見てきましたが、最後には二つの味が胸に残ります。\n一つは、ほっとする気持ちです。儒家が廟を持ち、経典を持ち、祝祭を持ち、婚礼や葬礼の儀式を持って、本物の宗教として生きていけると示したからです。もう一つは、あとから来る恐ろしさです。それは国家に迫られて生まれたもので、国家が与え、国家が取り上げもしました。取り上げは三十年に及びました。\nだから私の立場はこうです。宗教は国家による登録を受け入れてもよいが、国家による定義は受け入れない。宗教は国家や民族や時空を越えるものであり、どの政府にも、それが何であるか、宗教と認めるかどうかを決める資格はありません。インドネシアの孔教は、前半は果たしました。後半は、自分で勝ち取らなければなりません。\nすべての人に宗教を持つことを求める国と、すべての人に宗教を持たないことを望む国。宗教をより奇妙な形にするのは、どちらでしょうか。\n参考資料\nインドネシアの1965年大統領令による六宗教の列挙；1967年第14号大統領訓令：通説の史実 1970年代後半の孔教の格下げ：ガジャ・マダ大学宗教・異文化研究センター（CRCS-UGM）の記事は1977年に「信仰の一派」へ格下げされたと記す（The Struggle for State Recognition of Confucian Believers in Indonesia、2019-04-08）；廖建裕（Leo Suryadinata）は「1977年までは承認、1978年に取り消し」と記す（Fulcrum、2024-04-03）；1978年の内務大臣通達は、身分証の宗教欄を五つの公式宗教に限り、2002年に撤回された（Hukumonline、2002-10-11；通達の番号は資料ごとに書き方が異なる）🟡 2000年1月17日のワヒド大統領による第6号大統領決定は、1967年第14号大統領訓令を撤廃し、華人の宗教・信仰・習俗の活動に特別な許可を要しないとした（インドネシア語ウィキソース原文）🟢；決定の原文は「孔教」の名を挙げておらず、「孔教はこれで公式宗教の地位を回復した」は研究者の見方（上記 CRCS-UGM、廖建裕）🟡 2006年に内務省と宗教省がそれぞれ文書を出し、孔教の婚姻と孔教の宗教教育がそれぞれ認められ、孔教徒が民政部門で婚姻を登録できるようになった：上記 CRCS-UGM の記事 🟡 C. K. Yang（楊慶堃）, Religion in Chinese Society, UC Press, 1961 1912年の孔教会の成立、1913年と1916年の国教請願、1965年の九三〇事件：通説の史実 画像の出典は各図の説明に記載 ","permalink":"https://tentao.pages.dev/ja/duoshe/w12/","summary":"\u003ch2 id=\"百年以上続いている問い\"\u003e百年以上続いている問い\u003c/h2\u003e\n\u003cp\u003e儒家は宗教なのでしょうか。\u003c/p\u003e\n\u003cp\u003eこれは中国語圏で百年以上議論されてきました。1912年、陳煥章らは上海で「孔教会」を立ち上げ、康有為が精神的な指導者になりました。1913年と1916年の二度、彼らは孔教を中華民国の「国教」にするよう請願しましたが、どちらも通りませんでした。反対する人は、儒家は哲学であり、倫理であり、教化であって、宗教ではないと言いました。孔子は「怪力乱神を語らず」「鬼神を敬して遠ざく」人だからです。\u003c/p\u003e","title":"インドネシアの身分証にある孔教"},{"content":"広く出回っている回答 普段保存していたもののなかに、こんな趣旨の回答がありました。中国の土着の信仰は衰え、外来の宗教が必ずそれに取って代わる。「韓国は最も分かりやすい例で、本土の七割がすでにイエスを信じている」と。\nこの言葉には衝撃があります。明確な数字、明確な結論、そして少しの切迫感。私は当時、疑うこともなく保存しました。\nのちに、韓国の国勢調査を調べてみました。\n国勢調査は何と言っているか 韓国統計庁は、十年に一度、国勢調査で宗教を調べています。2015年の結果は次のとおりです。\n無宗教：56.1% プロテスタント：19.7% 仏教：15.5% カトリック：7.9% 韓国の2015年国勢調査、「あなたの宗教は何ですか」。点線は、その回答が言う七割。　データ：韓国統計庁\nプロテスタントとカトリックを足すと約27.6%で、三割に満たないのです。しかも、半数を超える韓国人が宗教はないと答えており、その割合は2005年よりも増えています。\nつまり、「七割」は二倍以上のずれです。さらに重要なのは、その噂が指している方向、「土着の信仰が衰え、キリスト教が取って代わる」が、国勢調査の主な傾向とも合わないことです。韓国でいちばん伸びているのは「無宗教」です。\n噂の半分は本当 とはいえ、この噂は根も葉もない作り話ではありません。本当の現象をつかんでいます。キリスト教の韓国での発展は、確かに特別なのです。\n20世紀に、キリスト教は韓国で、ほかの場所なら何百年もかかる道を数十年で駆け抜けました。今日の韓国のキリスト教徒の割合は、東アジアで群を抜いています。ソウルには世界最大級の教会がいくつもあり、韓国はかつて、海外に宣教師をもっとも多く送り出した国の一つでもありました。\nソウル汝矣島の純福音教会。世界で信徒数が最も多い単一の教会と言われ、登録信徒は数十万人。　出典：Wikimedia Commons、Striker9498 撮影、CC0\nなぜでしょう。研究者はさまざまな説明を出しています。日本の植民地支配のとき、教会は民族主義と抗日の重要な場だった。戦後、教会は教育、病院、社会福祉を担った。都市化がもっとも速かった年月、農村を離れた人たちが、教会のなかで新しい人の輪を見つけた。\nですから、「韓国のキリスト教は強い」は本当です。「七割」は誇張です。「土着の信仰が取って代わられた」は、方向を見誤っています。\nでは仏教は 同じ時期に、韓国の仏教は縮んでいます。\nピュー研究所の2026年の分析によれば、韓国では、仏教徒の家庭で育った人のうち約六割が、すでに自分を仏教徒と考えなくなっています。日本ではこの割合が約半分です。その多くはほかの宗教に改宗せず、「無宗教」になりました。\nソウルの曹渓寺。灌仏会の前に蓮灯が一面に吊るされる。灯りを見に来る人は多いが、アンケートで「仏教」にチェックする人は減っている。　出典：Wikimedia Commons、Ken Eckert 撮影、CC BY-SA 4.0\nこれは、ネット上のもう一つの流行の説、「仏教徒はみなキリスト教に移った」とも合いません。データが示すのは、主に宗教そのものから離れたということです。\n中国大陸にはキリスト教徒がどれだけいるか ここまで来ると、多くの人が聞きます。では中国は、と。\nこの数字は謎です。2018年に公表された公式の数字は、プロテスタント信者が3800万人あまり、カトリック信者が約600万人。海外の機関や教会自身の推計は、高いものでは一億人を超え、二、三倍の開きがあります。逆に、全国規模のアンケートでキリスト教徒だと自認しているのは、成人の2%ほど、約2000万人です。差の大きな部分は、登録されていない家庭の集まりにあり、アンケートでは尋ねきれず、統計も尋ねたがらない部分です。\n人数さえ数えられない場所について、「取って代わられつつある」と言うのは、「韓国の七割がイエスを信じている」と言うのと同じで、空白を想像で埋めているのです。\n東アジアの宗教性はどこにあるか ただし、「無宗教」という統計も、注意して見る必要があります。\n東アジアでは、多くの人がアンケートで「無宗教」にチェックしながら、変わらず祖先を祀り、墓参りをし、試験の前には寺にお参りし、正月には線香をあげ、結婚の日取りを見ます。「何教を信じますか」と聞かれれば、ないと答え、「こうしたことをしますか」と聞かれれば、答えは「する」であることが多いのです。\n社会学者の楊慶堃は、この形を「拡散的宗教」と呼びました。宗教性が独立した教会のなかではなく、家庭、祭り、日常の暮らしのなかに散らばっているのです。\nですから、東アジアで何人が「宗教を信じている」かは、尋ね方次第です。西洋式の「どこかの教会に所属しているか」というアンケートで東アジアを測ること自体が、測る場所を間違えているのかもしれません。\nけれど「拡散」には、別の面もあります。どの組織のなかにもないので、どの組織も代わりに守ってくれません。家が散り、街が移れば、それとともに薄れていきます。韓国の「無宗教」の半分のうち、教会をもともと必要としなかった人がどれだけで、帰る場所をもう見つけられない人がどれだけなのか。アンケートからはわかりません。\nなぜこの手の噂はとくに速く広まるのか 最後に、私自身のことを。私はなぜ、その回答を保存し、少しも疑わなかったのでしょう。\n振り返ると、その回答は、噂が広まるすべての条件を満たしていました。具体的な数字（信じられそうに見える）、明確な因果（土着の信仰が衰え、外来の宗教が入り込む）、危機感（次は私たちだ）、そして、ちょうど私がそのときすでに抱いていた心配に合っていたのです。\nあなたは最近、転送する前に、元のデータを確かめましたか。\n参考資料\n韓国統計庁 2015年国勢調査の宗教項目 Pew Research Center, \u0026quot;Why is Buddhism shrinking worldwide?\u0026quot;, 2026-03-11 国務院新聞弁公室『中国の宗教信仰の自由を保障する政策と実践』白書、2018-04-03（キリスト教徒3800万人あまり、カトリック信者約600万人）🟢 Pew Research Center, \u0026quot;Measuring Religion in China: Christianity\u0026quot;, 2023（2018年中国総合社会調査：成人の約2%、約2000万人がキリスト教徒と自認；外部の推計は7%–9%、約1億〜1億3000万人と高い）🟢 C. K. Yang（楊慶堃）, Religion in Chinese Society, 1961 画像の出典は各図の説明に記載 ","permalink":"https://tentao.pages.dev/ja/duoshe/w13/","summary":"\u003ch2 id=\"広く出回っている回答\"\u003e広く出回っている回答\u003c/h2\u003e\n\u003cp\u003e普段保存していたもののなかに、こんな趣旨の回答がありました。中国の土着の信仰は衰え、外来の宗教が必ずそれに取って代わる。「韓国は最も分かりやすい例で、本土の七割がすでにイエスを信じている」と。\u003c/p\u003e\n\u003cp\u003eこの言葉には衝撃があります。明確な数字、明確な結論、そして少しの切迫感。私は当時、疑うこともなく保存しました。\u003c/p\u003e","title":"韓国人の七割がイエスを信じている？"},{"content":"陳寅恪の一編の論文 1930年、歴史学者の陳寅恪は『清華学報』に、「『三国志』曹沖華佗伝と仏教説話」という題の文章を発表しました。\n陳寅恪（1890–1969）。十数の言語に通じ、サンスクリット、パーリ語、チベット語も読めた。この論文を書いたとき、四十歳だった。　出典：Wikimedia Commons、パブリックドメイン\n文章は、誰もが知っている二つの話を論じています。一つは曹沖が象の重さを量る話、もう一つは名医・華佗の話です。陳寅恪は、この二つの話には、インドから伝わった仏教説話が混じっていると考えました。\n「独立の精神、自由の思想」と書いたこの学者は、晩年に両目を失明し、1960年代の運動のなかでさんざん苦しみ、1969年に広州で亡くなりました。彼が残した多くの仮説は、誰かが確かめるのも、覆すのも、ずっと待ち続けてきました。\n華佗について、彼はたいへん大胆な見方を示しました。\n「華佗」と「阿伽陀」 『三国志』にはこうあります。「華佗、字は元化、沛国譙の人なり。一名は旉」。華佗の本名は「旉」で、字が「元化」だったのかもしれません。\n陳寅恪は、「旉」と「元化」が意味の上で釣り合っていることに気づきました（旉には、広げる、育てるという意味があります）。では「佗」はどこから来たのでしょう。\n彼の推測はこうです。サンスクリットに agada という語があり、意味は「薬」で、仏典では「阿伽陀」と音写される。古い漢語では「華」の音が「伽」に近く、「華佗」は gada の音写かもしれない。つまり、この医者の技が神がかっていたので、当時の人は、外来の「薬の神」を意味する呼び名で彼を呼んだのではないか、というのです。\n後世の人が描いた華佗の像。彼がどんな顔をしていたかは誰も知らない。名前が本当は何だったのかさえ、まだ言い争われている。　出典：Wikimedia Commons、パブリックドメイン\n彼はまた、『三国志』の華佗の不思議な治療の記録には、仏典にあるインドの名医ジーヴァカ（耆域）の話に似たところがあると考えました。のちには、華佗の「麻沸散」の成分は曼陀羅（サンスクリットの mandārava）と関係があるかもしれないと推測する学者も出ました。\nこの仮説は成り立つのか この説は魅力的ですが、学界で合意は形成されていません。\n呂思勉のような歴史学者は、華佗を論じたとき、この解釈を採用しませんでした。反対の理由はいくつも挙げられます。\n「佗」を人名に使うことは、漢代には珍しくなかった。 秦末漢初の南越王は趙佗という名でした。「漢代より前には佗という名の人は少なかった」ことをもって「佗」が外来の音写だと証明するのは、確かではありません。 音写の対応には、もっと厳密な証拠が要る。 二つの字の古い音が、サンスクリットの語の後の二音節に近いことは、手がかりにはなりますが、それだけでは結論を出しにくい。 話が似ていることは、出どころが同じことを意味しない。 名医の話は、多くの文明で似た型を持っています。 ですから、穏当な言い方は、陳寅恪は面白い仮説を出し、それは今日もなお仮説である、というものです。\nいくつかの借用は確実だ とはいえ、仏教が中国に入ったとき、確かに多くのインドのものを一緒に持ち込みました。そのいくつかは争いがありません。\nたとえば、仏教の戒律で食べることを禁じる「五辛」。ネギ、ニンニク、ニラ、ラッキョウ、それに「興渠」というものです。興渠は漢地ではめったに見られませんが、実はアギ（阿魏）、中央アジア原産でインド料理によく使われる香辛料です。漢地の僧が戒律で「興渠」を読んでも、生涯その物を見たことがなかったかもしれません。この戒律はインドからそのまま移されたものだからです。\nアギの樹脂。イラン・イスファハーン産。仏典では「興渠」という。五辛の戒めを一生守った中国の僧の多くは、おそらくその匂いを嗅いだことがない。　出典：Wikimedia Commons、Tricholome 撮影、CC BY-SA 4.0\n言葉の借用はもっと多くあります。「刹那」「涅槃」「菩薩」「羅漢」「世界」「因果」……今日の漢語の日常語のかなりの部分は、仏典の翻訳に由来します。\nもっと深いのは、観念の借用です。道教は、形成され発展する過程で、仏教の輪廻、因果応報、地獄といった観念を取り入れました。仏教は中国で、儒家の孝の道と中国人の祖先祭祀を取り入れました。たとえば「目連救母」の話は、仏教の供養と中国人の親孝行を一つに結びつけました。そこから生まれた盂蘭盆会は、のちに道教の中元節と合流し、今日の「七月半」になりました。\n古い版本『目連救母』の木版挿絵。インドから来た供養の物語が、中国では孝行息子の芝居になり、数百年上演された。　出典：Wikimedia Commons、パブリックドメイン\n宗教は貨物車 この件でいちばんおもしろいのは、宗教の伝播は、教義だけを運んだことが一度もないという点です。\nそれは貨物車のようなもので、積まれているのは経典だけでなく、言語、医術、香辛料、芸術、祭り、食の禁忌でもあります。車が新しい土地に着くと、積み荷のあるものはそのまま降ろされ、あるものは作り替えられ、あるものは土地の人に別の用途で使われます。\n貨物車は戻る方向にも走る この車は、中国に着いても止まりませんでした。\n漢字は、この一車の荷をさらに東へ、南へと運びました。日本人、朝鮮人、ベトナム人が読んだ仏典は、漢訳の仏典です。「世界」「因果」「刹那」といった語は、漢字とともに日本語、韓国語、ベトナム語に入り、読みはそれぞれ異なりますが、書けば同じ字です。今日、ソウルの人が「세계」と言い、東京の人が「せかい」と言い、ハノイの人が「thế giới」と言うとき、言っているのは、サンスクリットを一度経由した、同じ「世界」なのです。\n華佗の名がサンスクリットかどうかは、永遠に確かめられないかもしれません。けれど「中国の名医の名はインドに由来するかもしれない」という仮説そのものが、私たちに思い出させてくれます。「土着」だと思っているものの多くには、文明を越える道のりが背後にあるかもしれない、と。\n逆から見る けれど、この注意も行きすぎることがあります。ネットには、「中医学はすべてインドから伝わった」という言説があります。これははっきり間違いです。中医学の核心の理論（陰陽、五行、経絡、臓腑）は、インド医学には対応する出どころが見つかりません。\n借用は本当ですが、借用は丸ごと写すことではありません。文明が外来のものを取り入れるとき、多くは自分の根に接ぎ木するのであって、根ごと入れ替えるのではありません。\nあなたの知っている言葉や習慣のなかで、実ははるか遠くから来たものはどれですか。\n参考資料\n陳寅恪「『三国志』曹沖華佗伝と仏教説話」、『清華学報』第6巻第1期、1930（のち『寒柳堂集』に収録） Erik Zürcher, The Buddhist Conquest of China, 1959 『三国志・華佗伝』；仏教の「五辛」と興渠（アギ）：通行の文献と常識 陳寅恪の生涯：通説の史実 画像の出典は各図の説明に記載 ","permalink":"https://tentao.pages.dev/ja/duoshe/w14/","summary":"\u003ch2 id=\"陳寅恪の一編の論文\"\u003e陳寅恪の一編の論文\u003c/h2\u003e\n\u003cp\u003e1930年、歴史学者の陳寅恪は『清華学報』に、「『三国志』曹沖華佗伝と仏教説話」という題の文章を発表しました。\u003c/p\u003e\n\u003cp\u003e\u003cimg alt=\"陳寅恪\" loading=\"lazy\" src=\"/img/duoshe/w14/01.jpg\"\u003e\u003c/p\u003e\n\u003cp\u003e\u003cem\u003e陳寅恪（1890–1969）。十数の言語に通じ、サンスクリット、パーリ語、チベット語も読めた。この論文を書いたとき、四十歳だった。　出典：\u003ca href=\"https://commons.wikimedia.org/wiki/File:%E9%99%88%E5%AF%85%E6%81%AA.jpg\"\u003eWikimedia Commons\u003c/a\u003e、パブリックドメイン\u003c/em\u003e\u003c/p\u003e","title":"華佗の名はサンスクリットなのか"},{"content":"直感に反する結末 13世紀、モンゴル帝国は当時知られていた世界のほぼ半分を征服しました。太平洋から東ヨーロッパまで、シベリアからペルシア湾までです。\n「強い者が信仰を輸出する」という直感に従えば、征服された人々が征服者の宗教に改宗するはずです。ところが歴史は逆に進みました。数世代のうちに、モンゴルの支配者たちは次々に、征服した土地の宗教へ改宗したのです。さらにおもしろいことに、彼らが改宗した先は同じではありませんでした。\n西：イスラーム ペルシアでは、チンギス・ハンの孫フレグがイル・ハン国を建てました。初期のイル・ハンたちはシャーマニズムや仏教を信じ、キリスト教にもわりあい好意的でした。\n1295年、ガザンが即位し、正式にイスラームに改宗しました。彼は改宗した最初のイル・ハンで、のちにイスラームを国教とし、宮廷や軍の将領にも改宗を求めました。ペルシアの宰相で歴史家のラシード・アッディーンは、名著『集史』にこの歴史を記しています。\n北のジョチ・ウルス（キプチャク・ハン国）では、ウズベク・ハンが1313年に即位してイスラームを推し進め、そのついでに政敵を粛清しました。\n数世代のうちに、西のモンゴルの子孫たちはペルシア風の名を持ち、テュルク語かペルシア語を話し、イスラームを信じるようになりました。16世紀にムガル帝国を建てたバーブルは、イスラームを信じ、ペルシア文化を誇りとしながら、チンギス・ハンとティムールの血を引くことにも誇りを持つ君主でした。\n東：チベット仏教 東では、フビライが元朝を建てました。彼が尊んだのはチベット仏教でした。\n元の世祖フビライの像。元代の帝后像冊より。ネパールの工匠アニゲの系統の筆と伝えられる。　出典：Wikimedia Commons、国立故宮博物院（台北）蔵、パブリックドメイン\n1260年、彼はサキャ派の高僧パクパを国師に封じ、のちに「帝師」と改称して、全国の仏教事務を管轄させました。パクパは命を受けて「パスパ文字」も作り、元朝の公用文字の一つとしました。\nパスパ文字で書かれた元朝の聖旨の写し。チベットの僧がモンゴルの皇帝のために作った文字で、モンゴル語を綴り、漢語も綴った。元が滅びると、この文字を使う人はほとんどいなくなった。　出典：Wikimedia Commons、パブリックドメイン\n元が滅び、モンゴル人が草原に退くと、チベット仏教の影響は一時弱まりました。けれど話はそこで終わりません。1578年、トゥメト部のアルタン・ハンはゲルク派のソナム・ギャムツォと会見し、彼に「ダライ」という称号を贈りました。モンゴル語で「海」という意味です。「ダライ・ラマ」という称号は、こうして生まれました。モンゴルも、一歩一歩チベット仏教の土地になっていきました。\nモンゴルのカラコルムにあるエルデニ・ゾー。1585年の建立で、モンゴル最初期のチベット仏教の大寺院の一つ。モンゴル帝国の旧都の廃墟の上に、旧都の石を使って建てられた。　出典：Wikimedia Commons、Bernard Gagnon 撮影、CC0\nこれは双方向の取引でした。アルタン・ハンは宗教的な正当性を手に入れ、自分をフビライの転生だと称しました。ゲルク派は、戦える保護者を手に入れました。\n中原：改宗ではなく同化 中原はまた違いました。元朝のモンゴル人支配者は儒家に改宗したわけではありません。儒家はそもそも「改宗」を要する宗教ではありませんでした。ただ、中原に残った多くのモンゴル人や色目人は、明代以後、しだいに現地に溶け込んでいきました。\nなぜこうなったのか 同じ征服者が、三つの土地で三つの結末を迎えました。なぜでしょうか。\n一つの説明は、14世紀の北アフリカの学者イブン・ハルドゥーンから来ています。彼は『歴史序説』で、厳しい辺境から出てきた集団は結束力が非常に強く、豊かな定住文明を征服できるが、いったん中に座り込むと、定住文明のより洗練された制度や文化や宗教に吸い込まれ、数世代のうちに結束力が散ってしまうと述べています。\nもう一つの説明はもっと実際的です。支配者は統治しなければなりません。ペルシアでは、統治される人の圧倒的多数がムスリムでした。支配者はイスラームに改宗することで、統治の正当性と、実務を担う人々（宗教学者や官僚）の協力を手に入れました。チベットやモンゴル本土では、チベット仏教が出来合いの僧団と文字と、正当性を説明する言葉を与えました。\nはっきり言えば、征服者の改宗は、どれかの教義に「説得された」結果とは限らず、しばしば政治的な選択です。被支配者の宗教を使って、被支配者を統治するのです。\n「一神教のほうが強い」ことと関係があるのか こう言う人もいるでしょう。ほら、イスラームは西のモンゴル人を征服した、だから一神教のほうが強いのだ、と。\nけれど同じ時期、東のモンゴル人は、創造神を中心としない宗教であるチベット仏教を信じました。「より強い教義が勝つ」のなら、同じ征服者がなぜ場所によってまったく違う信仰を選んだのか、説明がつきにくくなります。\nより筋が通るのは、こういうことです。勝ったのはどれかひとつの教義ではなく、それぞれの土地にすでに根を張っていたものでした。\nダライという称号はその後どうなったか 1578年のあの称号は、のちに「誰が決めるのか」という問題と絡み合い、今日まで絡み続けています。\n1959年、第14世ダライ・ラマはインドへ脱出し、それきりチベットには戻っていません。1995年、彼は六歳の男の子を第11世パンチェン・ラマと認定しました。数日後、その子と家族は人々の目の前から姿を消し、北京は「金瓶掣籤」で別のパンチェン・ラマを選びました。今日、世界には第11世パンチェン・ラマが二人いて、そのうち一人は、三十年間、誰も姿を見ていません。\n2007年、国家宗教事務局は『チベット仏教活仏転生管理弁法』を公布し、活仏の転生は政府に届け出て承認を受けるものと定めました。「転生」によって継承される宗教で、その転生そのものを、無神論の政府が審査するのです。\nかつてはモンゴルのハンが、称号と引き換えに宗教の正当性を手に入れました。今日は政府が、審査権によって宗教の正当性を自分の手に握ろうとしています。\n私の考えはずっと変わりません。宗教は国家による登録を受け入れてもよいが、国家に定義させてはいけない。誰が活仏か、誰がパンチェン・ラマかは、信じる人々とその系譜が認めるべきことで、事務室の人が承認するものではありません。\n逆から見る 「征服者が被征服者に同化される」というのも、鉄則ではありません。オスマン人もアラブ人も、自分たちの宗教を征服した土地に持ち込み、最後には大多数の人を改宗させました。イブン・ハルドゥーンの「三代で衰える」にも、例外は多くあります。\nですからこれは法則ではなく、よく見られる傾向と言うべきです。征服者の数が少なく、征服された土地の宗教と文化が十分に成熟しているとき、「逆に征服される」のは、しばしば征服者のほうなのです。\n征服者が最後に被征服者の宗教を信じるなら、いったい誰が誰を征服したのでしょうか。\n参考資料\nガザンの1295年のイスラーム改宗（ラシード・アッディーン『集史』） イブン・ハルドゥーン『歴史序説』、1377 ウズベク・ハンの1313年の即位；パクパの1260年の国師冊封；1578年のアルタン・ハンによるソナム・ギャムツォへの「ダライ」称号の贈与：通説の史実 1959年のダライ・ラマの脱出、1995年のパンチェン・ラマ転生をめぐる争い、2007年の『チベット仏教活仏転生管理弁法』（国家宗教事務局令第5号）：通説の史実 画像の出典は各図の説明に記載 ","permalink":"https://tentao.pages.dev/ja/duoshe/w15/","summary":"\u003ch2 id=\"直感に反する結末\"\u003e直感に反する結末\u003c/h2\u003e\n\u003cp\u003e13世紀、モンゴル帝国は当時知られていた世界のほぼ半分を征服しました。太平洋から東ヨーロッパまで、シベリアからペルシア湾までです。\u003c/p\u003e\n\u003cp\u003e「強い者が信仰を輸出する」という直感に従えば、征服された人々が征服者の宗教に改宗するはずです。ところが歴史は逆に進みました。数世代のうちに、モンゴルの支配者たちは次々に、征服した土地の宗教へ改宗したのです。さらにおもしろいことに、彼らが改宗した先は同じではありませんでした。\u003c/p\u003e","title":"征服者の宗教"},{"content":"ヴィシュヌに捧げられた寺院 カンボジアのアンコール・ワットは、面積およそ162ヘクタールで、一般に世界最大の宗教建築とされています。\nアンコール・ワットの第一層と第二層の正面。西を向いている。ヒンドゥー教では、西はヴィシュヌの方角であり、死の方角でもある。　出典：Wikimedia Commons、Jorge Láscar 撮影、CC BY 2.0\n12世紀初めに、クメールの王スーリヤヴァルマン2世が主宰して建て、国の寺院とし、おそらく自らの墓所にもするつもりでした。祀られたのは、ヒンドゥー教の主神の一人ヴィシュヌです。寺の浮き彫りには、『ラーマーヤナ』と『マハーバーラタ』の物語や、インド神話の「乳海攪拌」があります。\nアンコール・ワットの回廊にある「乳海攪拌」の浮き彫り。神々とアスラが大蛇を綱にして引き合い、乳の海をかき混ぜて、不死の甘露を求める。この浮き彫りは長さ四十メートル余りで、インド神話がカンボジアの石の上にある。　出典：Wikimedia Commons、Markalexander100 撮影、CC BY-SA 3.0\nインドの神が、インドから数千キロ離れた土地で、世界最大の寺院を持っているのです。\nのちに仏教寺院になった もっとおもしろいのは、アンコール・ワットのその後の運命です。12世紀末、クメールの王ジャヤヴァルマン7世は大乗仏教を信じました。それ以降、アンコール・ワットはしだいに仏教寺院になり、ヒンドゥー教の像の多くが仏教の像に取り替えられました。さらにのち、上座部仏教がカンボジアの主流になり、アンコール・ワットはずっと重要な仏教の聖地でありつづけています。\nアンコール遺跡群のなかでもっとも保存状態がよく、建ってから今日まで線香の火が途切れたことのない、唯一の寺院でもあります。\n一つの建物が、二つの宗教に順番に仕えたのです。\nクメール・ルージュを生き延びた さらに過酷なものも生き延びました。\n1975年から1979年、クメール・ルージュがカンボジアを支配し、宗教の廃止を宣言しました。寺院は倉庫、豚小屋、監獄に作り替えられ、僧は還俗を強いられ、多くが殺されました。数百年にわたってほとんどすべての男性が一生のうち一時期出家してきた国で、僧団は根が絶たれかけました。\nアンコール・ワットは残りました。クメール・ルージュはこれを国の象徴とし、その輪郭を自分たちの国旗に描きました。1979年以降、僧たちが一人また一人と寺に戻り、線香の火がまた灯りました。\n征服ではない ヒンドゥー教と仏教は、どうやって東南アジアに来たのでしょう。\nフランスの学者ジョルジュ・セデスは、20世紀の半ばに「インド化した国家」という概念を示しました。彼は、紀元の初めごろから、東南アジアの大陸部と島々に、インドの宗教、サンスクリット、王権の観念、法律、芸術を王室が用いる国々が次々と現れたことに注目しました。扶南、真臘、チャンパ、シュリーヴィジャヤ、マタラム……。\nけれどこれは、インドが攻めてきたのではありません。インドは歴史上、東南アジアに大規模な植民地的征服をほとんど行っていません。伝わったのは主に二つの道でした。\n商路：インド洋のモンスーンの航路が、インドの商人、バラモン、僧を、東南アジアの港のあいだで行き来させた。 王室が自ら取り入れた：東南アジアの支配者たちは、インドの宗教や王権の観念（たとえば「神王」）が自分の後ろ盾としてよく役立つと気づき、自分からバラモンや僧を招いた。 セデスの具体的な説明は、その後かなり修正され、学者たちは東南アジアの現地の人々の主体性をより強調するようになりました。インドが「輸出」したのではなく、東南アジアが「選んだ」のだ、と。いずれにせよ、軍隊のない伝播でした。\n多神教の「拡大」 ネットには、よく言われる説があります。「多神教は一神教にかなわない」。理由は、一神教は排他的で布教の衝動があるが、多神教は寛容で、拡大する気がない、というものです。\nアンコール・ワットは、この説のたいへん固い反例です。\n千年あまりのあいだに、ヒンドゥー教と仏教は東南アジア全体に広がりました。インドネシアのジャワ島には、ボロブドゥール（仏教）とプランバナン（ヒンドゥー教）があり、どちらも9世紀の建立です。バリ島は今日もヒンドゥー教が中心で、ミャンマー、タイ、ラオス、カンボジアは、今日いずれも上座部仏教の国です。\nインドネシア・中部ジャワのボロブドゥール。9世紀に建てられた仏教の大塔。今、周りに住んでいるのは、大半がムスリムである。　出典：Wikimedia Commons、Zaenulihsan91 撮影、CC BY-SA 4.0\nプランバナン。ボロブドゥールからそう遠くないヒンドゥー教寺院群で、やはり9世紀の建立。同じ平野に、仏塔と一群のヒンドゥー教寺院が、数十キロを隔てて、ほぼ同じ時期に建てられた。　出典：Wikimedia Commons、CEphoto, Uwe Aranas 撮影、CC BY-SA 3.0\n仏教はさらに遠くへ広がりました。インドから中央アジア、中国、朝鮮半島、日本、チベット、東南アジアへ。創造神を中心としない宗教が、人類史上もっとも広く伝わった宗教の一つになりました。\nでは東南アジアのイスラームは 東南アジアのイスラームも、おもしろい対照を示します。\n今日のインドネシアは、世界でムスリムがもっとも多い国です。けれど、イスラームが東南アジアの島々に広がったのも、主に戦によるものではなく、先のヒンドゥー教や仏教と同じように、商路によるものでした。アラビア、ペルシア、インドのムスリム商人、港市の支配者が自ら改宗したこと、スーフィーの宣教師です。\nですから東南アジアでは、多神教であれ仏教であれ一神教であれ、伝わり方はほぼ同じです。商船に乗ってやってきて、土地の王に選ばれる。\n逆から見る もちろん、一神教は確かにより組織的で、布教の意欲が強いことが多いのです。ローマ帝国のキリスト教化も、アラブ帝国のイスラーム化も、確かに政治力・軍事力を伴っていました。\nけれど宗教の伝播を「教義の強弱」に帰すと、いちばん大事なものを取りこぼします。道です。ひとつの宗教がどこまで行けるかは、どの商路に乗ったか、どの王室を説き伏せたかで決まることが多く、神の数だけでは決まりません。\nあなた自身の信仰や価値観は、誰かに説得されたものですか。それとも、たまたまその道の上に生まれたのですか。\n参考資料\nGeorge Coedès, The Indianized States of Southeast Asia（英訳1968） アンコール・ワットの建設（スーリヤヴァルマン2世、12世紀初め、ヴィシュヌに捧げる）と仏教寺院への転換：通説の史実 ボロブドゥール、プランバナン（9世紀）；バリ島のヒンドゥー教；東南アジアにおけるイスラームの商路による伝播：通説の史実 クメール・ルージュ期（1975–1979）の宗教廃止：通説の史実 画像の出典は各図の説明に記載 ","permalink":"https://tentao.pages.dev/ja/duoshe/w16/","summary":"\u003ch2 id=\"ヴィシュヌに捧げられた寺院\"\u003eヴィシュヌに捧げられた寺院\u003c/h2\u003e\n\u003cp\u003eカンボジアのアンコール・ワットは、面積およそ162ヘクタールで、一般に世界最大の宗教建築とされています。\u003c/p\u003e\n\u003cp\u003e\u003cimg alt=\"アンコール・ワット\" loading=\"lazy\" src=\"/img/duoshe/w16/01.jpg\"\u003e\u003c/p\u003e\n\u003cp\u003e\u003cem\u003eアンコール・ワットの第一層と第二層の正面。西を向いている。ヒンドゥー教では、西はヴィシュヌの方角であり、死の方角でもある。　出典：\u003ca href=\"https://commons.wikimedia.org/wiki/File:First_and_second_level_fa%C3%A7ades_-_Angkor_Wat_%286201907061%29.jpg\"\u003eWikimedia Commons\u003c/a\u003e、Jorge Láscar 撮影、CC BY 2.0\u003c/em\u003e\u003c/p\u003e","title":"世界最大の宗教建築はなぜインドにないのか"},{"content":"一組の数字 2025年、ピュー研究所は、2010年から2020年にかけての世界の宗教人口の変化を集計した報告書を発表しました。\nほとんどの宗教が増えています。ムスリムは3億4700万人、キリスト教徒は1億2200万人、ヒンドゥー教徒は1億2600万人、無宗教の人は2億7000万人増えました。\n例外は一つだけ。仏教徒は3億4300万人から3億2400万人に減り、約1900万人少なくなって、世界人口に占める割合は4.9%から4.1%に下がりました。\n十年のあいだに、人数が減ったのは仏教徒だけだった。　データ：ピュー研究所、2025\nこの十年で、実数が減った唯一の大きな宗教です。\n理由その一：高齢で、子どもが少ない ピューの分析によれば、仏教徒は世界のあらゆる宗教集団のなかで最も高齢で、最も子どもが少ない集団です。2020年の仏教徒の年齢の中央値は40歳で、世界の中央値より9歳高く、2010年から2015年の仏教徒の平均出生率は約1.6にとどまり、人口置換水準を下回る唯一の宗教集団でした。\nこれは仏教徒がどこに住んでいるかと関係があります。仏教徒の98%はアジア太平洋地域に住んでおり、そこにある国や地域の多く、つまり中国、日本、韓国、台湾、タイは、まさに世界で最も子どもが生まれない場所なのです。\n理由その二：去った けれどそれは半分にすぎません。もう半分のほうが胸にこたえます。子どものころ仏教徒だった多くの人が、大人になって去っているのです。\nピューのデータでは、仏教徒の家庭で育った成人100人のうち22人がすでに仏教徒でなくなっています。一方、ほかの宗教や無宗教から仏教徒になった人は12人だけです。入る人と出る人を差し引くと、10人の純減です。\n仏教徒の家庭で育った成人100人あたり、22人が出て、12人が入った。　データ：ピュー研究所、2026\n東アジアでは、流出がとくに深刻です。日本では子どものころ仏教徒だった人の約半分が、韓国では約六割がすでに離れています。その多くはほかの宗教に改宗したのではなく、「無宗教」になりました。\n2010年から2020年に、中国大陸、日本、韓国、台湾、香港の仏教徒は合わせて約3200万人減り、約22%下がりました。\nなぜ人をつなぎとめられないのか 数字が語れるのは「何が起きたか」だけで、「なぜ」には解釈が要ります。以前に保存していたもののなかに、なかなか興味深い見方があったので、一つの解釈として参考にします。\nそのネットユーザーは、東アジアの仏教は「願い事の池」のようなものだと言っていました。困ったことがあれば行って、線香を一本あげ、おみくじを引く。何もなければ思い出しもしない。隣で線香をあげている人は知らない人で、寺の僧も知らない。次にいつ来るかもわからない。\nキリスト教の教会やイスラームのモスクは「地域社会」の位置を占めています。毎週集まり、信者どうしが知り合い、助け合い、冠婚葬祭には世話をする人がいる。それほど敬虔でない人でも、そうした関係があるから残るのです。\n彼にはもっと鋭い見方もありました。仏教のいちばん魅力的な「商品」、つまり瞑想、菜食、簡素な暮らしは、世俗社会に持っていかれた、というのです。瞑想はマインドフルネスのアプリやメンタルヘルスの講座になり、菜食は健康や環境のための選択になり、少欲知足はミニマリズムのデザインになりました。人はこれらを、仏教徒にならなくても楽しめます。\nこれは一人のネットユーザーの解釈であって、研究の結論ではありません。ただ、社会学のいくつかの議論とは合っています。ある宗教が人をつなぎとめられるかどうかは、それが人々の暮らしの網に嵌まり込んでいるかどうかに大きくかかっているのです。\n逆から見る 「仏教は衰えている」という結論にも、余地を残しておく必要があります。\n第一に、集計の基準。 東アジアでは、多くの人がアンケートで自分を「仏教徒」だとは答えませんが、寺に行き、家に仏を祀り、僧を呼んで供養をしてもらいます。社会学者の楊慶堃はこれを「拡散的宗教」と呼びました。独立した組織のなかにではなく、家庭や祭りのなかに散らばっているのです。アンケートが測った「離脱」のうち、一部は単に「仏教徒」というラベルを使わなくなっただけかもしれません。\n第二に、地域差が非常に大きい。 タイでは、子どものころ仏教徒だったほぼすべての人が、今も自分を仏教徒だと考えています。仏教が東アジアで縮んでいても、東南アジアでもそうだとは限りません。\nラオスのルアンパバーンの早朝。女性が小さな沙弥にもち米を布施している。上座部仏教の国では、仏教は今も毎日の朝食のなかにある。　出典：Wikimedia Commons、shankar s. 撮影、CC BY 2.0\n第三に、影響力と人数は別のものです。 仏教の考え方や修行法は、西洋の知識層や中間層のあいだで影響を強めています。大衆の宗教としては信者が減っていても、思想の資源としては広がっているかもしれません。\nこれは私たち自身への警告 この記事のデータを読みながら私が思うのは、仏教のことではなく、儒家のことです。\n東アジアの仏教の姿は「願い事の池」です。願いがあるときだけ来て、願ったら帰る。寺と人のあいだに網がありません。今日の儒家はもっとひどい状態で、願い事の池ですらありません。祠堂は壊され、族譜は途切れ、残っているのは清明のその一日、それぞれが故郷に帰って紙を一束燃やすことだけです。\nだから私はずっと、儒家が生き延びるには「文化」だけに頼ってはいけないと思ってきました。毎週、毎月、人が集まれる場所が要ります。そこには自分を知っている人がいて、何かあれば世話をしてくれる人がいる。教会とモスクはこれをやりとげましたし、東南アジアの会館や宗親会もかつてやりとげました。仏教のこの教訓は、私たちの代わりに先に学んでくれたものです。\nある宗教のいちばん価値ある部分が、その宗教から離れて存在できるなら、それでもその宗教は宗教として存在する必要があるのでしょうか。\n参考資料\nPew Research Center, \u0026quot;How the Global Religious Landscape Changed From 2010 to 2020\u0026quot;, 2025 Pew Research Center, \u0026quot;Why is Buddhism shrinking worldwide?\u0026quot;, 2026-03-11 C. K. Yang（楊慶堃）, Religion in Chinese Society, 1961 ネットユーザーの回答（2026-02、ネットユーザーの見方として引用。研究上の結論ではない） 画像の出典は各図の説明に記載 ","permalink":"https://tentao.pages.dev/ja/duoshe/w17/","summary":"\u003ch2 id=\"一組の数字\"\u003e一組の数字\u003c/h2\u003e\n\u003cp\u003e2025年、ピュー研究所は、2010年から2020年にかけての世界の宗教人口の変化を集計した報告書を発表しました。\u003c/p\u003e\n\u003cp\u003eほとんどの宗教が増えています。ムスリムは3億4700万人、キリスト教徒は1億2200万人、ヒンドゥー教徒は1億2600万人、無宗教の人は2億7000万人増えました。\u003c/p\u003e","title":"仏教、縮んでいる唯一の大きな宗教"},{"content":"造られなかった車 2006年、タタ・グループは、西ベンガル州のシンガー（Singur）に工場を建て、「世界でいちばん安い車」ナノを作ろうとしました。当時、西ベンガル州政府は、タタのためにおよそ997エーカーの土地を収用しました。イギリス人が残した1894年の「土地収用法」によってです。\nタタ・ナノ。もとは西ベンガル州のシンガーで生産する予定だったが、2008年に土地をめぐる衝突のためグジャラートへ移った。　出典：Wikimedia Commons、The original uploader was Nikkul at English Wikipedia.、CC BY-SA 2.0\nそのうち約400エーカーは、売りたくない農民から取り上げたものでした。抗議、道路封鎖、暴力的な衝突が次々に起きました。2008年10月3日、タタはシンガーからの撤退を表明し、10月8日、ナノの工場をグジャラート州のサナンドに移すと発表しました。\nこの件の影響は、一つの工場よりはるかに大きなものでした。\n左翼戦線が、2011年の州選挙で34年の政権を終えた、重要な理由の一つと見られている。 その後の立法に直接影響した。2013年、インドは「土地収用における公正な補償、透明性、再定住に関する法」を成立させ、政府が民間企業のために収用する土地には影響を受ける世帯の80%の同意が、官民連携事業の場合は70%の同意が必要と定めた。 シンガーには後日談があります。2016年8月31日、最高裁は当時の収用の過程全体を違法と判断し、12週間以内に土地を農民に返すよう命じました（補償を受け取った農民は返金不要）。\nそれ以来、インドの産業界と政治家は、この件をずっと覚えています。\nまず、土地そのもの インドの土地のもっとも顕著な特徴は、細かく分かれていることです。\n2015〜2016年の全国農業センサスによれば、\n農家一戸あたりの平均経営面積は1.08ヘクタールしかない。 零細農家（1ヘクタール未満）は全農家（経営単位）の約68.5%を占め、一戸あたり平均0.38ヘクタールで、合わせても耕地の約四分の一しかない。 小農家と零細農家（2ヘクタール未満）を合わせると農家の86.2%を占めるが、耕地は47.3%しかない。 零細農家の平均耕地面積は、この四十年、ほとんど変わっていない。 つまり、一つの村の土地が、無数の細長い小さな区画に分けられ、それぞれが別の家族のものであり、しかも相続によってさらに分割され続けています。子どもを産むことで、一人あたりの面積が下がり続けていく仕組みです。\n工場を建てたい人にとっては、こういうことです。100ヘクタールの土地の背後に、数百の世帯、数百の権利があるかもしれない。一人ひとりに、同意するか否かの権利がある。交渉の卓は大きく、議題は長くなります。\nもう一つ、インドの土地がどれほど「厄介」かを示す数字があります。裁判所です。研究機関DAKSHが2016年に行った全国調査によれば、地方裁判所の民事事件のおよそ三分の二が、土地と不動産に関係しています。政策研究センター（CPR）の政策報告が引くデータによれば、一件の土地収用紛争が、始まりから最高裁まで行くのに、平均で二十年かかります。工場が必要とする土地のうち、一区画の権利証が不明確なだけで、裁判所で半生を過ごすことになりかねません。\nなぜ農民は売りたがらないのか 農民の側から見ると、売らない理由はいくつかあり、どれもごく現実的です。\n2014年のシンガー。アジアハイウェイ1号線が通っている。　出典：Wikimedia Commons、Biswarup Ganguly、CC BY 3.0\n一、土地が唯一の保障である。 インドの農村の社会保障は薄く、土地は生産手段であるとともに、年金であり、保険であり、身分でもあります。売ってお金を使い果たせば、あとには何も残りません。\n二、工場が仕事をくれるとは限らない。 農民が土地を売っても、工場が採用するときに求める技能は持っていないかもしれません。ある事業では、結局、地元の人はごくわずかしか雇われませんでした。\n三、補償と実際の価値のあいだの距離。 歴史上のいくつかの事業では、土地が安く収用され、あとで開発業者に高く転売されました。そうしたことが、信頼の赤字を積み上げました。\n四、権利が明確でない。 インドの土地の大半の権利記録は、「推定の権利」です。登記記録は、誰がその土地を所有しているかを完全には証明せず、暫定的な証明にとどまります。これが「土地を売る」こと自体を複雑にし、紛争も生みやすくしています。\n工場を建てにくくするほかのこと 土地は、そのうちの一つの扉にすぎません。\n労働法。 長いあいだ、インドの労働法は複雑で、関連する中央の法律が29ありました。そのうち一つは、従業員が100人を超える工場が解雇するには、政府の承認が要る、と定めていました。そのため、多くの企業はこの線を越えないよう、小規模のままでいることを選びました。工場長の最高目標が、99人で止まることだというところもありました。\n2025年11月21日、四つの新しい労働法典が同時に施行され、これらの法律を統合しました。変化の一つは、解雇に政府の承認が要る基準が、100人から300人に引き上げられたことです。2017〜2018年の工業年次調査のデータからの推計では、この線の上にとどまる工場は7%ほど（約16%の労働者を雇用）しかなく、つまり約93%の工場は、承認なしに解雇できるようになりました。労働組合や一部の批判者は、労働者の権利を弱めるものだと言い、支持者は、企業が規模を広げて、より多く雇う気になると言います。\n州ごとの違い。 インド憲法では、土地は各州の管轄です。このため、ある企業がグジャラート州で享受できる承認の速さは、西ベンガル州とはまったく違うかもしれません。\nインフラ。 電気、水、港、道路。これらも問題ですが、この一編の範囲を超えます。さもなければ、この一編が書き終わりません。\nけれど成功しているところもある 「インドは何も建てられない」と言うのも、正しくありません。\nアップルの例。 2025年、アップルはインドで約5500万台のiPhoneを組み立て、世界の生産量の約四分の一を占めました。インドにはすでに五つのiPhone工場があり、三つはタタ・グループ、二つはフォックスコンのものです。フォックスコンがバンガロール郊外に建てた約26億ドルの新工場は、2025年後半にiPhone 17などの機種の生産を始めました。（詳しくは『盗まれた三十年』を参照。）これらの工場はおもにタミル・ナードゥ、カルナータカのような州にあり、そのやり方は、州政府があらかじめ「工業団地」を整え、土地、電気、水を一括して企業に提供するものです（タミル・ナードゥの州営工業団地開発公社SIPCOTがその一例）。\n「土地プール」の方法。 アーンドラ・プラデーシュ州は2015年、新しい州都アマラヴァティを建てるために、農民が自発的に土地を「出資」し、政府が一括して開発し、そのあと開発済みの土地の一部を割合に応じて農民に返す仕組みをとりました。報道によれば、2015年3月には農民の同意が3万3000エーカー分得られました。これは強制収用を迂回する一つの試みでした。この事業はその後、政権交代でたびたび揺れ、現在の進み具合は詳しくは調べていません。\nつまり、問題は「まったく不可能」ではなく、遅いか、数百の世帯を調整できる州政府が要るか、のどちらかです。\n最後までいかなかった改革 政治的な記憶をもう一つ。\n2014年にモディ政権が発足した当初、2013年の土地収用法を改正し、一部の事業（国防、農村インフラなど）を「同意が要る」という要件から除外しようとしました。2014年12月に大統領令の形で打ち出しましたが、のちに上下両院とも通過せず、2015年8月に大統領令は失効しました。\n2020年9月、政府はさらに三つの農業改革法を打ち出しましたが、農民（とくにパンジャーブとハリヤーナーの）は保護が弱まると考え、デリー周辺で一年あまり抗議を続け、2021年に政府はそれらの法律を撤回しました（『忘れられた少数派』で触れました）。\nこの二回は、インドでは「改革」が農民の土地に触れると、政治的なコストがきわめて高いことを示しています。\n逆から見る 第一に、「土地収用が難しい」ことには正当性があります。 独立以来、大規模なダム、鉱山、工業地帯のために、多くの人が土地を失い、その多くは部族民や貧しい農民で、補償と再定住は十分でないことが多かったのです。この歴史が、「同意」を障害ではなく保護にしました。\n第二に、問題の根は「同意が要る」ことではなく、「代わりがない」ことだと考える人もいます。 土地を売る農民が、安定した仕事、妥当な補償、新しい住まいを得られるなら、売ろうとする人はずっと増えるでしょう。つまり、足りないのは同意の制度ではなく、仕事です。\n第三に、「速い」ことにもリスクがあります。 国が速いやり方で農民の土地を産業に転用すると、問題もかなり起きます。たとえば2007年の西ベンガル州ナンディグラム衝突も、化学工業の特別区のための収用が原因でした。2007年3月14日、警察が発砲し、公式発表で村人14人が死亡しました。\nある国の農民が、実は小さな土地を「保険」として頼っているなら、それに代わるよりよい保障がないうちに、どうやって彼らに土地を譲るよう説得しますか。\n参考資料\nインド農業センサス 2015–16（平均農家規模1.08ヘクタール；零細農家65.45%） 『Right to Fair Compensation and Transparency in Land Acquisition, Rehabilitation and Resettlement Act, 2013』 シンガーとタタ・ナノに関する報道（Finshots、The Wire、Open 誌） インド労働雇用省およびメディアによる四つの労働法典（2025年11月21日施行）の紹介（Deccan Herald、India Briefing、Kotak MF など）；批判側の見方（Janata Weekly） Counterpoint / Asymco / ETV Bharat / Business Today：インドでのiPhoneの生産量と輸出 DAKSH『Access to Justice Survey』2016（Bar \u0026amp; Bench 2017 の紹介）；CPR『Policy Challenges 2019–2024』の土地紛争に関する論文 🟡 ","permalink":"https://tentao.pages.dev/ja/manche/w18/","summary":"\u003ch2 id=\"造られなかった車\"\u003e造られなかった車\u003c/h2\u003e\n\u003cp\u003e2006年、タタ・グループは、西ベンガル州のシンガー（Singur）に工場を建て、「世界でいちばん安い車」ナノを作ろうとしました。当時、西ベンガル州政府は、タタのためにおよそ997エーカーの土地を収用しました。イギリス人が残した1894年の「土地収用法」によってです。\u003c/p\u003e","title":"インドの土地：なぜ工場を建てるのがこれほど難しいのか"},{"content":"どこかで見たような形 まず、いくつかの物語を見てみましょう。\n人はもともとエデンの園に住んでいたが、原罪によって堕落した。将来は、贖いによって天国に入る。 イスラエルにはかつて輝かしい王国があったが、背信のために流浪した。将来はメシアが来て、国を再建する。 人はもともと階級のない原始社会に生きていたが、のちに階級的抑圧と疎外に陥った。将来は共産主義に入る。 内容はまったく違うのに、形はまったく同じです。完全な過去 → 苦難の現在 → 輝く未来。\n大ルーカス・クラーナハ『楽園』、1530年。一枚の絵のなかに、人の創造から、果実を盗み、追放されるまでが、一度に描かれている。すべては完全な園から始まる。　出典：Wikimedia Commons、ウィーン美術史美術館蔵、パブリックドメイン\n普段保存していたものに、この構造を「三幕の物語」と呼び、歴史上もっとも広く伝わった宗教やイデオロギーはほとんどこの形を使っている、とする回答がありました。その力は四つの点にあります。過去と現在を比べると、感情が一気に高まる。目の前の苦しみを耐えられるようにする。未来のためにすべてを投げ打てるようにする。そして「かつて完全な過去があった」ことが、完全な未来が可能だと証明する。\n直線の時間 この観察は、宗教史学者の研究と合っています。\nルーマニア出身の宗教学者ミルチャ・エリアーデは、1949年の『永遠回帰の神話』で、二つの時間観を区別しました。\n循環する時間：世界は繰り返され、毎年、各時代が、最初の聖なる出来事を再演する。多くの古代文明の祭りと神話は、この時間観の上に築かれている。 歴史の時間：時間は始まりと終わりのある直線で、歴史は最終的な目標に向かって進む。エリアーデは、この時間観はヘブライの伝統でとくに際立ち、のちにキリスト教を通じて西洋全体に影響したと考えた。 「三幕の物語」は、直線の時間のもっとも典型的な物語の形です。歴史には方向があり、苦難には意味があり、終点は待つに値する。\n仏教が三幕の物語を語りはじめたとき では、循環する時間を土台とする宗教は、大衆を動員できないのでしょうか。\n中国の歴史に、とてもおもしろい例があります。仏教の核心は輪廻です。衆生は六道のなかで生死を流転し、解脱は自分で修行して、この輪から抜け出さなければならない。この物語の形は、生まれつき大規模な動員にはあまり向いていません。\nけれど中国では、仏教のなかに別の説がしだいに生まれました。弥勒下生です。今は末法の時代で、世の中は悪くなった。将来、弥勒仏が人間世界に降りてきて、清らかで平和な世界を開く。これは標準的な三幕の物語です。\n杭州の飛来峰の弥勒造像、宋代。今日私たちがなじんでいる、笑顔の太った僧の姿は、歴代の蜂起した人々にとって、「新しい天地」の約束だった。　出典：Wikimedia Commons、Mr. Tickle 撮影、CC BY-SA 3.0\n隋唐から明清まで、「弥勒下生」は民間の蜂起の旗印として何度も使われました。元末の紅巾軍は「弥勒降生」「明王出世」を掲げて兵を挙げました。白蓮教のような民間教派も、こうした末世の救済の説を、民間の組織と結びつけました。\nヨーロッパも同じです。歴史学者ノーマン・コーンは『千年王国の追求』（1957）で、中世ヨーロッパの千年王国運動を次々と追いました。預言者が終末が近いと告げ、「選民」に立ち上がって悪を一掃し、地上に天国を築くよう呼びかけたのです。\n太平天国 中国の近代で最大の三幕の物語は、太平天国でした。\n洪秀全は言いました。上古の中国人はもともと「皇上帝」を拝んでいたが、秦の始皇帝以来の「妖魔」に誤らされた。いま上帝は私を下界に遣わして妖を斬らせ、地上に「小天堂」を築かせようとしている。そこでは誰もが田を持って共に耕し、飯を共に食べる、と。\n太平天国のある軍官の木印。地上の天国を約束した政権が残したものは、多くがこうした印、旗、貨幣と、十数年の戦乱だった。　出典：Wikimedia Commons、三猎撮影、CC BY-SA 4.0\n完全な過去（上古に上帝を拝んだ）、苦難の現在（満洲の「妖魔」）、輝く未来（小天堂）。三幕がそろっています。それが動員した人々は、広西の山のなかの数千人の拝上帝会の信徒から、中国の半分を占めるまでになりました。この戦争で死んだ人の数は、よく挙げられる推計で二、三千万人です。\n三幕の物語のもう一つの面 三幕の物語は動員力が強い一方で、危険も持っています。\nある集団が「未来は完全であり、私たちはそれを実現する者だ」と信じてしまうと、目の前のあらゆる代価が「それだけの価値がある」と言われうるようになります。「輝く未来」のために、目の前の人間を犠牲にできる。「苦難の現在」には責任を負う者が必要で、そこで敵を見つけなければならなくなる。\nラッセルは『西洋哲学史』で、まさにこの構造でマルクス主義を分析しました。選民（プロレタリアート）、審判の日（革命）、千年王国（共産主義社会）。彼は、ユダヤ・キリスト教に由来するこの感情の構造こそが、この理論を信じられるものに見せていると考えました。\n今日の三幕の物語 この形は、今日も使われています。\nあなたも、この一式にはなじみがあるかもしれません。中華民族には五千年の輝かしい文明があった（完全な過去）。アヘン戦争以後、百年あまりの屈辱を経験した（苦難の現在）。いま、中華民族の偉大な復興を実現する（輝く未来）。2012年以降、「復興」は、もっともよく耳にする公式の言い方の一つになりました。\n形が同じなら、力も同じです。人に耐えさせ、差し出させ、同時に「私たちに屈辱を与えた者」を必要とします。弥勒下生や太平天国と違うのは、語り手が国家を手にしているところです。\n「復興」という願い自体が間違っていると言っているのではありません。自分の文明がもう一度敬意を持たれてほしいと思うのは、ごく自然な考えで、私自身も持っています。ただ一言、注意を促したいのです。この形を聞いたら、誰が語っているのか、なぜ語っているのかをもう一度問い、未来が来たとき、勘定が誰に回されるのかも問うてほしい、と。\n逆から見る 「三幕の物語がすべてを説明する」という言い方自体にも、注意が要ります。\n第一に、それはほとんどどんな物語にも当てはまります。 すべてを説明できる枠組みは、具体的なことをたいてい何も説明できません。\n第二に、循環する時間観の宗教も、同じように遠くまで広まりました。 輪廻を土台とするヒンドゥー教と仏教は、南アジア、東南アジア、東アジアに広がりました。仏教の大規模な伝播は、弥勒下生のような末世の説に主に頼ったものでもありません。\n第三に、中国の伝統にある「気数」の観念は、もう一つの力のある説です。 治乱の循環、天命の移り変わりも、人を動員できます（「彼取りて代わるべきなり」）。ただ、約束するのは「歴史の終わり」ではなく「次の一巡」です。\nですから、より穏当な言い方はこうです。三幕の物語は、人を動員するのにとくに優れた物語の形ですが、唯一のものではありません。\nあなたが最後にこういう物語に心を動かされたのは、いつですか。\n参考資料\nMircea Eliade, Le Mythe de l'éternel retour, 1949 Norman Cohn, The Pursuit of the Millennium, 1957 Bertrand Russell, A History of Western Philosophy, 1945 元末の紅巾軍の「弥勒降生」のスローガン、太平天国の「小天堂」と戦争死者数の推計、「中華民族の偉大な復興」という公式の表現：通説の史実 ネットユーザーの回答（2026-05、ネットユーザーの見方として引用） 画像の出典は各図の説明に記載 ","permalink":"https://tentao.pages.dev/ja/duoshe/w18/","summary":"\u003ch2 id=\"どこかで見たような形\"\u003eどこかで見たような形\u003c/h2\u003e\n\u003cp\u003eまず、いくつかの物語を見てみましょう。\u003c/p\u003e\n\u003cul\u003e\n\u003cli\u003e人はもともとエデンの園に住んでいたが、原罪によって堕落した。将来は、贖いによって天国に入る。\u003c/li\u003e\n\u003cli\u003eイスラエルにはかつて輝かしい王国があったが、背信のために流浪した。将来はメシアが来て、国を再建する。\u003c/li\u003e\n\u003cli\u003e人はもともと階級のない原始社会に生きていたが、のちに階級的抑圧と疎外に陥った。将来は共産主義に入る。\u003c/li\u003e\n\u003c/ul\u003e\n\u003cp\u003e内容はまったく違うのに、形はまったく同じです。完全な過去 → 苦難の現在 → 輝く未来。\u003c/p\u003e","title":"三幕の物語"},{"content":"よくある直感 東アジアの低出生率が議論されるとき、私はよくこんな言い方を目にします。私自身、かつてかなり納得していました。世俗化した社会には子どもが生まれなくなる運命があり、高い出生率を支えられるのは宗教に動かされる人々だけだ。だから東アジアは、宗教を見つけるか、衰えていくかのどちらかだ、と。\nこの説を支える例は、たいてい、イスラエルです。先進国で、合計特殊出生率が3に近く、超正統派はさらに高い。\nこの直感は、一部は正しいのです。多くの国の調査で、敬虔な集団ほど、平均して子どもが多いからです。\nけれど、「宗教が出生率を決める」が法則だとすると、イランは説明しにくくなります。\nイランの数字 1979年のイスラーム革命のあと、イランは宗教学者が指導するイスラーム共和国になりました。革命の初期、政府は出産を奨励し、パフラヴィー朝時代の家族計画事業は棚上げされました。\n1980年代の初め、イランの合計特殊出生率は、女性一人あたり7人近くでした。\nその後、数字は下がりはじめます。1988年に約5.5、1996年には2.8を下回り、八年で半分になりました。2000年前後には人口置換水準の約2.1まで下がり、その後もさらに下がって、置換水準を割りました。\nイランの合計特殊出生率。本文で使った四つの概数だけを示した。点と点のあいだの破線は目安にすぎない。　データ：Abbasi-Shavazi ほか、2009\n人口学者のアッバシ＝シャヴァジらは、イランの出生力転換についての著書で、これは記録に残る限りで最大規模かつ最速の出生率低下の一つだと述べています。\n神権国家が、多くの国で数十年、あるいは百年もかかった道のりを、二十年足らずで歩みきったのです。\n宗教指導者はどちらの側に立ったか さらに意外なのは、この低下が宗教に逆らって起きたのではないことです。\n1980年代末、イランはイラン・イラク戦争を終えたばかりで、人口が増えすぎ、経済、雇用、教育が耐えられなくなっていました。1989年12月、政府は全国的な家族計画を再開しました。女性が出産の間隔を三、四年あけるよう奨励し、18歳未満と35歳以上の妊娠を勧めず、一家の子どもは最大三人までとすることを提唱しました。\n重要な一歩は、宗教上の正当性を得たことです。宗教指導者たちは、毎週の説教で小さな家族を社会的責任として語り、さらに、避妊と産児制限はイスラーム法上許されるという教令も出しました。\n同時に、イランの女性の教育水準が大きく上がり、都市と農村の医療網は辺地にまで広がり、避妊具は無料で配られました。\n2017年のテヘランの古い通り。今日のイランの大学生は、女子のほうが男子より多いことが多い。　出典：Wikimedia Commons、somiz 撮影、CC BY-SA 2.0\nそして、向きがまた逆になった 話はまだ終わりません。\n2000年代以降、イランの出生率はずっと置換水準を下回っていました。2012年、最高指導者ハメネイは公の場で、人口抑制政策は1990年代半ばにはもうやめるべきだったと述べ、2014年には、出産を奨励する「総合人口政策」を正式に打ち出しました。その後、イランは多産を奨励する方向に転じ、避妊サービスも少しずつ絞られました。\nけれど、出生率はあまり戻りませんでした。\n中国の側 この筋書きは、東アジアの人にとっても見慣れたものです。\n中国は1980年から一人っ子政策を進め、三十年あまり実行しました。多くの地域では、罰金、避妊リング、不妊手術、中絶の強制に頼りました。2016年に二人目が解禁され、2021年に三人目が解禁され、その後各地で育児補助金が出されて出産が奨励されるようになりました。\n向きは百八十度転換されましたが、出生率はそれについて戻ってはきませんでした。押し下げるには、行政の機構全体が使われました。引き戻そうとして初めて、その機構は押すことしかできず、引くことはできないとわかったのです。あの年月、罰金を科され、家を壊され、病院に連れていかれた家庭が、のちに「もっと産め」と呼びかけられたとき、どんな気持ちだったか。誰も彼らに尋ねたことがありません。\n出産については、あとで『時事』（Current Affairs）のシリーズで改めて書きます。ここでは一言だけ。イランは宗教的権威が方向を変え、中国は行政的権威が方向を変えましたが、方向を変えたあとの結果は、だいたい同じです。\nこれが示すこと イランの例は、少なくとも三つのことを示しています。\n第一に、宗教的権威は産児制限を支持することもできるし、出産を支持することもできます。 同じ宗教の体制が、時期によって正反対の指示を出しました。宗教は「出生率を上げることしかできない機械」ではなく、教義の解釈は現実に合わせて調整されます。\n第二に、教育、都市化、医療、経済的な圧力は、非常に強力です。 女性が学ぶようになり、子どもを育てるのにお金がかかるようになれば、神権国家でも、出生率は急速に下がります。\n第三に、出生率がいったん下がると、呼びかけだけで引き戻すのは困難です。 東アジアの国々が、今まさにこれを経験しています。\n逆から見る 宗教が出生率に影響しないと言っているのではありません。同じ国のなかでは、敬虔な集団のほうが確かに子どもが多い傾向があります。イスラエルの超正統派がその例です。イギリスの学者エリック・カウフマンは、『宗教的な人々は地球を受け継ぐか』（2010）で、宗教的保守の集団の人口上の優位を論じています。\nしかし、「集団内部の相関」と「一つの国全体の出口」は、別の話です。宗教を出生率を上げる鍵と見なすのは、宗教を過大評価し、現代の暮らしを過小評価しているのかもしれません。\n人が子どもを持つかどうかを決めるのは、何が一番大きいと思いますか。\n参考資料\nMohammad Jalal Abbasi-Shavazi, Peter McDonald, Meimanat Hosseini-Chavoshi, The Fertility Transition in Iran, Springer, 2009 Eric Kaufmann, Shall the Religious Inherit the Earth?, 2010 イランの1989年の家族計画再開、避妊を支持する宗教的教令、2012年の政策転換、2014年の「総合人口政策」：通説の史実と研究の概観 中国の一人っ子政策（1980）、二人目（2016）、三人目（2021）：通説の史実 画像の出典は各図の説明に記載 ","permalink":"https://tentao.pages.dev/ja/duoshe/w19/","summary":"\u003ch2 id=\"よくある直感\"\u003eよくある直感\u003c/h2\u003e\n\u003cp\u003e東アジアの低出生率が議論されるとき、私はよくこんな言い方を目にします。私自身、かつてかなり納得していました。世俗化した社会には子どもが生まれなくなる運命があり、高い出生率を支えられるのは宗教に動かされる人々だけだ。だから東アジアは、宗教を見つけるか、衰えていくかのどちらかだ、と。\u003c/p\u003e","title":"イランの出生率"},{"content":"あるコメント欄の議論 毎年、清明の前後になると、ネット上にこんな問いが浮かびます。清明に祖先を祀るのは、宗教なのか、と。\n私はあるコメント欄の議論を保存していて、いくつかの立場がなかなか代表的です。\nある人は言いました。「先人を偲ぶことが宗教とどう関係あるの？ 家族を思うのはごく普通の感情でしょう。」 ある人は言い返しました。「じゃあなぜ紙を燃やして、お供えを並べて、叩頭するの？ オッカムの剃刀で言えば、家族を思うのにこんな儀式はいらない。それでも何千年も、中国人は祭り続けてきた。」 宗教学の定義を持ち出す人もいました。「宗教には四つの要素がある。信仰の対象、教義、儀礼、中央集権的な組織。祖先祭祀には教義がなく、組織も散らばっているから、宗教ではない。」 こう言う人もいました。「四つとも揃ってる。祖先、家訓、祭祀、祠堂。ただ今は人がばらばらになって、祠堂がなくなっただけだ。」 この議論がおもしろいのは、本当の問題に触れているからです。「宗教」を定義するのに使っているこの物差しは、そもそもどこから来たのでしょう。\n西洋の物差し 今日の中国語の「宗教」という語は、19世紀末に日本から訳語として移入され、英語の religion に当てられたものです。そして religion という概念は、キリスト教をひな型として育ちました。明確な信仰の対象（神）、成文の教義、独立した組織（教会）、はっきりした成員資格（洗礼）があるのです。\nこの物差しで測ると、仏教や道教はなんとか収まります。しかし祖先祭祀、土地公への参拝、風水、正月の線香などは、測りにくい。教会がなく、入信の儀式がなく、「私は何教の信者です」という身分もありません。\nそこで奇妙なことが起こります。東アジアは各種の国際調査で、「無宗教」の割合が最も高い地域の一つとして挙げられがちです。韓国の2015年の国勢調査では半数以上が無宗教と答え、中国と日本ではその割合がもっと高くなります。\n問いを変える ところが、問い方を変えて、「何教を信じていますか」ではなく「こうしたことをしますか」と聞くと、答えはずいぶん違ってきます。\n正月や節句に、祖先に線香をあげますか。 清明に墓参りをしますか。 寺に行って線香をあげ、おみくじを引いたことはありますか。 結婚や引っ越しのとき、日取りを見ますか。 東アジアでは、こうした問いに「はい」と答える人は、アンケートで「宗教あり」にチェックする人よりも、はるかに多いことがよくあります。\n墓参りの日、墓山に紙銭が舞う。　出典：Wikimedia Commons、chia ying Yang 撮影、CC BY 2.0\n2008年から、清明は中国の法定休日になりました。毎年の清明に、何億もの人が道を急ぐのは、祖先の墓前にしばらく立つためです。これが「信仰」とまったく関係ないとは言いにくいでしょう。\n拡散的宗教 社会学者の楊慶堃は、1961年の『中国社会における宗教』で、今日でも影響力の大きい説明を示しました。\n彼は宗教の形態を二つに分けました。\n制度的宗教：独立した神学、組織、聖職者を持つもの。仏教や道教など。 拡散的宗教：独立した組織を持たず、信仰と儀礼が家庭、宗族、地域社会、国家の営みのなかに散らばっているもの。祖先祭祀は家長が主宰し、社の神は村が維持し、天は皇帝が祭る。 楊慶堃は、中国人の宗教生活は主に拡散的な仕方で存在してきたと考えました。教会はないが、どこにでもある、というわけです。\nこの枠組みで見れば、清明の墓参りはもちろん宗教的な行為です。ただ、その「教会」は家族、「聖職者」は家の年長者、「経典」は代々伝わってきた決まりごとなのです。\n清明も管理されたことがある この拡散的な宗教は、20世紀に打撃も受けました。\n1950年代から、政府は葬送改革を進めました。まず都市で火葬が推進され、のちに農村にも広がり、土葬は少しずつ狭められました。1960〜70年代の「四旧打破」では、祖先祭祀や紙を燃やすことが「封建迷信」とされ、祠堂は壊され、位牌は砕かれ、族譜は燃やされ、多くの土地では墓まで平らにされました。\n2012年、河南省周口は「葬送改革」のために、一年足らずで二百万基以上の墓を平らにしました（公式の数字は246万基）。祖先の墓を平らにしたばかりなのに、翌年の春先にそっと土を盛り直した家もありました。\n教会のない宗教には、代わりに声を上げてくれる人がなく、隠れる場所もありません。それが今日まで生き延びてきたのは、すべて各家庭が一年一年、自分で担ってきたからです。\n南洋の清明 おもしろいことに、この一式は、海外のほうがより完全に守られていることもあります。\nシンガポールのブキット・ブラウン墓地。清明の時期に墓の盛り土に押さえられた五色紙。この華人墓地には十数万人が葬られ、最古の墓碑は清朝までさかのぼれる。　出典：Wikimedia Commons、Jacklee 撮影、CC BY-SA 3.0\nタイの華人の家庭が清明に祖先へ供えたもの。丸ごとの鶏、豚肉、果物、菓子。何世代も前から中国語を話さなくなっているが、供え物の並べ方は覚えている。　出典：Wikimedia Commons、Ubs6u!d-pongsakorn 撮影、CC BY-SA 4.0\nタイ、マレーシア、シンガポールでは、多くの華人が何世代も前から中国語を話さなくなっていますが、清明には今も一家で墓山に上り、供え物を昔のとおりに並べます。パスポートは中国のものではなく、アンケートで「宗教あり」にチェックするとも限りません。それでもこのことを、彼らはずっと続けてきたのです。\n東アジアの宗教性は「する」ことのなかにある では、東アジアは本当に「いちばん宗教を信じない」場所なのでしょうか。\nおそらくもっと正確な言い方はこうです。東アジアの宗教性は「所属」のなかにはなく、「する」ことのなかにある。人々は「私は何教の信者です」とあまり言いませんが、宗教的な意味合いを帯びたことをたくさんしています。\nこれは、「東アジアの人には信仰がないから宗教が必要だ」という言い方が、しばしばしっくりこない理由も説明します。キリスト教をひな型に作った物差しで「空白」を測り出し、それを埋めるために制度的な宗教を急いで探すからです。\n逆から見る けれど、「拡散的宗教」も変わりつつあります。\n都市化で宗族は散り、祠堂はなくなり、多くの若者は一年に清明の一度しか故郷に帰りません。祖先祭祀はだんだん「文化的な習俗」のようになり、信仰の中身を持つ儀礼とは見えにくくなってきています。墓参りをする人が、祖先があちらの世界から自分を見ていると信じていないとしたら、それでも宗教と言えるでしょうか。\nその一方で、拡散的宗教には組織がないからこそ、現代社会ではとりわけ脆いと考える人もいます。人を集める教会がなく、毎週の集まりもなく、家族が散れば信仰も散ってしまう。これが、制度的な宗教が東アジアの都市で伸びてきた理由の一つかもしれません。\nなぜ私はほかならぬ清明を見つめるのか 私が儒家を宗教化したいと言うと、多くの人は私が新しい教えを作ろうとしていると思います。違います。私がほしいものは、じつはずっとそこにありました。祖先祭祀、清明、正月、読める漢字。それが東アジアの人の共通の信仰なのに、これまで誰もそれを宗教として見ず、したがって誰も守ってこなかったのです。\nキリスト教には教会があり、イスラームにはモスクがあって、どこへ散らばってもまた集まれます。私たちのこの一式は、祠堂と宗族に頼っていました。都市が来て、祠堂が壊されると、残ったのは清明のその一日だけです。私がやりたいのは、宗族に頼らなくても人が集まれる形をそれに与えること。シンガポールで育った子も、ソウルで育った子も、広州で育った子も、清明のその日に、自分たちがしているのは同じことだと知るようにしたいのです。\nあなたは墓参りをするとき、心のなかで何を思っていますか。\n参考資料\nC. K. Yang（楊慶堃）, Religion in Chinese Society, UC Press, 1961 韓国統計庁 2015年国勢調査の宗教項目 周口の墓の平坦化：『人民日報』2012-12-04 の報道「11月末までに、河南省周口市の葬送改革は10か月……墓246万基を平らにして移した」（毎日経済新聞の転載）🟢；2013年の大晦日に太康県のある村が二時間で160基あまりの墓を盛り直した：『華商報』の報道（儒家網の転載、2013-02-22）🟡；国務院が『葬送管理条例』を改めたあと各村で墓を盛り直し、2016年には「平らにされた墓の大半が盛り直された」：『新京報』2016-04-05「周口の平墳の後遺症」（儒家網の転載）🟡 清明が2008年から中国の法定休日になったこと；1950年代以来の葬送改革、「四旧打破」：通説の史実と報道 ネット上の関連する議論（2026-04、ネットユーザーの見方として引用） 画像の出典は各図の説明に記載 ","permalink":"https://tentao.pages.dev/ja/duoshe/w20/","summary":"\u003ch2 id=\"あるコメント欄の議論\"\u003eあるコメント欄の議論\u003c/h2\u003e\n\u003cp\u003e毎年、清明の前後になると、ネット上にこんな問いが浮かびます。清明に祖先を祀るのは、宗教なのか、と。\u003c/p\u003e\n\u003cp\u003e私はあるコメント欄の議論を保存していて、いくつかの立場がなかなか代表的です。\u003c/p\u003e\n\u003cul\u003e\n\u003cli\u003eある人は言いました。「先人を偲ぶことが宗教とどう関係あるの？ 家族を思うのはごく普通の感情でしょう。」\u003c/li\u003e\n\u003cli\u003eある人は言い返しました。「じゃあなぜ紙を燃やして、お供えを並べて、叩頭するの？ オッカムの剃刀で言えば、家族を思うのにこんな儀式はいらない。それでも何千年も、中国人は祭り続けてきた。」\u003c/li\u003e\n\u003cli\u003e宗教学の定義を持ち出す人もいました。「宗教には四つの要素がある。信仰の対象、教義、儀礼、中央集権的な組織。祖先祭祀には教義がなく、組織も散らばっているから、宗教ではない。」\u003c/li\u003e\n\u003cli\u003eこう言う人もいました。「四つとも揃ってる。祖先、家訓、祭祀、祠堂。ただ今は人がばらばらになって、祠堂がなくなっただけだ。」\u003c/li\u003e\n\u003c/ul\u003e\n\u003cp\u003eこの議論がおもしろいのは、本当の問題に触れているからです。「宗教」を定義するのに使っているこの物差しは、そもそもどこから来たのでしょう。\u003c/p\u003e","title":"清明の墓参りは宗教なのか"},{"content":"まず答え 「ガンジス川の水を今ひとすくい掬って、そのまま飲んでいいか」という意味なら、答えは簡単です。勧めません。大勢の人が暮らす川で、そのまま飲むことを勧められる川は世界にありません。ガンジス川も例外ではありません。ほかの川は、これほど多くの人に答えを迫られていないだけです。\nヴァーラーナシーのガートで沐浴する人々（2000年10月）。川の水がきれいでないと知っていても、多くの人は入っていく。　出典：Wikimedia Commons、Dialog Center Images、CC BY-SA 2.0\nただ、この問いがこのように問われることは、あまりありません。もっと多いのは、「母」と呼ばれるこの川は、まだきれいになれるのか。毎年何千何万という信者が川に入って沐浴し、ひとくち飲むことさえあるが、安全なのか、という問い方です。\nそれには、いくつか数字を見る必要があります。\n大壺祭（マハー・クンブ）での検査 2025年1月から2月、インドはプラヤーグラージでクンブ・メーラーを開催し、公式には数億人が沐浴に訪れたとされます。\n2025年2月3日、中央汚染管理委員会（CPCB）は、国家グリーン審判所に報告書を提出しました。その核心の数字は次のとおりです。\n2025年1月20日、ガンジス川の聖なる合流点（サンガム）での糞便性大腸菌群は、100ミリリットルあたり4万9000 MPN（最確数）。 同じ日、合流前のヤムナー川は3万3000。 CPCBの基準では、「沐浴用水」の許容上限は2500、「望ましい」水準は500。 つまり、この数字は許容上限の20倍近く、望ましい水準の100倍近くです。報告書の結論は、水質は沐浴の第一級の基準に適合しない、というものでした。\nところが、その後、事態はおもしろくなります。\n2025年2月19日ごろ、CPCBは再び審判所に報告書を提出し、統計的な処理を行ったうえで、クンブ・メーラーの期間中、合流点の集中沐浴の八地点で、pH、溶存酸素、生物化学的酸素要求量、糞便性大腸菌群の「中央値」はいずれも許容範囲内で、水質は「沐浴に適する」と述べた。 2025年3月10日、連邦環境大臣は議会の質問に答えて、この報告書を引き、クンブ・メーラー期間中のガンジス川の水は沐浴に適すると述べた。 同じ機関、同じ川、同じ祭りで、二つの言い方です。見える違いは、最初の報告書が書いているのは1月20日のある一日の、特定の地点での採取値であり、二つ目は祭りの期間全体にわたる八地点の中央値だということです。水質は、水量、放流の調整、人の流れによって変わり、「合格」は、何地点を取って、どう平均するかによります。しかしどうであれ、人々が目にしたのは、互いに矛盾する二つの報告書で、それ自体が信頼の問題です。（二つの報告書の原本は入手しておらず、以上はインドのメディアの紹介によります。）\nなぜ汚いのか ガンジス川がなぜ汚いのかを理解するには、汚染源を一つずつ見ていくのがいちばんです。\n一、生活排水。 これがいちばん大きな部分です。川沿いには数百の町があり、毎日大量の汚水を出し、その一部は処理されずに川に流れ込みます。\n二、工業排水。 典型はカーンプルのジャジマウにある約400軒の皮革工場で、排水にはクロムなどの重金属が含まれ、浄化施設の処理能力は長いあいだ追いつかず、皮革工場の生産だけはずっと追いついてきました。\n三、農業。 化学肥料と農薬が、雨とともに川に流れ込みます。\n四、宗教活動そのもの。 火葬された遺体と遺灰、花、供物、プラスチックが川に入ります。この項目がどれだけの割合を占めるのか、私はデータを見つけられていません。\n五、水量。 上流にダムが造られ、多くの水が灌漑に引かれ、下流の水量が減り、汚染物質を薄める力も弱まります。\nいくら使い、いくつ処理場を造ったか インド政府は2014年から「ガンジス浄化ミッション」（ナマミ・ガンゲ）という特別事業を始めました。議会の答弁とメディアの紹介によるデータでは、\n2014〜2015会計年度から2025〜2026会計年度までの予算配分は合計3万96クロール・ルピー（約3兆960億ルピー）で、2025年3月までに実際に使われたのは1万8842クロール（約1兆8840億ルピー）、執行率は約63%（前年は69%）。 流域で承認された下水事業は219件、総投資額3万5970クロール・ルピー、計画上の処理能力は6610 MLD（1日あたり百万リットル）で、そのうち146件が完成。2026年6月時点で、実際に完成した処理能力は4263 MLD、2025年中に新たに25の下水処理場が稼働した。（ほかの資料は、2026年12月に7000 MLDに達するという目標を示している。） より前の分析（2024年6月）は、管網は86%整備されたが、処理能力は52%しか完成していないと述べている。つまり、汚水は集められたのに、処理する場所が足りない。半分しか集められなければ、汚い水をある場所から別の場所へ、きちんと運んでいるのに等しい。 これらの数字には、進歩もあり、ギャップもあります。お金は六割以上使われました。水がどれだけきれいになったかは、別に数えなければなりません。\nよくなっているところもある すべての区間が同じではありません。CPCBの2025年の全国河川評価によれば、「汚染区間」（生物化学的酸素要求量が1リットルあたり3ミリグラムを超える）と判定された区間は、2018年のベースラインの351区間から296区間に減り、最も深刻な区分は37区間に減りました。ガンジス川も、おおよそこのような構図です。上流へ行くほど、ヒマラヤに近いほど水質はよく、中・下流の人口の密集するところに、最大の負荷がかかっています。各州・各区間の具体的な変化は、今回は一区間ずつ確かめていないので、並べません。\nそれでも、なぜ多くの人は飲むのか ここで信仰の話に戻ります。\nガンジス川から見るヴァーラーナシーのガート。　出典：Wikimedia Commons、Marcin Białek、CC BY-SA 3.0\nヒンドゥー教では、ガンジス川の水は「ガンガジャル」（Gangajal）と呼ばれ、聖なる水です。多くの家庭がガンジス川の水を小さな瓶に入れて家に持ち帰り、祭壇に置きます。人は臨終のとき、ガンジス川の水をひとくち含ませてもらいます。ガンジス川の水が「罪を洗い流す」と信じる人も多く、さらには、ガンジス川の水は「決して腐らない」と信じる人もいます。\nここには、おもしろい科学的な背景があります。1896年、イギリスの細菌学者アーネスト・ハンキンは、ガンジス川の水の中でコレラ菌が死ぬことを観察しました。のちに、研究者のなかには、水の中に細菌に感染するウイルス、すなわちバクテリオファージがいるからかもしれないと提起する人も出ました（バクテリオファージは1910年代にやっと発見されました）。これは仮説で、各研究の結論は一致していません。ガンジス川の水の酸素含有量やミネラルなどの性質を論じた研究もあります。\nただし慎重さが要ります。数十年前の現象や、ある区間の水のいくつかの性質をもって、今日の川全体、どの月の水も安全だとは言えません。水の中に大量の汚水と病原体が同時にあれば、バクテリオファージもあなたを救えません。\nですから信者にとって、「ひとくち飲む」ことは儀式であって、衛生上の行為ではありません。この二つは、実は共存できます。神は神、検査表は検査表、医者がふつう扱うのは後者だけです。\n逆から見る 第一に、「ガンジス川の汚染」は、ときに単純な物語として扱われます。 実際には、2500キロ以上の長さをもつ流域で、いくつもの州を通り、場所ごとに問題、責任、進み具合が違います。\n第二に、「数字」と「信仰」のあいだには、互いに理解しにくいところがあります。 信者にとって、「この川はきれいか」と問うことは、「あなたの神は効かないのか」と問うことに等しいかもしれません。そうなると、環境当局が出すデータを、信仰への冒涜と受け取る人がいて、政府も「大きな祭りの期間は水質が基準を満たしていると強調する」傾向があります。これは私の観察にすぎず、体系的な研究は見つけておらず、慎重に扱う必要があります。\n第三に、改善が遅いのは、インフラ、監督、資金、人口、行動が同時に関わるからです。 下水処理場を建てるだけでは足りず、運営・維持する人、監督する人、費用を負担する気のある人が要ります。\nある川が、国の信仰の中心であると同時に、国の環境問題でもあるなら、データと信仰が衝突したとき、誰が皆に「真実」を告げるのでしょうか。そして、どうすれば信じてもらえるのでしょうか。\n参考資料\nCPCBが国家グリーン審判所に提出した報告書（2025年2月3日；Deccan Herald、Moneylife、Climate Fact Checks などの紹介）；インド議会（上院）2025年3月13日の書面質疑 ナマミ・ガンゲの予算配分と支出のデータ（IMPRI、Tribune、NBMCW など）；2025年のCPCBによる汚染河川区間の評価 Ernest Hankin、ガンジス川の水の殺菌性についての観察（1896） Down To Earth：『Maha Kumbh 2025: Ganga, Yamuna's long-term sustainability depends on continuous monitoring...』 ","permalink":"https://tentao.pages.dev/ja/manche/w21/","summary":"\u003ch2 id=\"まず答え\"\u003eまず答え\u003c/h2\u003e\n\u003cp\u003e「ガンジス川の水を今ひとすくい掬って、そのまま飲んでいいか」という意味なら、答えは簡単です。勧めません。大勢の人が暮らす川で、そのまま飲むことを勧められる川は世界にありません。ガンジス川も例外ではありません。ほかの川は、これほど多くの人に答えを迫られていないだけです。\u003c/p\u003e","title":"ガンジス川の水は、結局飲めるのか"},{"content":"音楽フェスのような礼拝 あるネットユーザーが書いた、アメリカの田舎で参加した教会の礼拝についての文章を保存しています。\nステージの配置はロックバンドのようで、エレキギター、エレキベース、ドラム、シンセサイザーが、思い描いていたパイプオルガンと聖歌隊の代わりに並んでいました。牧師はTED講演のように説教し、天井のカメラが自動で顔を追いかけ、両側の大スクリーンに同期して映し、背後のスライドは説教に合わせて切り替わります。新しい信者が洗礼を受ける前には、インタビュー映像が流れ、「迷い、もがき、主に出会い、救われた」という物語が語られました。\nヒューストンのレイクウッド教会の礼拝。この教会の礼拝堂はもとバスケットボールの体育館で、ロケッツがかつてホームゲームを行っていた。　出典：Wikimedia Commons、CC BY 3.0\n教会には付属のプログラムもたくさんありました。青年聖書研究会、職場の交わり、禁酒の互助会、救援団体、幼稚園。\n彼の結論はこうでした。こういう教会は、運営のしかたが会社のようだ。主任牧師はCEOのようで、その下に財務、人事、広報を担当する副牧師がいて、若い牧師を新しい都市に送って「教会を植える」。チェーン店が支店を出すのと同じだ、と。\n宗教市場理論 この直感には、宗教社会学に正式な理論版があります。「宗教市場」理論、または「宗教経済」理論と呼ばれます。\n社会学者のロジャー・フィンケとロドニー・スタークは、1992年に『アメリカの教会化、1776–1990』を出しました。彼らは非常に挑戦的な見方を示しました。アメリカがヨーロッパより敬虔なのは、まさにアメリカに国教がないからだ、というものです。\n論理は次のとおりです。\n国教のある場所（たとえば歴史上の多くのヨーロッパ諸国）では、教会は国家に養われ、独占企業のようで、競争の圧力がなく、信者を集める動機もあまりない。 信教の自由があり、国教のない場所（たとえばアメリカ）では、各教派が企業のように信者を奪い合い、より良い「サービス」、つまりもっと心を動かす説教、もっと温かい共同体、もっと実質的な助けを出さなければ生き残れない。 その結果、競争が激しい「宗教市場」ほど、宗教に参加する人が多くなる。 これは従来の「世俗化理論」とちょうど逆です。世俗化理論は、多元性は宗教を弱めると考えます。宗教市場理論は、多元性と競争が宗教を活性化させると考えます。\n大教会 アメリカの「メガチャーチ」は、この理論のもっとも分かりやすい例です。アメリカのハートフォード宗教研究所がよく使う基準では、毎週の礼拝に2000人以上が集まるプロテスタントの教会がメガチャーチです。アメリカにはそうした教会が千以上あり、最大のものは毎週数万人を集めます。\n共通点は、そのネットユーザーが描写したことそのものです。現代的な音楽とメディア、企業的な運営、さまざまな層に向けて分けられたプログラム、そして強い共同体意識です。\n中国の三色市場 このめがねを、中国でかけた人がいます。\nアメリカ在住の華人社会学者、楊鳳崗は2006年に、中国の宗教は「三色市場」だと述べました。\n赤の市場：政府が認める宗教。登録された寺院、道観、教会、モスクで、官製の愛国宗教団体のもとで活動する。 黒の市場：政府が禁じる宗教団体。「邪教」とされ、地下で活動する。 灰色の市場：赤でも黒でもなく、法的にはっきりしない広大な領域。登録していない家庭教会、民間の縁日、気功、風水、占い、「伝統文化を学ぶ」読経クラスなど。 彼の観察は、赤の市場を厳しく管理するほど、灰色の市場が大きくなる、というものです。政府が管理できるのは登録された部分だけで、大量の宗教的需要は赤の市場から灰色の市場へと押し出され、そこで自然に育ちます。\nフィンケとスタークの言い方では、国家の独占は宗教を弱めます。しかし中国では、国家は国教を養ったのではなく、宗教全体を量を決めて配給しました。結果は、宗教が弱くなったのではなく、宗教が別の場所で生きるようになったことでした。\n宗教の未来を考えるのに何の役に立つのか 「宗教市場」という視点は、ほかの場所の多くの現象を説明できます。\nアフリカやラテンアメリカのペンテコステ派の教会はなぜ急速に伸びているのか。柔軟で、現地化されていて、古い教会の体制に頼らず、スタートアップのように拡大するからです。 古い宗教の一部はなぜ衰えているのか。「草の根の位置」を失い、普通の人の冠婚葬祭や急難の互助を担えなくなったのかもしれません。 「霊性はあるが宗教はない」人はなぜ増えているのか。「市場」に代替品が多すぎるのかもしれません。カウンセリング、瞑想アプリ、フィットネスのグループ、趣味の集まり。 ネットで、非常に的確なコメントも見かけました。「宗教、宗族、結社は、どれも草の根の自己組織化の方法だ。生老病死、冠婚葬祭で、誰が人々の必要をよりよく満たせるか。それができた者が、より多くの人口を握る。」\n逆から見る 宗教市場理論は、学界では大きな論争の的です。\n第一に、いくつかの反例をうまく説明できません。 きわめて多元的で競争が激しい国でも宗教参加率が高くない例があり、一つの教会がほぼ独占していた国（20世紀のポーランドやアイルランドなど）で、宗教参加率が一時きわめて高かった例もあります。市場理論に従えば、独占は宗教を弱めるはずなのです。\n第二に、信仰を消費のように言いすぎるかもしれません。 多くの人が信仰を持つのは、いくつかの教会の「サービス」を比べて選んだからではなく、家庭や伝統、本物の信仰体験があるからです。宗教をすべて「市場」と見ると、そこにある交換できないものを取りこぼします。\n第三に、アメリカ自身も変わりつつあります。 この二十年で、アメリカの「無宗教」人口の割合ははっきり上昇しました。もっとも「経営」に長けた教会も、若い世代の流出に直面しています。\nですから宗教市場理論は、めがねのようなものです。かければ以前見えなかったものが見えますが、ずっとかけたままで何もかもを見ることはできません。\n私たちの「大教会」はどこにあるのか この記事を読みながら、私が思い浮かべたのは南洋の会館でした。\n百年あまり前、福建や広東の若者が船でペナンやシンガポールに着いたとき、まず訪ねたのは同郷会館でした。泊まる場所があり、仕事を紹介してくれる人がいて、病気になれば世話をしてくれ、死ねば納棺してくれ、位牌は会館の祠堂に納められて、毎年祭る人がいる。これは「大教会」ではないでしょうか。ただ牧師がいないだけで、そこにいるのは祖先と同郷の人々です。\n私たちに足りないのは信仰ではなく、このように人を受け止められる場所です。会館はかつてそれを果たし、その後、中国大陸では壊され、海外では時の流れに薄められました。私が望む儒教の第一歩は、経典を書くことではなく、このような場所をもう一度建て直すことです。\n宗教は、会社のように「経営」されるべきだと思いますか。\n参考資料\nRoger Finke \u0026amp; Rodney Stark, The Churching of America, 1776–1990, Rutgers UP, 1992 Fenggang Yang, \u0026quot;The Red, Black, and Gray Markets of Religion in China\u0026quot;, The Sociological Quarterly 47(1), 2006 ハートフォード宗教研究所による「メガチャーチ」の定義（毎週の礼拝に2000人以上）：通用している定義 ネットユーザーの回答とコメント（2026、ネットユーザーの見方として引用） 画像の出典は各図の説明に記載 ","permalink":"https://tentao.pages.dev/ja/duoshe/w21/","summary":"\u003ch2 id=\"音楽フェスのような礼拝\"\u003e音楽フェスのような礼拝\u003c/h2\u003e\n\u003cp\u003eあるネットユーザーが書いた、アメリカの田舎で参加した教会の礼拝についての文章を保存しています。\u003c/p\u003e\n\u003cp\u003eステージの配置はロックバンドのようで、エレキギター、エレキベース、ドラム、シンセサイザーが、思い描いていたパイプオルガンと聖歌隊の代わりに並んでいました。牧師はTED講演のように説教し、天井のカメラが自動で顔を追いかけ、両側の大スクリーンに同期して映し、背後のスライドは説教に合わせて切り替わります。新しい信者が洗礼を受ける前には、インタビュー映像が流れ、「迷い、もがき、主に出会い、救われた」という物語が語られました。\u003c/p\u003e","title":"会社のように運営される教会"},{"content":"極端な宗教 ジャイナ教のことを初めて聞く人の多くは、それが「極端」だからです。\nジャイナ教の核心的な教えは「不殺生」（アヒンサー）で、それが限界まで押し進められています。敬虔な僧は布で口と鼻を覆い、小さな虫を吸い込まないようにします。歩くときは払子で地面を掃き、蟻を踏まないようにします。信者のなかには、根菜を食べない人もいます。掘り出すと土のなかの命を傷つけるからです。\nジャイナ教白衣派の僧。話すときに小さな虫を吸い込まないよう、口に白い布（ムフパッティ）をつけている。今では誰もがマスクをしたが、彼らは二千年以上つけてきた。　出典：Wikimedia Commons、Samyak Modi 撮影、CC BY-SA 4.0\nジャイナ教は仏教とほぼ同じころ、紀元前6世紀前後のインドで興りました。どちらもバラモンの祭祀とカーストの特権に反対し、歴史学者はどちらも当時の「沙門」の思潮に入れています。ただ、仏教は「中道」をとり、ジャイナ教は厳しい苦行を説きました。\n歴史上、ジャイナ教は二大宗派に分かれました。空衣派は、真の出家者はあらゆる財産を捨てるべきで、衣服さえ着ないと考えます。白衣派の僧は白い衣を着ることができます。二派は、女性が解脱できるかといった問題でも見解が分かれています。\n不殺生と商売 不殺生の教えは、ジャイナ教徒がどんな仕事を選ぶかに深く影響しました。\n農作業では土のなかの虫を傷つけることを避けられず、兵士や屠殺はなおさらです。長いあいだ、多くのジャイナ教徒は商売、金貸し、宝石の仕事に移りました。今日、ジャイナ教徒は、インドでもっとも教育水準が高く、もっとも都市化が進み、平均収入がもっとも高い宗教集団の一つです。\nラジャスタン州ラナクプルのジャイナ教寺院。15世紀の建立で、千本あまりの大理石の柱があり、同じものは二本とないと言われる。建てる資金は、ジャイナ教の商人が出した。　出典：Wikimedia Commons、Brihaspati 撮影、CC BY 4.0\nこれは「宗教が経済行動を形づくる」例としてよく挙げられます。マックス・ウェーバーが語ったプロテスタントの倫理と資本主義に、少し似ています。\n数字が小さくなっている しかしジャイナ教は、現代の難題にぶつかっています。人口に占める割合が下がっているのです。\nインドの国勢調査によれば、2011年のインドのジャイナ教徒は約445万人で、全人口の0.37%でした。1981年にはこの割合は0.47%でした。三十年で、割合は二割あまり下がりました。2001年から2011年にかけて、ジャイナ教徒の人口は5%余りしか伸びず、インド全体の伸びをはるかに下回りました。\nジャイナ教徒がインド人口に占める割合。1981年と2011年の国勢調査。　データ：インド国勢調査\n原因の一つは、子どもが少ないことです。国勢調査のデータでは、ジャイナ教の家庭の子どもの割合は、全国の都市平均よりはっきり低くなっています。勉強をたくさんして、稼ぎが多く、都市に住む。ほかの場所で出生率を下げるこうした要因が、ジャイナ教徒にはほとんどすべて当てはまり、しかも程度がより深いのです。\nもう一つの原因は、周囲の社会と溶け合っていることです。ジャイナ教とヒンドゥー教は多くの祭りや習俗が近く、通婚も珍しくありません。国勢調査で、ジャイナ教徒がヒンドゥー教徒として登録されることもときどき起こります。\n意外な対照 ジャイナ教の例は、よく言われる説と並べるとおもしろくなります。\nその説とは、宗教性の強い集団は子どもが多いので、宗教集団が「地球を受け継ぐ」というものです。\nけれどジャイナ教は、宗教性がきわめて強く、戒律がきわめて厳しい集団なのに、子どもはとても少ないのです。このことは、宗教そのものが高い出生率をもたらすとは限らず、宗教集団の置かれた状況、つまり勉強の量、都市に住むかどうか、女性が働くかどうかのほうが、教義より重要かもしれないことを示しています。\n同じ理屈は仏教にも当てはめられます。仏教徒の子どもが少ないのは、大きくは、彼らが東アジアの、もっとも子どもが生まれない社会に固まって住んでいるからです。\n小さな宗教の生き方 とはいえ、ジャイナ教には「人が多い」ことは必要ないのかもしれません。\nジャイナ教徒はずっと多くはありませんでしたが、二千五百年以上続いてきました。支えにしてきたのは人数ではなく、きわめて固い網です。寺院、慈善団体、商売のネットワーク、婚姻の輪。インドでも海外でも、ジャイナ教の共同体は、互いに助け合い、信頼し合うことで知られています。\nこれはユダヤ人やパールシー（インドのゾロアスター教徒）に少し似ています。人は少なく、境界ははっきりしていて、内部の信頼度が高く、経済と文化における重みは人口比をはるかに上回ります。\nこのような集団にとって、本当の脅威は「人が少ない」ことではなく、境界がぼやけることかもしれません。若い世代が、自分たちを他人と違うものにしている部分を気にしなくなれば、共同体は融合のなかでゆっくり溶けていくかもしれないのです。\n逆から見る 「豊かになるほど縮む」というのも、単純化かもしれません。インドの国勢調査には、登録の基準の問題があります。海外のジャイナ教徒の人口も増えています。割合が下がることは、共同体が衰えることとは同じではありません。\n人が少ないのか、境界がゆるいのか ジャイナ教、ユダヤ人、パールシーは、みな「人が少なく、境界が固い」道を選び、守り抜きましたが、同時に多くの人を門の外に閉め出しもしました。\n私が望むのはこの道ではありません。東アジアの人はもともと十数億人いて、世界じゅうに散らばっています。私たちに足りないのは人ではなく、人が戻ってきたいと思い、戻る道も見つけられるものです。だから私は、境界は少しゆるく、敷居は少し低いほうがよいと考えます。漢字が書け、清明に墓参りをし、正月に祖先を祀るなら、どこの国のパスポートを持っていても、どんな言葉を話しても、仲間です。人が多いのですから、網はジャイナ教のように婚姻の輪で締めるわけにはいきません。みなが認める礼と祭りの一式で結びつけなければならないのです。\nある集団が厳格な境界によって結束を守り、代わりに人数がどんどん減っていくとしたら、それは成功でしょうか、失敗でしょうか。\n参考資料\nインド2011年国勢調査の宗教データ（ジャイナ教徒は約445万人、0.37%；1981年は0.47%） Fredrik Barth (ed.), Ethnic Groups and Boundaries, 1969 Eric Kaufmann, Shall the Religious Inherit the Earth?, 2010 Pew Research Center, \u0026quot;Why is Buddhism shrinking worldwide?\u0026quot;, 2026-03-11 画像の出典は各図の説明に記載 ","permalink":"https://tentao.pages.dev/ja/duoshe/w22/","summary":"\u003ch2 id=\"極端な宗教\"\u003e極端な宗教\u003c/h2\u003e\n\u003cp\u003eジャイナ教のことを初めて聞く人の多くは、それが「極端」だからです。\u003c/p\u003e\n\u003cp\u003eジャイナ教の核心的な教えは「不殺生」（アヒンサー）で、それが限界まで押し進められています。敬虔な僧は布で口と鼻を覆い、小さな虫を吸い込まないようにします。歩くときは払子で地面を掃き、蟻を踏まないようにします。信者のなかには、根菜を食べない人もいます。掘り出すと土のなかの命を傷つけるからです。\u003c/p\u003e","title":"ジャイナ教、豊かになるほど縮む"},{"content":"肉を売ってはならない町 2014年8月、グジャラート州政府は、パリタナ（Palitana）を「肉なしの区域」にすると発表しました。町全体で動物の屠殺が禁じられ、肉、魚、卵の販売が禁じられました。メディアはこれを「世界で初めて公式に認められた菜食の都市」と呼びました。\nグジャラート州パリタナのジャイナ教寺院群。　出典：Wikimedia Commons、Aashvi Sanghvi、CC BY-SA 4.0\nこの決定（8月14日）は、報道によれば、約200人のジャイナ教の僧が断食で抗議したあとに下されました。パリタナはジャイナ教の最も重要な聖地の一つで、山の上には数百の寺院があります。\n一つの町が、ごく少数の人々の宗教的信仰のために、すべての住民の献立を変えたのです。断食という交渉の方法は、費用が安く、効果が早く、ただし本当に飢える覚悟があることが前提です。これは、ヒンドゥー教徒が多数を占め、ムスリムやキリスト教徒やほかの人々もいる国で起きたことです。\n次に2025年8月を見ます。ムンバイ市当局は8月14日、ジャイナ教の重要な祭り「パリユーシャナ」（約一週間続く祭り）の期間中、市内の屠畜場を二日間（8月24日と27日）閉鎖する命令を出しました。ジャイナ教の団体は、一週間まるごと閉めるべきだと主張しました。ボンベイ高等裁判所は懸念を示し、そうすれば、ほかの祭りも同様の要求を出すだろうと述べました。ジャイナ教側は、アフマダーバードがとうの昔から祭りの全期間、屠畜場を閉めていることも指摘しました。\nこの二つの例は、同じことを示しています。人数はごく少ないのに、声が大きい集団だということです。\nまず数字 2011年の国勢調査で、インドのジャイナ教徒は445万1753人、人口の0.37%で、インドの六大宗教でいちばん小さい。 1981年にはこの割合は0.47%でした（0.48%と書く資料もあります）。つまり、30年で、割合は二割あまり下がりました（『奪舎』シリーズのジャイナ教を扱った編を参照）。 ピューの2021年の調査では、ジャイナ教徒はインド人口の0.4%でした。 先に一言。ピューは三万人近くに聞き取りをしましたが、そのなかのジャイナ教徒は109人しかいません。ですから以下のピューの数字は、すべて大まかな輪郭としてしか使えません。\n次に、彼らが誰なのかを見ます。\n教育。 ピューの調査では、ジャイナ教の成人の約三分の一（34%）が大学卒で、全国平均は9%です。2011年の国勢調査は基準が違い、ジャイナ教徒のうち大卒以上は25.65%で、これもあらゆる宗教のなかで最も高く、ジャイナ教徒の識字率は86.73%で、同じくあらゆる宗教のなかで最も高い。 富。 ピューは、全国家族健康調査（NFHS）の「富の指数」を引いて、ジャイナ教が最も裕福な宗教集団で、大多数のジャイナ教徒の家庭は全国で最も豊かな数段階に入っていると述べています。ほかの場所で、より具体的な言い方（約70%が最も豊かな五分の一に入る）を見たことがありますが、今回は元の表を確認していないので書きません。 食事。 ジャイナ教徒の92%が菜食主義者だと答え、三分の二がニンニクやタマネギなど根菜類を食べません。 カースト。 自分が低いカーストに属すると答えたジャイナ教徒は20%だけで、全国平均は68%です。彼らは、大多数が「一般カテゴリー」（上位）に属すると答える、インドで唯一の宗教集団です。 地理。 西部、とくにマハーラーシュトラ州に集中しています。ムンバイの住民の4%がジャイナ教徒です。 政治。 ジャイナ教徒10人のうち7人が、自分はインド人民党にいちばん近いと答え、ヒンドゥー教徒ではこの割合は44%です。 つまり、人数は少ないが、教育が高く、豊かで、いくつかの大都市に集中していて、組織が強い。この数点を足すと、どの国でも、事を運ぶのがうまい集団です。こういう集団は、人数がごく小さくても、政治と社会で発せられる声が、人数が示すよりも大きくなります。\nなぜそうなるのか 不殺生（アヒンサー）はジャイナ教の核心です。それは多くの職業を排除します。農業（土を耕すと虫を傷つける）、屠殺、軍務、皮革。そこで多くのジャイナ教徒は商業、金融、宝石、貿易へ向かいました。宗教がいくつかの道をふさいだので、残った道を歩く人が多くなったのです。（『奪舎』シリーズのジャイナ教の編を参照。宗教が職業の選択にどう影響するかをより詳しく論じているので、ここでは繰り返しません。）\nこの道には、一つの結果があります。お金、教育、都市、共同体のネットワーク。四つのものが重なっているのです。そしてこの四つは、現代社会で出生率をもっとも下げやすい要因でもあります。\n「両方に居る」位置 ジャイナ教徒のインドでの法律上・政治上の位置は、少し微妙です。\n白衣派（スターナクヴァーシー派）のジャイナ教の僧。小さな虫を誤って傷つけないよう、口に布をつけている。　出典：Wikimedia Commons、Samyak Modi、CC BY-SA 4.0\n一方では、彼らは法律上、少数派の宗教です。2014年1月20日、連邦政府はジャイナ教を国レベルの「少数者集団」に指定しました。ムスリム、キリスト教徒、シク教徒、仏教徒、パールシーに続いて六番目です。\nもう一方では、彼らはインド人民党のもっとも安定した支持者の一つです（ピューのデータ：七割が人民党にいちばん近いと答える）。一部のヒンドゥー・ナショナリストの語りでは、ジャイナ教はしばしば「ヒンドゥー教の大きな家族」の一部と数えられ、ジャイナ教の内部では、この点についての態度は一様ではありません。2014年に少数者の地位を得たことは、多くのジャイナ教の団体に、「私たちは独立した宗教だ」という承認と見なされました。この部分は共同体内部の意見の相違に関わり、体系的な研究は見つけていないので、二つの態度を並べて書くにとどめます。\nこれが、ジャイナ教の要求（肉の禁止、動物の保護）と、より大きな政治の潮流とのあいだに、互いに利用し合う関係がある理由でもあります。ヒンドゥー教の菜食の伝統や牛の保護と、ジャイナ教の不殺生は、実践のなかでしばしば重なります。ただ、この協力にも摩擦があります。\nもう一つ、少数の人々のこと 2015年8月、ラージャスターン高等裁判所は、ジャイナ教の「サッレーカナー」（Sallekhana、サンタラとも呼ぶ。生の終わりに、自ら進んで死ぬまで断食する儀式）は自殺にあたり、禁止すべきだと判断しました。ジャイナ教の団体は強く反対し、宗教の自由の問題だとしました。2015年8月10日のこの判決は、三週間後（8月31日）に最高裁によって執行を停止されました。\nこの件の要点は結果ではなく、それが示すことにあります。古い宗教的な実践が、現代の法の概念（自殺、生存権）にぶつかったとき、社会はどう処理するのでしょうか。\n逆から見る 第一に、「豊かになるほど縮む」は法則なのでしょうか。 よく似た例があります。パールシー（インドのゾロアスター教徒）です。彼らも裕福で、教育水準が高く、ムンバイに集中している小さな集団で、人数は2001年の約7万人から2011年の約5万7千人に下がり、政府は2013年から出産を奨励する特別な計画「ジヨ・パールシー」まで打ち出しました。こうした現象はほかの裕福な小さな集団にも現れたことを示しています。ただ、反例もあり、より多くの比較が必要です。\n第二に、人数が少なくても、影響力が小さいとは限りません。 ジャイナ教徒の「縮小」は人口の割合の話で、経済、慈善、政治的な働きかけにおける彼らの役割は、必ずしもそれと同じように縮むわけではありません。\n第三に、この影響力に対する感じ方は、人によって違います。 動物を守る美徳だと思う人もいれば、人数のごく少ない集団が、全員の献立を左右すべきではないと思う人もいます。Outlook、Open などインドのメディアの報道によれば、ムンバイのような都市では、肉を食べる人には貸さず売らない住宅ビルがあり（規約には書かれず、暗黙のルール）、差別だと非難されています。こうした摩擦は、「境界のはっきりした」共同体と、より大きな社会との接触面で起きます。\n第四に、人口は唯一の尺度ではありません。 宗教の「成功」は、人数で測るべきでしょうか、それとも、続いていくか、信者が自分たちのよいと考える生活を送れるかで測るべきでしょうか。これは『奪舎』で私たちが問うた問いですが、インドでは答えがもっと複雑です。小さな集団の選択が、他の人々に直接影響するからです。\nある共同体の人数が縮んでいるのに、影響力は増しているなら、いちばん心配すべきは、少なくなることでしょうか。それとも、他の人々と違うものになって、しだいに多くの人から負担と見られるようになることでしょうか。\n参考資料\nインド2011年国勢調査：ジャイナ教徒445万1753人、0.37%；1981年は0.47% Pew Research Center、『6 facts about Jains in India』、2021年8月 NFHS-4（2015–16）の富の指数における各宗教の分布（GKToday、Wikipedia などの紹介） パリタナが2014年に「肉なしの区域」になったことの報道（TheNewsMinute、Yale FORE など） サッレーカナーをめぐる事件の報道（LiveLaw、Gulf News、Times of India、2015年8月） ムンバイで2025年のパリユーシャナ期間中に屠畜場が閉鎖されたことの報道（LiveLaw、Free Press Journal） 『奪舎』シリーズ：『ジャイナ教、豊かになるほど縮む』 ","permalink":"https://tentao.pages.dev/ja/manche/w22/","summary":"\u003ch2 id=\"肉を売ってはならない町\"\u003e肉を売ってはならない町\u003c/h2\u003e\n\u003cp\u003e2014年8月、グジャラート州政府は、パリタナ（Palitana）を「肉なしの区域」にすると発表しました。町全体で動物の屠殺が禁じられ、肉、魚、卵の販売が禁じられました。メディアはこれを「世界で初めて公式に認められた菜食の都市」と呼びました。\u003c/p\u003e","title":"ジャイナ教徒：豊かになるほど縮み、それでも静かにはならない"},{"content":"1830年 1830年3月、アメリカ・ニューヨーク州西部で、新しい経典が出版されました。『モルモン書』です。\nその「翻訳者」は、24歳の若者ジョセフ・スミスでした。1830年4月6日、彼は数人の追随者とともに教会を設立しました。のちに「末日聖徒イエス・キリスト教会」と呼ばれ、一般にはモルモン教と言われます。\nジョセフ・スミス（1805–1844）。38歳でイリノイ州の監獄で死んだ。顔を黒く塗った暴徒に銃で撃たれた。　出典：Wikimedia Commons、パブリックドメイン\n当時、この教会が生き残ることに賭ける人はいなかったでしょう。1844年、スミスは暴徒に殺されました。1847年、ブリガム・ヤングが信徒を率いてソルトレイクシティまでたどり着きました。1890年、教会は一夫多妻を放棄すると正式に宣言し、ようやく連邦政府と和解しました。\nひとつの数字 2025年末、教会が公表した登録会員数は17,887,212人でした。\nこれは教会自身が数えた登録人数で、毎週日曜日に教会に座っている人数ではありません。それでも、二百年近く前に六人から始まった教団がたどり着いた場所です。\nソルトレーク神殿。1853年に着工し、1893年に完成、四十年かかった。東部を追われた人々が、砂漠のほとりに自分たちのための神殿を建てた。　出典：Wikimedia Commons、Diliff 撮影、CC BY 2.5\nスタークの予言 アメリカの社会学者ロドニー・スタークは、この教会をもっともよく研究した一人です。\n彼はモルモン教を事例にして、一つの問いに答えようとしました。なぜある新宗教は成功し、ある新宗教は失敗するのか。1996年、彼は答えをチェックリストにまとめました。おおよそ次のような条件です。\n所属する社会の主流文化と、ある程度の連続性を保つこと。まったく見慣れないものであってはならない。 周囲の環境と「中程度」の緊張関係があること。ゆるすぎれば加わる理由がなく、きつすぎれば加わる人がいない。 正統で権威のある指導者がいること。 時間を割いてくれるボランティアを動員できること。 亡くなる人を補うだけの子どもが生まれること。 競争相手が比較的弱い宗教環境で育つこと。 内部の結びつきが固く、同時に外部の人にも開かれていること。 次の世代をきちんと教え、離脱を少なくすること。 スタークはこれをもとに、当時の成長速度のままなら、2080年にはモルモン教会の会員が約2億6700万人になると推算しました。\n予言はどれだけ当たったか 今、私たちには2025年の数字があります。17,887,212人です。\n2080年に2億6700万人に届くには、今から毎年約5%ずつ伸びなければなりません。\n直近の二年間の実際の伸びは、1.5%と2.2%でした。2025年、教会が報告した洗礼者数は385,490人で記録を更新し、この年は前の年より確かに速く伸びました。\n末日聖徒の登録会員数。2023–2025年の実数と、スタークの2080年の推算。点線は両端を結んだだけで、成長曲線ではない。　データ：教会の年次統計報告；Stark \u0026amp; Neilson, 2005\nつまりこの予言は今のところ高すぎますが、方向は間違っていません。まだ伸びている教会なのです。\nもう一つの例 日本の創価学会は、まったく違う教団です。\n1930年11月18日、教育者の牧口常三郎と戸田城聖がこれを創立しました。当時の名は「創価教育学会」。1944年11月18日、牧口は獄中で死にました。伊勢神宮の神札を祀ることを拒んだためです。これは『隣人たちの天』で話しました。\n牧口常三郎（1871–1944）。獄中で死んだ日は、学会を創立した十四年目の、まったく同じ日だった。　出典：Wikimedia Commons、創価学会、パブリックドメイン\n戦後、戸田城聖は獄から出て、1951年に「大折伏」運動を始め、自分の目標を「死ぬまでに七十五万世帯」と定めました。1960年には、教団は約130万世帯だと報告しました。1964年には公明党を作りました。1967年には620万世帯だと称しました。\n今日、創価学会自身は、日本国内に827万世帯の会員がいると言っています。学者のなかには、実際に打ち込んでいる会員は200万から400万人だと見積もる人もいます。\nスタークのチェックリストを横に置くと、動員力や網のように合う項目もあれば、あまり合わない項目もあります。誰かが体系的に検証したかどうか、今回は調べませんでした。\nもう一つの結末 チェックリストの「中程度の緊張」という項目について、東アジアには非常に目立つ例が二つあります。\n一つは日本の統一教会です。2022年7月、元首相の安倍晋三が奈良の街頭で銃撃され、亡くなりました。犯人は、母親が統一教会への献金で家庭を壊したため、この教団と、それに近い政治家を憎んだと述べました。その後の数年、日本社会は統一教会の高額献金を追及し、政府は裁判所に解散を申し立てるまでになりました。高額の献身で支えられた教団は、社会が許容できないほど緊張が高まったのです。\nもう一つは法輪功です。1992年に中国の長春で創立され、数年のうちに都市にも農村にも修練する人が広がりました。1999年4月には、一万人を超える学習者が北京の中南海付近に集まって陳情しました。同年7月、政府は取り締まりを宣言し、その後長期の弾圧が続いて、多くの学習者が拘束され、労働教養に送られ、獄中で亡くなった人もいます。具体的な人数は、政府と法輪功の双方でまったく食い違っています。中国ではほとんど姿を消しましたが、海外では生き残り、新聞を出し、テレビ局を持ち、巡回公演を行っています。\nスタークのチェックリストでいえば、中国での「緊張」は「中程度」をはるかに超えていて、本来なら死んでいるはずです。ところが国を変えて、宗教の自由がある環境に移ると、緊張は一気に「中程度」に戻りました。新しい宗教が生き残れるかどうかは、その宗教自身だけでなく、どの土地に立っているかにもよるのです。\n逆から見る スタークのチェックリストには、根本的な欠点があります。事後にまとめたものだということです。\n私たちが見ているのは生き残った宗教で、そこから共通点を探しています。死んでしまった新宗教の大半は、どんな本にも書かれていません。同じ「中程度の緊張」が、成功の説明にも失敗の説明にもなります。「中程度」がどれくらいか、結果が出てからでないとわからないからです。\nさらに、「登録人数」はとても軟らかい数字です。モルモン教のものも創価学会のものも、教団自身が公表したもので、数え方が外部の推計と大きく食い違うことがよくあります。\n宗教の成功とは何か 私は人数を見ません。\nある宗教が成功しているかどうかは、二つのことしか問いません。散らばった人たちが互いを見分けられるようにできるか。五代目、十代目まで伝わるか。ユダヤ人は人が少ないけれど三千年伝わっていて、私の目には成功です。十年で数百万人を集めて、二十年後に跡形もなく消えた教団は、成功ではありません。\nこの基準でいえば、東アジアの人が代々受け継いできた祖先祭祀、清明、正月、漢字を読むことは、もう二千年成功してきました。今の問題は、信じる人がいないことではなく、人を集めて伝えていく役目を担う人がいないことです。私がやりたいのは、その欠けた環を補うことです。\nあなたの知り合いに、友人の紹介で初めて宗教施設に足を踏み入れた人はいますか。\n参考資料\nRodney Stark, \u0026quot;Why Religious Movements Succeed or Fail: A Revised General Model\u0026quot;, Journal of Contemporary Religion 11(2), 1996；Rodney Stark \u0026amp; Reid L. Neilson, The Rise of Mormonism, Columbia UP, 2005（2080年に約2億6700万人という推算） 末日聖徒イエス・キリスト教会の年次統計報告：2023年 17,255,394；2024年 17,509,781；2025年 17,887,212；2025年の洗礼 385,490 創価学会：1930-11-18創立；1951年「大折伏」；1960年約130万世帯；1964年公明党；1967年に620万世帯を称する；827万世帯を自称（2025）；Levi McLaughlin は200–400万人と推計 牧口常三郎：1944-11-18に獄中死 ジョセフ・スミス（1805年生）、1830-04-06の教会設立、1844年の殺害、1847年のソルトレイク到着、1890年の多妻放棄の宣言：通説の史実 法輪功：Human Rights Watch, Dangerous Meditation: China's Campaign Against Falungong, 2002（全文）：1992年5月に李洪志が創始；1999年4月25日に一万人を超える学習者が中南海付近で陳情；同年7月22日に民政部・公安部が取り締まりを宣言；労働教養に送られたのは最大一万人と推計；報告の執筆時、法輪功側は234人が拘束中または釈放直後に死亡したと主張し、政府がそのうち説明を与えたのは72例のみ；学習者数は、政府が1998年末に4000万人と推計し、2001年に200万人前後に改め、法輪功は中国国内で7000万人以上と称した 🟢 2022年の安倍晋三の銃撃事件と統一教会問題：通説の史実と報道 画像の出典は各図の説明に記載 ","permalink":"https://tentao.pages.dev/ja/duoshe/w23/","summary":"\u003ch2 id=\"1830年\"\u003e1830年\u003c/h2\u003e\n\u003cp\u003e1830年3月、アメリカ・ニューヨーク州西部で、新しい経典が出版されました。『モルモン書』です。\u003c/p\u003e\n\u003cp\u003eその「翻訳者」は、24歳の若者ジョセフ・スミスでした。1830年4月6日、彼は数人の追随者とともに教会を設立しました。のちに「末日聖徒イエス・キリスト教会」と呼ばれ、一般にはモルモン教と言われます。\u003c/p\u003e","title":"新しい宗教はどう生き残るのか"},{"content":"ネットで「シミュレーション宇宙 唯識」と検索すると、唯識、量子物理、「意識は宇宙の底層である」を一緒に語る記事が何本も見つかり、読んでいて痛快です。あるネットユーザーは、世界は「刹那刹那の三次元の大きな夢」にすぎないと言いました。\n私は、原文に当たって見直してみたいのです。唯識自身は何と言っているのか。「万法唯心造」の原文は何なのか。この一編は上篇で、唯識の側だけを扱います。下篇でシミュレーション宇宙につなげます。\n先に一言。この二編とも、関連する説を思考実験として読み、どの立場の肩も持ちません。\n一、「万法唯心造」、原文はこう言っている この句がもっともよく引かれる出典は『華厳経』です。八十巻本の巻十九、「夜摩宮中偈讃品」で、覚林菩薩が述べた一首の偈です。原文は次のとおりです。\n「心は工なる画師の如く、能く諸の世間を画く。五蘊は悉く従って生じ、法として造らざるは無し。……若し人、三世の一切の仏を了知せんと欲せば、応に法界の性を観ずべし、一切は唯だ心の造なり。」\n高麗時代（1400年ごろ）の『華厳経』写本の表紙。藍色の紙に、金泥で一面に花が描かれている。この経典は朝鮮半島と日本で、中国よりも昔からずっと尊ばれてきた。　出典：Wikimedia Commons、大英図書館蔵、CC0\n注意してください。原文は「一切唯心造」です。「万法唯心造」は、後に通行するようになった言い方で、それが最初にどこに現れるのか、私は調べきれていません。\nこの偈そのものには、ふだんあまり語られない点がいくつかあります。\n画師をたとえに使っています。同じ偈にもう一句あります。「譬えば工なる画師の、自心を知ること能わず、而も心に由るが故に画くが如し」。画師は一つの世界を描けるのに、自分の心は知らないのです。\n「心の如く仏も亦た爾り、仏の如く衆生も然り」ともあります。心、仏、衆生に差別はない。偈の要点は、この三つの関係であって、「望めば何でも手に入る」ではありません。\n同じ品に、もう一人の菩薩、力林が言った句もあります。「世間は自ら作るに非ず、亦た他の作に非ず」。世界は自分が造ったのでもなく、他人が造ったのでもない。この一句は、下篇で使います。\n流行している読み方は「心に思えば事が成る」です。偈の原文には、そのような意味はありません。\n二、唯識：「心造」を一つの論証にした この考えを一つの論証にまとめたのは、世親（ヴァスバンドゥ）です。『唯識二十論』には玄奘の訳があります。冒頭にはこうあります。\n「大乗の三界唯識を安立す。契経に三界は唯だ心なりと説くを以てなり。」\n日本・奈良の興福寺にある世親像。13世紀に運慶一派が彫った。インドの論師が、日本の寺で、苦労のにじむ老僧の顔に彫られている。　出典：Wikimedia Commons、パブリックドメイン\n続いて、論全体でもっとも重要な一句が来ます。\n「内識が生ずる時、外境に似て現ずること、眩翳ある者が髪や蠅などを見るが如し。」\n意味はこうです。心のなかの識が生じるとき、外に何かがあるように見える。目に病のある人が、髪の毛や蠅を見るのと同じだ。\nこう言われると、すぐに反論が出ます。外に何もないなら、なぜ私はこの場所、この時にだけ、こういうものを見るのか。なぜ多くの人が同時に同じものを見るのか。なぜそれらのものが、食べられたり、人を傷つけたりという働きを持つのか。\n世親は、夢、餓鬼、地獄で答えます。そのなかの二つの箇所がとてもおもしろいのです。\n「謂わく、餓鬼の同業の異熟にして、多くの身が共に集まり、皆な膿河を見るが如し。」\n「同処・同時に衆多の相続して、皆な共に獄卒・狗・烏・鉄山などが、其の所に来至して逼害の事を為すを見る。」\n餓鬼の群れが、同時に同じ膿の河を見ます。地獄にいる衆生の群れが、同時に同じ獄卒が刃を持って迫ってくるのを見ます。本当の獄卒はおらず、彼らの業が同じなので、見るものが同じなのです。これを「共業」といいます。幻覚が人を打つことは、この論証のなかでは、むしろ長所になります。\nこれは、「唯心造」のいちばん大きな穴にまさに答えています。心が造ったのなら、なぜ世界は私の言うことを聞かないのか。\n唯識の答えはこうです。世界は、私がいま心を起こして造ったものではなく、無始以来の習気が変じたものである。『唯識三十頌』にこうあります。「一切種識は、是の如く是の如く変ず。展転の力を以ての故に、彼彼の分別生ず。」\n『成唯識論』巻二は、「種子」をさらに二種類に分けます。一人ひとりの身体は、「異熟識の不共相種の成熟力の故に、色根と根の依処に似て変ず」。そして「共相種」があり、みなが一つの世界を共に受用できるようにします。（これは私の要約です。身体はそれぞれの種子から変じ、世界はみなが共有する種子から変ずる。）\n世界が私の言うことを聞かないのは、それが私ひとりの種子から変じたものではないからです。\n三、唯識の出口：転依 「世界がどうやって生まれるか」を述べたら、次は「どうやって出てくるか」を述べなければなりません。唯識の出口は「転依」といいます。\n『成唯識論』巻九に、とても明快な定義があります。\n「依とは所依を謂い、即ち依他起なり。染・浄の法の所依たるが与なり。染とは虚妄の遍計所執を謂い、浄とは真実の円成実性を謂う。転とは二分の転捨・転得を謂う。」\nその後ろに続けて、修行して障りを断つと、「能く依他起の上の遍計所執を転捨し、及び能く依他起の中の円成実性を転得す。煩悩を転ずるに由りて大涅槃を得、所知障を転じて無上覚を証す」と言います。\n私の要約はこうです。世界が働く土台（依他起）はそのまま残る。捨てるべきは、その上に重ねられた「実在する我、実在する法」への執着であり、得るべきは、それがまだ重ねられていないありのままの姿である。だから唯識の解脱は、世界を見る仕方を取り替えることを指していて、この世界から出ていくという意味ではありません。\n明代の陸治が描いた荘周の夢の蝶。「周の夢に胡蝶と為るか、胡蝶の夢に周と為るか知らず」。中国人はずっと昔から同じ問いを考えていた。ただ荘子は、夢のなかから出る気はなかった。　出典：Wikimedia Commons、パブリックドメイン\nどう進むのか。『成唯識論』は五つの段階を挙げ、「五位」といいます。資糧位、加行位、通達位、修習位、究竟位です。\n『唯識三十頌』の最後の数句はこうです。「無得にして不思議なるは、是れ出世間の智なり。二の粗重を舍する故に、便ち転依を証得す。此れは即ち無漏界にして、不思議にして善、常なり。安楽解脱の身、大牟尼を法と名づく。」\n「無得」の二字は、よく見る価値があります。「私は何かを得た」という思いさえ、手放さなければなりません。『三十頌』は修行のある段階を述べるときに、一つの戒めを置いています。「現前に少物を立て、是れ唯識の性なりと謂わば、所得有るを以ての故に、実には唯識に住せず。」つまり、もし「唯識」までも一つのものとして手に握り、「これだ」と言うなら、まだ本当に唯識のなかに住んでいない、ということです。\nこの一句は、下篇でも続けて使います。\n逆から見る 第一に、ネットでよく見る言い方の多くは、私が上で引いた何部かの原文のなかに、対応する言葉を見つけられませんでした。 たとえば「世界は刹那ごとに一コマずつ生成し直す」といったものです。間違いだと言うのではなく、それらは後の人の展開であって、論書の字句ではない、ということです。\n第二に、唯識は肉体が存在しないとは言っていません。 『唯識二十論』自身が、夢のなかのものには実際の対象がなくても、「精血を損失するなどの用有り」と言い、論はこの「虚妄の作用」を認めています。痛みは本物の痛みです。ただ、その痛みの源を、論は心の外の物質には置かない。あるネットユーザーがこの点をとても明快に述べていて、私も賛成です。\n第三に、唯識が結局のところ「世界には心しかない」という観念論なのかどうかは、学界では今も争われています。 認識論や現象学として読む人もいれば、存在論的な観念論として読む人もいます。この一編は、どちらの肩も持ちません。\n第四に、私が読んだのは、玄奘の系統で伝わった原文だけです。 唯識は中国で別の翻訳・伝承もあり、ほかの説は読んでいません。\n夢を見て、目が覚めたあと、現実のあることよりも長く、その感情が残った夢はありませんか。\n参考資料\n『大方広仏華厳経』八十巻本巻十九「夜摩宮中偈讃品第二十」、実叉難陀訳（覚林菩薩の偈、力林菩薩の偈）、大正蔵（ウィキソース） 世親『唯識二十論』、玄奘訳、大正蔵（ウィキソース） 世親『唯識三十頌』、玄奘訳（ウィキソース） 『成唯識論』巻二・巻九、玄奘訳、大正蔵（ウィキソース） Stanford Encyclopedia of Philosophy, \u0026quot;Yogācāra\u0026quot;：https://plato.stanford.edu/entries/yogacara/ ネットユーザーの文章と回答（2026-10-05に読む。手がかりとし、証拠としない） 画像の出典は各図の説明に記載 ","permalink":"https://tentao.pages.dev/ja/duoshe/w24/","summary":"\u003cp\u003eネットで「シミュレーション宇宙 唯識」と検索すると、唯識、量子物理、「意識は宇宙の底層である」を一緒に語る記事が何本も見つかり、読んでいて痛快です。あるネットユーザーは、世界は「刹那刹那の三次元の大きな夢」にすぎないと言いました。\u003c/p\u003e\n\u003cp\u003e私は、原文に当たって見直してみたいのです。唯識自身は何と言っているのか。「万法唯心造」の原文は何なのか。この一編は上篇で、唯識の側だけを扱います。下篇でシミュレーション宇宙につなげます。\u003c/p\u003e","title":"「万法唯心造」、原文が言っているのは別のこと（上）"},{"content":"上篇では唯識の側を扱いました。『華厳経』の原文は「一切唯心造」であること。世親が、夢、餓鬼、地獄を使って、外境は存在しなくてよいと論証したこと。出口は転依ということ。この一編はシミュレーション宇宙に続き、それが唯識とどこで分かれるかを見ます。\nこのシリーズは「奪舎」（体の乗っ取り）といいます。この言葉には前提があります。識は、この身体を離れて、別の殻に入りこめる、ということです。\n2003年、オックスフォードの哲学者ニック・ボストロムが論文を発表しました。その前提も一つだけです。意識は脳に生えている必要はなく、計算が十分に精密なら、別の素材でも意識は成り立つ。\nどちらも「識が殻を替える」です。これは偶然で、そこで話を膨らませるつもりはありません。\nヤン・サンレダムがコルネリス・ファン・ハールレムの絵をもとに彫った『プラトンの洞窟』、1604年。囚人たちは壁の影を見て、それが世界だと思っている。「世界は見かけどおりではない」。二千年以上前に、そう考えた人がいた。　出典：Wikimedia Commons、ワシントン・ナショナル・ギャラリー蔵、CC0\n一、シミュレーション仮説：言っているのは別のこと ボストロムの2003年の論文は、三つのうち一つを選ぶ話です。\n第一に、人類は「ポストヒューマン」の段階に達する前に、ほぼ確実に絶滅する。第二に、ポストヒューマンの文明は、祖先のシミュレーションを大量に走らせることはほとんどない。第三に、私たちはほぼ確実にシミュレーションの中に生きている。\nこの論証は、さらに二つの仮定に頼っています。意識は異なる物質的基盤の上で実現できること、そして「無関心の原理」。つまり、あなたのような意識の大半がシミュレーションの中にあるのなら、自分の置かれた状況をその比率で見積もるべきだ、というものです。\n注意すべきは、ボストロム自身が受け入れているのは「三つのうち一つが成り立つ」ことで、第三を受け入れているわけではないことです。彼は、第三が本当だとしても、含意はそれほど過激ではないとも言っています。\n哲学者のデイヴィッド・チャーマーズも、「形而上学としてのマトリックス」を書きました。彼は「私たちはマトリックスの中に生きている」を三つに分けます。物理世界は基底の計算過程でできている。時空は外部の存在が創った。私の心は時空の外にある。\n彼のもっともおもしろい点は、これは懐疑論ではないということです。マトリックスの中でも、机は机のままで、大半の信念は真のままです。ただ、机の基底の実装が、私たちが思っていたものと違うだけです。彼はのちに『Reality+』（2022）でさらに言い切っています。仮想世界は、二流の現実ではない、と。\n二、分岐点：「ホスト機械」はあるか 唯識とシミュレーション仮説は、一箇所よく似ています。私たちが見ている世界は、見かけどおりではない、という点です。\n中国語のネットには、唯識、量子物理、「宇宙はシミュレーションだ」を並べて読む文章がたくさんあり、私が読んだ数編は、どれもこの書き方でした。これはよくある書き方だとだけ言い、一編一編の内容は評価しません。\n分かれ目もここにあります。\nシミュレーション仮説の世界は、「他作」です。チャーマーズの「創造仮説」は、はっきり言います。時空は外の存在によって創られた。外には、さらに基底の現実があり、機械があり、それを造った人がいる。\n唯識論が遮ろうとするのは、「外境」、つまり実在する外部の物質です。私が引いた何箇所かの原文には、「外で世界を造るホスト機械」の居場所はありません。華厳の偈はもっと率直です。「世間は自ら作るに非ず、亦た他の作に非ず」。シミュレーション仮説が言うのは、まさに「他作」です。\nですから、「万法唯心造」を「誰かが外でこの世界を造った」と読むのは、読み違いです。（ここは注意が要ります。逆に「唯識はシミュレーション仮説に反対する」とも言えません。唯識は千年以上前の論証で、サーバーのことは考えていませんでした。）\nもう一つ、もっと隠れた分かれ目があります。唯識は「識」にも留まりません。上篇で『唯識三十頌』の警告を引きました。「現前に少物を立て、是れ唯識の性なりと謂わば、所得有るを以ての故に、実には唯識に住せず」。\n唯識の三性は細かく説いています。世界の働きの上に重ねられた「実在する我、実在する法」は、執着によって作り出されたものだ。この執着を取り除いたときに現れるのが「円成実性」である。主体と客体の両方が、結局は実在ではない。これがスタンフォード哲学百科による唯識の要約です。\nですから、もし誰かが「世界はコードだ」を終点にしたなら、唯識はおそらくこう言うでしょう。あなたはまた一つ、ものを立てた、と。\n三、出口 「世界は見かけどおりではない」のあと、各流派が示す出口は異なります。\n誰が造ったか 外に、より基底の世界はあるか 世界は真か偽か 出口 グノーシス（対照） 劣った造物主 ある、「プレーローマ」 欠陥のある造り物 「グノーシス（霊知）」で自分の来処を認める シミュレーション仮説 シミュレーションの作り手 ある チャーマーズ：本物である なく、必要もない 唯識 無始以来の種子と共業 外部の造物主はない（上に引いた箇所による） 執着によって作り出された虚妄。世界の働きそのものは無ではない 転依 ナグ・ハマディ第二写本の一頁、『ヨハネのアポクリュフォン』の結び。1945年、エジプトの農民が壺の中からこの4世紀のコプト語写本を掘り出し、グノーシス派の経典は再び日の目を見た。　出典：Wikimedia Commons、パブリックドメイン\nグノーシスは一つの対照です。物質世界は劣った造物主の作品であり、人のなかには神聖な光が少しあって、「グノーシス（霊知）」でそれを認めれば、より高い世界へ帰れると考えます。『マトリックス』の物語は、形がこれに近いのです。（近年、「グノーシス」が一つの統一したカテゴリーと言えるのか、疑う学者もいます。ここでは大まかな輪郭だけを借りています。）\nシミュレーション仮説の側では、チャーマーズは、たとえシミュレーションでも、日々の暮らしには変わらず意味があり、探すべき出口はないと言います。ボストロムも、含意はそれほど過激ではないと言っています。\n唯識の出口は、上篇で説明しました。転依、つまり世界を見る仕方を取り替えることで、この世界から出ていく意味はありません。三者のうち、「逃げ出す」ことを求めるのはグノーシスだけです。\n四、「究極の意味」をどこに置くか 三者は、「意味」の置き場所が違います。\nチャーマーズの見方では、意味は意識と関係に支えられていて、基底がシミュレーションかどうかには支えられていません。グノーシスは意味を、帰郷に置きます。唯識は問題を「苦」に置き、世界の真偽には置きません。だから終点は、「無上正等菩提に住す」ことです。\n私に見えたのはこういうことです。「世界は本物か偽物か」を問うことと、「どうなれば苦から離れたことになるか」を問うことは、二つの問いです。シミュレーション仮説が答えているのは前者で、しかもその答えはあまり確かではありません。唯識の主な仕事は後者にあります。この二つを一緒にすると、一つの問いの答えを、もう一つの問いに使ってしまいやすくなります。\n逆から見る 第一に、類比は想像の助けにはなっても、証明にはなりません。 阿頼耶識はハードディスクではなく、種子はデータではありません。唯識をコンピュータの言葉に訳すと痛快ですが、訳すたびに代価を払います。\n第二に、上で「外部の造物主はいない」と言ったのは、私が引いた何箇所かの原文にだけ基づいています。 唯識の伝統全体に別の説があるのか、各派がどう読むのかは、調べきれていません。唯識が観念論かどうかは、学界でもともと争われています。\n第三に、シミュレーション仮説も、かなり批判されています。 物理学者のザビーネ・ホッセンフェルダーは、これを疑似科学と呼びます。理由の一つは反証できないことで、どんな証拠も、シミュレーションで作られたものかもしれないからです。チャーマーズ自身もこの点は認めています。\n第四に、グノーシスは一つの対照にすぎません。 私が読んだのは概説だけで、一次資料は読んでいません。どちらかと同一視するときは注意が要ります。\n私の傾き 三つとも、私は思考実験として扱います。\n思考実験の効用は、一つの前提をとことんまで引き伸ばして、何が導かれるかを見ることです。とことんまで引き伸ばした結果、三つの出口はそれぞれ異なりました。グノーシスは逃げようとし、シミュレーション仮説は逃げる必要がなく、唯識は逃げずに、転じようとします。それだけでもう十分におもしろく、先に真偽を分ける必要はありません。\nもしある日、「私たちはシミュレーションの中に生きている」という確かな証拠が示されたら、あなたの翌日は、何が変わるでしょうか。\n参考資料\nNick Bostrom, \u0026quot;Are You Living in a Computer Simulation?\u0026quot;, Philosophical Quarterly, 2003：https://simulation-argument.com/simulation.html David Chalmers, \u0026quot;The Matrix as Metaphysics\u0026quot;（著者サイト版）：https://consc.net/papers/matrix.html David Chalmers, Reality+: Virtual Worlds and the Problems of Philosophy, 2022 \u0026quot;Gnosticism\u0026quot;, Wikipedia（概説。この範疇をめぐる学界の論争を含む） Sabine Hossenfelder によるシミュレーション仮説への批判（Big Think の紹介）：https://bigthink.com/thinking/why-the-simulation-hypothesis-is-pseudoscience/ Stanford Encyclopedia of Philosophy, \u0026quot;Yogācāra\u0026quot;：https://plato.stanford.edu/entries/yogacara/ 世親『唯識三十頌』、玄奘訳（ウィキソース）；『華厳経』八十巻本巻十九（上篇と同じ） ネットユーザーの文章と回答（2026-10-05に読む。手がかりとし、証拠としない） 画像の出典は各図の説明に記載 ","permalink":"https://tentao.pages.dev/ja/duoshe/w25/","summary":"\u003cp\u003e上篇では唯識の側を扱いました。『華厳経』の原文は「一切唯心造」であること。世親が、夢、餓鬼、地獄を使って、外境は存在しなくてよいと論証したこと。出口は転依ということ。この一編はシミュレーション宇宙に続き、それが唯識とどこで分かれるかを見ます。\u003c/p\u003e","title":"私たちはシミュレーションの中にいるかもしれない：唯識とはどこで分かれるか（下）"},{"content":"名前がぶつかった 前の篇で、私の傾きは儒教の宗教化で、ひとまず「天道教」と呼んでいる、と書きました。\n名前を決めてから調べてみました。すると1905年の朝鮮に、すでに天道教があったのです。以下ではこれを「韓国天道教」と呼びます。教憲があり、教会堂があり、新聞と学校がありました。1919年の朝鮮の独立宣言には33人の署名があり、そのうち15人がその信徒で、最初に署名したのはその教主でした。\nいま、韓国での信者はとても少なくなっています。\n名前はぶつかりました。けれども、これこそ私がいちばん真剣に見なければならないものです。道までぶつかるかどうかは、見てから言います。\n東学：ひとことの答え 話は1860年から始まります。\nその年、崔済愚（チェ・ジェウ）という朝鮮の書生が、天命を受けたと言いました。両班の家の出でしたが、出自のせいで科挙の道を歩めず、人生の大半を各地をさまよって過ごしました。彼は自分の教えを「東学」と名づけました。この名前そのものが一つの答えです。西学が来た、われわれには東学がある、と。\n彼の教えは複雑ではありません。天は遠くにあるのではなく、一人ひとりの心の中にある。天に仕えるとは、自分の心の中のその小さなものに仕えることだ。貧しい人にもわかり、心に届きました。\n崔済愚（1824–1864）、東学の創始者。　出典：Wikimedia Commons、作者不詳、パブリックドメイン\n朝廷はそう見ませんでした。1864年、崔済愚は処刑されました。\nここを読むと、私はいつも彼が少し孤独に見えます。科挙の道を断たれ、人生の大半を旅の上で過ごし、最後に残したのは、貧しい人にわかる一つの言葉と、一つの命でした。\n同じ年、中国では洪秀全が死に、天京（南京）が陥落しました。西洋の衝撃の中から生まれた東アジアの二つの宗教、西洋の上帝を借りたものと、あえて「東学」と名乗ったものが、同じ年に創始者を失ったのです。\n甲午 東学は死にませんでした。二代目の指導者・崔時亨（チェ・シヒョン）が崔済愚の言葉を経典にまとめ、教団は民衆のあいだにますます広がりました。\n1894年、全羅道の農民が東学の旗を掲げて立ち上がりました。腐敗した役人に反対し、重税に反対し、外国人にも反対しました。朝廷は抑えきれず、清に兵を求めました。日本も条約を理由に出兵しました。蜂起はすぐに鎮圧されましたが、両国の軍隊は朝鮮に残りました。数か月後、清と日本は他人の土地で戦い始めました。\nそれが日清戦争です。\nつまり日清戦争の導火線の一つは、一つの宗教でした。このことは中国語圏の歴史の授業ではめったに語られません。おそらく、中国では、あの戦争の焦点がもともと朝鮮にはなかったからでしょう。\n東学農民運動の旗。漢字で書かれている。　出典：Wikimedia Commons、Samhanin、CC0\n蜂起の指導者の一人が全琫準（チョン・ボンジュン）です。1895年2月、彼は護送されて漢城（ソウル）に入りました。その写真の中で、彼は担架に横たわり、人に担がれ、まわりには冬着の人々と雪があります。彼はのちに処刑されました。あの写真を見るたび、私には「反乱者」ではなく、凍えきった一人の人に見えます。\n1895年2月、護送される東学農民軍の指導者・全琫準。担架に横たわり、人に担がれ、そばに制服の兵士が立つ。　出典：Wikimedia Commons、村上天真、パブリックドメイン\n1898年、崔時亨も処刑されました。\n天道教：蜂起を教団に変える 三代目の指導者・孫秉熙（ソン・ビョンヒ）は、別の道を歩みました。\n1901年に日本に亡命し、そこで近代国家がどう動いているかを見ました。1905年12月1日、彼は東学を正式に「天道教」と改名し、翌年には教憲を公布して中央の教団を作り、学校と新聞を始めました。失敗した農民蜂起を、制度と組織を持ち、官と渡り合える近代宗教に作り変えたのです。\n孫秉熙（1861–1922）、天道教の三代目の指導者。　出典：Wikimedia Commons、作者不詳、パブリックドメイン\nその教えは、のちに三文字にまとめられました。人乃天。人はすなわち天である。\n私が自分の構想のために選んだしるしは、篆書の「天」です。立っている人の頭上に一画。彼らはその一画を取り去ったのです。\n1919 1919年3月1日、漢城の料理店で、集まった29人の民族代表が独立宣言を読み上げました。宣言には33人の署名がありました。韓国天道教徒15人、キリスト教徒16人、仏教徒2人。何人かは間に合いませんでした。最初に署名したのは孫秉熙です。\n三・一運動はそのあと朝鮮半島全体に広がり、日本の植民地当局によって残酷に弾圧されました。孫秉熙は逮捕され、のちに病気で保釈され、1922年に自宅で亡くなりました。\nこれが韓国天道教のいちばん輝いた時です。東アジアの土から生まれ、「天道」を名に掲げた宗教が、一つの民族の先頭に立ったのです。\nもう一方の端 けれども同じ教団から、別の一団も出てきました。\n1904年、東学の一つの組織が「一進会」に合流しました。1906年、孫秉熙はその頭目・李容九（イ・ヨング）を破門しました。1909年、一進会は先頭に立って、日本に朝鮮の併合を求める上書をしました。\n一つの教団の、一方の端からは独立宣言の最初の署名が、もう一方の端からは併合を願い出る人々が出たのです。\nこれを「裏切り者」と「英雄」の物語にはしたくありません。私が気にかかるのはこういうことです。宗教はいったん政治と結びつくと、自分でも制御できない方向へ連れて行かれる。同じ「天道」が、植民者に抵抗するためにも、植民者に従うことを正当化するためにも使えるのです。\n救われたあとで 1945年、朝鮮半島は解放され、そして分断されました。\n北では、韓国天道教は名目だけの政党として残っています。南では、信者はとても少なく、五千万の人口の中では、ほとんど見えません。\nなぜ大きな宗教として生き残れなかったのか。研究者はいろいろな説明をしていますが、ここでは私自身の推測だけを述べます。\n第一に、民族の運命とあまりに固く結びついていた。 民族が危機にあるとき、それは火種でした。民族が救われたあと、自分がほかに何でありうるかを考えていなかった。宗教が「どうすれば国が滅びずにすむか」にしか答えないなら、国が滅びなくなったとき、その問いを発する人もいなくなります。\n第二に、都市化のとき、場所を先に取られた。 韓国は数十年で農村社会から都市社会に変わり、村を離れた人々は新しい共同体を必要としました。その場所を先に取ったのは教会でした。いまソウルの夜にいちばん目立つのは、赤い十字架です。\n第三に、「人乃天」は、現代人がもともと信じていることにあまりに近かったのかもしれない。 人はみな平等で、人には尊厳がある。社会全体がそれを受け入れてしまえば、それを核とする宗教は、自分にしかないものを示しにくくなります。仏教の瞑想が世俗社会に持っていかれたのと同じ話です。\n教会が先に場所を取った 二つ目の推測について、あとでもう少し調べ、「教会に取られた」とはどういうことだったのかを確かめようとしました。\n韓国のキリスト教の到来は遅くありません。1784年、北京で洗礼を受けた朝鮮人が漢城に最初の祈りの場を開きました。のちに朝廷に禁じられ、1801年、1839年、1866年に大きな迫害がありました。1866年については、古い説では八千人が死んだとされますが、韓国学中央研究院の百科事典は、これは伝聞による誇張で、記録で確かめられる殉教者は約1,400人としています。フランス人神父9人も殺されました。プロテスタントが入ってきたのは1883年以降で、「自給・自治の現地教会」という方針をとり、教会は同時に学校と病院も開きました。1907年には平壌で「大リバイバル」が起き、1919年の三・一運動の署名者にもキリスト教徒が16人いました。のちの研究者はこう説明します。抗日の民族主義、近代化と教育、ハングルの識字が庶民に広がったこと、それに「人はみな神のかたち」という考えが、儒教の身分秩序を揺さぶった、と。\n2015年の国勢調査では、プロテスタントが19.7%、仏教15.5%、カトリック7.9%、無宗教が56.1%でした。（別の調査では2024年に31%という数字もありますが、基準が違うので並べません。）\nここには数字よりも胸に刺さる細部があると思います。韓国のプロテスタントは、信者に祖先祭祀をやめ、祭壇に供え物をしないよう求めました。あとになって「追悼礼拝」が考え出され、命日に集まって礼拝をする。追悼であって祭祀ではない、と。これは『依帰』で書きました。私が言いたいのはこういうことです。教会が場所を取ったのは、先に来たからだけではなく、村を離れた人々に新しい「家」を与えたからです。ただその家は、古いものの一部を手放すよう求めたのです。\nそれは私の言う天道教とは別物だ 名前は同じでも、道は違います。誰も混同しないよう、違いをここに並べておきます。\n韓国天道教（천도교） 私の言う天道教 どこから来たか 東学：19世紀朝鮮の土着の新宗教。儒・仏・道と民間信仰を混ぜ合わせ、「西学」に向き合って生まれた 儒教の宗教化：四書、祖先祭祀、天命から育つ 天はどこにあるか 「人乃天」：人が天である 「一と大から成る」：人の頭上にはなお天がある。天行は健やかで常があり、人に畏れと自律を与える 誰のためか 朝鮮民族と、その独立 東アジアの儒教文化圏全体、つまり私の言う東アジアの人々 いま 韓国での信者はとても少ない まだ構想にすぎない このシリーズでは今後、朝鮮半島のそれを指すときは、いつも「韓国天道教」と呼びます。\n自分への戒め ここまで書いて、自分の構想について三つの戒めが増えました。\n宗教が危機より長く生きるには、危機の問いにだけ答えていてはいけない。 政治に近づくほど、政治に連れ去られやすい。どの方向へかは、宗教自身が決められない。 世俗社会に持っていかれないものを、一つ持っていなければならない。 その一つが何なのかは、まだわかりません。\n書き終えてから、もう一つ考えました。その「世俗社会に持っていかれないもの」として、いま私に思いつくのは、日々の暮らしです。宗教が大きなことにしか役立たず、民族が危機にあるときや、何かを選ばなければならないときにだけ思い出されるのなら、国が落ち着けば持っていかれてしまう。けれども、それが毎日の中に場所を持っていたら。清明に墓を掃き、正月に祖先を祀り、食事の前に少し天を思う。こういうものを「持っていく」現代社会はありません。それは主張ではなく、日々だからです。韓国天道教のいちばんの難しさは、その場所が「主張」にあって、日々の中になかったことです。私の求めるものは逆でなければならない。まず日々があり、それから主張がある。\n韓国の友人たちへ。1919年3月1日、ソウルのある料理店で、孫秉熙は独立宣言にいちばん最初に名前を書きました。三十三の名前のうち、十五人はあなたたちの天道教の人でした。署名すればどうなるか、彼らは知っていました。少しさかのぼれば、崔済愚は科挙を受けることもできず、四十歳で処刑されました。全琫準は担架に横たわったまま、雪に囲まれてソウルに担ぎ込まれました。孫秉熙は、保釈されたあと自宅で亡くなりました。私は中国語の書き手で、この人たちの誰も私の教科書には出てきませんでした。大人になってから、一人ずつ知ったのです。あなたたちの天道教に、いま信者が多くないのは本当です。けれど、一つの民族のいちばん寒い年月に、その最前に立っていたのは、あの教団でした。私は自分の構想に「天道教」と名づけ、名前がぶつかりました。その名前を奪いに来たのではありません。あなたたちに学びに来たのです。\n民族の危機にしか役に立たない宗教は、それでも宗教と言えるだろうか。\n参考資料\nあわせて読む：『依帰』E07「孔孟を焼こうとした政権」、E02「『上帝』の二字は誰が選んだのか」（同時代の太平天国の応答）；本シリーズ D05「『天』とはいったい何か」（「人乃天」と「一と大から成る」） Carl F. Young, Eastern Learning and the Heavenly Way: The Tonghak and Ch'ŏndogyo Movements and the Twilight of Korean Independence, University of Hawai'i Press, 2014 天道教の年表：1860 東学、1864 崔済愚処刑、1894 東学農民蜂起、1898 崔時亨処刑、1904 一進会、1905-12-01 天道教と改名、1906 李容九破門、1909 一進会の併合請願、1919-03-01 独立宣言（天道教15／キリスト教16／仏教2）、1922 孫秉熙病没；2005年約4.5万、2015年約6.5万人 Pew Research Center, \u0026quot;Why is Buddhism shrinking worldwide?\u0026quot;, 2026-03-11（「世俗社会に持っていかれる」の対照） 韓国のキリスト教化の経緯と数字：作者の調査ノート（英語版ウィキペディアなど二次資料による） 1866年の丙寅迫害の殉教者数（「八千」は伝聞の誇張、約1,400人）：韓国学中央研究院『韓国民族文化大百科事典』「병인박해」 https://encykorea.aks.ac.kr/Article/E0023139 🟡 2015年韓国国勢調査の宗教人口（プロテスタント968万人・19.7%、仏教15.5%、カトリック7.9%、無宗教56.1%）：Korea Times 2017-01-10、統計庁を引用 https://www.koreatimes.co.kr/amp/lifestyle/others/20170110/more-koreans-now-non-believers-census-shows 🟡 図の出典は各キャプションに記載 ","permalink":"https://tentao.pages.dev/ja/linju/d01/","summary":"\u003ch2 id=\"名前がぶつかった\"\u003e名前がぶつかった\u003c/h2\u003e\n\u003cp\u003e前の篇で、私の傾きは儒教の宗教化で、ひとまず「天道教」と呼んでいる、と書きました。\u003c/p\u003e\n\u003cp\u003e名前を決めてから調べてみました。すると1905年の朝鮮に、すでに天道教があったのです。以下ではこれを「韓国天道教」と呼びます。教憲があり、教会堂があり、新聞と学校がありました。1919年の朝鮮の独立宣言には33人の署名があり、そのうち15人がその信徒で、最初に署名したのはその教主でした。\u003c/p\u003e","title":"韓国にはほんとうに「天道教」があった"},{"content":"一つの指令 1945年12月15日、連合国軍総司令部は一つの指令を出しました。番号はSCAPIN 448。題名は長く、「国家神道、神社神道ニ対スル政府ノ保証、支援、保全、監督並ニ弘布ノ廃止ニ関スル件」です。\n起草したのは、アメリカ海軍予備役の将校ウィリアム・バンスでした。連合国から見れば、彼らの言う「国家神道」とは、ゆがめられて軍国主義と超国家主義の宣伝道具になった神道でした。\nこの指令のあと、神社は国家から資金を受けなくなり、学校では神道の儀式が行われなくなりました。国家と神社のあいだは、切り離されたのです。\nそれまでの数十年に、何があったのでしょうか。\nまず神社と寺を切り離す 明治維新以前、日本の神と仏は長く混じり合っていました。神社に仏がおり、寺に神がいて、僧侶と神職はしばしば同じ人々でした。\n1868年、新政府は「神仏分離」を命じ、両者を無理に引き離しました。一部の地方では、それに続いて寺院を壊す風潮が起こりました。\nその寺にいた人たちのことを考えてみてください。隣の神職とは、もともといっしょに経を読み、いっしょに祭りをしてきたのに、一本の命令で、おまえたちは別の家だ、分かれよ、と言われる。多くの土地の庶民は、ある日突然、どちらで線香をあげればいいのかわからなくなりました。\n新しい国家は、人心を天皇のまわりに集めるものを必要としていました。それが選んだのが神道です。\n「神社は宗教にあらず」 面倒というのはこうです。日本は近代国家になりたかった。そして近代国家は信教の自由を約束するものです。\n1889年に公布された明治憲法は、第28条で信教の自由を定めましたが、制限をつけました。安寧秩序を妨げず、臣民たるの義務に背かない限りにおいて、と。\nすべての人に神社を参拝させながら、信教の自由を保障すると言うには、方法は一つしかありません。神社は宗教ではない、と宣言することです。\n1882年、内務省は神官が教義を説く「教導職」を兼ねることを禁じました。神社は制度の上で切り出されました。神社が行うのは国家の祭祀であり、「国民の儀礼」であって、「宗教」ではない。研究者はのちにこの仕組みを「神社非宗教論」と呼びました。\n1890年、教育勅語が発布されました。勅語と天皇の御真影が、学校の儀式の中心になりました。\n1890年の教育勅語。のちに御真影とともに学校の儀式の中心となった。　出典：Wikimedia Commons、井上毅ほか、パブリックドメイン\n頭を下げなかった人 1891年1月9日、東京、第一高等中学校。教育勅語の奉読式で、嘱託教員の内村鑑三が、勅語に深く頭を下げませんでした。\n彼はキリスト教徒でした。\nこの出来事は新聞に載り、全国的な事件になりました。内村は辞職に追い込まれました。哲学者の井上哲次郎は一連の文章を書き、キリスト教は天皇に対する日本臣民の義務と相容れないと論じました。\n内村鑑三（1861–1930）。　出典：Wikimedia Commons、益本重雄・藤沢音吉撮影、パブリックドメイン\n「神社は宗教ではない」という定義が、一つのお辞儀を試験に変えたのです。おまえは日本人なのか、と。\n反乱を起こそうとしたわけでもなく、ただあの深いお辞儀をしなかっただけの人が、職を失い、全国の人の口で「不敬」と呼ばれた。ここを読むと、私は彼の代わりに疲れを覚えます。\n戦争の時代 1930年代になると、「国体」がますます強調され、神社参拝はますます強制に近づきました。\n1943年、のちに創価学会の創立者の一人とされる牧口常三郎は、神札、つまり神社の出すお札を受け取ることを拒みました。彼は戸田城聖ら教団の指導者とともに「思想犯」として逮捕されました。\n1944年11月18日、七十を過ぎた牧口は、東京の巣鴨拘置所で亡くなりました。\n牧口常三郎（1871–1944）。　出典：Wikimedia Commons、創価学会、パブリックドメイン\n彼の動機については、後世に議論があります。教団はこれを軍国体制への抗議と見ていますが、彼は主として自分の日蓮仏法の信仰を守ったのであって、政治的な異論者ではなかったと考える研究者もいます。この点について、私はどちらかに結論を下しません。\n切り離されたあと 1945年12月15日のあと、1946年1月1日、天皇はいわゆる「人間宣言」を出しました。1947年の新憲法は、第20条で政教分離を定めました。\n神社は国家のふところを出て、民間の宗教法人になりました。1946年、全国の神社が集まって神社本庁を設立しました。\n国家が宗教を定義するのは、日本だけではない 「神社は宗教にあらず」は、国家が一つの伝統に下した定義でした。こういうことは日本だけで起きたのではありません。\nインドネシアについて、私が読んだ資料ではこうです。1965年、国家は孔教を六大宗教の一つとして認めました。1967年、華人の宗教と文化の活動を制限しました。1978年から79年には、内務省の通達が五大宗教しか認めず、その理由は、孔教は華人の同化を妨げ、しかも「中国でも宗教ではない」というものでした。回復が始まったのは2000年になってからで、2006年に宗教省の通達が改めて認めました。同じものを、国家はあるときは宗教だと言い、あるときは宗教ではないと言い、政治の必要に応じて行ったり来たりしたのです。（1965年、1967年、2000年の三つの法令は原文を読みました。1978年と2006年の二つの通達は原文を読めておらず、インドネシアの研究者の論文での紹介によります。）\n中国大陸でいま公式に認められている宗教は五つです。仏教、道教、イスラーム、カトリック、プロテスタント。儒教は入っていません。\n香港はまた違います。1928年の「華人廟宇条例」は、廟・寺・庵・観・道院のほか、神を祀り、霊と交わり、占いをして公衆から金を取る場所も「華人廟宇」とみなします。見るのは何をしているか、金を取るかどうかで、教義ではありません。条例は委員会を設け、すべての華人廟宇の収入・基金・投資・財産は委員会が全面的に管理すると明記しています。一方、政府の2012年の答弁によれば、民政事務局は宗教団体の登録を行っておらず、香港の法律も宗教団体の運営を規制していません。（インドネシアの1978年11月の通達と2006年2月の二通の書簡は、学術論文の転述を読んだだけで、原文は読めていません。）\n逆から見る 「国家と宗教が結びつけば、必ずまずいことになる」。この言葉はいつも成り立つわけではありません。\nデンマーク憲法の第4条は、いまも福音ルター派教会をデンマークの国教会とし、国家が支えると定めています。スウェーデンは2000年1月1日に国教会の地位を廃止しました。ノルウェーは2012年の憲法改正で「国家の宗教」という文言を削りましたが、教会は「国民の教会」として、引き続き国家の支援を受けています。これらの国の教会は、信教の自由や多元的な社会と共存しています。\nですから問題は「国教があるかどうか」ではなく、別のところにあるのかもしれません。参加が強制されるかどうか、離れるのにどれだけの代償がいるか、国家が動員するのが儀礼なのか、それとも戦争なのか。\nもう一つ。指令が「国家神道」に与えたのは、占領政策上の定義でした。それが一つのまとまった対象だったのかどうかは、学界でも議論があります。\n日本の例は、私にとってとてもはっきりした戒めです。私はよく、宗教は国家と民族と時代を越えるものだから、国家に認定されるべきではないと言います。国家が登録することは受け入れられます。土地、税、法人格、これらは現実です。けれども「何が宗教か」「あなたの伝統は宗教に入るのか」という定義を、国家に下させたくはありません。国家がいったん定義すれば、国家があなたに何であれと望むものに、あなたはならなければならないからです。神社は国民の儀礼だと言われればお辞儀をしなければならず、孔教は宗教ではないと言われれば廟を学術機関に変えなければならない。同じ伝統が、国家の手の中では、あるときは「そうだ」、あるときは「そうではない」と、その使い道に応じて変わるのです。\n公平のために言っておくべきこともあります。国家がまったく関わらないというのは、現実には簡単ではありません。デンマークやスウェーデンのような国では、教会と国家の関係がとても近くても問題は起きませんでした。日本の問題は、国家が神社を人々を動員する道具にし、「必ず」を求めたことです。私が望むのは、もっと細い一本の線です。登録はいい、支援もいい、けれども求めない、強いない、定義しない。この線を引けるのかどうか、まだわかりません。歴史上、それができた例は多くありません。\n日本の友人たちへ。私がいちばん覚えておきたい二人がいます。1891年1月9日、東京の第一高等中学校、勅語の奉読の日に、内村鑑三はそれに深くお辞儀をせず、のちに職を失い、全国の新聞に責められました。五十年あまりのち、七十代の牧口常三郎は、神社が配るお札を受け取ることを拒み、1944年11月、巣鴨拘置所で亡くなりました。二人とも自分の国に逆らう気はなく、ただ自分の心のいちばん深いものを、他人に取り上げられたくなかっただけです。今日、二人のことを読んでも、それを「不敬」とは思わないでしょう。ならば、こう考えてほしいのです。国は、全員に同じお辞儀をさせる必要はなく、心のなかのものを守り続ける人も、同じようにその国の人なのだ、と。\n国家がある伝統を「宗教ではなく、ただの習俗だ」と宣言するとき、それは守っているのか、それとも取り込んでいるのか。\n参考資料\nSCAPIN 448（1945-12-15）\u0026quot;Abolition of Governmental Sponsorship, Support, Perpetuation, Control, and Dissemination of State Shinto\u0026quot;；1882年内務省「神官教導職分離」（「神社非宗教論」） Helen Hardacre, Shinto and the State, 1868–1988, Princeton UP, 1989 内村鑑三「不敬事件」（1891-01-09）；井上哲次郎「教育と宗教の衝突」論争 牧口常三郎：1943年に神札を拒否して逮捕、1944-11-18 巣鴨拘置所で死去 デンマーク憲法第4条；スウェーデン国教会と国家の分離 2000-01-01；ノルウェー憲法改正 2012-05-21 1868年神仏分離令、1889年明治憲法第28条、1890年教育勅語、1946-01-01「人間宣言」、1946年神社本庁設立、1947年憲法第20条：通説 インドネシア・中国大陸・香港の登録と定義：作者の資料ノート「天下から国家へ」第三節（二次資料）。原文を確認したものは以下、ほかは未確認 インドネシア1965年大統領決定第1号の解説（孔教を含む六宗教）：インドネシア語版ウィキソース https://id.wikisource.org/wiki/Penetapan_Presiden_Republik_Indonesia_Nomor_1_Tahun_1965 🟢 インドネシア1967年大統領指示第14号（華人の宗教と習俗は家庭内のみ）：https://id.wikisource.org/wiki/Instruksi_Presiden_Republik_Indonesia_Nomor_14_Tahun_1967 🟢 インドネシア2000年大統領決定第6号（1967年指示の廃止）：インドネシア会計検査院法令データベース https://peraturan.bpk.go.id/Details/57713/keppres-no-6-tahun-2000 🟢 中国大陸の五大宗教：国務院新聞弁公室『中国の宗教信仰自由状況』（1997）、ウィキソース https://zh.wikisource.org/wiki/中国的宗教信仰自由状况 🟢 香港民政事務局の答弁：立法会質問LCQ16「Government support for religious groups」、2012-06-27、info.gov.hk（「民政事務局は宗教団体の登録を行わず、香港の法律は宗教団体の運営を規制しない」）🟢 インドネシア1978年内務省通達（第477/74054号、1978-11-18、五つの宗教のみを列挙）および1979年の内閣による孔教は「宗教ではない」との見解（政府の理由に「孔教は中国でも宗教ではない」を含む）；2006年に再承認：Yang Fenggangら学者の論文とInside Indonesiaの紹介、通達の原文は未読 🟡 香港「華人廟宇条例」（第153章）の定義と第7条(1)：香港立法会民政事務委員会文書「検討〈華人廟宇条例〉」2015-03-24 https://www.legco.gov.hk/yr14-15/chinese/panels/ha/papers/ha20150324cb2-1045-7-c.pdf 🟢 図の出典は各キャプションに記載 ","permalink":"https://tentao.pages.dev/ja/linju/d02/","summary":"\u003ch2 id=\"一つの指令\"\u003e一つの指令\u003c/h2\u003e\n\u003cp\u003e1945年12月15日、連合国軍総司令部は一つの指令を出しました。番号はSCAPIN 448。題名は長く、「国家神道、神社神道ニ対スル政府ノ保証、支援、保全、監督並ニ弘布ノ廃止ニ関スル件」です。\u003c/p\u003e\n\u003cp\u003e起草したのは、アメリカ海軍予備役の将校ウィリアム・バンスでした。連合国から見れば、彼らの言う「国家神道」とは、ゆがめられて軍国主義と超国家主義の宣伝道具になった神道でした。\u003c/p\u003e","title":"「神社は宗教にあらず」：日本はどのように伝統を国教に作り替え、どのように解体されたか"},{"content":"前にも一度あった 私の傾きは、儒家の宗教化にあります。この考えを持った最初の人間が私、というわけではありません。\n百年あまり前の中国で、すでに真剣にやってみた人たちがいました。\n1912年10月、孔教会が上海で成立しました。発起人には陳煥章、麦孟華らがいます。1913年11月、康有為が会長に推され、陳煥章が総幹事になりました。\n康有為（1858–1927）。　出典：Wikimedia Commons、Elmer Chickering撮影、パブリックドメイン\n陳煥章はアメリカ留学の博士で、1911年に出た博士論文が『孔門理財学』（孔子とその学派の経済原理）です。この人は、あとでもう一度出てきます。\n請願 1913年8月、陳煥章らは中華民国第一期国会の衆議院と参議院に『孔教会請願書』を出し、憲法に孔教を国教として明記するよう求めました。連名には陳煥章のほかに、梁啓超や厳復もいました。\n彼らの理屈は、きちんと伝えておく必要があります。康有為は1913年4月にこう書いています。「信教自由とは、寛大に民の好むところに任せること。国教を特立するとは、一つを尊んで民の習俗に合うところを明らかにすること。義はそれぞれ別のところにあり、互いに妨げず、互いに累わせない」。つまり、信教の自由と国教を立てることは別々の事で、ぶつからない、という意味です。彼はさらに、中国は二千年にわたって儒を国教としてきたが、その中で仏・道・回（イスラム）はずっと並び行われてきた、信教の自由はとうの昔から実行されている、とも言いました。\nこの請願は、憲法起草委員会に否決されました。\n三年後の1916年、袁世凱が亡くなったあと、孔教会はふたたび孔教を国教にと上書し、ふたたび退けられました。\nなぜ退けられたか 反対者のいちばん大きな理由は、憲法の信教自由条項でした。一つの宗教を国教にすれば、信教の自由に背くのではないか。これが双方のいちばん大きな分かれ目でした。\n陳独秀はこの問題をいちばん具体的に言いました。1916年11月1日、『新青年』第2巻第3号に載った彼の「憲法と孔教」です。孔教を国教にすれば、異教の人が大統領や官吏になったとき、「孔を祀らなければ法に違い、孔を祀れば教えに背く。どちらにしても立つ瀬がない」。学校で仏教・道教・キリスト教・イスラム教を信じる生徒も、「孔を祀らなければ校則に違い、孔を祀ればその信仰を損なう。やはりどちらにしても立つ瀬がない」。\n上海の『新青年』編集部旧址（陳独秀の旧居）。　出典：Wikimedia Commons、Fayhoo撮影、CC BY-SA 3.0\nもっと現実的な政治の理由もありました。袁世凱は孔子を尊ぶことを支持し、祭孔に関する一連の命令も出しましたが、孔教を国教にすることには公然と反対しました。孔子は「もともと宗教家ではない」と言い、1915年には曲阜の孔教会総会に名前を改めさせた、とも言われています。彼が尊んだのは「孔」で、恐れたのは「教」でした。自分の権威づけにいちばん孔子を必要としていた人でさえ、孔教を国教にはしなかったのです。\nヒューバート・ヴォスが描いた袁世凱の肖像。　出典：Wikimedia Commons、Hubert Vos、パブリックドメイン（袁世凱についてのこれらの言い方は、二次研究の転述によるもので、年や言葉遣いを照らせる一次の档案はありません。確かなのは、1913年6月に孔子を尊ぶ令を出し、孔教を国教にはしなかったことです。）\n負けなかったもの 「二度とも退けられた」では、話の半分しか言っていません。\n1913年10月31日、国会の憲法起草委員会は『中華民国憲法草案』を可決しました。「天壇憲草」と呼ばれるものです。第十九条にはこうあります。「国民教育は、孔子の道を修身の大本とする」。\n国教とは書かれず、孔子が書かれました。\n北京・天壇の祈年殿。1913年の憲法草案は天壇の中で起草されたため、「天壇憲草」と呼ばれる。　出典：Wikimedia Commons、Bjoertvedt撮影、CC BY-SA 4.0\nその後、この一条は国会でくり返し論争されました。1917年1月、李大釗は「孔子と憲法」で、これを「怪奇な事実」と呼び、第二読会で削ってほしいと望みました。\n1923年の『中華民国憲法』第十二条は、最後にこう書きました。「中華民国人民は、孔子を尊崇し及び宗教を信仰する自由を有し、法律によるのでなければ制限を受けない」。\n国教は成りませんでした。孔子は、「孔子を尊崇する自由」という書き方で、憲法に残りました。\n孔教会が成し遂げられなかったこと 請願が失敗したあと、孔教会が唱えた「孔子を尊び、古に復す」運動は、しだいに静まっていきました。\n失敗の原因に、単一の答えはありません。問い続ける価値のある問題が、いくつかあります。\n第一に、彼らが求めた「国教」は、キリスト教のように信者がいて礼拝がある宗教なのか、それとも国家の礼制なのか。この二つが、請願書の中では混ざっているように見えます。調べて分かるのは、孔教会が実際に形にしたのは、祭孔の礼、年次大会、機関誌だけだったということです。毎週の集まり、名簿、日々の信者の暮らしは、見つかりませんでした。康有為が思い描いた「教会」のようなものは、孔教会自身も作れなかったのです。\n第二に、政治と固く結びつきすぎました。1917年、康有為は張勲の復辟に加わりました。宗教の提唱者が復辟の側に立てば、「孔教」は「復古」のレッテルからなかなか抜け出せません。\n第三に、本来は社会の中でひとりでに育つはずのことを、国会の立法で成し遂げようとしました。\n第四に、おそらく時代です。彼らがぶつかったのは、伝統にうんざりして、新しさを求める人が多い大きな時代でした。孔教会は伝統を国教にしようとして、ちょうどその人たちの正反対に立ってしまったのです。\nこれらは問いであって、結論ではありません。趙法生や張翔などの学者がこの運動を専門に研究していて、結論はそれぞれ違います。ここでは問いを出すだけにします。\n反対から見る 「孔教会は失敗した」という言い方にも、気をつける必要があります。\n国家のレベルでは失敗しました。けれども、儒家の宗教化はそこで途切れたわけではありません。半世紀後、インドネシアでは、儒家が「孔教」（Agama Khonghucu）の名で、政府公認の宗教の名簿に入りました（1965年）。のちに制限され、公認は五大宗教だけに改められ、2000年以降、少しずつ返されてきました。同じことなのに、国家が認めたり認めなかったりして、政治に左右されます。（1965年の大統領令と2000年の大統領決定は原文を読みました。1978年11月18日の内務省通達は、文書番号の書き方が資料ごとに違い、読んだのは学術論文の転述です。）\n朝鮮半島でも、同じ試みをした人がいます。李炳憲は19世紀末から20世紀初めにかけて、儒教を宗教に改めることを主張しました。1945年に成立した成均館儒道会は、二百あまりの支部があったといいます。（数字は未確認。）\nそれに、反対者の理由は、すべてが「反宗教」だったわけではありません。陳独秀が反対したのは、かなりの部分、孔子の学説を国家が強制するものに変えることでした。これは、今日の人々が「国教」に抱く懸念と同じものです。天津の『益世報』では、カトリック教徒も反対に立ちました。その中の一人は、もし孔教を国教にすれば、各教はかえって孔子の書を禁じることになるが、それでは「孔子の道を絶やす」ことにならないか、と言っています。\nだから、問うべきなのは「孔教会はなぜ失敗したか」ではなく、こちらなのかもしれません。宗教化が国家を通らないなら、何を通れるのか。\nここから私が読み取ったこと この失敗は、私の構想に三つのことを意味します。\n一つめは、道筋です。孔教会は国会の立法で、一気に孔教を国教にしようとしました。私の言う「十分」には四つが要ります。人数、組織、財力、教義。この四つは、どれも社群が自分で少しずつ育てなければならず、立法では与えられません。私の言う「主導」とは、文化の上での主導であって、政治権力ではありません。孔教会から得られる教訓は、国家の手を借りるな、ということです。\n二つめは、孔子です。孔教会は孔子を教主に押し上げました。求めたのは、啓示を受けた人でした。私はその道は行きません。私が選ぶのは「先師」です。孔子は法を立てた人、伝えた人で、預言者に似て、モーセに似ていますが、啓示を受けた人ではありません。神格は別のところにあって、それが「天道」です。\n三つめは、残ったものです。この失敗は完全ではありませんでした。孔子は結局、憲法の「自由」の中に残りました。一つの考えは、国家が認めるのを待たなくても、社会の中に残ることができます。ただし、残ったのは一つの自由であって、一つの依帰（頼りとし、帰り着く信念）ではありません。依帰は、社群が自分で与えなければならないものです。\nなぜ与えるのか。当時ぶつかったのは、伝統にうんざりして新しさを求める人たちでした。いま私は、原子化した現代人がそれを必要としていると思います。\nこれが、1913年から1916年にかけてのあの失敗から私が得たことです。間違っているかもしれません。\n陳煥章や康有為たちに、私は敬意を持っていますし、少し胸も痛みます。彼らはあの時代でもっとも学問のある人たちの一群で、本気で孔子を生き続けさせたいと思い、当時考えつくかぎりもっとも体面のある方法を使いました。請願書を書き、国会に入り、憲法に入る。彼らは負け、「復古」だと笑われ、「復辟」の手先として記憶されました。私はよく思います。もし彼らが当時、国家に頼みに行かず、まず地方に戻って、祭孔を毎月、どの村でもできることにし、祠堂・書院・会館をつないでいたら、違っていたのではないか。この「もし」は何も証明しませんが、私は自分にこの問いを残しておきたい。私の歩く道は、彼らが歩かなかったほうでなければならない。\n中国の外にいる友人たちにも、中国の中にいる友人たちにも書きます。陳煥章、康有為たちは負けました。1913年に請願書を抱えて国会に入り、退けられ、1916年にもう一度上書して、また退けられました。のちに彼らは「復辟」の手先と言われ、「守旧」と言われ、名前はいまでも笑い話にする人がいます。けれども、私がこの歴史の中に見るのは、本気の人たちの一群です。多くの人が伝統を嫌い、争って新しいものを求めた時代に、それでも彼らは進み出て言いました。孔子をなくしてはいけない。彼らのやり方は間違っていました。でも、その心は、あなたにも分かるはずです。清明の日に、先祖のお墓の前に立って、胸にこみ上げてくるあの一瞬。それを、自分の代で途切れさせたくない気持ちです。彼らが手にできなかったものを、私たちならできるかもしれない。国家に求めず、誰の手も借りず、一人ひとりが自分の日々の中で、少しずつ、それをつないでいく。\nもしあのとき「孔教を国教に」という条項が通っていたら、今日の儒家は強くなっていたでしょうか、弱くなっていたでしょうか。\n参考資料\n対照して読む：「『神社は宗教にあらず』：日本はどのように伝統を国教に作り替え、どのように解体されたか」（同じシリーズ。国家と伝統を結びつけた結果）、『依帰』「孔を祀らなければ法に違い、孔を祀れば教えに背く」（同じ出来事、史実をより多く） 孔教会：1912年10月、上海で成立。1913年8月請願書（連名：陳煥章、梁啓超、厳復ほか）。1913年11月康有為が会長に。1916年再度の請願が退けられる 陳独秀「憲法と孔教」、『新青年』第2巻第3号、1916-11-01 『中華民国憲法草案』（天壇憲草）第十九条、1913-10-31。李大釗「孔子と憲法」（1917-01-30）。『中華民国憲法』（1923）第十二条 康有為「孔教を国教とし天に配するを議す」（1913年4月、『不忍』第3期）、張翔からの引用 趙法生「国教論争と康有為の儒学復興運動の失敗」。張翔「共和と国教：政体激変のときの『孔教を国教に立てる』問題」、『開放時代』2018年第6期 趙秀麗「民国初年のカトリックによる孔教入憲反対の世論の考察」、『澳門理工学報』2021年第3期（二次資料） インドネシアの孔教：作者の資料ノート『天下から国家へ』第三節（二次資料）。1965年第1号大統領令の解説（孔教を含む六つの宗教）、インドネシア語ウィキソース https://id.wikisource.org/wiki/Penetapan_Presiden_Republik_Indonesia_Nomor_1_Tahun_1965 🟢。2000年第6号大統領決定、会計検査院の法令データベース https://peraturan.bpk.go.id/Details/57713/keppres-no-6-tahun-2000 🟢。1978年内務省通達（未確認） 陳煥章『孔門理財学』（1911）、1917年の張勲復辟と康有為：通説の史実 画像の出典は各図の説明に記載 ","permalink":"https://tentao.pages.dev/ja/linju/d03/","summary":"\u003ch2 id=\"前にも一度あった\"\u003e前にも一度あった\u003c/h2\u003e\n\u003cp\u003e私の傾きは、儒家の宗教化にあります。この考えを持った最初の人間が私、というわけではありません。\u003c/p\u003e\n\u003cp\u003e百年あまり前の中国で、すでに真剣にやってみた人たちがいました。\u003c/p\u003e\n\u003cp\u003e1912年10月、孔教会が上海で成立しました。発起人には陳煥章、麦孟華らがいます。1913年11月、康有為が会長に推され、陳煥章が総幹事になりました。\u003c/p\u003e","title":"孔教会はなぜ失敗したか：「孔教を国教に」という二度の請願"},{"content":"立っている一人の人 後漢の許慎は、『説文解字』で「天」をこう説明しています。「天、顛なり。至高にして上なし。一大に従う」。\n「顛」は頭のてっぺん。「大」は、手足を広げて立っている人です。字形をさかのぼると、甲骨文の「天」は、正面を向いて立つ人を描いていて、頭がわざと大きく描かれています。頭が四角い枠になっているものもあれば、点が打たれているものもあります。\n甲骨文の「天」：正面を向いて立つ人。頭がとくに大きい。　出典：Wikimedia Commons、パブリックドメイン\n許慎はこれを「一」と「大」に分けました。いまの文字学者の多くは、この分け方は違うと考えています。天はもともと人の形で、分けられないのです。\nつまり、この字がいちばん初めに指していたのは、おそらく、人の頭の上のひとかたまりの空間にすぎませんでした。そのひとかたまりが、使われるほどに大きくなり、ついには「至高にして上なし」になった。\n字形で言えるのは、ここまでです。昔の人が頭の上に何を見たのかは、教えてくれません。\n孔子よりも古い天 孔子より前、周の人たちは「天」をどう語っていたのでしょうか。書き写しておきたい言葉がいくつかあります。\n『尚書』無逸で、周公は若い成王を戒めます。殷の中宗は「厳恭にして寅畏し、天命もて自ら度り、民を治めて祗懼し、敢て荒寧せず」（嚴恭寅畏，天命自度，治民祗懼，不敢荒寧）、だから七十五年も王位にありました。のちの何人かの王は、生まれながらに楽しみに浸り、種をまく苦労も知らず、「亦た寿を克くする或る罔し。或いは十年、或いは七八年、或いは五六年、或いは四三年」（亦罔或克壽，或十年，或七八年，或五六年，或四三年）。つとめて戒め慎んだ王は長く、楽しみにふけった王は短かった。\n『詩経』周頌に「維天之命」という一首があります。「維れ天の命、於穆として已まず」（維天之命，於穆不已）。天のめぐりは深く、止まることがない。\nもう二つ、天命は一つの家にずっととどまるわけではない、という言葉があります。『尚書』康誥に「惟れ命は常に于てせず」（惟命不于常）。『詩経』大雅・文王に「天命は常靡し」（天命靡常）。\n『左伝』僖公五年では、宮之奇が虞公に、晋に道を貸してはならないと諫め、『周書』の一句を引きます。「皇天は親無し、惟だ徳をこれ輔く」（皇天無親，惟德是輔）。天は誰かを特別にかわいがるのではなく、徳のある人だけを助ける。\n北京・天壇の圜丘。明・清の皇帝が冬至に天を祭った場所。　出典：Wikimedia Commons、钉钉（Dingding）、CC BY-SA 4.0\nこれらの言葉を読んで、いちばん胸を打たれるのは、彼らの口の中の天が、気まぐれに怒る神ではなく、物理的な空だけでもないことです。天は「見る」ものです。あなたが勤勉か、慎みがあるか、徳があるかを見て、見終わったら、天命をある人に与え、ある人には与えない。これは孔子より前からあったことです。（「天道」という言葉は、むしろ後の偽古文になって増えてきます。これは TenTao の「About」のページで書いたので、ここでは繰り返しません。）\n一つの字、五つの意味 哲学者の馮友蘭は『中国哲学史』で、有名な整理をしています。中国語の「天」には五つの意味がある、というものです。\n馮友蘭（1895–1990）。　出典：Wikimedia Commons、作者不詳、パブリックドメイン\n一つめは 物質の天。地に対する天、「天は覆い地は載す」の天です。\n二つめは 主宰の天。意志があり、賞罰を下せる天、つまり「皇天上帝」です。孔子の「罪を天に獲れば、禱る所なきなり」（獲罪於天，無所禱也）はこれのことです。これを怒らせたら、ほかのところで祈っても無駄だ。\n三つめは 運命の天。人の力が及ばない部分の命。馮友蘭が挙げる例は、孟子の「夫の成功の若きは則ち天なり」（若夫成功則天也）です。「五十にして天命を知る」（五十而知天命）も、よくこの意味に読まれます。\n四つめは 自然の天。法則どおりに運行する天。荀子はこれを極端まで押し進めました。「天行は常有り。堯の為に存せず、桀の為に亡びず」（天行有常，不為堯存，不為桀亡）。『論語』の「天何をか言わんや。四時行われ、百物生ず」（天何言哉？四時行焉，百物生焉）も、よくこの意味に読まれます。\n五つめは 義理の天。宇宙でいちばん高い道理。『中庸』は「天の命ずる、これを性と謂う」（天命之謂性）と言い、北宋の程顥は自分でこう言いました。「吾が学は受くる所有りと雖も、天理の二字は却って是れ自家体貼し出だせり」（吾學雖有所受，天理二字卻是自家體貼出來）。\nこの五つは馮友蘭の整理であって、昔の人が自分で作った一覧ではありません。彼自身は、孔子の言う天はすべて二つめだと考えていました。この点には、『論語』を読む後世の人がみな賛成しているわけではありません。\n五つを並べてみると、少しおかしなところがあります。二つめは怒る。四つめはあなたのことなど気にもかけない。五つめは一つの道理。同じ一字が、ほとんど五つの別のものを言っているのです。\nしかもこの五つは、同じ一人の口、同じ一冊の書物の中に、よく一緒に出てきます。\nそれには名前がなかった 次に、天に何があって、何がないかを見ましょう。\n国家の祭祀はあります。明・清の二つの王朝では、皇帝が冬至の日に天壇で天を祭りました。これができるのは天子だけでした。\n名前はありません。ユダヤ人の神には名前があり、キリスト教の神にも名前があります。「天」にはなく、ただ「天」です。\n経典はありません。『論語』『孟子』には天についての言葉がたくさんありますが、「天の書」といえるような本はありません。\n教会もありません。天を祭るのは国家のことで、ふつうの人がするのは、祖先の祭りと、「お天道さまのお守り」でした。\nこれが、私の構想でいちばん大きな難所です。私の象徴は篆書の「天」、人の頭の上に一本の横線。でもこれを中心に宗教を築こうとするなら、先に一つ答えなければなりません。それは、この五つのうちのどれなのか。\nそれを人にしようとした人たち この問題には、ヨーロッパの人たちが、数百年前にぶつかっています。\n明の末、イエズス会士が中国に来て、自分たちの神に中国語の名前を探さなければなりませんでした。「天」にするか、「上帝」にするか、それとも新しい言葉「天主」を作るか。彼ら自身が何十年も言い争いました。歴史でいう「典礼問題」です。\n1704年、教皇クレメンス11世は命じました。キリスト教の神を「天」「上帝」と呼んではならない。「天主」ならよい。1715年に、もう一度申し渡されました。\nこの裁定の意味は、実ははっきりしています。ヨーロッパ人は、「天」という字は自分たちの求める神を入れておけないと考えた。広すぎ、曖昧すぎ、おそらく自然でありすぎたのです。\nそれからさらに二百年あまりのち、1939年になって、ようやくバチカンはこの論争を見直しました。\n私が気になるのは、こういうことです。土地に根ざした概念が、外来の宗教に「引き取られよう」とされて、失敗した。天は、人になることを承知しなかったのです。\n反対側から見る 「天」のこの曖昧さは、欠点ではないのかもしれません。\n一つの概念を、五種類の人が同時に使えます。学者は道理を説くために使い、皇帝は正統性を語るために使い、農民は悪態をつくときにも祈るときにも使う。一つの定義に閉じ込められていないから、今日まで生きのび、どの神学にも乗っ取られませんでした。\n実のところ、中国の人はこの五つを分けていない、と言う人もいます。日常で「天の神さま」「天のみぞ知る」「天理が許さない」と言うとき、主宰も運命も道理も一息に言ってしまい、誰も不自然だとは思いません。\nだから「五義」は、学者が整理したもので、人々の心の中に本当に五つの引き出しがあるわけではないのかもしれません。\nけれど、これこそ宗教が扱わなければならない問題です。向き合うのは、心の中に引き出しのないふつうの人なのか、引き出しのある学者なのか。\n私が求める天 私が求める天は、二つめではありません。怒り、賞罰を下し、誰かが代弁できるような天は求めません。\n私が求めるのは、語らないけれど決まりのある天です。堯のために存在せず、桀のために滅びない。その決まりは「有余を損して不足を益す」（損有餘而益不足）。このような天は人ではなく、供え物を受けず、願いを聞かない。だから私は、敬して求めず、と言います。\n馮友蘭の五つでいえば、四つめと五つめのあいだに落ちます。自然の運行と、宇宙の最高の道理を合わせたもの。それを「天道」と呼びます。\n日常のあの「分けなさ」は、ばらばらにしたくありません。ただ一つの方向を与えたいだけです。「天道」のほうへ収めていく、という方向を。\n篆書の「天」：手足を広げて立つ人、頭の上に一本の横線。　出典：Wikimedia Commons、パブリックドメイン\nなぜ私がよりによって、この「語らない」天を求め、名前があって語る神を求めないのか。それもはっきり言っておきたいと思います。理由は二つあります。一つは、怖いからです。語る神には、その代わりに語る人が現れます。代わりに語る人が現れれば、「これは天が私に告げたことだ」と言う人が出てくる。それが洪秀全であり、楊秀清であり、天の名のもとに人を殺してきたすべての人です。天を語らないものにしておけば、この道は塞げます。もう一つの理由は、これこそ中国の人が本来持っていた天だと思うからです。周の人が言った「皇天は親無し、惟だ徳をこれ輔く」を思い出してください。えこひいきせず、買収されず、あなたが何をしたかだけを見る。そういう天だけが、「敬」に値します。\nけれど、これが難しい選択だということも分かっています。語らない天を、どうやって毎日思い出してもらうのか。キリスト教には聖書と礼拝があり、イスラム教は一日五回の礼拝、ユダヤ教は毎週の安息日がある。「天」には名前も、経典も、教会もありません。いま思いつく方法は一つだけです。日々の暮らしの中に置くこと。清明には祖先を祭り、冬至には一家で庭に立って空を一度見上げる。食事の前に、「堯の為に存せず、桀の為に亡びず」と思ってみる。こういう天は、誰かが説くのに頼るのではなく、一人ひとりが、毎日のある一瞬に、顔を上げて見ることに頼ります。まだ考え抜いてはいません。ただの出発点です。\n顔を上げたことのあるすべての人に向けて書きます。どの国にいても、どのパスポートを持っていても、どの文字を使っていても、子どものころ、きっと一度は「天よ」とか「お天道さま」と言ったことがあるでしょう。その一瞬、それが何かなんて考えなかった。ただ、頭の上に何かがいて、見ていると知っていた。昔の人はそれを、手足を広げて立つ人、頭の上に一本の横線、と書きました。ソウルからハノイまで、東京からシンガポールまで、私たちは同じこの字を使っています。夜に一人で、顔を上げて、何も言わないのに、誰かが聞いてくれたと感じる。そんな瞬間は、きっと誰にもあったはずです。私が求める天道とは、あの字の頭の上の一本の横線です。ひざまずく必要はありません。顔を少し上げれば、それで足ります。\nあなたが「天のみぞ知る」と言うとき、指しているのはどの天ですか。\n参考資料\n対照して読む：『韓国にはほんとうに「天道教」があった』（同じシリーズ：「人乃天」） 許慎『説文解字』「天」の条。甲骨文・金文の「天」の字形 馮友蘭『中国哲学史』：「天」の五つの意味（『中国哲学史新編』第一冊にも） 『論語』：「八佾」「罪を天に獲れば、禱る所なきなり」、「為政」「五十にして天命を知る」、「陽貨」「天何をか言わんや」。『孟子』「夫の成功の若きは則ち天なり」。『中庸』「天の命ずる、これを性と謂う」 『荀子』天論 程顥の「天理二字」、『二程集』に見える 『尚書』周書「無逸」「康誥」。『詩経』周頌「維天之命」、大雅「文王」。『春秋左氏伝』僖公五年が引く『周書』（ウィキソースで一字ずつ照合。原書のページ番号は未照合） 中国の典礼問題：1704年11月20日教令 Cum Deus optimus、1715年 Ex illa die、1939年 Plane compertum est 天壇と明・清の天子の冬至の祭天：通説の史実 画像の出典は各図の説明に記載 ","permalink":"https://tentao.pages.dev/ja/linju/d05/","summary":"\u003ch2 id=\"立っている一人の人\"\u003e立っている一人の人\u003c/h2\u003e\n\u003cp\u003e後漢の許慎は、『説文解字』で「天」をこう説明しています。「天、顛なり。至高にして上なし。一大に従う」。\u003c/p\u003e\n\u003cp\u003e「顛」は頭のてっぺん。「大」は、手足を広げて立っている人です。字形をさかのぼると、甲骨文の「天」は、正面を向いて立つ人を描いていて、頭がわざと大きく描かれています。頭が四角い枠になっているものもあれば、点が打たれているものもあります。\u003c/p\u003e","title":"「天」とはいったい何か：一つの字に詰め込まれた五つのもの"},{"content":"あの数字 まえがきで、私はこう書きました。W3Techsの2026年6月の統計によると、内容の言語が識別できる世界のウェブサイトのうち、英語がおよそ49.7%、日本語がおよそ5.0%、中国語はわずか1.2%ほどだ、と。\nこの数字は本当です。私は2026年9月30日にもう一度ページを見に行きました。英語49.5%、日本語4.9%、中国語1.3%でした。\nでも、あの一文を書き終えたとたん、私は疑いはじめました。この数字は、いったい何を測っているのだろう、と。\n第一の測り方：サイトを数える W3Techsが数えているのはウェブサイトです。ひとつのサイトを一つと数え、大きさは問いません。\nだから、何億件もの内容を抱える巨大プラットフォームも、個人のブログも、この統計では一票ずつです。\nしかも、中国語のインターネットには特徴があります。内容の多くが「サイト」のなかではなく、アプリのなかにあるのです。（中国の外にいる方には、ひとこと補足が要ります。中国大陸の人は、ほとんどの時間を、開かれたウェブページで読み書きしているのではありません。WeChat、微博、抖音のようなアプリの中にいます。これらのアプリは、塀に囲まれた大きな屋敷のようなものです。なかはにぎやかですが、屋敷の外にいる検索エンジンは入れません。）\n第二の測り方：ページを数える もうひとつの公開統計が、Common Crawlです。非営利のプロジェクトで、公開ウェブページを定期的に収集し、集めたものを公開しています。\n最新の回は2026年第39週（CC-MAIN-2026-39）です。ページ数で見ると、言語の分布はこうなっています。\n英語が約41.9%、ロシア語が約6.7%、ドイツ語が約5.7%、日本語が約5.2%、スペイン語が約4.7%、フランス語が約4.7%、中国語が約4.2%。\n中国語は1.3%から4.2%になり、第7位です。\n同じインターネットなのに、サイト数で見れば1.3%、ページ数で見れば4.2%。三倍あまりの開きがあります。\n第三の測り方：人を数える 三つめの数字は、ネットを使う人の数です。\nInternet World Statsの統計では、2020年3月31日現在、英語を話すネット利用者はおよそ11.9億人で25.9%。中国語を話すネット利用者はおよそ8.9億人で19.4%です。\nこの数字はもうかなり古く、桁の見当をつける役にしか立ちません。中国語の話者は、世界のネット人口のおよそ五分の一です。\n三つの数字を並べてみます。\n1.3%（サイト）、4.2%（ページ）、19.4%（利用者）。\n内容はどこへ行ったのか では、「公開ウェブ」にない中国語は、どこへ行ったのでしょうか。\n筋の通った推測は、WeChat、微博、抖音のようなアプリの中へ行った、というものです。これらのプラットフォームの内容は、その多くがログインしないと見られないか、アプリの中でしか検索できず、公開クローラーには集められません。\nこれを直接測った研究は見つけられなかったので、あくまで推測です。ただ、それと合うデータがひとつあります。中国互聯網絡信息中心（CNNIC）の統計報告によると、中国のウェブサイト数は、2018年12月の544万から、2023年12月の388万へ減りました。五年で三割近く減ったことになります。\nサイトは減り、人は増えている。内容はたぶん、引っ越したのです。\n反対から見る この三つの数字は、私のもとの感覚をひっくり返すものではありません。\nいちばん楽観的な測り方でも、ページの4.2%に対して利用者が19.4%で、四倍あまりの差があります。中国語を使う人たちが公開ウェブに残しているものが、人数よりずっと少ない。ここは揺るぎません。\nけれども、この数字は私にこうも言っています。まえがきの「世界の公開インターネットでは、ほとんど聞こえない」は、データが許す以上に重い言い方だった、と。1.2%はいちばん低い数字で、しかも測っているのは「サイト」であって、「声」ではありません。\nもっと正確な言い方は、たぶんこうです。中国語世界の声は、大部分が壁の中にある。ないのではなく、アプリの塀のなかに閉じ込められていて、検索エンジンが入れないのです。\nだから、まえがきのあの一文に、補正をひとこと加えたいと思います。私は「世界の公開インターネットでは、ほとんど聞こえない」と言いました。いまの言い方はこうです。中国語世界の声は、ないのではなく、大部分が壁の中にある。そして壁の中にあるからこそ、壁の外の人、つまり東京やソウル、ハノイにいるあなたや、トロントやメルボルンの友人には聞こえない。これは「声が小さい」と言うよりつらいことです。ある人がたくさんのことを語り、まじめに長い文章を書いたのに、壁の外の隣人には一字も読めない。\n隣人へのことば。中国語でネットを使う人は九億人近くいるのに、公開されたウェブページのうち中国語はわずか4.2%。言葉の大部分は壁の中にあります。私がこのサイトで書く理由のひとつは、その一部を外へ運び出したいからです。東京で、ソウルで、ハノイで、あなたもいま、清明のこと、祠堂のこと、漢字のこと、ひとつの文明がどう生き延びるかを考えているかもしれません。壁の向こう側にも同じことを考えている人がいる、ただあなたにはそれが読めないだけだ、と知ってほしいのです。あなたたちが書いたものも、私は読みたい。翻訳が要っても、少し時間がかかっても。\nあなたが書いたもののうち、どのくらいが検索エンジンで見つかりますか。気になりますか。\n参考資料\n対照して読む：『依帰』英語版稿——同じ問い：中国語世界が、他者の文脈でどれだけ聞こえているか W3Techs, \u0026quot;Usage statistics of content languages for websites\u0026quot;：2026年6月、英語49.7%、日本語5.0%、中国語1.2%。2026-09-30のページでは英語49.5%、日本語4.9%、中国語1.3% Common Crawl 言語統計、CC-MAIN-2026-39：英語41.86%、ロシア語6.70%、ドイツ語5.73%、日本語5.17%、スペイン語4.74%、フランス語4.68%、中国語4.23% Internet World Stats, \u0026quot;Internet World Users by Language\u0026quot;、2020-03-31：英語1,186,451,052人（25.9%）、中国語888,453,068人（19.4%） CNNIC『中国インターネット発展状況統計報告』：ウェブサイト数 2018年12月約544万、2023年12月約388万（転述。公開前に原報告で要確認） ","permalink":"https://tentao.pages.dev/ja/linju/d06/","summary":"\u003ch2 id=\"あの数字\"\u003eあの数字\u003c/h2\u003e\n\u003cp\u003eまえがきで、私はこう書きました。W3Techsの2026年6月の統計によると、内容の言語が識別できる世界のウェブサイトのうち、英語がおよそ49.7%、日本語がおよそ5.0%、中国語はわずか1.2%ほどだ、と。\u003c/p\u003e\n\u003cp\u003eこの数字は本当です。私は2026年9月30日にもう一度ページを見に行きました。英語49.5%、日本語4.9%、中国語1.3%でした。\u003c/p\u003e","title":"中国語は世界のウェブサイトのわずか1.2%？　この数字は何を測っているのか"},{"content":"誤読されてきた一句 荀子（戦国時代の儒家。孟子より半世紀ほどあと）は、「天論」にとても有名な一節を書いています。\n雨乞いをしたあとに雨が降った。なぜか。なぜもない、雨乞いをしなくても降ったのだ。日食があれば「救う」、日照りなら雨を乞う、大事には占いをする。荀子は言います。これは、本当に何かが求められると思ってやっているのではない。「文と為す」、つまり礼の飾りとしてやっているのだ。\n荀子（荀況）像。　出典：Wikimedia Commons、作者不詳、パブリックドメイン\nそして、よく引かれるあの句が来ます。「君子は以て文と為し、百姓は以て神と為す。以て文と為せば則ち吉、以て神と為せば則ち凶」（君子以為文，而百姓以為神。以為文則吉，以為神則凶）。\nここまで読んで、多くの人は「二層構造」を読み取ります。賢い人は儀式だと知っていて、ふつうの人は本当だと思っている。\nけれど、この一節の結びはこうです。儀式として扱えば吉。本当に神霊がいると思えば凶。\nつまり荀子はその構造を言い当てましたが、それを良しとはしていません。彼が望むのは、みんなが等しくそれを「文」として扱うことです。\nこれが私が最初に言いたかったことです。この古い考えは、のちにそれが人に与えた印象とは、少し違うのです。\n『易経』のもう一句 もう一つ、よく持ち出される句は、『易経』観卦の彖伝から来ています。「天の神道を観れば、四時忒わず。聖人は神道を以て教えを設けて、天下服す」（觀天之神道，而四時不忒；聖人以神道設教，而天下服矣）。\n後世の人はこれを「聖人が鬼神を借りて民を教え導く」と読むことがよくあります。\nけれど王弼の注はそういう意味ではありません。彼はこう言います。神道には形がない。天が四季を動かしているところは見えないのに、四季は決して狂わない。同じように、聖人が何をしているかも見えないのに、民はおのずと服する。\nこの読み方に従えば、「神道」は、音のない秩序、四季のようにめぐるもののようです。「教えを設ける」とは、それにならうことであって、鬼神の話をこしらえることではありません。\nだからこの句の本来の意味は、のちの「愚民」の読み方より、ずっと広いのかもしれません。\nほかの土地の人も、似たことを言った この考えは、中国にだけ現れたのではありません。\n古代ギリシア出身の歴史家ポリュビオスは、ローマ人の捕虜となり、ローマで十数年を過ごしました。『歴史』第六巻で彼は分析します。ローマ共和国のいちばん際立った点は、神についての考え方だ。群衆は気まぐれで、法を守らない欲望と理屈の通らない怒りに満ちていて、「神秘的な恐れ」によってしか抑えられない。古い時代の人が神々や地獄の観念を持ち込んだのは、理由のないことではない、と。\nローマの大神官スカエウォラは、神を三種類に分けたと伝えられます。詩人の神、哲学者の神、政治家の神。最初のものはあまりに荒唐無稽で、二つめは国家に向かず、民に知らせるべきでないこともある。彼は「都市が宗教の問題で欺かれているのは、有益だ」と考えていた。\nこの言葉は、アウグスティヌスが『神の国』で伝えているものです。念のため言えば、アウグスティヌスはこの考えの批判者で、ウァロの言葉を伝えているにすぎません。\nさらに時代が下ると、ドストエフスキーです。\nドストエフスキー（1821–1881）。ワシーリー・ペロフ1872年作。　出典：Wikimedia Commons、パブリックドメイン\n『カラマーゾフの兄弟』で、イワンはこんな話をします。キリストが人間界に戻ってきて、宗教大審問官に捕まる。大審問官は彼に言います。私たちはあなたの仕事を「訂正し、奇跡と神秘と権威の上に築き直した」。人々は喜び勇みます。また羊の群れのように、誰かに導いてもらえるのですから。\nこの箇所を読むと、私は背筋が冷たくなります。大審問官は悪人ではありません。彼は本当にあの人たちを愛していて、その愛し方はどこか絶望的です。彼らには自由を担えない、と思っているのです。\nそれは役に立つのか これらを並べてみると、一つの型が浮かびます。\n宗教は大衆に役に立つ、と考える一群の人がいる。 彼ら自身の宗教への態度は、もっと複雑である。 こうして「私たちは知っている」の層と、「あの人たちは信じている」の層ができる。 この考えが魅力的なのは、本当の問題を解いてくれそうに見えるからです。社会には、みなが共に守るものが必要です。でも、誰もがそれを考え抜きたいわけではなく、考え抜けるわけでもない。\nでは、それはどれだけ生きられるのでしょう。\nローマの市民祭祀は、儀式と官職に支えられて何世紀も続き、4世紀末にキリスト教に取って代わられました。中国の「神道設教」は、二千年のあいだ、さまざまな形で存在しました。\nけれど、短命の例もあります。フランス革命のさなか、ロベスピエールは「最高存在」の崇拝を設計し、1794年5月7日に国民公会が布告し、6月8日に盛大な祭典が開かれました。二か月もたたない7月27日、彼が失脚し、この崇拝も一緒に消えました。その思想の源の一つは、ルソーが『社会契約論』で構想した「市民宗教」です。\n1794年6月8日、パリの「最高存在の祭典」。　出典：Wikimedia Commons、Thomas-Charles Naudet、パブリックドメイン\nロベスピエール（1758–1794）像。　出典：Wikimedia Commons、Louis-Léopold Boilly、パブリックドメイン\n上から下へ設計された宗教と、人々の中に育った宗教とでは、運命が違うように見えます。でもこれは私の観察にすぎません。サンプルが少なすぎて、法則とは言えません。\n反対側から見る まず、証拠の問題を一つ。\n「エリートは実は信じていない」という点について、私たちが目にできる証拠は、ほとんどが二次的なもので、しかも対立する側から来ていることが多いのです。スカエウォラの言葉は、アウグスティヌスがウァロから伝えたもの。ポリュビオスは外から来た観察者。イワンの話は、小説の中の一人の登場人物が語る話で、ドストエフスキー自身の見解と同じではありません。\n次に荀子。彼はあの構造を描きましたが、はっきり「神と為せば凶」と言っています。ですから、彼を「愚民」の系譜に入れるのは、それだけで少し不公平です。\nもう一つ、もっと根本的な疑問があります。いわゆる「エリートは信じていない」とは、本当に信じていないのか、それとも信じ方が違うのか。孔子は「祭ること在すが如くし、神を祭ること神在すが如くす」（祭如在，祭神如神在）と言いました。祭るとき、神が本当にそこにいるかのように。これは信じていないのか、それとも別の形の信じ方なのか。\nこの構造は、私の構想にとって何を意味するのか。私が求めるのは、「エリートと大衆が二つの別のことを信じる」ことではありません。「私たちは知っている」の層と、「あの人たちは信じている」の層、という二層は要りません。そうなれば、いつか下の人たちは、上の人たちが信じていないと気づき、全体が崩れます。私が読んだこれらの例、ローマの市民祭祀も「最高存在」崇拝も、その影を持っています。私が求めるのは、荀子の言うあの結末です。読書人から畑を耕す老人まで、みんなが、それを「文」として扱う。敬の形、礼、日々に重みを与えるやり方として。何かを得られる取引としてではなく。だから私は、天道は敬して求めず、と言います。供え物を受けず、願いを聞かない天には、「欺く」ものが何もなく、大衆にそれを「秘密にしておく」人も要りません。\nここに難しさがあることも、認めなければなりません。大審問官のあの言葉を、私は一息には論破できません。多くの人は、本当に、願いをかなえてくれる神、応えてくれる、慰めてくれる神を必要としているのかもしれない。その人たちに言えるでしょうか。あなたが求めるものは、私にはあげられない。あげられるのは、黙った天だけだ、と。これは軽い問いではありません。けれど、問いを変えてみることもできると思います。いちばんつらいとき、人が必要なのは、「いいよ」と答えてくれる神なのか、そばにいてくれる人なのか。礼のある共同体なら、あとのほうを渡せるかもしれません。清明に、墓の前で一緒に立ってくれる人がいる。つらいとき、代わりに扉を開けてくれる人がいる。そういうものは、欺かなくても成り立ちます。本物だからです。\n隣人への手紙です。あなたは、家の年寄りのために、自分では信じていない儀式をしたことがありますか。あると思います。その瞬間、あなたは自分が誰かを「騙している」とは感じなかったでしょうし、「信じている」とも感じなかったでしょう。ただ、これは神に見せるためのものではなく、あの人に見せるためのもの、自分を育ててくれた人に見せるためのもの、と思った。それがたぶん、荀子の言う「文」です。もし社会が、みんなにそういうふうに事をなし、そういうふうに敬うことを許せるなら、そこにはもう「大審問官」は要らないのかもしれません。\nあなたは、家の年寄りのために、自分では信じていない儀式をしたことがありますか。\n参考資料\n対照して読む：本シリーズの「『神社は宗教にあらず』」（国家神道は「神道設教」の近代版として読める） 『荀子』天論 『易経』観卦・彖伝。王弼注 Polybius, Histories, VI.56 Augustine, De civitate Dei, IV.27（ウァロとスカエウォラを伝える） Dostoevsky, The Brothers Karamazov, Part II, Book V, ch. 5 \u0026quot;The Grand Inquisitor\u0026quot; ルソー『社会契約論』（1762）第四巻第八章「市民宗教」。ロベスピエールの「最高存在」崇拝（1794-05-07の布告、1794-06-08の祭典、1794-07-27の失脚）：通説の史実 『論語』八佾「祭ること在すが如くし、神を祭ること神在すが如くす」 画像の出典は各図の説明に記載 ","permalink":"https://tentao.pages.dev/ja/linju/d08/","summary":"\u003ch2 id=\"誤読されてきた一句\"\u003e誤読されてきた一句\u003c/h2\u003e\n\u003cp\u003e荀子（戦国時代の儒家。孟子より半世紀ほどあと）は、「天論」にとても有名な一節を書いています。\u003c/p\u003e\n\u003cp\u003e雨乞いをしたあとに雨が降った。なぜか。なぜもない、雨乞いをしなくても降ったのだ。日食があれば「救う」、日照りなら雨を乞う、大事には占いをする。荀子は言います。これは、本当に何かが求められると思ってやっているのではない。「文と為す」、つまり礼の飾りとしてやっているのだ。\u003c/p\u003e","title":"エリートは信じず、大衆は信じる宗教は、どれだけ生きられるか：「神道設教」の誘惑"},{"content":"ひとつの目 ベトナム南部の西寧（タイニン）に、東洋の寺院とはまるで違う雰囲気の大きな殿堂があります。\n殿のなかでいちばん目を引くのは、巨大な一つの目です。「天眼」といいます。\nここは高台教（Cao Đài、カオダイ教）の聖地です。「高台」の二字は、字面どおりには高いところにある台のことで、神のいる最も高い場所を指します。\nベトナム・タイニンの高台教聖座。　出典：Wikimedia Commons、Gary Todd撮影、CC0\n降霊会のなかから生まれた 創始者の呉文昭（Ngô Văn Chiêu）は、フランス領インドシナ植民地政府の役人でした。霊と交わることに夢中になっていた人です。\n伝えられるところでは、1921年、彼はフーコック島で「天眼」を見ました。空に、ひとつの目が現れたというのです。\n1925年7月、サイゴンで一連の降霊会が始まりました。参加した何人かの霊媒も、植民地の下級職員でした。霊媒を通して、「高台」と名乗る神が、彼らに語りかけてきた、と言います。\nその人たちのことを考えてみてください。他人の国に治められ、わずかな給料をもらうベトナム人の職員が、仕事を終えた夜、一つの机を囲んで、ある声を待っている。彼らが待っていたのは、神だけではなかったのかもしれません。自分たちの土地と、自分たちの祖先を、もう一度天の上に置き直せる場所だったのではないか、と思います。\n1926年10月7日、黎文忠（Lê Văn Trung）が先頭に立ち、ベトナム人の名士二十八人と信者二百四十五人が、フランス領インドシナ政府に『宣言』を提出し、この宗教の成立を宣言しました。黎文忠は初代の「臨時教皇」になりました。呉文昭本人は、宣言に署名しませんでした。\n1926年11月18日、タイニンで開教の大典が行われ、五万人が集まったと言われています。\n高台教の「天眼」。　出典：Wikimedia Commons、Toirelb、パブリックドメイン\n何でも少しずつ 高台教の教えでは、人類の宗教史を三つの時期に分けます。仏陀、孔子、イエス、ムハンマドらは第二の時期に属し、第三の時期、つまり今は、神が直接人に語りかける時代だとされます。\n仏教の因果応報と輪廻、儒家の倫理、道教の降霊、そしてカトリックの組織構造。教皇、枢機卿、大司教という、ひとそろいの位階があります。菜食、非暴力、祖先祭祀を勧めます。\n聖人の名簿は、驚くほど長いものです。仏陀、イエス、ムハンマド、孔子、カエサル、ペリクレス、ジャンヌ・ダルク、孫文、ヴィクトル・ユゴー、トマス・ジェファソン。\n高台教聖座の正門にある絵。孫文、ユゴー、ベトナムの阮秉謙（Nguyễn Bỉnh Khiêm）の三人の「聖人」が描かれている。　出典：Wikimedia Commons、Nic saigon、CC BY-SA 3.0\n政治、そしてそのあと 高台教はまもなく政治に巻き込まれました。\n1943年、日本がインドシナを占領していたあいだに、高台教は自前の武装組織を作りました。1975年まで、南ベトナムでかなりの政治的影響力を持っていました。\n1975年に南北が統一されると、高台教は抑えつけられました。1997年、ベトナム政府は法的な地位を与えました。\n今日の信者数は、誰にもはっきり言えません。二百万から六百万までの数字が語られてきました。ベトナム政府の推計では、タイニン聖座の系統でおよそ440万人です。公式に認められた教派は、六つほどに分かれています。西側の国々にも、三万人ほどの信者がいると言われます。\n誰に似ているか ここまで読んで、私はなじみのある形を思い出しました。\n韓国の東学は、1860年、「西学」に向き合うかたちで生まれ、儒・仏・道と民間信仰を混ぜ合わせました。のちに天道教になって政治と結びつき、一方の端には独立宣言があり、もう一方の端には一進会がありました。\n高台教は1926年、フランス植民地支配のもとで生まれ、儒・仏・道とキリスト教を混ぜ合わせました。のちに自前の武装を持ち、1975年以後に抑えつけられました。\nどちらも、東アジアの「三教合一」型の新宗教です。どちらも外からの圧力のなかで生まれました。どちらも政治の中で代償を払いました。\nそして孔教会、「純粋な儒」の運動は、1913年と1916年に、国会で二度退けられました。\n三つの例のうち、雑多に混ぜた二つは今日まで生き、純粋な儒の一つは生きられませんでした。サンプルは三つだけで、法則とは呼べません。それでも私にこう問わせます。儒家の宗教化が行くべきなのは、「純」の道なのか、「雑」の道なのか。\n反対から見る まずはっきりさせます。高台教は、儒家の宗教ではありません。\n儒家はその三教のひとつにすぎず、しかも教義の中心では、いちばん重い位置にあるわけでもありません。だから、これを「儒家の宗教化」の成功例として扱うのは、ふさわしくありません。\nもうひとつ。この「生き延びた」も、割り引いて考えなければなりません。百年のうちに複数の教派に分裂し、信者数はあいまいで、政治的には二十年あまり抑えつけられ、あらためて認められたのは、国家の条件のもとででした。これを「成功」と呼べるのか、私にはわかりません。\nさらに、サンプルの問題です。三つの例の比較には、統制されていない変数がたくさんあります。国が違う。植民地と非植民地が違う。時代が違う。純儒の孔教会が国会で敗れ、雑多な東学や高台教が民間で生き残ったのは、「どこでやったか」の違いにすぎないのかもしれません。\n天道教は、「純」の道か、「雑」の道か。私の答えはこうです。根は純に、門は広く。根を純にするのは、天道、先師、祖先祭祀。この三つは混ぜたくありません。何でも祀るものは、たいてい何ものでもなく、最後には誰かに持ち去られて、その人の望む形にされやすいからです。けれども門は広く。誰かが自分の廟を取り壊さなければ入れない、とは言いません。家に観音を祀り、媽祖を祀り、関帝を祀りながら、清明には祖先に線香を上げる。それは少しも矛盾しません。私が欲しいのは、真ん中に一本の軸があるものです。すべての聖人を迎え入れながら、中心のないひとつの大殿ではありません。\nそれに、私は高台教を笑いたくありません。孫文とユゴーをいっしょの殿堂に迎える、と聞くと、最初は少しおかしく思えます。でも、その人たちのことを思ってみてください。他人の国に治められ、他人の神に押さえつけられて、彼らは言ったのです。構わない、あらゆる善い人を迎えて、みんなで私たちを守ってもらおう、と。それは主張がないのではなく、とても深い孤独と、とても大きな善意です。天下のあらゆる善いものは、一緒に置くことができる。彼らはそう信じようとしました。私は、そこに敬意を持っています。\nベトナムの友人へ。1926年11月18日、タイニンで開教の大典が行われ、五万人が集まったといいます。フランスに治められていた時代です。何人かの下級職員が、仕事が終わると机を囲んで一つの声を待ち、やがて名士28人と信者245人が『宣言』を差し出しました。彼らは孫文、ユゴー、そしてあなたたち自身の阮秉謙を同じ殿堂に招き、あの目の下に迎えました。私は写真のなかで、あの目を見ました。他人に治められている民が、それでも天の上に、自分たちの居場所をひとつ残そうとした。それは、どんな大殿よりも私に敬意を抱かせます。\nひとつの宗教があらゆる聖人を迎えて祀るとき、あなたはそれを、包容だと思いますか、それとも主張がないと思いますか。\n参考資料\n対照して読む：『依帰』「『上帝』の二字は誰が選んだか」（外来宗教の衝撃のもとに育った、もうひとつの応答）。このシリーズの「韓国にはほんとうに『天道教』があった」（東学、同じ手札） 高台教（Cao Đài）：1921年、呉文昭がフーコック島で「天眼」を見る。1925年7月、サイゴンの降霊会。1926年10月7日の『宣言』（名士28人と信者245人が署名、黎文忠が筆頭）。1926-11-18開教の大典。1943年に武装。1975年以後に抑圧。1997年に法的承認。信者推計は200万〜600万人（ベトナム政府推計ではタイニン聖座がおよそ440万人）。公認の教派は約6つ。西側諸国に約3万人 韓国の東学―天道教。「韓国にはほんとうに『天道教』があった」を参照 孔教会：1913年、1916年の二度の請願が退けられる。「孔教会はなぜ失敗したか」を参照 画像の出典は各図の説明に記載 ","permalink":"https://tentao.pages.dev/ja/linju/d09/","summary":"\u003ch2 id=\"ひとつの目\"\u003eひとつの目\u003c/h2\u003e\n\u003cp\u003eベトナム南部の西寧（タイニン）に、東洋の寺院とはまるで違う雰囲気の大きな殿堂があります。\u003c/p\u003e\n\u003cp\u003e殿のなかでいちばん目を引くのは、巨大な一つの目です。「天眼」といいます。\u003c/p\u003e\n\u003cp\u003eここは高台教（Cao Đài、カオダイ教）の聖地です。「高台」の二字は、字面どおりには高いところにある台のことで、神のいる最も高い場所を指します。\u003c/p\u003e","title":"ベトナムには、孔子とイエスとユゴーと孫文をいっしょに祀る宗教がある"},{"content":"「胡」の字を言わせなかった皇帝 319年、羯（けつ）人の石勒は襄国で趙王を称しました。その年、彼は胡人を今後は「国人」と呼ぶよう命じています。のち宮殿ができ、法令が厳しくなると、そのなかに「胡の字を諱むこと尤も峻し」という一条がありました。ほかの字は大目に見られても、「胡」の字だけは決して口にしてはならなかったのです。\n『晋書』に小さな話が載っています。樊坦という参軍は貧しく、石勒は彼を内史に引き立てようとしました。樊坦が別れの挨拶に来ると、石勒は彼の衣冠がぼろぼろなのを見て驚きました。「樊参軍、どうしてそんなに貧しいのだ」。樊坦は正直者で、口をついて出ました。「このあいだ羯賊に遭いまして、情け知らずの連中に、家財をすっかり奪われました」。\n羯人の皇帝の面前で羯賊を罵る。その場面を想像してみてください。ところが石勒は笑いました。「羯賊はそんなにひどく奪ったのか。ならば私が償おう」。樊坦は恐れて頭を打ちつけました。無理もありません。半生を貧しく過ごした老書生が、ほんとうのことを一言言って、危うく命を落とすところだったのです。石勒は咎めず、この禁令は俗人を防ぐためのもので、お前たち老書生には関係ないと言い、車馬と衣服、それに三百万銭を与えました。\n趙王を称したその年、石勒は胡人を治める役人に、もう一つ決まりを定めています。「衣冠華族を侮易してはならない」。「侮易」とは、いじめる、見下すことです。\nここまで読んで、私は立ち止まりました。胡人の皇帝が、自分の支配下の漢人の士族につけた名前が「衣冠華族」だった。彼の目には、華と夷はどう分かれていたのか。衣冠で分かれていたのです。\n明代の画家が描いた石勒（『石勒礼仏図』の一部）。後世の想像図で、当時の肖像ではありません。漢人の袍服を着ています。　出典：Wikimedia Commons、銭選伝、フリーア美術館蔵、CC0\nなぜ顧炎武は振り返ったのか このシリーズは1644年から始めると言ったのに、第一篇は四世紀に飛んでいます。説明が要ります。\n私が戻ったのではなく、顧炎武が先に戻ったのです。彼は明が滅びるのを自分の目で見て、『日知録』を書き、そこに「正始」という一条があります。正始は曹魏の年号で、240年から249年、「清談」はこの時代に起こりました。顧炎武は、そのころの名士は「経典を棄てて老荘を尚び、礼法を蔑して放達を崇んだ」と言い、のち「羌戎は互いに僭し、君臣は屡々易わった」、「林下の諸賢の咎でなくて誰の咎だろうか」と言います。竹林の人たちのせいでないなら、ほかに誰を責められるのか、という意味です。\nあの有名な「国が亡びることもあれば、天下が亡びることもある」も、この一条のなかに書かれています。明が亡びるのを目の当たりにした人が原因を探して、千四百年前まで遡っていったのです。\nだから、明の滅亡を語るなら、まず彼が見たその滅亡を見ておく必要があります。\n名教を越える まず嵆康です。彼は『釈私論』に有名な一句を書きました。「名教を越えて自然に任せる」。名教（君臣・父子の役割と義務の網の目）のあれこれは守らない、自分の心のままに行く、という意味です。\n洒脱に聞こえます。しかし、当時の名教がどういうものだったかを知っておく必要があります。\n南京で出土した「竹林七賢と栄啓期」の型押し磚画（東晋または南朝）。嵆康は図中の人物の一人です。　出典：Wikimedia Commons、Prof. Gary Lee Todd撮影、CC BY-SA 4.0\n262年ごろ、嵆康は司馬昭に殺されました。讒言したのは鍾会で、嵆康と呂安は「言論が放蕩で、典謨を毀っている」と言い、「この機に除いて、風俗を淳くすべきです」と勧めました。風俗を淳厚にするために殺される。処刑の日、三千人の太学生が彼を師とすることを願い出ましたが、許されませんでした。嵆康は日影を見て琴を求め、一曲『広陵散』を弾き、この曲は今日から絶えると言いました。まだ四十歳ほどでした。\n魯迅は1927年に広州でこの件を語っています。魏晋のころ、口では礼教を奉じていた者が実際は礼教を壊しており、表向き礼教を壊していた者は「実はかえって礼教を認め、礼教をあまりに信じていた」と。曹操が孔融を殺し、司馬氏が嵆康を殺したときの罪名は、どちらも「不孝」にからんでいましたが、「しかし実のところ、曹操や司馬懿が名高い孝子だったことがあるだろうか」。（魯迅はここで司馬懿と書いていますが、手を下したのはその子の司馬昭です。）\nはっきり言えば、名教はそのころすでに一本の刀でした。嵆康が「越えた」名教とは、そういうものだったのです。\n名教も清談も、誰も守れなかった さらに五十年ほど先を見ます。\n299年、江統は『徙戎論』を書き、中に移り住んだ氐・羌を元の地に戻すよう朝廷に勧めました。『晋書』の史臣は後にこれを「経国の遠図」と評しましたが、惜しくも用いられませんでした。\n304年、嵆康の子の嵆紹は蕩陰の戦いで晋の恵帝の前に立ちはだかり、乱れ飛ぶ矢に射られて死に、血が皇帝の衣に飛び散りました。のち、侍臣が洗おうとすると、恵帝は言いました。「それは嵆侍中の血だ。洗うな」。嵆紹の父は、司馬家に殺されています。父の仇と皇帝の恩とのあいだに挟まれ、彼は最後に死ぬ道を選びました。\n311年、洛陽が陥落しました。清談の領袖の王衍は石勒に捕らえられ、自分は幼いころから世事を問うたことがないと言い、そのうえ石勒に帝位につくよう勧めました。石勒でさえ聞くに堪えず、「天下を壊したのは、まさにあなたの罪だ」と言いました。王衍は死に臨んで言いました。私たちがあのとき浮ついたものを尚ばず、力を合わせて天下を支えていたなら、今日に至らずにすんだだろう、と。\n313年正月、平陽で、匈奴の劉聡は群臣を集めて大宴会を開き、捕らえた晋の懐帝に青衣を着せて酒を注がせました。皇帝が、かつての臣下たちに一杯一杯注いでまわる。やがて懐帝は殺されました。\n名教は司馬家の手にある刀であり、清談は王衍たちの看板でした。ここまで来ると、どちらも役に立ちませんでした。\nでは守られたのは何か 晋室は南へ渡りました。江を渡った士人は、よい天気になると誘い合って、建康城外の新亭へ酒を飲みに行きました。あるとき周顗がため息をつきました。「風景は変わらないのに、山河はたしかに違っている」。景色は洛陽に似ていても、山河はもうあの山河ではない。みな涙を流しました。ただ王導だけが顔色を変えました。「力を合わせて王室に尽くし、神州を取り戻すべきなのに、どうして楚囚のように向かい合って泣いているのか」。\nほぼ同じころ、祖逖は百余家の流民を率いて江を渡り北へ向かい、船が江の中ほどに来たとき、櫂を叩いて誓いました。「祖逖が中原を清めて復びこの江を渡らぬなら、この大江のようになってしまえ」。\n私はこう読みます。五胡が華を乱した一、二百年のあいだに、南へ渡った人びとが守ったのは名教ではありません。名教は嵆康の世代にすでに使い古されていました。彼らが守ったのは、華夷の弁です。\nここで言う華夷の弁とは、衣冠と文化のうえでの区別のことで、血統で論じたことは一度もありません。石勒の「衣冠華族」の一句が、そのまま注になります。胡人の皇帝自身でさえ、衣冠で人を見分けていたのです。後世、この南への移動を「衣冠南渡」と呼ぶのも、同じことを指しています（衣冠とは文字どおり「衣と冠」、華夏であることの目に見える印です）。\n小さな細部があります。王導が言った「楚囚」は『左伝』に出典があります。楚の鍾儀が捕らえられて晋に送られ、頭にずっと楚の「南冠」をかぶっていて、晋の大夫は「旧を忘れない」と称えました。王導は楚囚を持ち出して人々に泣くなと言いましたが、その故事そのものが語るのは、捕らわれてもなお自分の冠をかぶり続けた人のことです。\n北の話もここから読めます。百八十年後、北魏の孝文帝は「衣服の制を革める」詔を出し、翌年には朝廷で鮮卑語を話すことを禁じ、違反者は免官としました。鮮卑の皇帝が改めたのは、自分たちの衣冠でした。\n龍門石窟賓陽中洞の浮彫「帝后礼仏図」の一部で、孝文帝の一行です。君臣とも広い袖の袍服に高い冠で、すでに漢式の朝服です。　出典：Wikimedia Commons、作者不詳、CC0\n千三百年後 この線は、そのまま千三百年続きました。\n1644年5月、清軍が北京に入り、ドルゴンは投降した官吏・軍・民に「みな髪を剃れ、衣冠はすべて本朝の制度に従え」と命じました。翌年の6月にもまた命じました。「ことごとく髪を剃れ。従わぬ者は軍法で処する」。\n今度は向きが逆でした。孝文帝が改めたのは自分たちの衣冠でしたが、この令が改めたのは他人の衣冠です。石勒は「衣冠華族」を侮ってはならないと言い、この令が求めたのは、天下にもう「衣冠華族」がいなくなることでした。\nこの令が出たあと、衣冠はほんとうに首が飛ぶ問題になり、それで抗う人もいました。明の官吏の張春は戦に敗れて捕らえられ、瀋陽の三官廟に幽閉されました。朝鮮の『李朝実録』によれば、彼はずっと「漢服を着て」「髪を剃らず」、毎月初一日には「衣冠を整えて朝拝の礼を成し」、座るときは必ず西、北京の方角を向いていました。（張玉興「瀋陽三官廟と清初の史実」からの引用。）異郷の廟に閉じ込められた一人の人が、月に一度、見えない京城に向かって、きちんと身なりを整えて拝む。のち彼はそこで亡くなり、皇太極は「いたく惜しみ」、礼をもって葬らせ、石塔まで建てました。\n顧炎武はこの二つの令が下されるのを目の当たりにしました。彼は「正始」条で、天下の亡びを名教の崩壊に帰し、魏晋の清談は天下を「父なく君なき」ものにしたと言います。嵆紹についても特に厳しく、父が司馬昭に殺されたのに司馬家に仕えたのは「その父を忘れて、君ならぬ君に事えた」ことで、蕩陰での死でも罪は償えないとしました。\nさて、それから約百年後、四庫館臣がこの一条をどう改めたかを見てみましょう。嵆紹を「無父」と責めた部分、つまり名教を論じた半分は、手をつけずに残しました。「羌戎互いに僭す」は「干戈日に争う」に改められ、「正始より以来」から「匹夫の賤も与って責有り」までは丸ごと削られました。そのなかには、西晋の士人を「相率いて劉聡・石勒に臣となり、その旧主が青衣で酒を行るのを見ても、心を動かさなかった」と皮肉る一句があります。\nつまり、名教を論じた言葉は、清廷は気にしませんでした。華夷を論じたいくつかの句は、一字も残されませんでした。顧炎武自身が語ったのは名教でしたが、書を削った人たちは、この一節のどの句が刺さるのかをよく分かっていたのです。\n推し量るまでもありません。1729年、雍正帝が『大義覚迷録』で自分で言っています。「そもそも華夷の説は、晋・宋・六朝の偏安のときに起こった」。そして「至って卑しく陋い見方」だと言いました。同じ文章で、自分の王朝を「われら外夷」と呼んでもいます。満洲と華夏の違いは、清の皇帝たちがだれよりもよく分かっていました。ただ、他人に言わせなかっただけです。かつて石勒が「胡」の字を言わせなかったのと、同じやり方です。\n雍正帝朝服像。　出典：Wikimedia Commons、清朝の宮廷画家、パブリックドメイン\n書を削った顚末は、顧炎武を扱う篇で詳しく語ります。次の篇は、1644年の北京に戻ります。\nここまで来たので、少しはっきり言わせてください。剃髪令のことを、今日の多くの人は「風俗が変わった」くらいに受け取って、さらりと済ませます。私はそうは見ません。考えてみてください。石勒は「衣冠華族」を侮ることを許さず、孝文帝が改めたのは自分たちの衣冠でした。彼らはみな胡人でしたが、「天下みなを私たちの姿にしてやる」と言った者は一人もいません。1645年のあの令ははっきり言いました。髪を剃らなければ軍法による、と。頭に残った髪が、生と死の境目になったのです。三百年のあいだに、一つの文明のもっとも目に見える外殻が、こうして強制的にすげ替えられました。前言で、衣冠と服飾はもともと華夏の依帰であり、1644年以後それは壊された、と書いたのは、この意味です。\nもう一つ、これを「満洲人が悪い」という話にはしたくありません。語っているのは一つの政令、一つの政権のしたことです。この区別が大事です。「満洲」は雍正帝自身が使った名で、彼は「われら外夷」と言いましたから、私もそう書きます。剃髪令は清廷という政権の行為ですから、政権の行為として書き、どこかの民族の「性格」とは書きません。血統は原因ではありません。このシリーズは最初から最後まで、血統で語ることはしません。\n裏返して見る 第一に、顧炎武本人は私の側に立っていません。彼が「天下の亡び」を測る物差しは、「仁義が塞がる」「父なく君なし」で、はっきり名教に置かれています。この篇でいちばん使った材料の結論が、私の結論と反対なのです。私の読みはこうです。彼が語ったのは名教で、書を削った人たちが読み取ったのは華夷だった。けれど、これは結局のところ読み方です。\n第二に、六朝の士族は、実際には名教で暮らしを立てていました。黄汝成の『日知録集釈』は「正始」条に楊編修の言葉を載せ、六朝の風気は軽薄だったが、後世の及ばないところが五つあった、と言います。家諱を重んじ、門第を重んじ、婚姻を慎み、流品を弁え、清議を主とした、というのです。この説によれば、南渡した士人が守ったのはまさに家礼と名教で、華夷の弁はその一面にすぎません。\n第三に、いちばん答えにくい点です。華夷の弁が血統ではなく衣冠と文化だけを見るのなら、胡人が華夏の衣冠を学べば、華になるのか。304年、劉淵は兵を挙げ、国号をそのまま「漢」とし、劉禅を追尊して言いました。「帝王に常があろうか。大禹は西戎に出で、文王は東夷に生まれた。ただ徳の授かるところによるだけだ」。千四百年余りのち、雍正帝は「本朝が満洲であるのは、中国に籍貫があるのと同じだ。舜は東夷の人、文王は西夷の人である」と言い、ほとんど同じ論法です。文化で華夷を分ければ、門は開いています。門を入る人も、その理屈を使って自分のために語るのです。\nこの一点への私の答えはこうです。方向を見なければならない。孝文帝は胡人が自分から華夏の衣冠のほうへ歩み寄ったのです。鮮卑の服を漢式の朝服に替え、朝廷で鮮卑語を話すことまで取り締まりました。自分たちにも厳しかったのですが、方向は内へ、門を入るほうでした。1645年の令はちょうど逆で、門の内にいる人に外へ出て、他人の姿に替われと求めました。どちらも「衣冠が変わった」ように見えて、向きはまったく反対です。この基準は成り立つと私は思います。入ってきたい人は歓迎する。入ってきたら仲間であり、祖先が誰かは問わない。逆に、門の内の人に変われと強いるのは、もう文化の問題ではなく、権力の問題です。雍正帝の「舜は東夷の人」という言葉は、見事ではあります。しかし清は、一方で「入ってくれば中国人だ」と言いながら、一方では髪を剃らなければ殺すという昔ながらの掟どおりに事を運びました。この二つを並べれば、あの言葉が道具として使われたものだと分かります。\n第四に、当時の人びと自身も、これほどきれいには分けていませんでした。江統の『徙戎論』は、戎狄は「言語が通ぜず、贄幣が同じからず、法俗が異なり、種類が乖く」と言い、言語・礼俗・種類を混ぜて語っています。「華夷の弁は衣冠と文化だけを見る」というのは一つの読みで、古人がみなそう使ったとは限りません。\nこの物差しには、まだ語り終えていない端がもう一つあります。隣人たちです。1644年以後、朝鮮は清を中華と認めず、「小中華」を自任しました。そこで使ったのが、まさに衣冠と礼でした。われわれが着ているのはまだ明の服であり、行うのはまだ明の礼である、と。この端は『隣人たちの天』で詳しく扱います。ここに置くのは、一つのことを言うためです。衣冠という物差しは、私一人が持ち出したのではなく、何百年ものあいだ、華夏の周辺で中国の書をもっとも真剣に読んだ人たちが使ってきたものだ、ということです。\n最後に、この篇と『奪舎』の関係を一言。『奪舎』は「神は替わったが言葉は替わらなかった」、あるいは「征服されて、かえって征服者を書き換えた」という話をたくさん語りました。あれは横に見たものです。石勒、孝文帝、顧炎武は、同じ種類のことを縦に見ています。文明が最後に何を残すかは、どれが毎日人に生きられているかで決まります。\n名教と衣冠のどちらか一つしか守れないとしたら、南へ渡った人たちが守ったのはどちらだったと思いますか。\n参考資料\n嵆康『釈私論』、『嵆中散集』 『晋書』：巻五「孝懐帝紀」、巻四十三「王衍伝」、巻四十九「嵆康伝」、巻五十六「江統伝」（『徙戎論』を付す）、巻六十二「祖逖伝」、巻六十五「王導伝」、巻八十九「忠義伝・嵆紹」、巻一百一「劉元海載記」、巻一百五「石勒載記下」 劉義慶『世説新語・言語』、劉孝標注 『魏書』巻七下「高祖紀下」 顧炎武『日知録』「正始」条（黄汝成集釈本巻十七、四庫全書本巻十三） 『世祖章皇帝実録』巻五・巻十七（張闶「清代剃髪政策再論――魚宏亮氏と商榷して」、『清華大学学報（哲学社会科学版）』2021年第3期 からの引用） 雍正『大義覚迷録』巻一、1729年 魯迅「魏晋風度及び文章と薬及び酒との関係」、1927年、『而已集』所収 張玉興「瀋陽三官廟と清初の史実」（張春の一節は孫引き。原文は呉晗輯『朝鮮李朝実録中の中国史料』第9冊） 王元崇、澎湃新聞の記事（朝鮮は1704年から漢城に大報壇を設けて明を祭り、1897年まで続けた。「小中華」意識）；葛兆光の燕行文献における「大明衣冠」の研究（🟡、いずれも紹介） 図の出典は各図のキャプションに記載 ","permalink":"https://tentao.pages.dev/ja/yigui/e01/","summary":"\u003ch2 id=\"胡の字を言わせなかった皇帝\"\u003e「胡」の字を言わせなかった皇帝\u003c/h2\u003e\n\u003cp\u003e319年、羯（けつ）人の石勒は襄国で趙王を称しました。その年、彼は胡人を今後は「国人」と呼ぶよう命じています。のち宮殿ができ、法令が厳しくなると、そのなかに「胡の字を諱むこと尤も峻し」という一条がありました。ほかの字は大目に見られても、「胡」の字だけは決して口にしてはならなかったのです。\u003c/p\u003e","title":"名教は失われても、衣冠は残った"},{"content":"まず、立場を言っておく 私は金を重んじています。ダイヤモンド、トイ、スニーカーのたぐいは、「爆弾ゲーム（パスザパーセル）」のようなものだと考える傾きがあります。立場のある人間がこれを書く以上、自分に決まりを一つ課さなければなりません。私に有利な証拠も、不利な証拠も、並べて、しかも一緒に並べる。\nもう一つ。この篇が書くのは金だけで、銀は別の一篇にします。理由は簡単で、この二つは、値打ちの来る道が違うからです。ワールド・ゴールド・カウンシル（WGC）の統計では、2025年の金の技術用途は通年の需要の約6.5%（323トン、総需要5,002トン）にすぎません。銀はというと、半分以上が工業で使われ、銀協会の2026年の調査によれば、2025年の工業需要は約6.57億オンス、総需要の半分以上でした（割合は私の計算）。一緒に書けば、金を工業品にしてしまうか、銀を貨幣にしてしまうか、どちらも間違いです。\nよく言われる三つの理由を、一つずつ確かめる 金が「頼れる」と言うとき、よく挙がる理由は三つほどあります。工業価値がある。供給が限られていて、傷まない。政権の裏づけに頼る紙幣より頼れる。一つずつ行きます。\n一、工業価値 これは成り立ちません。あるいは、言い方を変える必要があります。\n2025年の世界の金需要は5,002トンでした。宝飾品が約1,542トン、三割（自分で計算）。技術用が323トン、約6.5%。残りの大きな部分は投資（ETFと延べ棒・金貨、約2,175トン）と、各国の中央銀行の純購入（863トン）です。投資と中央銀行で、ほぼ六割（自分で計算）。\nデータ出典：ワールド・ゴールド・カウンシル（WGC）『Gold Demand Trends 2025 通年』。割合と「その他」は自分で計算。\nつまり、金の値段は、おもに工場の必要で決まっているのではありません。値打ちがあるのは、みなが広く喜んで受け取り、それで貯蓄し、それを準備資産にするからです。これは「工業価値がある」こととは別のことで、まさに銀との最大の違いです。\nだからこの理由は、こう改めなければなりません。金の価値は工業から来るのではなく、「広く受け入れられていること」から来る。\n二、供給が限られ、傷まない これは本当です。\nWGCによれば、2025年末までに、人類が掘り出した金は約21.99万トンです。2025年に新たに掘ったのは3,672トンで記録的でしたが、それでも在庫の1.7%ほどにすぎません（自分で計算）。金は腐らず、錆びず、数千年前の金の飾りが、今日もあります。毎年の増加が在庫の1%強しかなく、しかも使い果たされない。その供給は、確かに急に増やしにくいのです。\nただ、二点、補う必要があります。\n第一に、供給も、価格にまったく従わないわけではありません。2025年は金価格が大きく上がり、鉱山生産は記録を更新し、回収される金も3%増えて、1,404トンになりました。値が高くなれば、新しい鉱山を開く人も、古い装身具を売る人も出てきます。\n第二に、「供給が限られている」ことが示すのは、紙幣のように自由に刷れないということだけで、価格が必ず上がるということではありません。価格は需要にもよりますが、需要は変わります。この点は、あとで見ます。\n三、政権が裏づける紙幣より頼れる これは半分正しく、半分は注意が要ります。\n正しい半分：紙幣の信用は、確かにそれを発行する政権に頼っています。紙幣が崩れた例は、歴史に少なくありません。1935年の法幣、1948年の金円券。これらはあとで専門に書きます。金は、どの政府が発行したものでもなく、政権が倒れたからといって無効にはなりません。\n注意が要る半分：金は「政権の手が届かない」ものではありません。\n1933年4月5日、米国大統領ルーズベルトは大統領令第6102号に署名しました。個人が約5オンスを超える金貨、金塊、金証券を持つ場合、5月1日までに政府に引き渡し、1オンス20.67ドルの公定価格で買い上げる。私人の金保有の禁止が解かれたのは、1974年12月31日でした。 1948年8月19日、国民政府は金円券を発行すると同時に、金、銀、外貨は「流通または保有を禁ず」とし、11月20日までに金円券に替えるよう期限を切りました。 1933年の米国大統領令第6102号の告示：個人が持つ金貨、金塊、金証券は、5月1日までに連邦準備銀行に引き渡さなければならない。　出典：Wikimedia Commons、U.S. Government Printing Office、パブリックドメイン\nこの二回、政権は「裏づけ」に頼らず、直接「取り上げ」ました。金のよいところは、持ち運べて、国境を越えても認めてくれる人がいることで、政権が取れないことではありません。守れるかどうかは、誰の手にあり、どこにあるかによります。\n怒海に投ずる：金で命を買う ベトナムの「怒海に投ず」という場面で、人びとは金で命を買いました。これは金の話のなかでもっとも重い部分で、別に書きます。\n1978年から1979年前後、ベトナムの華人が大量に出国しました。当時の報道によれば、出たい人は「十二両の金」を払わなければならず、その金は官吏、仲介者、船主で分けられました。1980年の別の報道には、まず一両の金（約3,000ドル）を払い、全額は約15,000ドルだという人もいます。\n1979年ごろ、ベトナム難民を乗せた小舟が、米海軍の補給艦「ホワイト・プレーンズ」に横づけしている。　出典：Wikimedia Commons、U.S. Navy、パブリックドメイン\nその境遇を想像してみてください。一つの国の金は、よそへ行けば誰も受け取らない。家の家屋も、店も、何一つ持ち出せない。そのとき、金は「向こう側」でも認められる数少ないものの一つでした。小さく、軽く、値打ちがあり、一艘の小舟にも積める。官吏に払うものも、船主に払うものも、同じ一つのものでした。\nただ、この例にも二つの面があります。この金を受け取った人のなかには官吏がいて、命を買う金は、一層ずつ分け取られていきました。それが証明するのは「国境を出ても金は認められる」ことで、「金が持っている人を守った」ことではありません。多くの人が金を払い、船に乗り、岸まで生きて着けませんでした。\nついでに言えば、「十二両」は報道での標準価格で、時期、場所、経路によって大きく違い、私はそれを統一価格とは見ず、今日の金額に換算もしません。\n「値打ち」は何に依るのか：保険であって、収益ではない 金は利子を生みません。配当もなく、利息も払いません。私はどの種類のものにも、同じ問いをします。「その見返りは、どこから来るのか。」金の答えは一つだけです。値さや、つまり後に、より高い値で買ってもいいという人が現れること。\nこう見ると、それは「爆弾ゲーム」と一点で通じます。次の人がいくら出すかが、あなたの手のなかのものがいくらかを決める。この点を、私は避けません。\nではほかの「花」と、どこが違うのか。私は三点あると思います。私に不利な証拠も一緒に並べます。\n第一に、太鼓は数千年渡されてきて、しかも花を受け取る人が特別だ。各国の中央銀行です。 WGCによれば、2022年の世界の中央銀行の純購入は1,100トンを超え、前年の二倍あまり。2022年から2025年の累計は4,000トンを超え、それ以前のまるまる十年の合計とほぼ同じです。2022年2月のロシア中央銀行の外貨準備の凍結は、今回の金買いの引き金とよく見られますが、これは解釈であって、統計から出たものではありません。\nフランス銀行が2022年の欧州遺産の日に展示した延べ棒。「PAMP SA SWITZERLAND 2022-06 999.9」と刻印されています。　出典：Wikimedia Commons、Ibex73、CC BY 4.0\nただ、これには反対の面もあります。2025年の中央銀行の純購入は前年より21%減ったのに、2025年の年平均金価格は44%も上がりました。だから「中央銀行が買っているから、価格は下がらない」とは言えません。価格を動かすのは、中央銀行だけではないからです。\n第二に、「インフレに強い」「危機の避難先」は、評判ほど証拠がよくない。 ErbとHarveyの2013年の論文『金のジレンマ』は、金のあらゆる意味での「ヘッジ」を調べました。インフレに対して、為替に対して、低い実質金利に対して、あるいは災害保険として。結論は、数年単位で見れば、インフレをヘッジする記録は悪い。どの言い方も、短期の金価格の変動のごく一部しか説明できない。しかも当時の実質金価格は、すでに歴史的平均を上回っており、歴史上こういう時期のあとは、実質リターンが低めだった、というものです。\n歴史には、とても見栄えの悪い一段もあります。1980年1月21日、金価格は場中で約850ドルに触れ、1999年には約255ドルまで落ちました。名目の850ドルは、2008年になるまで超えられず、そのあいだほぼ28年です。2008年には、年内の高値からリーマン破綻後の安値まで、金自身も三分の一ほど下がりました。2020年3月のある一週間には8.6%下がり、1983年以来最悪の一週間でした。そのときは、みなが現金をかき集め、追加証拠金を積み、何もかも売っていました。\n本文で触れた点だけを描いています。破線は見やすくするためのもので、途中の動きを表してはいません。2024年は逆算、2026年の二点は報道により丸めたもの。\nだから金は保険であって、収益ではありません。\n第三に、買ってから売る場合、割引が小さい。ほかのものは割引が大きい。 これは「爆弾ゲーム」を判断するために使いたい物差しで、私は割引テストと呼んでいます。買ってすぐに売り戻したら、何割戻ってくるか。\nダイヤモンド：エプスタインの1982年の記事『ダイヤモンドを売ってみたことがありますか』によれば、転売した人は、事例のなかで卸値の六割ほどしか戻りませんでした。いま、宝石店の販売者のブログは、転売価格は小売価格の25%から50%くらいと言っています。この数字は販売者のブログから出たもので、統計の基準がなく、「と言われている」程度にしか数えられません。 金：金の延べ棒の買値と売値は数パーセント違いますが、公式のデータは取れていないので、ここでは数字を書きません。これは、この篇の一つの欠落です。 私がこの物差しを出すのは、「爆弾ゲーム」という言葉を、他人の家のものを罵るためだけに使ってはならないからです。それが成り立つかどうかは、測れるもので決めなければなりません。\nこの二年に起きたこと WGCの数字は事実として書きます。二次的な出典のものは「報道によれば」とし、丸めます。\n価格：\n2025年、LBMA金価格の年平均は1オンス3,431ドルで、前年より44%上がりました。つまり2024年の年平均は約2,400ドルです（これは私の逆算）。2025年は通年で53回、史上最高値を更新し、第4四半期の平均は4,135ドルでした。 報道によれば、2026年1月29日、LBMAの午後値決めは約5,400ドルで、名目上の史上最高でした。その後は一貫して調整し、報道によれば、6月下旬の値決めの安値は約4,000ドルで、1月の高値より27%ほど低い。9月は四千ドル台でした。 需要：\n2025年の総需要は5,002トン。ETFへの流入は801トンで、記録上二番目に強い年。延べ棒・金貨は1,374トン、うち第4四半期は420トンで、12年ぶりの高さ。中央銀行の純購入は863トンで、2024年より21%少ないが、WGCはなお予想範囲の上端だと言っています。 宝飾品はまるで逆です。2025年は消費されたグラム数が18%減りました。価格が上がったので、使った金額はかえって18%増えています。2026年第2四半期には、宝飾品の量がまた前年同期より17%減りました。これは、装身具を買う人が高値に敏感なことを示し、金価格を押し上げたのは宝飾品ではない、ということです。 2026年第2四半期の総需要は1,269トンで、前年同期と同じ。中央銀行の純購入は289トンで、前年同期より62%多い。投資需要は262トン、ETFは当四半期に45トンの流出でした。 並べて見ると、今回の局面は、おもに投資と中央銀行が押し、装身具を買う人は高値に押し出されました。1月以降の下落は、中央銀行がまだ買っていて、ETFが流出に転じ、宝飾品が減っているなかで起こっています。どの要因がいちばん重要かは、結論を出しません。WGCが数えているのは、誰がどれだけ買ったかだけで、価格がなぜ動いたかは説明していません。\nこれからの二年：三つの動き方 まず明確にしておきます。私は価格水準を示しません。以下は三つのシナリオで、それぞれ何が必要か、どの数字を見ておけばよいかを示します。\n基準率：この節は本来、「過去のすべての二年の窓で、金の上げ下げはどんな分布だったか」を書くはずでした。LBMAの歴史系列を取れなかったので、この節は空けておき、印象で埋めません。\nシナリオA：中央銀行も投資家も買い続ける。 必要：各国の中央銀行が純購入を続け、ETFに資金が戻ってくる。見るもの：WGCが四半期ごとに公表する中央銀行の純購入が、2026年第2四半期（289トン）の水準を保てるか。ETFの四半期の純フローがプラスに転じるか。\nシナリオB：高値圏で横ばい。 必要：投資の流入と流出が相殺し、総需要が毎四半期1,270トン前後にとどまる。見るもの：WGCの四半期の総需要が、数四半期続けて2026年第2四半期の1,269トンと同じくらいか。金価格が、2026年6月の安値と1月の高値のあいだを行き来するか。\nシナリオC：吐き出し続ける。 必要：中央銀行の金買いが2022年以前の水準に戻り、ETFの流出が続き、実質金利が上がり続ける。見るもの：WGCの中央銀行の年間純購入が、二年続けて2022年以前の水準に戻るか（具体的な数字は要取得）。LBMAの金価格が、2026年6月の安値をふたたび割るか。米国のインフレ連動国債（TIPS）の利回りが上昇し続けるか（データは米財務省）。\n二年後の照合表（2028年10月に見返す）：\nシグナル 出典 シナリオAの読み シナリオCの読み 中央銀行の純購入（年間） WGC 2022年以降の範囲にとどまる 2022年以前に戻る ETF保有の変化（累計） WGC 純流入 純流出 LBMA金価格と2026年6月の安値 LBMA 上 下 この表は予測ではなく、二年後に照らし合わせられるものを一つ残しておくだけです。\n裏返して見る この篇には立場があります。金は、ほかのものより「お金を貯めるもの」に近い、と。それは少なくとも四か所で、あまり安定して立っていません。\n「金は政権の影響を受けない」は正確ではない。 1933年の米国、1948年の国民政府、政権が手を伸ばせば、金は取り上げられました。 金自身も、一つの「花」である。 利子を生まず、見返りは値さやだけ。1980年から2008年までの28年、太鼓は止まりました。 中央銀行が買っていても、下がらないとは限らない。 2025年は中央銀行が買う量が減っても、価格は上がりました。価格にはほかの押し手があり、その押し手も去ることがあります。 金とダイヤモンドを分けるための私の「割引テスト」は、金の側の数字をまだ持っていない。 だからその区別は、いまのところ半分しか立っていません。 私の見方 私は、やはり金を重んじます。値上がりするからではなく、私が知っているもののなかで、いちばん「貯蓄」に近いものだからです。\n本文の確認は認めます。金に「工業価値がある」というのは、撤回します。値打ちがあるのは、世界じゅうがそれを認めているからで、それは工業価値より堅い。「紙幣より頼れる」も半分だけ正しい。ルーズベルトも金円券も、政権が取り上げようとすれば、金も同じように取り上げられると思い出させてくれます。だから私が重んじているのは、じつは、それが「持ち出せる」ことです。金で命を買ったベトナムの家々では、家屋も、店も、預金通帳も、一夜にして通用しなくなり、最後に認められたのは、服の中に縫い込んだ数両の金でした。\nダイヤモンド、トイ、スニーカーは、金とはまったく別のものです。ダイヤは、買って売り戻すと半分を引かれると言われ、私にはそういうものは詐欺のように見えます。トイやエア・ジョーダンには堀がなく、一時の流行に頼っていて、流行が過ぎれば、花は最後の人の手に落ちます。金もまた、次の人が受け取ることに頼っている、それは認めます。けれどこの太鼓は数千年渡されてきて、花を受け取る人のなかには、各国の中央銀行がいます。私が線を引くのは、そこです。\n自分にも言い聞かせておきます。金は保険であって、富を生むものではありません。私に利子は払ってくれず、28年待ったこともあります。重んじることは、全財産を金に替えるべきだということではありません。\nあなたの家に、「本当にその日が来たとき」持って出られるものが、何かありますか。\n参考資料\n格付け：🟢 原文を読んだ；🟡 二次的な伝聞、本文では「報道によれば」とし、丸めてある。\nワールド・ゴールド・カウンシル（WGC）『Gold Demand Trends』2025通年および2026年第2四半期；地上在庫と鉱山生産 🟢 銀協会『World Silver Survey 2026』（2025年の工業需要）🟢 米国大統領令第6102号（1933-04-05）；私人の金保有禁止は1974-12-31に解除 🟢 国民政府『財政経済緊急処分令』と金円券の発行（1948-08-19）、金・銀・外貨の期限内の交換 🟡 ベトナムで1978–1979年に華人が金を払って出国した報道（「十二両」、1980年の報道の一両約3,000ドル、全額約15,000ドル）🟡 Erb, C. B. \u0026amp; Harvey, C. R. (2013). The Golden Dilemma. Financial Analysts Journal 🟡（要旨と二次的な紹介） 1980、1999、2008年の金価格、2008年と2020年3月の下落 🟡 Epstein, E. J. (1982). Have You Ever Tried to Sell a Diamond? The Atlantic 🟡（原文のページにはアクセスできなかった）；宝飾業界の販売者ブログの転売価格の説明 🔴 LBMAの2026年1月と6月の値決め、報道による 🟡 ","permalink":"https://tentao.pages.dev/ja/huozhi/f70/","summary":"\u003ch2 id=\"まず立場を言っておく\"\u003eまず、立場を言っておく\u003c/h2\u003e\n\u003cp\u003e私は金を重んじています。ダイヤモンド、トイ、スニーカーのたぐいは、「爆弾ゲーム（パスザパーセル）」のようなものだと考える傾きがあります。立場のある人間がこれを書く以上、自分に決まりを一つ課さなければなりません。私に有利な証拠も、不利な証拠も、並べて、しかも一緒に並べる。\u003c/p\u003e","title":"金：利子を生まないものは、なぜ値打ちがあるのか"},{"content":"どう比べたか まず方法を言います。愚直ですが、誰でもやり直せます。\n私の手元には、癸酉本後28回の文字があります。ネットで出回っている整理本です。もう一方は、程高本の後四十回、つまり通行本の第81回から120回です。両方から句読点と批語を取り去り、漢字だけを残し、12字の窓をすべらせていきました。連続する12字がまったく同じなら、印をつけます。そのあと、前八十回にしか出てこない段落は除きます。前八十回は両方にあるので、数えられないからです。\n残ったものが、癸酉本と程高本の後四十回だけにある重なりです。\n結果は、約2380字でした。それは程高本の19の異なる回に散らばり、いちばん長い連続は82字で、両方で一字も違いません。\n1791年の萃文書屋活字印本、すなわち「程甲本」。程偉元と高鶚が、はじめて120回の『紅楼夢』を印刷しました。以後二百年あまり、人びとが読んできたのは、基本的にこの本の後四十回です。　出典：Wikimedia Commons、米国議会図書館蔵、パブリックドメイン\nまず限界を言います。私が使った程高本はウィキソースの校本で、後四十回は程甲本を底本にしており、程甲と程乙を分けて比べてはいません。12字の窓は、数字を少し変えた借用を取りこぼすので、実際の重なりは、多くなることはあっても、少なくはなりません。これらは、あとでまた触れます。\nまず、いくつかの箇所を 数字では実感がわかないので、いくつか選びます。\n癸酉本第91回、家財の没収。差し押さえ品の目録があります。程高本の第105回にもあります。二つの目録は、ごく珍しい品までまったく同じです。毕叽二十三度、姑絨十二度、香鼠筒子十件、豆鼠皮四方。順序も同じです。違うのは、小さい数はそのまま写し、大きい数は小さく直されている点です。\n癸酉本第102回、妙玉に災難が起こります。この回の筋は、妙玉が強盗にさらわれるもので、程高本の第112回に対応します。両方に「軟梯が壁に立てかけられている」の一句があり、「手足がしびれて動けず、口もきけない」もあります。\n癸酉本第83回、甄宝玉が玉を送ります。この一節は、正方の論述でとても重要です。前八十回の脂批に甄宝玉への言及があり、癸酉本はそれを「実現」したからです。\n改琦『紅楼夢図詠』の甄宝玉。前八十回の批語はとうに彼に触れており、読者は二百年、彼が賈宝玉と顔を合わせるのを待ちました。　出典：Wikimedia Commons、改琦画、パブリックドメイン\nところが、甄宝玉と賈宝玉が会う場面の会話は、程高本第115回の言葉を使っています。「久しくご芳名を慕いながら、親しく教えを受ける由がございませんでした」「私はこの上なく濁り、この上なく愚かで、ただ一つの頑石にすぎません」。\nこれらの箇所には、もう一つ共通点があります。程高本のなかでは、それが程高本自身の筋であり、程高本の後四十回は、学界ではふつう、曹雪芹が書いたものではないとされていることです。\n二通りの読み方がある 両方に長い同じ文があるとき、理由は三つ考えられます。\n第一に、癸酉本が程高本を写した。第二に、程高本が癸酉本を写した。第三に、両方とも、さらに早い同じものを写した。\n後の二つを合わせたものが、正方の必要とする読み方です。程高本の編者は当時、手もとに旧稿を持っており、癸酉本こそその旧稿（あるいはその近親）だ、というものです。程偉元自身も序で、「力を尽くして探し集め」、「数年来、ようやく二十余巻を集め」、さらに鼓担ぎの屋台で十数巻を得たと言っています。\nでは正方は、直接の回答をしているでしょうか。しています。ネットで癸酉本が真筆かどうかを論じている場所で、とても集中した言い方を目にしました。大意はこうです。癸酉本が現代人の続作なら、彼は程高本を写したことになる。しかし彼は写しただけでなく、程高本のたくさんの不合理な筋を、写して「かえって合理的に」している。古今東西、そんな盗作があるのか、と。\nこれはとてもよい問いです。検証できる予想を与えてくれるからです。もし盗作者が改良を加えたのなら、持ち込まれたものは、元より適切なはずです。\nでは見てみましょう。持ち込まれたものは、より適切になっているのか、いないのか。\n第84回、宝玉が父に「母上」と叫ぶ まず、程高本第119回を見ます。宝玉が科挙の郷試を受けに行く場面です。\nその回で、王夫人は宝玉と賈蘭の二人に言います。「あなたたち二人は、はじめて試験場に入るのだし、これまで生きてきて、一日も私のもとを離れたことがなかった……今日はそれぞれ入りなさい……」。宝玉はひざまずいて王夫人に言います。「母上は私を生み育ててくださいました。私には、お返しできるものがありません……」。王夫人は言います。「おばあさまがあなたの顔を見られないのが惜しいわ！」\nすべて筋が通っています。母が話し、叔父と甥の二人がいっしょに受けるので「それぞれ入る」。宝玉は母に話すので、「母上」と呼ぶ。\n次に、癸酉本第84回を見ます。同じく宝玉が試験に向かう場面です。\nこのとき王夫人はもう亡くなっています。前の回のことです。だから、この一節の言葉は、賈政が宝玉に言う形に改められています。けれどそのなかの「一日も私のもとを離れたことがない」の口ぶりは、まだ母の口ぶりのままです（侍女や嫁たちが取り巻いていて、こういう言葉は、父親はふつう言いません）。「今日はそれぞれ入りなさい」も残っています。しかし今回、試験を受けに行くのは宝玉一人で、「それぞれ」はありません。宝玉はひざまずいて、父に向かって言います。「母上は私を生み育ててくださいました。私には、お返しできるものがありません」。続けて賈政が言います。「ただ、おばあさまとお前の母が見られないのが惜しい」。\nここまで読んで、私は少しこの本のために焦ってしまいました。三か所が不自然です。父が母の代わりに話す。一人なのに「それぞれ入る」。息子が父に向かって母上と叫ぶ。\nこの三つの不自然は、程高本のなかでは、どれもまったく筋が通ります。逆に、程高本が癸酉本から改めたものだと言うなら、曹雪芹の原稿にちょうどこの三つの欠点があって、程高本の編者が、筋を変えることで、この三つを一つずつ直した、と仮定しなければなりません。\n二つの説のうち、一つは一度の動作で済みます。「移すときに、話し手を変えて、きれいに変えきれなかった」。もう一つは、一連の偶然が必要です。これは、版本学で先後を判断するときによくある状況で、すっきり通るものが先、不自然なものが後です。\n第102回、庵に増えた「園」と「老女たち」 改琦『紅楼夢図詠』の妙玉。「潔を欲して何ぞ曾て潔ならん、空に雲いて未だ必ずしも空ならず」。判詞はとうにその末路を書いていますが、実際にどういう末路だったかは、いくつかの版本がそれぞれ別のことを語ります。　出典：Wikimedia Commons、改琦画、パブリックドメイン\n二つ目は妙玉です。\n程高本第112回では、妙玉は大観園のなかの櫳翠庵に住んでいます。強盗は園の裏の壁際から這い入り、軟梯をかけ、乗り越えて出ていき、外に仲間が待ち受けています。翌日、尼たちは人がいないのに気づき、「老女や侍女たちは、みな言った」。\n癸酉本第102回では、妙玉はすでに賈府を離れ、瓜洲の渡し場の小さな庵に住み、そばには老尼一人、若い尼一人、それに侍女二人だけです。ところが話のなかでは、僧たちが相変わらず「園の裏の壁際に来て軟梯をかけ、壁に登って跳び出し」、翌日も相変わらず「庵の戸を開けて、園じゅうを探して回り」、前文で一度も紹介されなかった「老女たち」が、相変わらず湧いて出ます。\n大観園の園と老女が、瓜洲の渡し場の小さな庵に移されると、余計なものになるのです。\n「きれいに変えきれなかった」なら、何を意味するか この二か所を並べて見ると、どちらも「より適切に直した」ものではなく、どちらも「持ってきて、場面を替えて、古いものを片づけきれなかった」ものです。\nこれは、癸酉本が必ず2008年に由来することを証明するものではありません。証明するのは、もっと狭いことです。少なくともこれらの段落では、癸酉本は程高本の下流にある。程高本は1791年に刊行されています。\nさらに、いくつか制約を加えておきたいと思います。\n第一に、これは数か所だけです。私が言う2380字は、28回のなかで、一部を占めるにすぎません。ほかの部分がどこから来たのかは、この比較では言えません。\n第二に、私が比べたのは、ネットで出回っているテキストと出版側の整理稿で、実物は見ていません。出版側自身の前言も、この本は「過録本の画像資料の整理稿であって、真本の原文ではない」と認めています。（出版側：金俊俊、何玄鶴、2017年の前言）\n第三に、2018年に光明日報が、世に出した人の2014年の言い方を伝えました。ネットに出回っている28回は、彼が「記憶をたよりに復元した」もので、そのあと彼と他の人が何度も修正した、というものです。もしそれが本当なら、「記憶のなかのテキスト」自体に、通行本の文句が混ざっていた可能性があります。これは私には判断できず、ひとまずここに置いておくしかありません。\n私の見方 私は、癸酉本はより早い底稿で、推敲されていないものだと、やはり考えます。「改竄されていない」については、いまの私の言い方は、主体の骨組みは改竄されておらず、ほかに後人が補ったものがある、です。\nこれについて私には、一つの譬えがあります。美人は骨にあって、皮にない。文字は重要ではなく、骨組みが重要だ。\nこの譬えに従えば、私が守るのは骨組み、つまり筋書きの向き、人物の結末、前後を呼応させる構造です。皮、つまり一句一句の文字は、後の人が補ったものでもよく、写されるなかで育ったものでもよく、私が守るものではありません。\n私は、骨組みは本物だと考える傾きがあり、その理由は志です。それは家と国を書いていて、一つの家族や男女の情愛を書くより高い。\n私は、この理由がどういう性質のものか分かっています。それは一人の読書人の判断であって、版本学の証拠ではありません。志が高いことは、この骨組みが真剣に扱うに値することを示せても、それ単独では、どの時代の、どの人に由来するかを示せません。同じように、索隠派を読んだ現代人が、「家国を書く」路線に沿って書けば、やはり志は高くなるでしょう。だから私はこれを、傾きとして扱い、証明としては扱わず、文字の上のどんな検証に反駁するためにも使いません。\nこう言うとして、この篇の証拠とはどう合うのでしょうか。\n程高本と重なる二千四百字は、皮です。私は数えました。28回全体で約19万字、重なりは1.3%で、第83から86回、第91回、第102回などに集中しています。第84回で宝玉が父に「母上」と呼ぶのも、第102回で庵に「園」と「老女」が増えているのも、どれも皮の上の痕跡です。それらが示すのは、これらの文句の文字が、程高本より後だということです。骨組みには触れていません。\n押韻も皮です。第82回の黛玉『十独吟』が現代の標準中国語で韻を踏んでいることは、それらの詩の文字が現代人の手によることを示しています。骨組みについては、この回に十独吟という筋があるのは、前八十回の批語が触れたもので、骨組みは早いものでありうる。\nだから「骨はあって、皮にない」で言えば、この篇の二組の証拠は、どちらも皮に当たり、骨には当たっていません。\nけれど、そう言うなら、三つのことを併せて認めなければなりません。\n第一に、骨組みは何で証明するのか。 いま正方が出している証拠は「ほぞが合う」ことです。伏線が合い、構造が対称で、人物が一貫している。けれど別の篇で述べたとおり、前八十回の批語は、とうに公開された一覧に整理されていて、その一覧に沿って書いても、合います。だから「ほぞが合う」ことが証明できるのは、書いた人がその一覧を読んでいた、ということで、それ単独では、骨組みが曹雪芹の世代のものだとは証明できません。\n第二に、骨と皮の境界が引けなければならない。 どれが骨でどれが皮かは、「私に合うものが骨、合わないものが皮」であってはなりません。引けないなら、この説はどんな証拠でも覆せません。\n第三に、これは文字で検証できない説である。 文字の上のすべての検証、程高との重なり、押韻、移したあとの痕跡は、どれもそれに触れられません。覆せる方法は一つだけです。実物が出てくるか、2008年より前の、世に出した人と無関係な独立した記録が出てくること。今までのところ、どちらもありません。\n最後に、一つの問いを どちらを採るにしても、私がずっと考えきれていない問いが一つあります。\nもし程高本の編者が、本当に手元に旧稿を持っていたのなら、なぜ彼が選んだ文は、ちょうど程高本自身の筋のなかでもっとも滑らかなものなのか。もし癸酉本が程高本を写したのなら、なぜそんなに断片的に、19の回に散らばって写したのか。\nこの二つの状況のうち、人が本を写すときにすることに近いのは、どちらだと思いますか。\n参考資料\n劉剣「『呉氏石頭記』の崩壊」、『光明日報』2018-02-27 『癸酉本石頭記後28回』前言、金俊俊、何玄鶴、2017-04-10；第三版序一、肖文林、2017-04-08 ネット上の癸酉本の真偽に関する議論（ネットユーザーの見解、手がかりとして） ウィキソース『紅楼夢』校本（前八十回は庚辰本、後四十回は程甲本）；程偉元の序：ウィキソース『紅楼夢（程乙本）』所載の『程偉元序』（小泉程偉元識） 作者自身による一字ずつの照合（12字の窓、明細は未公開） 図の出典は各図のキャプションに記載 ","permalink":"https://tentao.pages.dev/ja/miben/p02/","summary":"\u003ch2 id=\"どう比べたか\"\u003eどう比べたか\u003c/h2\u003e\n\u003cp\u003eまず方法を言います。愚直ですが、誰でもやり直せます。\u003c/p\u003e\n\u003cp\u003e私の手元には、癸酉本後28回の文字があります。ネットで出回っている整理本です。もう一方は、程高本の後四十回、つまり通行本の第81回から120回です。両方から句読点と批語を取り去り、漢字だけを残し、12字の窓をすべらせていきました。連続する12字がまったく同じなら、印をつけます。そのあと、前八十回にしか出てこない段落は除きます。前八十回は両方にあるので、数えられないからです。\u003c/p\u003e","title":"二千四百字"},{"content":"なぜ南に目を向けるのか このシリーズがここまで書いてきたのは、中国、朝鮮半島、日本、ベトナムです。どこも、かつて儒家の天の下で暮らしていました。\n東南アジアはそうではありません。タイ、ラオス、ミャンマー、カンボジアは、主流が上座部仏教です。インドネシアとマレーシアは、主流がイスラムです。儒家の天は、これらの国自身の天ではありません。\nけれども、それを運んでいった人たちがいます。華人です。\n彼らは他人の国に着き、自分の国は代わって声を上げてくれず、ときには自分の言葉を使うことさえ許されませんでした。そのとき、ひとつの社群は、何によって「私たち」と言えるのか。\n「依帰」（頼りとし、帰り着く信念）という言葉が、もともと問うているのは、このことです。\n私の主張と、その範囲 このシリーズのまえがきで、私は自分の傾きを書きました。儒家を宗教化して、すべての東アジアの人々に、統一された宗教上の依帰、ひとつの求心力を与えること。この構想を、私はひとまず「天道教」と呼んでいます。韓国の天道教と区別するためです。\n主張は、具体的な人に当てて試さなければなりません。「東アジアの人々」は、このシリーズでは、ただの呼び名です。泛儒家文化圏のなかで、深く考えようとする人を指します。この範囲でいえば、\nタイ人、ラオス人、ミャンマー人、クメール人は、含まれません。 華人と、ベトナム人は、含まれます。 だからこの数篇は、「東南アジアの人々」に何かを主張するものではありません。二つの人びとにだけ、それを持って問いかけます。華人と、ベトナム人です。\nいくつかの決まり：どの篇も五つの問いに答える どの篇も、この五つに答えます。\n歴史：どうやって来て、どう扱われたか。 道徳：この社群は、何によって「してよいか、いけないか」を言うのか。廟か、善堂か、祖先か、ほかのものか。 規律：国家の保護がないとき、何によって自分たちを治めるのか。会館か、学校か、結社の掟か。 現状：今日、何人いて、何を信じ、何ができるか。 未来：次の世代に、どれだけ残るか。 どの篇にも、決まった二つの節があります。\n私の主張はここでどう言うか：この節は、私自身が書くために空けておきます。 反対から見る：私の主張に対するいちばん固い反論。藁人形にはしません。 一枚の表 数字の基準は国ごとに違います。桁の見当としてだけ見てください。\n国 華人の数 割合 備考 マレーシア — 2020年に約23.2%（1957年は37%） 華語教育の体系がもっとも整っている タイ 約950万（2012年推計） 11〜14% 同化の程度がもっとも高い インドネシア 283万（2010年国勢調査） 約1.2% 1967〜2000年、公然たる信仰と習俗が制限された ベトナム 749,466（2019年国勢調査） 0.78% 外部の推計はずっと高い。1978〜79年に約45万人が出国 カンボジア 推計30万〜70万 — 1975年に約43万、1979年までに約半数が生き延びなかった ミャンマー 掲載せず — 数字の基準の食い違いが大きすぎる いちばん固い反論を、ここに先に置く ひとつの問いが、どの篇にもついて回ります。最初に言っておきたいと思います。\n東南アジアの華人が受けてきた最も重い非難は、「あなたたちの信じているものが間違っている」ではなく、「あなたたちの心はここにない」でした。\n二十世紀初め、タイのラーマ6世は筆名を使って文章を書き、華人を「東洋のユダヤ人」と呼びました。1967年、インドネシアのスハルト新秩序政権は、華人に名前を変えさせ、華人学校を閉じ、祭祀を家のなかに閉じ込めました。同じ年、ミャンマーのヤンゴンでは排華の暴動が起きました。中国の文化大革命の影響が伝わってきたことが引き金でした。\nタイ国王ラーマ6世（Vajiravudh、1881–1925）。　出典：Wikimedia Commons、作者不詳、パブリックドメイン\nこれらの出来事には共通点があります。受け入れ国の側が、この人たちには国外に「心」がある、と考えたことです。\nそして私の主張は、よりによって、まさに彼らに求心力を与えようとするものです。\nだから、最初の壁はここにあります。「第五列」を恐れる国のなかで、ひとつの求心力は、薬なのか、それとも口実なのか。\n1955年、バンドンで、中華人民共和国とインドネシアは『二重国籍条約』を結び、二重国籍の華人にどちらかを選ばせました。ひとつの読み方は、これは隣国の疑いを解くためだった、というもの。もうひとつの読み方は、これは見捨てることだった、というもの。二つの読み方は、インドネシアの篇に取っておきます。\n1955年4月、バンドン会議のあいだに話す周恩来、ネルー、ウー・ヌー。　出典：Wikimedia Commons、作者不詳、パブリックドメイン\nこの壁に対する私の答え 私の答えは、二つの道です。二つしかありません。\n一つめは、十分に強いこと。ひとつの宗教が十分に強ければ、イスラムの拡張と支配のように、新しい求心力を形づくることができます。その段階に達すれば、「心はここにない」という非難は成り立ちません。ここにいる人たち自身が、ひとつの「心」になるからです。\n二つめは、十分に強くないこと。そのときは、同化されるほかありません。\n（フィリピンの篇が、「二つしかない」に一つ問題を出します。）\n「十分」の基準を、私は四つ決めました。人数、組織、財力、教義です。四つとも必要で、一つ欠ければ、求心力は立ちません。ここでの「支配」とは文化の上での主導のことで、政治権力ではありません。\n基準 問うこと 人数 この社群は何人いるか。まだ増えているか 組織 自分たちの廟、会館、学校、善堂があるか。自分たちで自分たちを治められるか 財力 前の二つを養えるだけの資源があるか 教義 どの国にも依存しない「天」を持っていて、なぜこの心に向かうのかが分かるか どの篇でも、この四つで測ります。測れなかったところは空欄にして、空欄だと書きます。\nこの答えは、歴史に当てて確かめなければならず、ここで言っているだけではいけません。このあとの数篇が、それぞれ同じ問いを投げかけます。\nインドネシア、タイ、ミャンマー：二つめの道は、すでに起きたことです。 マレーシア：一つめの道に必要な「十分」。華人の人口比は、37%から23.2%に下がりました。 カンボジア：ひとつの社群が半分を奪われたとき、「十分」という言葉は何を意味するのか。 ここは、人を傷つけないように、はっきり言っておかなければなりません。私が「道は二つしかない。十分に強いか、同化されるか」と言うのは、誰かが同化されるべきだと言っているのではありません。まして、現地の社会に溶け込み、タイ語やインドネシア語を話し、現地の名前を使っている華人の子孫たちを評価しているのでもありません。彼らの日々は彼ら自身の日々であって、失敗ではありません。私が言っているのは、冷たい歴史の観察です。国を持たず、人数も少ない社群が、自分たちの言葉と祖先の礼を守ろうとするとき、歴史の上では、たいていこの二つの結末しかなかった、ということです。私が問いたいのは、第三の道があるか、です。人数も国もない社群が、何かほかのもの、毎日するささやかなことによって、自分たちを守り、しかも「心はここにない」と見なされずにいられるか。これが、私が本当に問いたいことです。\nこのあと カンボジア：半分の人 ベトナム：「怒りの海」に投じたあと インドネシア：許されたものと、奪われたもの タイ：もっとも成功した同化は、一つの依帰と呼べるか ミャンマー：乾隆帝が勝てなかった隣人と、残った人たち マレーシア：華語教育。ひとつの社群が学校によって命をつなぐ タイ、ラオスと、壮、傣、苗：同じ語族、それぞれの天 シンガポール：国家が一度儒家を推し、そして引っ込めた フィリピン：国家のエリートになった華人は、まだ華人なのか 香港：登録するが、禁じない 反対から見る このシリーズの方向についても、問い返してみることができます。なぜ「依帰」という言葉を使うのか。\n東南アジアの華人の大多数にとって、日々の暮らしにあるのは、明日の商売であって、「私はどこに帰るのか」ではありません。この問いは、文章を書く人にしかないのではないでしょうか。\n南の隣人へ。あなたはバンコクやジャカルタ、クアラルンプール、プノンペン、ヤンゴン、マニラで育ったのかもしれません。家のお年寄りは、私には分からない潮州語や客家語、福建語を話し、あなた自身は、もう一言も話せないかもしれません。それでいいのです。あなたはたぶん、あの言葉を聞いたことがあるでしょう。「あなたたちの心はここにない」。ひとつ聞かせてください。毎年の清明、祖先の墓の前に、あるいは神棚の前に立つとき、あなたの心はどこにありますか。いま立っているこの土地にある、そうでしょう。だから私があなたに聞きたいのは、あなたがまだ華人かどうかではなく、次のことだけです。あなたの祖父母はどの埠頭から上陸したのか、家の神棚には誰が祀られているのか、毎年の清明をどう過ごしているのか。こうしたことは、どんな「依帰」の大きな理屈よりも、ずっと本当のことです。私はそれを書き留めたい。そしてもっと多くの人に、あなた自身の子どもにも、読んでもらいたいのです。\n国家が代わって声を上げてくれないとき、ひとつの社群は、何によって「私たち」と言えるのか。\n参考資料\nラーマ6世の「東洋のユダヤ人」：筆名で書かれたもので、その含意については研究者のあいだで議論がある 1955年『中国・インドネシア二重国籍問題に関する条約』（周恩来、スナリオ。1960年1月20日発効） 画像の出典は各図の説明に記載 ","permalink":"https://tentao.pages.dev/ja/linju/d20/","summary":"\u003ch2 id=\"なぜ南に目を向けるのか\"\u003eなぜ南に目を向けるのか\u003c/h2\u003e\n\u003cp\u003eこのシリーズがここまで書いてきたのは、中国、朝鮮半島、日本、ベトナムです。どこも、かつて儒家の天の下で暮らしていました。\u003c/p\u003e\n\u003cp\u003e東南アジアはそうではありません。タイ、ラオス、ミャンマー、カンボジアは、主流が上座部仏教です。インドネシアとマレーシアは、主流がイスラムです。儒家の天は、これらの国自身の天ではありません。\u003c/p\u003e","title":"南の隣人たち：東南アジアの華人は、何によってひとつの「私たち」になるのか"},{"content":"中国語を話さない人 私には、カンボジア系の同僚がいます。私はずっと、彼は広東語圏の人だと思っていました。\nあるとき彼は、母方の祖父が華人で、難民の出身だと言いました。彼自身は、中国語がひとことも話せません。\n彼はカンボジアに帰って、親戚に会ったことがあります。\n私は、彼の家に何が残っているのか、尋ねませんでした。\n数字 1975年、クメール・ルージュが権力を握ったとき、カンボジア国内には約43万人の華人がいました。歴史学界の通説的な推計では、1979年に政権が倒されるまでに、そのうちおよそ半分が、病気、飢え、過労、あるいは処刑で亡くなりました。\nカンボジアを研究する学者ベン・キアナン（Ben Kiernan）は、こう書いています。民主カンボジアは、東南アジアのどの華人社会もこれまでに遭ったことのない、最大の災厄だった、と。\n比較に置いてみます。チャム人のイスラム教徒は約25万人で、約36%が亡くなりました。全国の総人口では、約21%が亡くなりました（キアナンの推計で約167万人）。華人は、その割合がもっとも高かったのです。\n私の同僚は「半分以上」と言ったことがありました。私は詳しく尋ねませんでしたから、彼が華人のことを言ったのか、全国のことを言ったのかは分かりません。華人のことなら、数字は合います。全国のことなら、通説の推計はずっと低くなります。全国では21%前後です（キアナンで167万人。国連の法廷の人口学の専門家の推計は幅がもっと広く、約120万から280万人）。\nなぜ彼らだったのか キアナンの見方では、華人が殺されたのは、おもに民族のためではなく、彼らの多くが都市に住んでいたからです。\nクメール・ルージュは都市を空にしました。都市に住んでいる人は「旧人」でした。華人は都市で商売をしている人が多く、空にされた人も、それだけ多かったのです。\nこの点は、先に言っておかなければなりません。つまり、これは完全な「排華」ではなかった、ということです。言語と文化が禁じられたのは本当です。けれども、「あなたは誰か」を決める基準は、階級であって、民族だけではありませんでした。\nこれより前に、もうひとつの扉が、もっと早く閉ざされていました。\n1970年、ロン・ノル政権が成立し、すべての華人学校、華人の商店、廟を閉鎖しました。この状態は、1990年代初めまで続きました。\nつまり、1975年の時点で、カンボジア華人の「組織」は、すでに五年前から取り上げられていたのです。\nそのあと 1984年、カンボジアの華人は、推計でおよそ6万人しか残っていませんでした。\n1993年以降、人はまた増えました。いまの推計は30万から70万人で、基準の食い違いが大きい。華人学校もまた開かれ、百校近いと言う人もいて、その多くには中国政府の補助があります。\nカンボジアの華人は、昔から、よくクメール人と結婚してきました。この点は、変わっていません。\n道徳と規律：三つのものが取り上げられたあと 国家の保護がない社群は、三つのものに支えられて立ちます。廟、会館、学校です。廟は「してよいか、いけないか」を司り、会館と学校は「どうするか」を司ります。\nカンボジア華人のこの三つは、1970年から1979年のあいだに、すべて取り上げられました。\n三つとも無くなれば、残るのは家です。家で受け継がれるものは、しばしばごくわずかです。ひとつの姓。ひとつの祭日。祖父のひとこと。\n私には、同僚の家に残っているのがどれなのか、分かりません。\nプノンペンの春節の飾り（2014年、午年）。いまのカンボジアの華人は、また公然と新年を祝えるようになった。　出典：[Wikimedia Commons](https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Lunar_New_Year%27s_31-01-2014_(cheval_(%E9%A6%AC)_Phnom-Penh_Cambodia.jpg)、Pierre André Leclercq、CC BY-SA 4.0\n「西から来た天国」 クメール・ルージュの思想は、マルクス・レーニン主義から来て、パリを経由し、さらに毛沢東を経由しました。\nそれは太平天国と同じ場所に立っています。西から来たひとつの天国が、新しい「天」で、古い天を取り換えようとした。\nこのたとえを、もう少し具体的にして、判定の基準を与えたいと思います。「天国」とは、私の見るところ、四つのものを持っています。一、終末がある。古い世界はすでに腐りきっていて、丸ごとひっくり返さなければならない。二、選民がいる。ある人たちは「純粋」で、ほかの人たちは取り除かれるべきだ。三、「新しい人」がある。古い人は作り変えられるか、消されなければならない。四、聖地がある。ある場所、ある一人が、真理そのものである。太平天国にはこの四つがあり、クメール・ルージュにもありました。彼らは白紙の上に「新しい人」を造ろうとし、「古い人」を、つまり都市に住む人、本を読んだ人、商売をする人、ほかの神を信じる人を、全部地上から消し去ろうとしました。ひとつの考えが同時にこの四つを持つとき、それはもう主張ではありません。ひとつの宗教です。しかも、ほかの「天」が存在することを許さない宗教です。\nこの問題には、学界に既成の名前があります。政治宗教（ヴェーゲリン、アロン）です。『奪舎』の政治宗教を扱った篇で書いたので、ここでは繰り返しません。\n四つの基準で測ってみる 人数：1975年に約43万、1984年に約6万、いまは推計30万〜70万。半分以上を取られ、いま回復しつつある。 組織：廟、華人学校、商会は、1970年から閉鎖され、1990年代初めに再び開かれた。華人学校は再開後に七、八十校（2012年の報道）、2017年の統計では55校、生徒約5万人で、その多くに中国政府の補助がある。 財力：信頼できる数字が見つからなかったので、書かない。 教義：カンボジア華人自身の「教え」についての資料が見つからなかったので、空欄にする（要補充）。 四つのうち、二つは取り上げられたことがあり、一つは回復しつつあり、一つは空白です。\n私の主張はここでどう言うか この節を書くにあたって、まず自分に正直でなければなりません。私の手にあるこの主張は、ここではほとんど役に立ちません。ひとつの姓しか残っていない人に、私が「統一された求心力」などと言うのは、軽すぎないでしょうか。彼が欲しいのは、もう夜中に誰も扉を叩いて、お前は誰だと聞かないことだけかもしれません。だから、私はまず主張を持ち出さず、三つの問いを立てます。第一に、姓だけが残った人にとって、求心力は何からつながるのか。私は、大きな理屈からではなく、その姓からだと思います。彼の姓は、祖父の名前であり、すでに遠くへ行ってしまった人との、最後の一本の糸です。第二に、本人がそれを望むのか。私には分かりません。本人に聞かなければなりません。第三に、誰が尋ねるのか。私ではないし、どんな「宗教」でもない。腰を下ろして、祖父がどんな人だったかを聞いてくれる人であるべきだと思います。この主張に少しでも役に立つところがあるとすれば、せめてこうであるべきです。「あなたは誰か」を告げるのではなく、もし知りたければ、扉はひとつ開いている、と知らせること。\n反対から見る いちばん固い反論は二つあります。\nひとつ。半分を滅ぼされたばかりの人たちに、「統一された求心力」を語るのは、ぜいたくではないか。彼らが欲しいのは、もうあなたは誰かと問われないことだけかもしれません。\nもうひとつ。キアナンは、彼らが殺されたのは都市に住んでいたからで、華人だったからではない、と言っています。そうだとすれば、「民族」を中心にした依帰では、この出来事を説明できず、次を防ぐこともできません。\nこの二つとも、私は認めます。とくに二つめが大切です。私は、「民族」を中心とした依帰を欲しいと思ったことは一度もありません。まえがきで、すでに言いました。私が求めているのは、一致した文化の信仰であって、民族のアイデンティティではない、と。カンボジアのこの歴史は、この点をこれ以上ないほどはっきり示しています。ひとが殺されたのは、血管のなかに何が流れているからではありません。ひとつの「天国」が、自分に属さないあらゆる人を消し去ろうとしたからです。だから、次を防げるのは、より強い「民族」ではなく、誰にも、どんな考えにも、すべての人に代わって「あなたは誰か」を決めさせない、根のところにあるものです。\nカンボジアの友人へ。あなたがクメール人でも、華人でも、チャム人でも、ベトナム人でも。1975年から1979年、あなたの家には、帰ってこなかった人がいるかもしれません。43万の華人のうち、半分近くが生き延びられませんでした。チャム人は三分の一以上が亡くなり、国全体では五分の一が亡くなりました。この数字を読むたびに、私はあの同僚を思い出します。中国語は一言も話せず、家に残ったのは、ひとつの姓と、ひとつの祭日と、祖父のひとことだけかもしれない人です。このことについて、大きなことは何も言えません。できるのは、数字の向こうにいる人を、ひとりずつここに書くことだけです。いまプノンペンでは、また春節を公然と祝えるようになりました。あの数年に帰ってこなかった人たちは、この日を待つことができませんでした。\n曽祖父が華人で、本人は中国語がひとこともできない人。その人はまだ「私たち」なのか、それは誰が言うのか。\n参考資料\n対照して読む：『奪舎』の政治宗教を扱った篇。このシリーズの「南の隣人たち」（序文） カンボジア華人とクメール・ルージュ：1975年に約43万の華人、1979年までに約半数が生き延びなかった。キアナン：華人が殺されたのは主に都市住民だったためで、民族のためではない。チャム人（約25万、36%死亡）、クメール人（21%）。1970年にロン・ノル政権が華人学校・華人商店・廟を閉鎖、1990年代初めまで。1984年に約6万。現推計30〜70万、華人学校70〜80校（2012年報道。2017年は55校） ラッセル、ヴェーゲリン、アロン（政治宗教） 画像の出典は各図の説明に記載 ","permalink":"https://tentao.pages.dev/ja/linju/d21/","summary":"\u003ch2 id=\"中国語を話さない人\"\u003e中国語を話さない人\u003c/h2\u003e\n\u003cp\u003e私には、カンボジア系の同僚がいます。私はずっと、彼は広東語圏の人だと思っていました。\u003c/p\u003e\n\u003cp\u003eあるとき彼は、母方の祖父が華人で、難民の出身だと言いました。彼自身は、中国語がひとことも話せません。\u003c/p\u003e\n\u003cp\u003e彼はカンボジアに帰って、親戚に会ったことがあります。\u003c/p\u003e\n\u003cp\u003e私は、彼の家に何が残っているのか、尋ねませんでした。\u003c/p\u003e","title":"半分の人：クメール・ルージュと、カンボジアの華人"},{"content":"ある映画 1982年、香港で一本の映画が撮られました。『投奔怒海』（英題 Boat People）、許鞍華（アン・ホイ）監督。1978年前後のベトナムを描いています。ある社会が、一群の人たちに扉を閉ざし、その人たちは船で出ていくことを決める、という話です。\n私はこの映画を観ていて、ずっと覚えています。\nいまの私の同僚のひとりは、ベトナム系の華人で、年齢はおよそ六十歳。当時は難民でした。\n私は、彼の経験を詳しく尋ねたことがありません。\n四十五万 1978年から1979年にかけて、およそ45万人の華人が、ベトナムを離れ、あるいは追われ、陸の国境を越えました。\nそのうち約25万人が中国に行きました。17万人は北から陸路で、残りは船で。ほかの人たちは船で東南アジアの別の国へ行き、香港まで漂着した人もいます。\n1979年ごろ、人であふれたベトナム難民船が、アメリカ海軍の補給艦に近づいている。　出典：Wikimedia Commons、アメリカ海軍、パブリックドメイン\n理由は二層あります。ひとつは、中越関係が悪化し、ベトナム政府が華人を安全保障上の脅威と見なしたこと。もうひとつは、南部の華人が小売貿易の多くを握っていて、新しい政府が彼らに課税し、制限し、没収したことです。\nその船を想像してみてください。一家、おそらく三世代が、持てるだけのものを小さな包みに入れて、ある夜、海辺に降りていく。どの国が受け入れてくれるのか、船が転覆しないかどうかも分からない。分かっているのは、出なければ明日がない、ということだけです。\n今日、ベトナムの「華族」（Hoa）は、2019年の国勢調査で749,466人、0.78%です。外部の推計はそれよりずっと高く、二百万人を超えるという人もいます。\nベトナム自身の文字 1651年、フランスのイエズス会士アレクサンドル・ド・ロード（Alexandre de Rhodes）が、ローマでベトナム語の辞書を出版しました。ラテン文字を使い、八千語あまりの見出しに、ポルトガル語とラテン語で注がつけられています。これが、のちの「国語字（クオックグー）」の土台になりました。\nイエズス会士ロード（Alexandre de Rhodes、1593–1660）。　出典：Wikimedia Commons、作者不詳、パブリックドメイン\n彼は国語字の発明者ではありません。先人のポルトガル人宣教師の綴りを用いて、それを整理し、発表したのです。\nそのあとが、フランスの植民者です。1906年から教育を改めはじめました。1919年、阮朝の啓定帝（Khải Định）がすべての儒学校の廃止を承認し、科挙は終わりました。\n国語字は、宣教師の道具から、ひとつの国の文字になりました。\n代償は、ベトナム人が自分たちの千年の文字をほとんど読めなくなったことです。ベトナム喃字保存基金会（アメリカの学者が設立に関わりました）は、自分たちのサイトでこう書いています。今日、世界で喃字を読める学者は、百人に満たない、と。\n喃字（チュノム）は、ベトナム人が漢字を作り変えて、ベトナム語を書くために生み出した文字です。漢文はまた別の話で、読める人はもう少しいます。\n「西から来た天国」には二層ある 私は以前、こんな一文を考えたことがあります。ベトナムは、西から来たひとつの「天国」に根本から変えられた。文字も思想も変わった、と。\nよく考えると、それは二層でした。\n文字の層。カトリックの宣教師が口火を切り、植民者が広めた。 思想の層。のちの共産主義。 この二つは同じことではありません。以下、分けて書きます。\n第一の層、文字。 前に書いたとおりです。宣教師が整理し、植民者が広め、1919年に科挙が終わりました。ひとつの国の文字が、漢字と喃字から、ラテン文字に置き換わった。読書人にとって、取り換えられたのは字画であり、千年の文献へ通じる扉でもありました。\n第二の層、思想。 1975年に南北が統一されたあと、高台教は抑えつけられ、1997年になってようやく法的に承認されました（「高台教」の篇を参照）。1978年から1979年が、先ほどの45万人の華人です。同じ時期に起きた二つの出来事です。共産主義が、ベトナムで具体的に儒家や漢字や宗教をどう扱ったのかは、この層についてはまだ確認していません。ここまでしか書けず、残りは補充待ちです。\n二つの層には、ひとつ共通点があります。どちらも西から来て、どちらも「新しい天」を携え、どちらも一世代のうちに、ひとつの社会と自分の過去とのあいだに、一枚の隔たりをつくったことです。\n違いもあります。第一の層は、信じろと求めませんでした。第二の層は、信じろと求めました。\nこの二か所で、私は「天国」という言葉を使いましたが、意味が違います。分けて言っておきたいと思います。第一の層は、宣教師の「天国」。文字どおりの天国で、死後の、天の上にある場所です。彼らが持ってきたのは一つの信であって、刀を突きつけて信じさせた人はいません。第二の層は、私の言う「天国」で、太平天国やクメール・ルージュと同じ場所に立っています。地上に造り出す新しい世界で、あなたに信じることを求め、古い自分を差し出すことも求めます。二つを並べると、ひとつの社会への影響は同じだと思います。その社会と自分の過去とのあいだに、一枚の隔たりをつくる。けれども、一人の人間に求めるものは、違います。読む人に、区別がつくようにしたいのです。\n道徳と規律 ひとつの国の文字が変われば、ひとつの社群の「道徳」も、置き場所を変えなければなりません。\n以前、道徳は四書五経と家譜にありました。いまはどこにあるのか。\n高台教（このシリーズに専用の篇があります）は、ベトナムの人たち自身が出した答えのひとつです。孔子、イエス、ユゴー、孫文を、いっしょに祀る。\n華人が出したのは、別の答えです。ベトナムに残り、0.78%の中の人になる。あるいは別の場所へ行き、他人の国で、置き場所をもう一度見つける。\n四つの基準で測ってみる まず華人から。\n人数：2019年の国勢調査で749,466人、0.78%。1978〜79年に、約45万人が離れた。 組織：南部の華人のもとの商業は、課税され、制限され、没収さえされた。 財力：同上。取られた側の項目。 教義：ベトナム華人自身の「教え」は見つからなかったので、空欄にする（要補充）。 つぎにベトナム人（私の主張が問いかけるもう一つの人びと）。\n人数：足りないことはない。 組織：高台教。公式推計ではタイニン聖座の系統で約440万人、公認の教派は約六つ。 財力：書かない。 教義：すでにひとつある。しかも混ぜ合わせたもの。仏、道、儒、キリスト教に、ユゴーと孫文。 ベトナムの華人は、四つのうち三つを取り上げられました。ベトナム人の側は、教義という項目に、すでに誰かが答えを出しています。\n私の主張はここでどう言うか ベトナムの文字は、「作り変えられた」のか、それともベトナム人自身が「選んだ」のか。私の答えは、両方、です。宣教師と植民者が、それを押し出したのは確かです。でも二十世紀に入ると、ベトナムの読書人は、自分たちでもラテン文字を手にして、詩を書き、新聞を書き、民族の独立を求める言葉を書きました。私は、ベトナム人のために漢字を惜しむ気にはなれません。そういう惜しみ方は、ベトナムの人の耳には、北から来た、また上から見下ろす声に聞こえるかもしれないからです。私が言いたいのは、もうひとつのことです。自分のいちばん古い書物を、見知らぬ文字として読むことになった人は、いつか、振り返って見たくなるかもしれない。その日、本人が見たいと思ったなら、その扉をもう少し押し開けるのを、手伝いたいと思う人がいる。\n反対から見る まじめに受け止めるべき見方があります。国語字は、ベトナム人が漢字から離れるための選択として読むこともできる。「作り変えられた」だけではない、という見方です。\nもし「東アジア統一の依帰」を持ち出して、ベトナム人のために彼らの漢字を惜しむなら、ベトナム人には、また北から来る求心力に聞こえるかもしれません。\n1978年、ベトナム政府が示した理由は、華人が安全保障上の脅威だから、というものでした。心配されたのは、華人の心が北にあることでした。\nベトナムの友人へ、そしてベトナムの華人へ。あなたたちのあいだには、簡単ではない歴史があります。1978年から1979年、45万人がベトナムを離れました。一家族、もしかすると三代が、持てるものを小さな包みひとつに入れて、ある夜、海辺へ下りていきました。それより前に、ベトナム自身の文字が、一世代ずつラテン文字に置き換わっていきました。今日、喃字を読める学者は、世界中で百人に満たないと言われます。この二つのことは、私の中では同じひとつの悲しみです。ある人たちは自分の家を離れさせられ、ある人たちは自分の文字を離れさせられた。けれどもこの悲しみには、理由がなかったわけではありません。ひとつの政府が、華人を安全への脅威とみなし、税をかけ、没収すると決めたから、あの45万人が生まれたのです。追い出された人も、文字を変えられた人も、選ぶことはできませんでした。私には、かつて難民だったベトナム華人の同僚がいます。彼に詳しく尋ねたことはありません。このサイトで、私はあなたたち両方のために、この話を書き留めておきたいのです。\nひとつの国が、他人の文字を読まなくなるために、自分の古い書物が読めなくなった。この値段が見合うかどうかは、誰が言うべきでしょうか。\n参考資料\n対照して読む：このシリーズの「ベトナムには、孔子とイエスとユゴーと孫文をいっしょに祀る宗教がある」「韓国にはほんとうに「天道教」があった」。『奪舎』「インドネシアの身分証の孔教」 ベトナム：1978–79年に約45万人の華人が出国または追放、うち約25万人が中国へ（17万人が陸路）。2019年国勢調査で華族749,466人（0.78%）。1651年ロード辞書（8000語余）、Pina、Rodriguesの綴りに基づく。1919年に科挙と儒学校を廃止 喃字を読める学者は百人未満：ベトナム喃字保存基金会のサイト What is Nôm? のページ https://nomfoundation.org/nom-script/What-is-Nom-?uiLang=en 🟢（基金会自身の推計で、算定の基準は説明されていない） 画像の出典は各図の説明に記載 ","permalink":"https://tentao.pages.dev/ja/linju/d22/","summary":"\u003ch2 id=\"ある映画\"\u003eある映画\u003c/h2\u003e\n\u003cp\u003e1982年、香港で一本の映画が撮られました。『投奔怒海』（英題 \u003cem\u003eBoat People\u003c/em\u003e）、許鞍華（アン・ホイ）監督。1978年前後のベトナムを描いています。ある社会が、一群の人たちに扉を閉ざし、その人たちは船で出ていくことを決める、という話です。\u003c/p\u003e\n\u003cp\u003e私はこの映画を観ていて、ずっと覚えています。\u003c/p\u003e","title":"怒りの海に身を投じたあと：ベトナムの華人と、ベトナム自身の文字"},{"content":"1955年、バンドン 1955年4月22日、バンドンで、周恩来とインドネシアのスナリオ外相が『二重国籍条約』に署名しました。二重国籍の華人は、二つの国籍のうち、ひとつを選ばなければなりません。条約は1960年1月20日に発効しました。\nこの条約をどう読むか。\nひとつの読み方。中国はこれによって、東南アジアの隣国に、華人を「海外の手」とは見なさない、と示した。これは善意であり、自衛でもあった。\nもうひとつの読み方。中国は法的に、この人たちのために声を上げる立場を放棄した。\nどちらの読み方も、そう言う人がいます。私に、彼らに代わって決めることはできません。できるのは、そのあとの出来事を、ひとつずつ並べることです。\n1955年4月、バンドン会議のあいだに話す周恩来、ネルー、ウー・ヌー。　出典：Wikimedia Commons、作者不詳、パブリックドメイン\nひとつずつ 1959年：スカルノが大統領令第10号を公布し、外国人が農村で小売りをすることを禁じた。インドネシア国籍を選ばなかった華人は、「外国人」として扱われた。 1959年12月：北京放送が、華僑を迎えに行くと発表した。約10万人が中国に迎え入れられ、約20万人が申請した。（別の統計では約11万9千人で、基準が一致しない。） 1966年：内閣幹部会第127号決定が、「インドネシア風の名前」を使うことを求めた。伝統的な華人の姓を廃止するのと同じことだった。 1967年：大統領指示第14号。漢字を禁じ、華語学校は次第に閉鎖され、華人の宗教と習俗は、家のなかでしか行えなくなった。 1977年：スハルト政権は孔教を「信仰派（aliran kepercayaan）」に格下げした。 1978年11月18日：内務大臣の通達は、インドネシアには五つの宗教がある、とした。イスラム教、プロテスタント、カトリック、ヒンドゥー教、仏教。2000年の大統領令が、この通達を1967年の指示とともに廃止した。 1998年5月：ジャカルタとソロで暴動が起きた。政府の共同真相調査チームが記録した死者は千人あまり、性暴力は85件、そのうち強姦は52件。チームは、実際の被害者数は示せない、と述べている。 2000年：ワヒド大統領が大統領決定第6号を公布し、1967年の指示を廃止した。 2006年、2008年：内務省と宗教省が孔教の婚姻を認め、教育省が孔教の課程基準を公布した。 2010年の国勢調査では、華人は283万人、1.2%。孔教徒として登録されているのは、117,091人です。\n二つの数字は、二十倍以上の開きがあります。\n道徳：孔教はどう取り上げられたか 『奪舎』の「インドネシアの身分証の孔教」は、インドネシアの孔教について書きました。ここでは少し補うだけにします。\n分けて言う必要があります。1967年の指示が制限したのは公然たる活動で、孔教が「格下げ」されたのは1977年のことです。この違いは、もう一度確かめなければなりません。\n孔教会（Matakin）は1955年に成立しました。1977年以後、孔教徒は仏教徒かキリスト教徒として登録するしかなくなりました。\nひとつの社群の「道徳」が、他人の与えた名前のなかに預けられることを強いられたのです。\nインドネシア・バンテン州タンゲランの文徳廟（Boen Tek Bio）。この土地でもっとも古い華人の廟だと言われる。　出典：Wikimedia Commons、Cun Cun、CC BY-SA 4.0\n規律：取られたのは「組織」 学校は閉じられ、廟では公然と祭りができず、名前は変えなければなりませんでした。\n取り上げられたのは「信仰」ではなく、「組織」です。信仰は家のなかに残せますが、組織は残せません。\nインドネシア華人の子どもを想像してみてください。家では祖母のつけてくれた名前で呼ばれ、外に出れば、インドネシア風の新しい名前を使う。家では祖父が話す華語を少し聞くのに、学校ではそれを学べない。一人の子どもが、一日のうちに二人の人にならなければなりません。\n現状と未来 ワヒドのあと、2002年4月、メガワティ大統領が署名して、春節がインドネシアの全国的な祝日になりました。孔教に、身分証の上の場所ができました。\nひとつの社群が四十年のあいだ取り上げられ、それが戻されたとき、戻ってきたものはもとのものとは限りません。今日のインドネシアの若い華人のうち、華語を話せる人がどれだけいるのか、信頼できる数字は見つかりませんでした。\nインドネシアの華人の廟で線香を上げる人たち。　出典：Wikimedia Commons、Cuncun Wijaya、CC BY 2.0\n私の判断：バンドンは、ひとつの放棄だった 私の判断はこうです。1955年、バンドンで、周恩来を筆頭とする中共は、インドネシアとマレー一帯の華人を見捨てた。裏切った、と言ってもいいし、背中から刺した、とさえ言えると思います。現地に残った華人は、「捨て駒」になりました。\nこの判断を、もう少し正確に言っておきたいと思います。これが私のいちばん重い一言だからです。1955年にあの条約に署名したのは、中国とインドネシアの二国です。マラヤはそのときまだ独立しておらず、条約の当事者ではありません。だから私が言う「インドネシアとマレー一帯」とは、あの会議で中国が東南アジア全体の華人に表明した立場のことです。これからは、あなたたちを中国国民とは見なさない、現地の公民になってください、という立場です。この立場そのものには、私は必ずしも反対しません。新しい国にとっては、おそらく正しいことでした。私が言う「背中から刺した」は、そのあとのことです。1955年以降、中国はそう言いながら、残った人たちのために声を上げませんでした。1959年に華僑を迎えたあと、現地に残った人たちは農村小売り禁止令に向き合いました。1966年、1967年、名前を変えろ、学校を閉じろと言われた人たちは、禁令に向き合いました。1998年には亡くなった人たちがいます。1998年5月、北京は現地の華人をどう守るのかと聞かれた外交部報道官は、中国には彼らに対する支配力はなく、情勢が早く収まることを望む、と答えました。8月になってようやく北京は「重大な関心」を表明し、『人民日報』の社説は華人女性への強姦の徹底調査を求めました。1959年に中国政府がインドネシアに出したあの一度の抗議を除けば、国際社会で誰かが彼らのために大きな声を上げたという記録を、私は読んでいません。彼らは「捨て駒」になりました。盤の上に、そのまま置き去りにされ、もう誰も見なくなったひとつの駒です。\nもちろん、反対側の見方も知っています。これは「落地生根」（根を下ろすこと）であり、政策の大きな転換であり、隣国を安心させるためだった、と。当時の人たちの胸のうちに何があったのかを、私は証明できません。できるのは、両側を並べ、そして私の悲しみを書くことです。\nこの判断の反対側に、学界は名前をつけています。「落地生根」です。バンドンで周恩来は、海外の華人は居住国の国籍を取り、現地に溶け込むべきだ、と言いました。中国自身にとって、これは政策の大きな転換でした。それまでの中国は、国民党の立場を引き継いで、海外の華人をすべて中国国民と見なしていたからです。\n同じ出来事に、二つの名前がある。ひとつは「放棄」、ひとつは「落地生根」。\n以下に、机の上に出ているものを並べます。\n「放棄」を支持するもの：1955年の条約は、華人に二者択一を迫った。1959〜60年の華僑引き取りは10万人を超える人が中国に戻った。中国とインドネシアは1967年10月に断交し、1990年8月まで国交が戻らなかった。1998年、中国政府の事件への反応が「抑制的」だったかどうかは、各方面の言い方が分かれる。（5月の発言と8月の「重大な関心」は上に述べたとおり。） 「放棄」に反対するもの：条約の目的は、華人を現地の公民にして、隣国の「海外の手」への疑いを解くことであり、彼らを外国人にすることではなかった。華僑の引き取りは、1959年の農村小売り禁止令に対応するためで、当時の中国政府はインドネシアに抗議を行っている（1959年12月9日、陳毅外相がインドネシアのスバンドリオ外相に書簡。駐インドネシア大使の黄鎮が、のちに両国合同委員会の中国側首席代表を務めた）。同じ時期の中国国内の事情も、背景として入れなければならない。（条約の発案と交渉の経緯、1960年代の背景は一つずつ確かめていない。） 四つの基準で測ってみる 人数：283万人、1.2%（2010年）。四つのうち、この項目はもともと足りない。 組織：華人学校は1967年から次第に閉鎖され、公然たる廟と祭りは制限され、孔教は1977年に格下げされた。組織は、ひとつずつ奪われていった。 財力：信頼できる数字がない。華人がインドネシアの富のどれだけを握っているかという話はよく出るが、そうした言い方には、原データまで確かめられたものがなかったので、書かない。1959年の農村小売り禁止令は、財力を狙ったものだった。 教義：孔教徒は117,091人で、華人の総数と二十倍以上の開きがある。教義という項目は、名前を変えさせられ、さらに取り上げられた。 四つのうち、一つはもともと足りず、三つは奪われたことがあります。\n私の主張はここでどう言うか もし「統一された求心力」があるとして、その「心」は北京にあるのか、それともひとつの宗教のなかにあるのか。私の答えは、北京にあってはならない、です。もし北京にあれば、それは1967年のインドネシア政府がいちばん恐れたものであり、バンドンで見捨てられた人たちが、いちばん引き戻されたくないものです。それはひとつの宗教のなかになければならず、しかも、どの国も受け入れられる宗教でなければなりません。どの国への忠誠も求めず、どの国の政府の承認も要らず、どの国の代わりに語ることもしない。国籍がインドネシアなら、インドネシアです。清明に祖先に線香を上げることと、その二つは、衝突してはなりません。これが私の欲しいものであり、インドネシアの華人が四十年かけて払った代償で、引き換えに得る価値のある唯一のものだと思います。どの国にも属さない「心」です。\n反対から見る いちばん固い反論は、1967年の論理そのものです。ひとつの国が求めるのは、華人に「外にある心」がないことです。\nインドネシア華人は、四十年をかけ、名前と学校と廟、そして1998年の死者を差し出して、ようやく、その「心」を持たなくてよいと認められました。いまの彼らに、統一された求心力を与えても、薬だとは思ってもらえないかもしれません。\nインドネシアの友人へ。華人であっても、インドネシアのほかの民族であっても。1998年5月、千人あまりの人が、翌日を迎えられませんでした。あの調査報告のなかの「実際の被害者数は示せない」という言葉を読んで、私は長いこと立ち止まりました。それより前には、ひとりの子どもがいました。家では祖母がつけた名前で呼ばれ、外に出るとインドネシア風の新しい名前を使わなければならない。家では祖父の話す華語を少し聞き、学校ではそれを学べない。一日のうちに、二人の人間にならなければならなかった子どもです。この国は、かつて一部の人たちに、自分の家のなかで、自分の名前を呼ぶことをためらわせました。2002年、その同じ国が、春節を全国のカレンダーに書き入れました。私はこの二つを、どちらも書き留めておきたい。ひとつは、忘れないために。もうひとつは、後の人に、方向転換はできる、と知ってもらうために。\n国家に一度選べと言われて、選んだのに、それでも名前を取り上げられた。この勘定は、誰の頭に付けるべきでしょうか。\n参考資料\n対照して読む：『奪舎』「インドネシアの身分証の孔教」。『依帰』「宗親会の黄昏」。このシリーズの「孔教会はなぜ失敗したか」 インドネシア：1955-04-22『二重国籍条約』（周恩来、スナリオ。1960-01-20発効）。1959年大統領令第10号。1959-12の華僑引き取り約10万人（申請約20万人。別説では約11.9万人）。1966年第127号決定。1967年第14号指示。1977年に孔教を格下げ。1998年TGPF。2000年第6号大統領令。2006年、2008年。2010年国勢調査で華人283万人（1.2%）、孔教徒117,091人。バンドンの「落地生根」 インドネシア1965年大統領令など（『奪舎』「インドネシアの身分証の孔教」を参照） 春節を全国祝日に：2002年第19号大統領決定（2002-04-09、メガワティ署名）、インドネシア語ウィキソース https://id.wikisource.org/wiki/Halaman:Keputusan_Presiden_Republik_Indonesia_Nomor_19_Tahun_2002.pdf/1 🟢 1967年第14号大統領指示（1967-12-06）：https://id.wikisource.org/wiki/Instruksi_Presiden_Republik_Indonesia_Nomor_14_Tahun_1967 🟢。2000年第6号大統領決定（2000-01-17）：https://peraturan.bpk.go.id/Details/57713/keppres-no-6-tahun-2000 🟢 中国・インドネシア、1967-10-30の国交断絶と1990-08-08の復交：中国外交部「中国とインドネシアの関係」 https://www.mfa.gov.cn/web/gjhdq_676201/gj_676203/yz_676205/1206_677244/sbgx_677248/ 🟢 1959年12月9日の陳毅からスバンドリオへの抗議書簡、黄鎮が合同委員会の首席代表となったこと：Our China Story の特集記事 https://www.ourchinastory.com/cn/7711（二次資料）🟡 画像の出典は各図の説明に記載 ","permalink":"https://tentao.pages.dev/ja/linju/d23/","summary":"\u003ch2 id=\"1955年バンドン\"\u003e1955年、バンドン\u003c/h2\u003e\n\u003cp\u003e1955年4月22日、バンドンで、周恩来とインドネシアのスナリオ外相が『二重国籍条約』に署名しました。二重国籍の華人は、二つの国籍のうち、ひとつを選ばなければなりません。条約は1960年1月20日に発効しました。\u003c/p\u003e\n\u003cp\u003eこの条約をどう読むか。\u003c/p\u003e\n\u003cp\u003eひとつの読み方。中国はこれによって、東南アジアの隣国に、華人を「海外の手」とは見なさない、と示した。これは善意であり、自衛でもあった。\u003c/p\u003e","title":"許されたものと、奪われたもの：インドネシア華人の四十年"},{"content":"ある王の父 1767年、アユタヤ朝はビルマに滅ぼされました。翌年、鄭信という人が、トンブリーで、シャムをもう一度立て直しました。\n鄭信の父は、潮汕の澄海の人で、シャムで税吏をしていました。母はタイ人でした。鄭信のあとに来たのがチャクリー朝、つまり今日のタイ王室で、その創始者ラーマ1世にも、華人の血が入っていたと言われています。\nだからタイでは、「華人」と「王室」は、完全に隔てられた二つの言葉ではありません。\nトンブリーの鄭信大王（King Taksin）とプラヤー・ピチャイの記念像。　出典：Wikimedia Commons、Tmd、CC BY-SA 4.0\n四世代 アメリカの学者ウィリアム・スキナー（G. William Skinner）は、タイの華人を研究しました。彼が「同化が完了した」ことに与えた定義は、とても素朴です。ひとりの人が、ほとんどあらゆる場面で自分をタイ人だと思い、タイ語を自然に流暢に話し、さらにタイ人との付き合いを、より多く選ぶこと。\n彼の判断は、四世代のうちに、タイの華人は完全に同化する、というものでした。\n今日、タイの華人は総人口の11%から14%、約950万人です（2012年の推計）。そのうちのかなりの部分は、もう中国語を話さず、自分を「華人」とも思っていません。\nバンコクのヤワラート通り。華人が集まって住む古い通り。　出典：Wikimedia Commons、Marcin Konsek、CC BY-SA 4.0\n国家はどうしたか タイでは、同化はすべてが自然に起きたわけではありません。国家も背中を押しました。\n1914年、国王ラーマ6世は筆名（Asvabahu）を使って文章を書き、華人を「東洋のユダヤ人」と呼びました。この文章をどう読むかは、学者のあいだで論争があります。人種主義だと考える人もいれば、彼が心配していたのは、共和主義がタイに広がることだったと考える人もいます。\n1938年から1957年まで（途中に四年近い中断があります）、ピブーン政権は「タイ化」を進めました。華人学校を閉鎖し、中国語の書物と新聞を禁じ、タイ式の服装を強制し、華人の業種を国有化し、中国への送金を犯罪とし、まだ「華人らしさ」を見せる人には嫌がらせをしました。\nピブーンは、華人を追い出したかったのではありません。彼が求めたのは同化でした。\n善堂 けれども、タイの華人社会は消えませんでした。ひとつのものが残りました。\n1909年、十二人の華人商人がバンコクで団体を興しました。「報徳善堂」といいます。その仕事は具体的です。引き取り手のない遺体を収め、葬ること。のちに、タイでもっとも有名な救援組織になり、交通事故の負傷者の対応もするようになりました。\n国家が代わりに声を上げてくれない社群が、それでも真っ先に、引き取り手のない人の遺体を収めたのです。\nバンコクの華僑報徳善堂の建物。看板にタイ文字と中国語が並んでいる。　出典：Wikimedia Commons、Sry85、CC BY-SA 3.0\nここまで読んで、私は鼻の奥がつんとしました。その場面を想像してみてください。故郷を離れ、自分たちもまだ足場が定まらない人たちが、それでも真っ先に思ったのです。道ばたの、引き取り手のない、誰だか分からない人を、あのまま横たわらせておいてはいけない、と。この一点が、どんな「華人」の定義よりも、「私たち」という言葉の意味に近いと思います。\n華人の廟の多くは、いまも大乗仏教と儒、道を混ぜた伝統のままで、タイの上座部の寺院にはなりませんでした。ただ、スキナーはこうも書いています。第二世代のタイ華人は、華人の廟へ行くことがだんだん少なくなった。上座部仏教が、彼らの精神的な必要をすでに満たせるからだ、と。\nバンコクのチャイナタウンにある龍蓮寺（Wat Mangkon Kamalawat）。華人の大乗仏教寺院。　出典：Wikimedia Commons、Alan Oscroft、パブリックドメイン\n現状と未来 異民族間の結婚の割合は、インドネシアやマレーシアよりずっと高い。\nタイでは、「華人」という身分は、消されたのではなく、ゆっくりと薄められたのです。\n誰が考え出した方法か 私は以前、こう推測したことがあります。タイのこの「同化の方法」は、潮汕人自身が考え出したものではないか、と。\nこの説を裏づける証拠は、見つかりませんでした。研究が語っているのは三つのことです。異民族間の結婚という伝統。国家が「タイ化」に与えた奨励。そして、のちの数世代が自分で選んだこと。\nこの推測は、ひとまず置いておき、結論には書きません。\n四つの基準で測ってみる 人数：約950万人、11%から14%（2012年の推計）。 組織：報徳善堂、1909年から。華人の廟は残っているが、スキナーによれば、第二世代はだんだん行かなくなった。 財力：信頼できる数字がないので、書かない。 教義：華人の廟は、大乗仏教、儒、道を混ぜた伝統で、統一された教義はない。上座部仏教が主流の国で、若い世代は、しばしば現地の仏教に向かう。 四つのうち、人数と組織はどちらもあり、教義は薄められた項目です。こういう例は、私の主張にとって大事です。\n私の主張はここで何を言うか タイの華人は、四世代かけて、「疑われない」位置を手に入れました。もし私の主張が彼らに統一された求心力を与えようとするなら、彼らはなぜそれを欲しがるでしょうか。私の答えは、欲しがらなくてもいい、です。すでにうまく暮らしている人に、まだ何かが足りないと言いたくはありません。私が言いたいのは、もっと小さなことです。もしいつか、祖母の神棚を思い出し、清明の日に家族がみんなどこへ行ったのかを思い、誰かとそれについて話してみたくなったなら、そこには開いている扉がある。それはあなたに、タイ人であることをやめろとも、中国語を話せとも、どこかの「組織」に入れとも求めません。ただ、他の人と共有できるいくつかの日々があるだけです。祖先祭祀、清明、春節、天へのささやかな敬意。タイの華人にとって、これはおそらく、彼らを煩わせない唯一のやり方だと思います。それは「求心」の力ではなく、「帰ってこられる」場所です。\n反対から見る いちばん固い反論は、上にあります。スキナーの「四世代の同化」は失敗ではなく、ひとつの社群がひとつの国のなかで選んだ生き方だ、というものです。\nタイ華人にとって、「私はタイ人で、祖先は潮汕の人で、家には祖先を祀る神棚がある」は、すでに完全な依帰です。私の主張が「あなたにはまだ求心力がない」と言えば、彼は問うでしょう。どこへ向かう求心力ですか、と。\nタイの友人へ。あなたたちの国は、長い年月、華人を追い出さず、一代一代、ゆっくりと自分たちの一部にしてきました。簡単なことではありません。「同化」という言葉が双方にとって少し痛いことは分かっています。同化される人は何かを失い、同化する人はそれに気づいていないかもしれません。けれども1909年、バンコクの十二人の華人商人は、自分たちもまだ足場が定まらないうちに、道ばたの引き取り手のない人たちのことを真っ先に思い、報徳善堂を興しました。いま、その建物の看板には、タイ文字と中国語が並んで書かれています。これはタイ人と華人がいっしょに成し遂げたことで、国じゅうがそれを敬っています。これも一つの依帰だと思います。どの民族かを問わず、いっしょにこのことをした人たちに属する依帰です。\nひとつの社群が、四世代かけて、ひとつの国の一部になる。これは「消えた」のでしょうか、それとも「生き延びた」のでしょうか。\n参考資料\n対照して読む：このシリーズの「南の隣人たち」（序文）、「乾隆帝が勝てなかった隣人」（ミャンマー）。『依帰』「宗親会の黄昏」 タイ：鄭信（Taksin）の父は澄海の潮汕人。ラーマ1世に「華人の血がある」。華人は約950万人、11〜14%（2012年推計）、1932年に12%超。スキナーの「同化」の定義と「四世代」の判断。ラーマ6世の署名記事「東洋のユダヤ人」（学者の論争を含む）。ピブーンの1938–1957年のタイ化政策。1909年報徳善堂（華人商人12人が発起）。異民族間の結婚率はインドネシア、マレーシアより高い 1767年のアユタヤ朝のビルマによる滅亡と、鄭信が翌年トンブリーで再建したこと：通説の史実 画像の出典は各図の説明に記載 ","permalink":"https://tentao.pages.dev/ja/linju/d24/","summary":"\u003ch2 id=\"ある王の父\"\u003eある王の父\u003c/h2\u003e\n\u003cp\u003e1767年、アユタヤ朝はビルマに滅ぼされました。翌年、鄭信という人が、トンブリーで、シャムをもう一度立て直しました。\u003c/p\u003e\n\u003cp\u003e鄭信の父は、潮汕の澄海の人で、シャムで税吏をしていました。母はタイ人でした。鄭信のあとに来たのがチャクリー朝、つまり今日のタイ王室で、その創始者ラーマ1世にも、華人の血が入っていたと言われています。\u003c/p\u003e","title":"もっとも成功した同化は、ひとつの依帰と呼べるか：タイの華人"},{"content":"四度 1765年から1769年にかけて、清朝はビルマへ四度攻め入りました。\n最初の二度（1765〜1767）は、国境でビルマ軍に押し返されました。三度目（1767〜1768）、乾隆帝は娘婿の明瑞に五万の兵を率いさせ、満洲八旗を中心に、ビルマの奥深く、首都アヴァまで数日の道のりまで進みましたが、熱帯の地形と病に消耗し、大きな損害を出して退きました。\nこの戦争全体で、清軍は七万人あまりが死に、将軍が四人亡くなりました。清朝が戦った辺境戦争のなかで、もっとも惨めなものだったと言う人もいます。\nアヴァ（Inwa）一帯。かつてのビルマの都。18世紀、清軍は、ここまで数日の道のりのところまで攻め入った。　出典：Wikimedia Commons、Go-Myanmar、CC BY-SA 3.0\n1769年12月、前線の指揮官どうしで停戦が成立し、一般に「老官屯和議」（Kaungton）と呼ばれます。結果として、ビルマもシャムも、独立を保ちました。\n同じ時期に、ビルマはシャムの首都アユタヤも滅ぼしています（1767年）。\nだから、ビルマが「同時に」アユタヤと乾隆帝に勝った、というのは、それなりに筋が通っています。ただ、「ひとりの力で」には疑問符をつけておくべきです。この数年、ビルマは二つの方向に同時に兵を動かしていて、二つの戦線のあいだで兵力をどう配分したのかは、確かめられていません。アユタヤの滅亡には、シャム自身の内因もありました。\nシャムを立て直した鄭信は、潮汕人の息子です。このシリーズの「もっとも成功した同化」を参照してください。\n七万人あまりの清軍の兵士を思ってみてください。彼らの多くは、何か大きな理屈のために戦ったのではありません。徴発されて、雲南の山から、満洲の草原から、ずっと歩いて、瘴気のなかへ入っていったのです。その名前を記憶している人は、いません。\nもうひとつの軍隊 1949年、国共内戦が終わったとき、国民党軍の一部は降伏せず、雲南から戦いながら出て、ビルマのジャングルに入りました。\n1950年3月、チャイントンからタチレクにかけて、およそ千五百人。1950年末には、タイ・ビルマ国境で、約一万人。\nのちに、ビルマにいた国民党軍は、すこしずつ分かれていきました。そのひとつが段希文に率いられ、1961年にタイに受け入れられて、チェンライ県のメーサローンに定住しました。タイは、兵士と家族の大部分に市民権を与え、その条件は、タイのために戦うことでした。1971年、チェンライで共産党の反乱に対して。1981年、ペッチャブーン県で。\nこれが、今日のメーサローン一帯の華人の子孫が、市民権と土地の権利を持っていることの根拠です。\n国もなく、家もない、ひとつの敗残の軍が、他人の国の山のなかで三十年あまり戦い、最後に手にしたのは、その子どもたちがそこに一区画の土地と、一枚の身分証を持てる、ということでした。\nコーカンという土地 コーカン（果敢）は、ミャンマーのシャン州北部にあり、雲南と接しています。そこの人たちは、ほとんどが漢人で、中国語を話します。\nコーカンを治めた楊氏の祖先は、南京の明の遺臣だったと言われています。1739年、楊氏は正式にコーカンの土司を築きました。\n2009年、コーカン地域の人口は約15万人。約10万人がミャンマー国籍を持ち、その約九割が漢人でした。\n2009年、ミャンマー軍は、すでに停戦していたいくつもの少数民族武装勢力に、国境警備隊への改編を求めました。コーカンの指導者、彭家声は、やむなく出ていきました。これが「2009年コーカン事件」です。2015年にも、また衝突がありました。\nミャンマーと中国の境にある国境の関所（コーカン一帯）。　出典：Wikimedia Commons、Paingpeace、CC BY-SA 4.0\n道徳と規律：2023年のいくつかの家族 のちに、コーカンのいくつかの家族が、巨大な規模の電信詐欺の拠点（園区）を営むようになりました。\n2023年10月20日、明学昌の一族の「臥虎山荘」で、逃げようとした労働者に向けて警備員が発砲し、多くの死傷者が出ました。そのなかに中国公民が十四人いました。2023年11月、明学昌は逮捕された際に自殺し、病院での救命は及びませんでした。\n2025年9月、浙江省温州市中級人民法院は、明氏の犯罪集団に判決を言い渡しました。39人が有罪、罪名は十四項目で、詐欺、故意の殺人、故意の傷害などを含みます。そのうち11人が死刑、5人が執行猶予付き死刑、11人が無期、残りは五年から二十四年の有期懲役でした。関わった事件の損失は十四億米ドルを超えます。2025年9月19日から22日には、白所成ら21人が深圳で審理を受けました。\n私はこれを「道徳」の位置に置きます。ひとつの社群の「自治」は、何によって自分たちを律するのか。\nこの節について、もうひとこと言っておきたいのは、とても読み違えられやすいからです。電信詐欺の拠点の被害者は、片方に騙された人がいて、もう片方に、拠点に閉じ込められて、騙すことを強いられた人がいます。そのなかの少なくない人は、中国から、あるいはほかの国から、騙されて連れてこられた若者です。パスポートを取り上げられ、毎日何時間も働かされ、逃げようとした人は殴られ、脅されました。2025年10月、ミャンマー軍がKK拠点を制圧したとき、千人を超える人がモエ川を渡って逃げ、溺れた人もいます。この人たちこそが、いちばん覚えておかれるべきです。そして、命令を下した家族は、具体的な人たちで、ひとつの法廷から、具体的な罪を言い渡されました。私がこれを「道徳」の位置に置いたのは、とても古い問いを立てたいからです。ひとつの社群に、自分たちで守る一線がなければ、その「自治」は、ある日、何になるのか。これは「華人」の問題だとは思いませんし、コーカンの人たちの問題だとも思いません。外の決まりにも縛られず、内側の決まりにも縛られていない場所なら、どこでも起こりうることです。\nコーカンの信仰についての資料は、追加で調べられず、空欄にしてあります。もし誰かが、コーカンの人たちが家で何を祀っているのか、清明をどう過ごすのかを教えてくれるなら、私は知りたいです。\n現状と1967 ミャンマーの華人には、広く認められた数字がありません。\n1962年、ネ・ウィンが政権を取り、国有化を始めました。1967年6月26日、ヤンゴンで排華の暴動が起きました。きっかけは、中国の文化大革命の影響が伝わってきたことで、学生が毛沢東のバッジをつけたことでした。三十人あまりの中国公民が殺され、中国大使館、チャイナタウン、華人学校が襲われました。\n暴動のあと、多くの華人がまた移民しました。残った人たちは、帰化と同化を急ぎ、自分の華人としての身分を隠しました。\n四つの基準で測ってみる ミャンマーの華人は、まったく違う三種類の人たちで、どれもが全体を代表するわけではありません。まず、コーカンという一種類から測ります。\n人数：2009年に、コーカンは約15万人、そのうち約10万人がミャンマー国籍で、約九割が漢人。一つの土地としては、人数は十分。 組織：土司の伝統があり、自前の武装（MNDAA）がある。組織は強いが、それは武装であって、廟でも学校でもない。 財力：巨額の財産を持つ家族はあるが、判決の認定した出所は犯罪（詐欺の損失は14億米ドル超）。この項目は、ここでは数に入れられない。 教義：コーカンの人たちの信仰についての資料が見つからなかったので、空欄にする（要補充）。 つぎに、国民党軍の子孫（メーサローン）。\n人数：多くない。 組織：当時は軍隊で、のちにタイの市民になった。 財力、教義：資料がないので、書かない。 四つのうち、ミャンマーが差し出しているのは、もっとも危険な組み合わせです。人数と武装はあり、教義は空で、財力の出所は有罪になった。\n私の主張はここで何を言うか ミャンマーの華人には、まったく違う三種類の人がいます。何世代も前に来た古い華僑、国民党軍の子孫、そして1990年代以後の新しい移民です。私の主張が与えようとする「統一された求心力」は、どの人に与えるのでしょうか。私の答えは、どの人にも「与え」ない、です。私の主張は、ある集団に配られる物ではありません。何世代もヤンゴンに住む古い華僑に「清明に祖先を祀る」と言えば、彼はうなずきます。メーサローンの国民党軍の子孫に同じことを言っても、うなずくでしょう。新しく来た人にこの言葉を言えば、きょとんとするかもしれませんが、やはり分かるでしょう。私の主張は、いくつかの日々にすぎず、過ごしたい人は、その中にいます。けれども、正直でなければなりません。人数があり、武装があり、一線を守る「教え」のない集団が、最後にどこへ行き着くか。ミャンマーはそれをもう私に見せてくれました。これは、私が自分の構想に対して出す最大の警告です。歯止めのない求心力は、もっとも危険なものです。\n反対から見る いちばん固い反論は、1967年のあの日にあります。文革の「求心力」がヤンゴンに伝わったとたん、三十人あまりが死にました。\nひとつの社群の「心」が、外国の政治に呼び起こされたら、それが所在国にもたらすのは依帰ではなく、脅威です。私の主張は気をつけなければなりません。この「外国の政治」の別の形になってはいけません。\nミャンマーの友人へ。ビルマ族でも、シャン族でも、華人でも、ほかの誰でも。あなたたちの国は、この二百年あまり、たくさんの人に踏まれてきました。1765年から1769年まで、乾隆帝の八旗が四度攻めてきました。1950年、国民党の敗残の軍が雲南からジャングルへ退いてきました。1967年6月26日、文革のバッジがヤンゴンに伝わり、三十人あまりが死にました。そのあとは、電信詐欺の園区で撃たれた労働者たちです。どれも、北から来たものです。あなたたちはおそらく、北から来る人には誰にでも、もうひとつ警戒心を持つことを学んだのでしょう。責めはしません。私がいちばん気にかかっているのは、こうした出来事のなかで、名前を記憶されていない人たちです。瘴気のなかへ歩いていった七万人あまりの清軍の兵士、園区から逃げ出そうとした人たち。私は、その名前をひとつも呼ぶことができません。\nひとつの国の華人のなかに、敗残の軍を迎え入れた人もいれば、詐欺の拠点を営んだ人もいる。「華人」というこの二文字は、まだ何を説明できるのでしょうか。\n参考資料\n対照して読む：このシリーズの「もっとも成功した同化」（タイ）、「南の隣人たち」（序文） ミャンマー：1765–1769年の清緬戦争（四度の侵攻、清軍の死者七万余、明瑞、1767–68、1769年12月停戦）。1949–50年の国民党軍のビルマ入り（1950年3月に約1,500人、年末に約一万）。段希文、1961年メーサローン、タイが市民権を付与、1971年、1981年に参戦。コーカン：楊氏、1739年に土司を築く。2009年の人口約15万、約10万がミャンマー国籍、約90%が漢人。2009年、2015年の衝突。1967-06-26のヤンゴンの暴動。明氏集団の2025年温州での判決。白所成の事件は2025-09-19から22日に深圳で審理 1767年のビルマによるアユタヤ滅亡：通説の史実 画像の出典は各図の説明に記載 ","permalink":"https://tentao.pages.dev/ja/linju/d25/","summary":"\u003ch2 id=\"四度\"\u003e四度\u003c/h2\u003e\n\u003cp\u003e1765年から1769年にかけて、清朝はビルマへ四度攻め入りました。\u003c/p\u003e\n\u003cp\u003e最初の二度（1765〜1767）は、国境でビルマ軍に押し返されました。三度目（1767〜1768）、乾隆帝は娘婿の明瑞に五万の兵を率いさせ、満洲八旗を中心に、ビルマの奥深く、首都アヴァまで数日の道のりまで進みましたが、熱帯の地形と病に消耗し、大きな損害を出して退きました。\u003c/p\u003e","title":"乾隆帝が勝てなかった隣人と、残った人たち：ミャンマーの華人"},{"content":"数字 1957年、マラヤが独立したとき、華人は総人口の37%を占めていました。2020年には23.2%です。\n同じ2020年に、土着の人々（ブミプトラ）は69.4%、インド系は6.7%、その他は0.7%でした。華人はブミプトラではないので、ブミプトラへの優遇もありません。\n華人の合計特殊出生率は、民族別でもっとも低く、0.8です（マレーシア統計局の2022年の数字。2023年は0.9）。2016年から2022年にかけて、華人社会の婚姻率は33%下がりました。\n一つの学校は、一つの「私たち」 マレーシアで、華人はひとつのものを守りました。小学校から中学校まで、中国語（華語）で教える学校です。\n1956年の『ラザク報告』が、ある体制を設計しました。小学校にはマレー語、英語、華語、タミル語の四種があってよいが、中学校はマレー語と英語だけ。1961年の教育令が、この体制を法律にしました。\n華語の中学校には選択が突きつけられました。政府の補助を受けて英語の学校に変わるか、それとも華語のまま、自分たちで資金を集めて私立になるか。大多数の学校は受け入れました。少数のいくつかが拒み、「華文独立中学」（独中）になりました。\nペナンの鍾霊中学。マレーシアの華文独立中学のひとつ。　出典：Wikimedia Commons、CW Tan（PenangLion）、CC BY-SA 4.0\n今日、独立中学はおよそ六十校で、そのうち二十校あまりは東マレーシアにあります。その統一試験（UEC）は、1975年以来、董教総（マレーシア華校董事連合会総会と教師総会）が管理しています。\n1982年7月、連邦裁判所は、「独立大学」（Universiti Merdeka）設立の申請を退けました。華語による私立大学で、華語教育を、もう一段上まで延ばそうとしたものでした。\n2003年から2022年にかけて、独中の生徒は約5万3千人から8万人近くに、およそ半分増えました（董教総の統計：2003年52,850人、2022年79,694人。ピークは2017年ごろで約8.5万人）。\n道徳と規律 一つの華人学校が司るのは三つのことです。どの字を教えるか。どんな話を教えるか。子どもたちがいっしょに何をするか。\n国家が代わりに声を上げてくれないとき、華人は学校によって自分たちを治めました。理事会、同窓会、統一試験、募金。自分たちの試験があれば、自分たちの一本の道がある。\n美しく言いすぎる必要はありません。この体系にはコストがあります。UECは、いまも限定的にしか認められておらず、サラワク、セランゴール、ペナンでは公職の応募に使えますが、国語（マレー語）の成績が合格であることが条件です。\nこの向こうにいる人を想像してみてください。小さな商売人が、一生、露店を出して、稼いだお金を一枚ずつ、自分が通わなかった中学に寄付する。本人は、中国語の字もあまり書けないかもしれません。それでも彼は言います。うちの子が、祖先の字を知らないままでいてはならない、と。そういう人が、マレーシアには何十万人もいます。\n1935年のペナン鍾霊中学。　出典：Wikimedia Commons、『鍾霊中学校刊』、パブリックドメイン\n信仰 2020年のマレーシアでは、63.5%がイスラム教、18.7%が仏教、9.1%がキリスト教、6.1%がヒンドゥー教を信じています。\n華人では、約83.6%が自分を仏教徒と称し、11.1%がキリスト教徒、3.4%が道教徒です。\nただ、マレーシア華人の多くは、実際には仏教、道教、儒教と祖先崇拝の混合です。何を信じていますかと聞かれて、「仏教」と答えるのです。\nインドネシアと比べると、向きが逆です。インドネシアでは、混ざり合ったものが、ひとつの名前を選ばされました。マレーシアでは、混ざり合ったものが、自分でいちばん便利な名前を選んだのです。\n未来 出生率の低下は、ある現象を生みました。華語の小学校で、マレー系の生徒が増えているのです。シンガポールの東南アジア研究所（ISEAS）の2025年のある文章は、この現象を「救われ、そして脅かされている」と呼びました。マレー系の生徒のおかげで閉校を免れた華語小学校がある一方、学校の「華語」としての性格が、それで薄まるかもしれない、というのです。\n董教総の応答のひとつは、華人以外にも門を開き、留学生も受け入れることでした。\nセランゴール州の華語小学校。　出典：Wikimedia Commons、SNN95、CC BY-SA 4.0\n四つの基準で測ってみる 人数：2020年に23.2%、1957年は37%で、下がっている。華人の合計特殊出生率は約0.8、婚姻率は2016〜2022年に33%下がった。 組織：東南アジアでもっとも整っている。華語小学校、約60校の独中、統一試験、董教総。四つのうち、これがいちばん強い。 財力：信頼できる数字がないので、書かない。 教義：約83.6%が自分を仏教徒と称するが、実際は仏教、道教、儒教と祖先崇拝の混合。統一された教えはない。 四つのうち、組織がいちばん強く、人数は減り、教義は緩い。\n私の主張はここで何を言うか マレーシアの華人には、すでに東南アジアでもっとも整った「規律」があります。学校と試験です。いま足りないのは、人であって、求心力ではありません。私の主張は人を与えられない。ここは正直に言わなければなりません。出生率の問題は、宗教がひとことで解決できることではありません。その背後にあるのは、家であり、仕事であり、子どもの学費であり、若い人が結婚したいと思うかどうかです。私の主張が与えられるのは、ごく小さなことだけです。もしこの子たちが、学校で字を習っても、なぜ習うのかを知らないなら、それを知らせてあげる、ということ。この字は、清明に祖先の墓碑の一行が読めるように。春節に、扉の対聯が読めるように。そうなれば、学校は「試験のために」だけの場所ではなく、「帰るために」の場所にもなります。これが、私の主張が華語教育のためにできる、ささやかなことだと思います。\n反対から見る 華人学校に対するいちばん固い反論は、反対側から来ます。2018年、ある州のムフティ（イスラム法学者）は、UECを認めることは国の調和を損なう、と言いました。この見方は、マレー社会ではかなりの重みを持っています。国にひとつの学校体系があり、ある民族にまたそれ自身の体系がある。それは「国民」という言葉を薄くしないでしょうか。\n前の何篇かと同じです。ひとつの社群の求心力は、別の社群から見れば、遠心力なのです。\nマレーシアの友人へ。華人でも、マレー人でも、インド系でも。「ひとつの社群の求心力は、別の社群から見れば、遠心力」と書いて、少し悲しくなりました。それが本当だと知っているからです。そして、あなたたちの一人ひとりが、その言葉の中で日々を暮らしていることも。誰が正しいとは言いません。言いたいのは、小さなことだけです。華語小学校の教室で、ひとりの子どもが自分の名前の書き方を習っていて、その隣に座っているマレー系の同級生も習っている。ここ数年、こういう教室は増えています。一人は祖先の字を習い、もう一人は新しい友だちの字を習う。これが、私の心のなかの「いっしょに暮らす」姿です。こういう教室が減らないでほしいと思います。\n学校には生徒がいなければならず、生徒は誰かが産まなければならない。このことは、何に頼ればいいのでしょうか。\n参考資料\n対照して読む：このシリーズの「許されたものと、奪われたもの」（インドネシア）、「南の隣人たち」（序文）。『依帰』「宗親会の黄昏」 マレーシア：1957年に華人は37%、2020年に23.2%（ブミプトラ69.4%、インド系6.7%）。華人の合計特殊出生率約0.8。華人の婚姻率は2016–2022年に33%低下。『ラザク報告』1956。1961年教育令。約60校の独中。UECは1975年から董教総が管理。1982-07に連邦裁判所が独立大学を退ける。独中生徒は2003年に52,860人、2022年に80,397人。UECの限定的承認（サラワク、セランゴール、ペナン）。2020年国勢調査の宗教：イスラム63.5%、仏教18.7%、キリスト教9.1%、ヒンドゥー6.1%。華人は83.6%が仏教、11.1%がキリスト教、3.4%が道教。ISEAS 2025/34（James Chai）。2018年の州ムフティの発言（Malay Mail の転載） 画像の出典は各図の説明に記載 ","permalink":"https://tentao.pages.dev/ja/linju/d26/","summary":"\u003ch2 id=\"数字\"\u003e数字\u003c/h2\u003e\n\u003cp\u003e1957年、マラヤが独立したとき、華人は総人口の37%を占めていました。2020年には23.2%です。\u003c/p\u003e\n\u003cp\u003e同じ2020年に、土着の人々（ブミプトラ）は69.4%、インド系は6.7%、その他は0.7%でした。華人はブミプトラではないので、ブミプトラへの優遇もありません。\u003c/p\u003e","title":"華語教育：学校によって命をつなぐ社群"},{"content":"ひとつの考え 私はかつて、こんなことを考えたことがあります。タイ、ラオス、そして中国の傣族、壮族、苗族には、つながりがあるのだろうか、と。\nあります。そして、ありません。\n言語の勘定 タイ語、ラオス語、シャン語（ミャンマー）、壮語は、タイ・カダイ語族（Tai–Kadai）に属します。親戚だというのは、言語学の結論です。傣語（タイ・ルー語など）もこの一族です。\nタイ・カダイ語族の多様性は中国南部に集中しているので、この語族は中国南部に起源をもつと考えられています。そのうちの「タイ」の一派が、およそ紀元千年前後に、南へ移動しはじめました。\n苗は、この一族ではありません。\nミャオ・ヤオ語族（Hmong–Mien）は、また別の独立した語族です。タイ・カダイ語族との親縁関係は、証明されていません。現在ある古代DNAの証拠は、ミャオ・ヤオ語を話す人たちの祖先と、タイ・カダイ語を話す人たちの祖先が、長江のほとりでは二つの別の集団だったことを示しています。\nだから、「タイ、ラオス、傣、壮、苗はひとつの家」は、半分だけ当たっています。前の四つはそうで、苗は違います。\n南詔は誰の国か 傣が中国南部から南下したのなら、雲南の南詔国（唐代）は、傣の人たちが建てたのでしょうか。\nこの問いは、長いあいだ論争されてきました。\n雲南・大理の崇聖寺三塔。大理は南詔と、のちの大理国の所在地。　出典：Wikimedia Commons、CEphoto, Uwe Aranas、CC BY-SA 3.0\nタイの学者のなかには、南詔は傣の人たちが建てた、と考える人がいます。これは、タイのナショナリズムの語りにある「移動」の一部です。祖先は、北にあった大国から来た、というものです。\n中国の学者の多くは反対しています。南詔はチベット・ビルマ語族の人たちが建て、住民の中心は白族と彝族で、エリートは彝語の一種を話し、南詔の経文は白語で書かれた、というのです。今日、多くの学者は後者の見方を取っています。\nここには政治があります。1980年代前後、中国の歴史学者たちは「南詔は傣の国」という説を集中的に論駁しました。中国側の語りは、南詔は中国の「地方政権」だった、というものです。そして、史料にあるそれらの集団が、今日の西南少数民族の祖先であることを、かなり力を入れて証明しています。\n1253年、モンゴルが大理（南詔の後継）を滅ぼしました。そのあと、多くの民族が雲南から移っていきました。\nこの論争に、私はどちらかに代わって決着をつけることはできません。言えるのは、「私たちは誰か、どこから来たのか」という問いは、二つの国のどちらにとっても利害があるということです。\nそれぞれの天 「天」に戻ります。同じ言葉を話すなら、同じ天を拝んでいるのでしょうか。\nタイ人、ラオス人、傣族：主に上座部仏教で、そこに精霊信仰と祖先崇拝が少し混ざる。傣族は雲南に120万人あまり（2010年の第6回人口センサス、雲南省の公報で122.2万人。全国の数字は確かめられていません）、シプソンパンナーと徳宏に集中している。 壮族：2020年の国勢調査で19,568,546人。中国最大の少数民族。多くの人が信じているのは「麽教（モー教）」で、至高の創世神ブロト（布洛陀）がいて、ほかにも多くの神々を敬う。麽教は精霊信仰で、宇宙は三層に分かれ、人には三つの魂があると考える。 苗族：2020年の国勢調査で中国国内に11,067,929人。伝統的な信仰は精霊信仰と祖先崇拝で、巫師が仲立ちをする。 同じ語族に、三つの「天」。上座部仏教、麽教、そして別の語族の精霊信仰です。\n雲南・景洪の傣族の仏寺。傣族は主に上座部仏教を信じている。　出典：Wikimedia Commons、Evan Guerra、CC BY-SA 2.0\nラオスの苗の人たち ラオスには苗の人たちがいます。彼らの物語は、1961年から1975年にかけての「秘密戦争」です。アメリカ中央情報局が、将軍王宝（Vang Pao）の率いる苗の部隊を雇い、ラオスで共産党と戦わせました。\n1975年、ロンチェン（隆鎮）が陥落し、パテト・ラオが権力を握り、この兵士たちとその家族に報復しました。およそ二万人の苗がタイに逃れ、そこからアメリカへ行きました。1980年が渡米のピークで、約二万七千人でした。\nアメリカに着いてから、苗の人たちの信仰は、また変わりました。大まかな推計では、アメリカの苗の人たちのうち、半数近くがキリスト教徒ですが、祖先崇拝や巫術による治療を保っている人もいます。ミネソタでは、かなりの人たちが、定住を支援した教会や機関からの圧力で、改宗しました。\n伝統衣装をまとった苗族の女性たち。　出典：Wikimedia Commons、DTH-BD-NVT、CC BY-SA 4.0\nその一家のことを想像してみてください。ラオスの山で畑を耕していた苗の人が、他人の戦争に巻き込まれ、戦争に負け、逃げに逃げて、川を渡り、難民キャンプを過ぎて、最後に、ミネソタという、冬がとても寒い場所にたどり着く。そこで、彼の子どもは、教会で育つ。彼は、家の祖先の位牌を、まだ持っているのでしょうか。私には分かりません。\n四つの基準で測ってみる 人数：壮族は二千万近く、この一群ではもっとも多い。 組織：傣族には僧団と寺院がある。壮族の麽教は、師公の伝承で、統一された教会はない。 財力：測りにくいので、書かない。 教義：壮族には至高の神ブロトがいる。タイ、ラオス、傣は、主流が上座部仏教。 壮族の「最高神」は、位置としては、私が考える「天道教の最高の神格」に少し近いところがあります。人格か、非人格か。敬して遠ざけるのか、親しむのか。私はただ問うだけで、こじつけはしません。\n壮族の麽教に対する私の態度は、「借り」もしないし、「取って代わる」つもりもない、というものです。それは壮族自身のもので、創世神ブロトがいて、師公たちがいて、何世代にもわたって伝えられてきました。こういうものに、私は敬意を持っています。東アジアのあちこちに、大小さまざまに、誰も「経」を書いてやったことのない信仰が、いまも残っている。それは、人がいつも自分より大きなもの、頭の上のひとつの居場所を求めている、ということを示しています。私が構想する「天道」は、ブロトとは違う場所に立っています。けれども、互いに見えあうことはできて、取って代わる必要はないと思うのです。\n私の主張はここで何を言うか タイ人とラオス人は私の範囲にいませんし、壮族は中国の内にいて、苗はまた別の語族です。この一篇で、私の主張はいったい誰に向けて言うのか。私の答えは、誰にも「言わない」です。まえがきで言ったとおり、私の主張はただ華人とベトナム人に問うためのものです。この一篇は、タイ人、ラオス人、壮族、苗の人たちに、「あなたは何を信じるべきだ」とは言いません。ただ、この一組の出来事を並べてみたいのです。同じ語族の人が、違う天を拝むことがある。違う語族の人が、よく似た天を拝むこともある。これは私自身の構想にとって、とても大事な注意です。みんなが「だいたい同じ」だからといって、ひとつのもので全員を統一できると思ってはならない。\n反対から見る いちばん固い反論。同じ語族は、同じ天ではありません。壮語とタイ語は親戚ですが、壮族の人たちの今日の暮らしは、バンコクの人たちの暮らしとは関係がありません。「同じ語族」を「同じ依帰」と言うのは、歴史の逆算です。\nタイ、ラオス、壮族、傣族、苗族の友人へ。この一篇を書いたのは、あなたたちを誰かの地図の中に入れるためではありません。あなたたちには、それぞれ自分の天があります。傣族の仏寺、壮族のブロトと師公、苗の人たちの巫師と祖先。とくに苗の人たち。ラオスの山で畑を耕していた人が、他人の戦争に巻き込まれ、逃げに逃げて、川を渡り、難民キャンプを過ぎて、最後にミネソタの雪のなかにたどり着き、その子どもは教会で育ちました。彼の家には、祖先の位牌がまだ残っているのでしょうか。私には分かりません。その道のりを私は歩いたことがなく、何かを言う資格もありません。ただ、それを歩いた人がいたことを、もっと多くの人に知ってほしいのです。\n親戚のような言葉を話しながら、違う天を拝んでいる二つの民。どちらがどちらに、説明をする責任があるのでしょうか。\n参考資料\n対照して読む：このシリーズの「南の隣人たち」（序文）、「乾隆帝が勝てなかった隣人」（ミャンマーのシャン州） タイ・カダイ語族とミャオ・ヤオ語族：タイ・カダイ語族にはタイ語、ラオス語、シャン語、壮語が含まれる。ミャオ・ヤオ語族は独立した語族。南詔の民族をめぐる論争（タイの学者の「傣」説 対 中国の多数の学者の「チベット・ビルマ語族」説。EBSCO Research Starter、NUS ARI のワーキングペーパーによる転述）。壮族2020年19,568,546人、麽教、ブロト。傣族1,329,985人、上座部仏教。苗族2020年11,067,929人。ラオスの苗と「秘密戦争」（1961–1975）、1975年に約2万人がタイへ逃れ、1980年に約2.7万人が渡米、アメリカの苗は約半数がキリスト教徒（大まかな推計） 画像の出典は各図の説明に記載 ","permalink":"https://tentao.pages.dev/ja/linju/d27/","summary":"\u003ch2 id=\"ひとつの考え\"\u003eひとつの考え\u003c/h2\u003e\n\u003cp\u003e私はかつて、こんなことを考えたことがあります。タイ、ラオス、そして中国の傣族、壮族、苗族には、つながりがあるのだろうか、と。\u003c/p\u003e\n\u003cp\u003eあります。そして、ありません。\u003c/p\u003e\n\u003ch2 id=\"言語の勘定\"\u003e言語の勘定\u003c/h2\u003e\n\u003cp\u003eタイ語、ラオス語、シャン語（ミャンマー）、壮語は、タイ・カダイ語族（Tai–Kadai）に属します。親戚だというのは、言語学の結論です。傣語（タイ・ルー語など）もこの一族です。\u003c/p\u003e","title":"同じ語族、それぞれの天：タイ、ラオス、そして壮、傣、苗"},{"content":"七割あまり 2020年、シンガポールの居住者のうち、華人は74.3%を占めます。\n宗教：仏教が31.1%、キリスト教が18.9%、イスラム教が15.6%、道教が8.8%、無宗教が20%。\n私が調べたこれらの項目に、儒家はありません。\n1979年：まず「話し言葉」を統一する 1979年、リー・クアンユーは「華語を話そう運動」を始めました。スローガンは「華語をもっと話し、方言を少なく」。目的は二つです。異なる方言を話す華人が、共通のひとつの言葉を持つこと。そして、シンガポール人が母語をきちんと身につけ、中華文化を次の世代に伝えること。\nこのことを、私は「規律」という次元に置きます。ひとつの国が、ひとつの運動によって、潮州語、福建語、広東語、客家語を、家の外から家の中へ押し戻したのです。\nこれが、ある具体的な家に落ちたところを想像してみてください。一生、福建語を話してきた祖母が、孫の前で、突然気づく。自分の話す言葉は、学校では必要とされていない、と。孫は華語を習っていて、祖母にはあまり聞き取れません。孫の華語では、祖母と話が通じません。この国は、みんなが共通のひとつの言葉を持つために、多くの家から、胸のうちを話せるひとつの言語を減らしたのです。\nシンガポールの天福宮。福建人の廟で、1821–1822年建立。　出典：Wikimedia Commons、Basile Morin撮影、CC BY-SA 4.0\n1982年：一つの授業 1982年1月、学校評議会の会議で宗教知識の科目を設ける決定が固まり、年初に五つの宗教科目が発表されました。儒家倫理が教室に入ったのは1984年のことです。まず33校で試験的に実施し（華語の学校15校、英語の学校18校）、1986年にすべての学校に広げました。\nひとつの細部があります。呉慶瑞（ゴー・ケンスイ）は、もともと儒家を入れるつもりはありませんでした。儒家を世俗の倫理体系と見ていた彼が、首相に促されて「何晩か眠れないほど悩んだ」あとに、加えると宣言したのです。\n呉慶瑞（1918–2010）、1967年。　出典：Wikimedia Commons、J. Crowther、パブリックドメイン\n1984年から1989年にかけて、宗教知識科は中学校高学年の必修科目になりました。選べるものは、聖書研究、仏教学、ヒンドゥー教研究、イスラム宗教知識、シク教研究。のちに、儒家倫理も加えられました。\n1987年、シンガポールは「儒家倫理と東アジア工業の近代化」という題の会議を開きました。杜維明が会議論集を編み、1991年に東アジア哲学研究所から出版されました。\n撤回 1989年1月、政府は『宗教調和維持白書』を発表しました。1990年、政府は宗教知識科への支援を引っ込めることを決め、同じ年に国会は『宗教調和維持法』を通しました。\n1987年、社会開発省が宗教復興についての研究を委託し、二つの懸念を示しました。強引な布教と、宗教の政治化です。撤回をこれらの懸念と結びつける研究もあります。公式の逐条の説明は、原文まで確かめられていません。\n私が確かめたのは、その後の二つの出来事です。\n1990年：国会が『宗教調和維持法』を可決し、1992年3月31日に発効した。これは内務大臣に、宗教指導者やそのほかの人々の活動を制限する権限を与える。その活動が宗教の調和を脅かす場合、あるいは宗教の名のもとに、政治的主張を進め、転覆を図り、大統領や政府への不満をあおる場合である。 1991年：国会が『共通価値観』白書を可決した。五か条。国家が至上、社会が先。家族が根本。社会への配慮、個人の尊重。協議による合意、衝突の回避。民族の調和、宗教の寛容。 「授業」から「法」へ、そして「価値観」へ。ひとつの国が、宗教と政治を切り離し、儒家倫理を、儒家とは呼ばないひとそろいの価値観に作り変えたのです。\n四つの基準で測ってみる これは私の主張が出会う、最初の「国家による実験」です。\n人数：七割あまり。 組織：国家自身が、とても強い組織である。 財力：数字が見つからなかったので、書かない。 教義：国家自身は、一つの教えを出さない。 人数と組織は、国家が持っています。教義という項目は、国家が自分の手でそれをよけたのです。\n道徳 この例から、このシリーズで「神道設教」を扱った一篇を思い出します。エリートは信じず、大衆が信じる宗教は、どれだけ続くか。\n「神道設教」は、国家が宗教によって社会を治めることです。シンガポールのやり方は、向きが逆です。国家は、宗教に政治を治めさせない。\n二つのやり方とも、国家が宗教を管理していますが、向きが違うのです。\n私の主張はここでどう言うか シンガポールは華人が七割あまりで、国家には組織があり、さらに『宗教調和維持法』があります。私の主張はここで、どう言うのか。私の答えは、一字も変えなくていい、です。あの法律が防ごうとしているもの、宗教の政治化、強引な布教、宗教を借りて政府への不満をあおること。私の求める天道は、そのどれもしません。国家の認定を求めず、法的な特別の位置も求めず、どの政党の代わりにも語らず、何かを「伝え」ようともしません。私が求めるのは、清明の日に一家で祖先に線香を上げること、春節の日に家族が集まること。そういう日々です。それが儒家かどうかも、名前があるかどうかも、問いません。国家がそれを「価値観」と呼びたければ価値観でいいし、「習俗」と呼びたければ習俗でいい。日々がそこにある限り、何と呼ぶかは、気にしません。\n反対から見る いちばん固い反論は、この法そのものです。多民族、多宗教の国で、「文化の上での主導」を目標とする宗教は、まさに国家が防ごうとするものではないでしょうか。\n七割あまりが華人のシンガポールで、国家が出した答えは、要らない、でした。\nシンガポールの友人へ。あなたたちの国は、とても小さな場所で、たくさんの信仰、たくさんの言葉、たくさんの食卓を管理しています。1979年の華語を話そう運動のあと、どれだけの家で、祖母は一生話してきた福建語を話し、孫は学校で華語を学び、二人が心の内を語り合えなくなったことか。私はよくそのことを思います。あなたたちの国には、そのとき理由がありました。みんなに共通のひとつの言葉を持たせるためです。それから呉慶瑞がいました。彼はもともと儒家を教室に入れるつもりはなかったのに、入れるべきかどうかで、ひとり何晩も眠れませんでした。この科目は最後には引っ込められましたが、あの何晩かは無駄ではなかったと思います。これほど多くの言葉、これほど多くの食卓を、同じ一つの食卓に座らせること。それは東アジアではあまり見られないことです。\nある国に、人がいて、組織があるのに、宗教だけは要らないと言う。それが防いでいるのは、他人か、それとも自分か。\n参考資料\n対照して読む：このシリーズの「神道設教」。『奪舎』「新しい宗教はどう生き延びるか」 シンガポール：2020年の居住者のうち華人74.3%。宗教：仏教31.1%、キリスト教18.9%、イスラム教15.6%、道教8.8%、無宗教20%。1979年の華語を話そう運動（「華語をもっと話し、方言を少なく」）。1982年の儒家倫理科。呉慶瑞はもともと加える意図がなかった。1984–1989年の宗教知識科（必修）。1987年「儒家倫理と東アジア工業の近代化」会議、杜維明が論集を編む（1991）。1990年『宗教調和維持法』（1992-03-31発効）。1991年『共通価値観』白書の五か条 画像の出典は各図の説明に記載 ","permalink":"https://tentao.pages.dev/ja/linju/d28/","summary":"\u003ch2 id=\"七割あまり\"\u003e七割あまり\u003c/h2\u003e\n\u003cp\u003e2020年、シンガポールの居住者のうち、華人は74.3%を占めます。\u003c/p\u003e\n\u003cp\u003e宗教：仏教が31.1%、キリスト教が18.9%、イスラム教が15.6%、道教が8.8%、無宗教が20%。\u003c/p\u003e\n\u003cp\u003e私が調べたこれらの項目に、儒家はありません。\u003c/p\u003e\n\u003cp\u003e\u003cimg alt=\"シンガポール居住者の宗教（2020）\" loading=\"lazy\" src=\"/img/linju/d28/01.png\"\u003e\u003c/p\u003e\n\u003ch2 id=\"1979年まず話し言葉を統一する\"\u003e1979年：まず「話し言葉」を統一する\u003c/h2\u003e\n\u003cp\u003e1979年、リー・クアンユーは「華語を話そう運動」を始めました。スローガンは「華語をもっと話し、方言を少なく」。目的は二つです。異なる方言を話す華人が、共通のひとつの言葉を持つこと。そして、シンガポール人が母語をきちんと身につけ、中華文化を次の世代に伝えること。\u003c/p\u003e","title":"国家が一度儒家を推し、そして引っ込めた：シンガポール"},{"content":"ひとつの港 1581年、スペイン人はマニラの城壁の外に土地を区切り、華人を住まわせました。「八連」（parián、パリアン）といいます。スペイン時代には全部で九つの八連があり、最初のものは1581年、最後のものは1860年になってやっと消えました。\n十七世紀、スペイン人は約二千人、華人は最多のときで約三万人でした。この比率が、植民者の恐怖の源でした。\n1639年に華人の蜂起があり、1662年には総督マンリケ・デ・ララの命じた虐殺がありました。どちらでも、華人は多く殺されました。\n改宗は、ひとつの出口だった スペインの統治下で、華人が残るには、ひとつの道がありました。カトリック教徒になること。\n洗礼を受けたあと、彼らはフィリピン人と結婚し、生まれた混血の子孫は「華人系メスティーソ」（Chinese mestizo）と呼ばれました。\nその選択を想像してみてください。福建から来た商人が、見知らぬ港で、そこに残り、もう脅威として扱われないために、家の神棚を十字架に取り換えなければならない。その一歩が、孫の代には、彼の名前がどう読むのかさえ、分からなくするかもしれないと、彼は知りません。\nフィリピン最初の聖人、ロレンソ・ルイスは、マニラのビノンドに生まれ、父は華人、母はフィリピン人でした。\nマニラ・ビノンド教会の聖ロレンソ・ルイス像。　出典：Wikimedia Commons、Ralff Nestor Nacor、CC BY-SA 4.0\n名前 この道は、のちに国の象徴となる人たちを送り出しました。\nホセ・リサール（José Rizal）。フィリピンの民族英雄。彼の高祖父は、1697年にカランバに移った華人で、Domingo Lam-co（閩南語でCua Yi-nan、つまり柯姓のKe Yi-nan）という。 コラソン・アキノ。彼女の一族のコファンコ（Cojuangco）は、1861年に福建の漳州から移ってきた許玉寰（Co Yu Hwan）に由来する。 ハイメ・シン（Jaime Sin）枢機卿。マニラ大司教。父は華人系の商人、母はアクランの人。 三つの名前、三つの領域。民族主義、政治、教会です。\nホセ・リサール（José Rizal、1861–1896）、1891年。　出典：Wikimedia Commons、Telesforo Sucgang、CC0\nハイメ・シン枢機卿（1928–2005）、1988年。　出典：Wikimedia Commons、Ernmuhl、CC BY-SA 3.0\n数字 フィリピン政府は、民族別の調査を行いません。\n2013年のフィリピン上院の記録では、純粋な華人は約135万人、華人の血をいくらかでも引くフィリピン人は約2280万人です。「華人系メスティーソ」が人口の1.2%から1.8%という説もあれば、華人の血を引く人が25%にも達しうるという説もあります。基準の差が大きすぎます。\n信仰：華人系フィリピン人の約九割がキリスト教徒で、カトリック、プロテスタント、またはフィリピン土着の教会です。仏教や華人の民間宗教を信じるのは、5%ほどにすぎません。\nけれども、ここでの宗教も混合です。黒いナザレ人（Black Nazarene）の信者のうち、多くの人は、実は仏教徒か道教徒で、名目上カトリックに従っているだけです。\n1975 1946年にアメリカ人が去ってから1975年まで、フィリピンの華人に対する立法は、ずっと重くなっていきました。\n1975年4月、マルコス大統領は一つの法令を出しました。華人は、法務総裁室に簡単で安い申請を出せば、フィリピン国籍が取得できる、というものです。\nこの年は、フィリピンと中国が国交を結んだ年でもあります（1975年6月9日）。\nマニラ・ビノンドの比華友好アーチ。ビノンドは世界でもっとも古いチャイナタウンのひとつ。　出典：Wikimedia Commons、Ranieljosecastaneda、CC BY-SA 4.0ビノンド（Binondo）は1594年にスペイン人が設けたもので、世界でもっとも古いチャイナタウンと呼ばれることが多い場所です。\n四つの基準で測ってみる 人数：純粋な華人は1%あまり。華人の血を引く人は、比率が高い。 組織：華人学校、商会、宗親会は、一つずつ確かめていないので空欄にする。 財力：信頼できる数字がないので、書かない。 教義：約九割がキリスト教徒。彼らの教義は、すでにカトリックである。 私の主張はここでどう言うか フィリピンは、私の主張に難しい問いを出しています。ここの華人は、人数が少ないわけではないのに、その「教義」は、とっくに換わっている。私の主張は、彼らに新しい「天」を与えるのか、それともカトリックの上に重ねる「天」なのか。私の答えは、どちらでもない、です。私は、カトリック教徒に、十字架を外せとは求めません。「改宗」を裏切りだとも思いません。それは、彼らの祖先が、子どもを生き延びさせるためにした、ひとつの選択でした。私が彼らに抱く敬意は、「そのまま保った」どんな人に対してよりも多いのです。言いたいのは、小さなことだけです。もしいつか、ある人が、自分の曽祖父が福建でどう祖先に線香を上げていたのか知りたくなったなら、尋ねることができる。もし清明の日に、十字架の前で、会ったことのないその曽祖父にも、場所をひとつ残したいと思うなら、それは衝突しません。この「天」は、カトリックの上に重なるものではなく、その横に、椅子をひとつ置いておくものです。\n反対から見る この一篇は、「道は二つしかない」に、ひとつ問題を出さなければなりません。\n二つの道とは、十分に強く、新しい求心力をつくること。十分に強くなく、同化されること。\nフィリピンは、一見すると二つめに見えます。同化され、カトリックに改宗し、タガログ語と英語を話す。\nけれども、同化されたこの人たちは、のちにこの国のエリートになりました。リサール、アキノ、シン枢機卿。彼らは逆に、この国の中心になったのです。\nこれは第三の道です。同化され、そして主導する。求心力はやはりその国のもので、華人の子孫がそこに溶け込んだのです。\n私の主張にとって、これは厄介です。もし華人のもっとも成功した結果が、他人のカトリックの中に消え、しかもその主役になることなら、私の主張が与えようとする「依帰」は、余計なのではないでしょうか。\nこの問いに、私は答えられません。そのままそこに置いておきたいと思います。ひとつだけ言わせてください。リサールは「消えた」のではありません。彼は、ひとつの国に、その国自身にとっていちばん大切なひとりとして受け入れられました。彼の高祖父は1697年に移ってきた華人で、三百年後に、自分の子孫がひとつの国の民族英雄になるとは、思いもしなかったでしょう。「華人」という二文字は、もしかすると、いつも「変わらず保つ」ものではないのかもしれない。それは、ほかの場所に流れ込み、ほかのものになりながら、それでも元の色を少し帯びているものなのだ。これも一つの依帰だと、私は思います。\nフィリピンの友人へ。あなたたちの国には、名前に閩南語の響きを持つ人がたくさんいて、家には誰だか分からない古い写真があるかもしれません。スペイン人の時代、福建から来たある商人は、マニラに残るために、家の神棚を十字架に換えました。彼は、自分の孫が自分の名前の読み方さえ知らないかもしれないとは、知りませんでした。この道から、のちにリサールが、アキノが、シン枢機卿が出てきました。あなたは完全なフィリピン人であり、同時に、自分が記憶されているかどうか分からないひとりの人の子孫でもあります。あなたたちの家の歴史は、一方の端が福建に、もう一方の端がマニラにあり、どちらか片方を選べと、誰も求めてはいません。\n祖先が漳州の人で、自分はカトリック教徒で、フィリピンの大統領になった人。その人は、どういう意味で、まだ「私たち」なのでしょうか。\n参考資料\n対照して読む：このシリーズの「タイ」（もうひとつの同化）、「インドネシア」。『奪舎』「新しい宗教はどう生き延びるか」 フィリピン：1581年の八連、九つの八連、最後は1860年。十七世紀にスペイン人約2,000、華人は最多で約30,000。1639年の蜂起、1662年の虐殺。ロレンソ・ルイス（父は華人、母はフィリピン人）。リサールの高祖父 Domingo Lam-co、1697年にカランバへ移る。コファンコ家は1861年の漳州の許玉寰に由来。ハイメ・シン（父は華人系、母はアクランの人）。2013年上院の記録：純粋な華人約135万、華人の血を引く人約2,280万。華人系の約90%がキリスト教徒。1975年のマルコスの帰化令 画像の出典は各図の説明に記載 ","permalink":"https://tentao.pages.dev/ja/linju/d29/","summary":"\u003ch2 id=\"ひとつの港\"\u003eひとつの港\u003c/h2\u003e\n\u003cp\u003e1581年、スペイン人はマニラの城壁の外に土地を区切り、華人を住まわせました。「八連」（parián、パリアン）といいます。スペイン時代には全部で九つの八連があり、最初のものは1581年、最後のものは1860年になってやっと消えました。\u003c/p\u003e\n\u003cp\u003e十七世紀、スペイン人は約二千人、華人は最多のときで約三万人でした。この比率が、植民者の恐怖の源でした。\u003c/p\u003e","title":"国家のエリートになった華人は、まだ華人なのか：フィリピン"},{"content":"一つの条例 1928年、香港のイギリス植民地政府は『華人廟宇条例』を公布しました。条例は、すべての華人の廟と宗教団体に登録を義務づけ、「華人廟宇委員会」という機関の審査を経ることを求めました。\n条例の字面では、登録せよと言っているのであって、閉めろとは言っていません。\n1967年のインドネシアとは違います。あちらは、漢字を禁じ、華人学校を閉じ、宗教と習俗は家のなかでしか行えないようにしました。\nただし、はっきりさせておかなければなりません。これは「きれいな、ただの登録」ではありませんでした。私が読んだ資料によれば、この条例は、教義ではなく、行為と料金をもとに、何が「華人の廟」にあたるかを定めていました。設けられた委員会は、廟の収入、基金、財産に対して、大きな管理権を持っていました。登録しない廟は、公示から一か月を過ぎて運営を続けると違法で、罰金が科されました。だから、「登録するが、禁じない」は、半分しか当たっていません。廟は禁じなかったが、廟の金は管理していたのです。（条例と委員会の権限は、香港の電子法例と政府の2015年の見直し諮問文書によります。委員会の議長は民政事務局長が務めます。当時の立法理由は読めていません。）\n黄大仙祠 黄大仙祠は、1921年、梁姓の一家が、九龍の竹園の荒れ地に建てました。\n1956年に、「正式に開放」されました。\nこの「正式」は、あの1928年の条例にまでさかのぼります。廟は、登録と審査を経てはじめて、合法的な身分を得たのです。\n植民地政府は、管理しなかったわけではありません。登録というやり方で、管理したのです。\n香港の黄大仙祠。　出典：Wikimedia Commons、CEphoto, Uwe Aranas、CC BY-SA 3.0\n孔教学院 孔教学院は、1930年、陳煥章が香港で創設しました。陳煥章は、1912年に上海で「孔教会」を興したあの人です（このシリーズの「孔教会はなぜ失敗したか」）。\n1913年と1916年、孔教会は中華民国の国会で二度退けられました。十数年後、それはイギリスの植民地で、民間団体として生き延びました。\n研究者の言い方では、これによって儒家は、香港で「組織された宗教」の形で生き延びた、とされます。\n陳煥章のことを考えてみてください。アメリカで学位を取った博士が、自国の国会に二度拒まれ、最後に、他人の植民地で学院をひとつ作り、自分がいちばん大事にしているものに、住める場所を与えた。そういう人を、少し気の毒に思わずにいられませんし、少しすごいとも思わずにいられません。\n黄大仙祠の孔聖殿。　出典：Wikimedia Commons、Underwaterbuffalo、CC BY-SA 4.0\n祭り 長洲島の太平清醮、つまり「包山節（パンタワー・フェスティバル）」は、2011年に中国国家級の無形文化遺産に登録されました。祀るのは北帝で、伝説では、十八世紀に北帝がこの島を守り、疫病から逃れさせたといいます。（十九世紀後半だとする説もあります。）祭りのあいだ、島の人たちは三日間、肉を食べず、獅子舞があり、「包山取り」があります。\n長洲島太平清醮の「包山」：平安饅頭を積み上げた高い塔。　出典：Wikimedia Commons、User:Wrightbus、CC BY 3.0\n現状 宗教の数字（出典と年を統一した基準で確かめられていないので、参考まで）：宗教なし、または記載なしが48.9%。プロテスタント13.8%、カトリック5.2%、道教13.3%、仏教13.3%、イスラム教4.0%、ヒンドゥー教1.3%。\n公式の2024年の統計では、組織された宗教のうち、仏教徒と道教徒が、それぞれ百万人以上います。\n四つの基準で測ってみる 香港の華人は圧倒的な多数派で、ここを統治していたのは、華人ではない政権でした。\n人数：十分。 組織：華人廟宇委員会、孔教学院。 財力：数字が見つからなかったので、書かない。 教義：統一されていない。互いに従属しない廟がいくつもあり、それに年中行事が加わる。（これは私の整理である。） 道徳と規律 香港の華人には、統一されたひとつの教えはありません。何によって自分たちを治めるのか。\nひとつは廟。ふたつめは年中行事。みっつめは家。この三つのどれも、「ひとつの教会」ではありません。\nこれは、植民者が、これを「禁じる」必要を感じなかった理由かもしれません。それは一度も、統一された組織を作ったことがないのです。\n私の主張はここでどう言うか 香港は、私の主張にとってもっとも有利な場所のひとつです。華人が多く、組織があり、しかも「求心力は外国のものではないか」という非難がありません。ここでは多数派が華人自身だからです。私の主張がここで何を差し出せば、余計なものにならないのか。私の答えは、いまいちばん足りないものを差し出すこと。ひとつの説明です。香港には廟がたくさんあり、年中行事もにぎやかです。けれども、黄大仙祠に入る人の多くは、おみくじを引きに行くだけで、長洲の包山節を過ごす人も、見物に行くだけかもしれません。そういうものがいったい何のためにあるのかを問う機会は、彼らにはなかった。私の主張が差し出すのは、新しい廟ではなく、ひとつの「なぜ」です。なぜ拝むのか。なぜ祭りをするのか。なぜ包山をあんなに高く積み上げるのか。\n反対から見る 「登録するが、禁じない」には、反論があります。それが効いたのは、対象に、統一された教義がなかったからだ、というものです。\nもしひとつの「統一された宗教的依帰」があったら、このやり方はまだ効くのでしょうか。1928年の条例が防いだのは、「政治的な組織」になりうる宗教だったのではないでしょうか。この点は、当時の立法理由まで確かめられていません。\n香港の友人へ。あなたたちのこの街は、何十年ものあいだ、ひとつのことをとても上手にやってきました。多くの人が、違う神の前で、同時に自分の日々を過ごせるようにしてきた。黄大仙祠には、道教の殿、仏教の殿、そして孔子を祀る殿が、同じ場所にあります。長洲のあの島では、祭りのあいだ三日間肉を食べず、島の誰ひとり、それを変だとは思いません。陳煥章は自分の国の国会に二度退けられ、最後にあなたたちのところで孔教学院を開き、自分の大切にしたものに住む場所を与えました。こういう場所は、東アジアにはもう多くありません。あなたたちに守ってほしいのは、この「互いに足を引っ張らない」姿です。それは、どの廟を守るよりも大切です。\nひとつの社群の依帰が、互いに従属しない廟の寄せ集めである。それは弱さでしょうか、それとも粘り強さでしょうか。\n参考資料\n対照して読む：このシリーズの「孔教会はなぜ失敗したか」、「怒りの海に身を投じたあと」（香港のベトナム難民）、「許されたものと、奪われたもの」（インドネシア：禁止と登録の対比） 香港：1928年『華人廟宇条例』（登録、華人廟宇委員会が審査）。黄大仙祠は1921年建立、1956年開放。孔教学院は1930年に陳煥章が創設。長洲島の太平清醮は2011年に国家級無形文化遺産、北帝を祀る。宗教構成（Wikipedia、年は不明）。2024年の公式統計で仏教徒、道教徒がそれぞれ100万人超 1928年の条例の「登録に加えて廟の財産を管理」という限定：作者の資料ノート『天下から国家へ』第三節（二次資料。条例の本文は香港電子法例 🟢） 画像の出典は各図の説明に記載 ","permalink":"https://tentao.pages.dev/ja/linju/d30/","summary":"\u003ch2 id=\"一つの条例\"\u003e一つの条例\u003c/h2\u003e\n\u003cp\u003e1928年、香港のイギリス植民地政府は『華人廟宇条例』を公布しました。条例は、すべての華人の廟と宗教団体に登録を義務づけ、「華人廟宇委員会」という機関の審査を経ることを求めました。\u003c/p\u003e\n\u003cp\u003e条例の字面では、登録せよと言っているのであって、閉めろとは言っていません。\u003c/p\u003e","title":"登録するが、禁じない：植民地の香港は、どうやって廟を守ったか"},{"content":"廟 マレーシアでもっとも古い大伯公廟は、ペナンのタンジョン・トコン（丹絨道光）にあり、資料では1792年より遅くない創建とされます。当時はまだ漁村でした。大伯公への信仰は、ここからマレーシア、シンガポール、そしてインドネシアの一部へ広がりました。\n伝説には、張理という名の大伯公がいます。客家の人で、スマトラを出た船が風浪に流されて、ペナンに着いたといいます。これは伝説です。\nペナン・タンジョン・トコンの大伯公廟。資料では、マレーシア最古の大伯公廟とされる。　出典：Wikimedia Commons、marufish、CC BY-SA 2.0\nペナンの観音亭は、観音と媽祖をいっしょに祀っています。一方は慈悲の神、もう一方は海へ出る人の神です。資料では、ペナンでもっとも古い華人の廟のひとつとされます。\nマレーシアには、もうひとり、ダトゥ公（拿督公）がいます。「ダトゥ」はマレー語で祖父、「公」は中国語で祖父です。2022年のある研究によれば、彼は、マレー人の聖祠（keramat）と華人の土地神が融合した存在で、土地の精霊信仰とイスラムの要素を併せ持ちます。華人は普通、彼をマレー人として扱います。マレー語で話しかけ、マレー人の食べ物を供え、豚肉は使いません。\nこれら三つの例では、神は中国から持ち込まれ、廟は現地で建てられ、ある神は現地でべつの神になりました。\n私は、ダトゥ公の例が好きです。ある華人たちが、見知らぬ国で、土地のひとりの古い神に出会った。彼らは「これは他人のものだ」とは言わず、「これはおじいさんだ」と言ったのです。そして、豚肉の入っていない食事を用意した。\nマラッカの青雲亭。マレーシア最古の華人の廟とされる。　出典：Wikimedia Commons、Irwan Shah Bin Abdullah撮影、CC BY-SA 4.0\n会館と商会 シンガポール中華総商会は、1906年に設立されました。資料では、もともとの英語名はGeneral Chinese Trade Affairs Associationで、現地の華人指導者が興し、三つのことをしようとしたとされます。華人商人の貿易の面倒をみる。異なる方言集団のあいだの食い違いを和らげる。華人社会を代表する。方言と業種の境界を越えた、最初の華人の商業団体でした。資料では、2022年に、4,000社あまりの企業会員と、150あまりの同業組合を持っています。\nその来歴には、母国から来た一本の線があります。資料では、清朝が1903年に商部を設け、その目的は「商務を開通し、団体を連合し、実業を振興する」ことで、国内外に商会が置かれました。1904年、清朝は南洋の富商張弼士を「外洋商務考察大臣」に任じ、南洋各地の商会の設立を督辦させました。\n国民党政府にも似たものがありました。華僑事務委員会は、1926年に広州で成立しました。1929年、国民党中央の事務会議が組織条例を通し、それを国民党に隷属させました。\nシンガポール中華総商会の建物。　出典：Wikimedia Commons、Jordiferrer、CC BY-SA 3.0\n国籍 同じく1929年、国民政府は『国籍法』を公布しました。血統主義を採り、子どもが生まれたときに父親が中国国民なら、子どもも中国国民とされます。\n資料では、清朝政府も国民党政府も、国内外の華人の子孫はみな中国国民であると宣言しました。一方、植民地政府も、現地で生まれた華人を自分の臣民と見なしました。オランダ領東インドの1910年の『オランダ臣民法』は、現地で生まれた華人をオランダ臣民としています。これが、華人の二重国籍問題の由来です。\n受け入れ国が華人に向ける最大の非難は、「心がここにない」でした（このシリーズの「南の隣人たち」）。これらの出来事は、その材料です。商会のうち一部は母国に推されて生まれ、華僑事務機関はひとつの政党に隷属し、国籍は血統で数える。\nその間に挟まれた人を想像してみてください。ペナンで生まれ、福建なまりのマレー語を話し、家には大伯公が祀ってあり、でも出生証明書には、国籍がふたつ書かれているかもしれない。清朝は彼を自分のものだと言い、植民地政府も彼を自分のものだと言う。彼自身は、明日の商売のことくらいしか考えていないのかもしれません。彼はこの二つの「私のもの」を、選んだことがありません。\n商売 商会は商売とつながっています。東南アジアの華人商人は、共通の文化とネットワークがあったから成功したのでしょうか。\n1980年代以来、「竹網（バンブー・ネットワーク）」という言い方があります。華人の商業的成功は、共通の文化的価値と人間関係のネットワークから来る、というものです。2003年、JomoとFolkが一冊の本、『民族と商業：東南アジアの華人資本主義』を編み、これらの言い方を一つずつ検討しました。官と商の関係、同族企業、信頼とネットワーク、「アジア的価値」。書目の要約によれば、事例研究は、華人企業のあいだにかなり大きな多様性があることを示し、1998〜1999年のアジア通貨危機では多くの華人企業が倒れ、「華人の文化とネットワークを本質化する」見方には打撃となりました。（原書は読んでいません。）\n逆方向の例が、タイのチャロン・ポカパン（正大集団）です。資料では、1979年に、深圳に最初に登録された外資企業で、登録番号は「0001」、名前は「正大」でした。1990年代初めには、中国に約200の子会社を持っていました。\nこれは東南アジアの華人商人が、中国に投資したのです。当時の華人資本が、中国の外資のどれだけを占めていたのかは、調べても分かりませんでした。\n四つの基準で測ってみる 人数：国によって違う。マレーシアでは、2020年に華人が23.2%（「華語教育」を参照）。 組織：商会と会館は、「組織」という項目の担い手。シンガポール中華総商会は、4,000社あまりの企業会員と、150あまりの同業組合（資料による、2022年）。 財力：華人商人の富には、「竹網」という言い方もあれば、その言い方への批判もある。信頼できる数字がないので、書かない。 教義：廟は混合している。マレーシア華人の約83.6%が自分を仏教徒と称するが、実際は仏教、道教、儒教、祖先崇拝の混合。タイ華人の廟は、大乗仏教、儒、道の混合（「もっとも成功した同化」を参照）。 四つのうち、組織は材料のある項目です。教義は緩く、財力は書きません。\n私の主張はここでどう言うか 廟、会館、商会は、すでに華人の「組織」です。私の主張の言う「統一された求心力」を、もしこれらを通して築くとしたら、母国に推されたという歴史が、まさに「心がここにない」ことの証拠になってしまわないでしょうか。私の答えは、なります、です。だから、私の求める求心力は、これらを通して「築く」ものであってはならないし、まして、どの政府に推されてもなりません。廟は自分たちで育ち、会館は自分たちで興したものです。この点は、そのまま守ります。私にできるのは、ずっと小さなことです。すでに育ったそれらの場所で、もう少し多くの人が、「私たちはなぜここにいるのか」と問う気持ちになること。この問いには、組織も、規約も、どの母国の許可も要りません。廟のなかの年寄りが、子どもに、祖先の名前をひとつ多く話してあげる。それがもう、それなのです。\n反対から見る いちばん固い反論は、やはり受け入れ国の疑いです。ひとつの社群の求心力は、別の社群から見れば遠心力かもしれない。商会の一部が清朝に推されて生まれ、華僑事務委員会が国民党に属し、国籍法が血統で数える。この三つを並べたものが、まさに非難される材料です。\nもうひとつ、分けて考えなければならないことがあります。今日の中国大陸の企業の海外進出と、何世代もそこに住む華人社会は、別のことです。後者は、所在国の公民です。「同じ文化」は、大陸の企業にとっては言葉と信頼かもしれませんが、現地の華人にとっては、疑われる理由かもしれません。この点は、『貨殖』の「海外進出：東南アジアは中国の『中米』か」も参照してください。\n東南アジアの友人へ、華人にも、華人でない人にも。「母国に推された」という言葉が、とても重い非難に聞こえることは分かっています。それは本当のことで、私はそれを弁護しません。もうひとつ、同じように本当のことがあります。ペナンのあの大伯公廟は、母国から誰かが派遣されて建てたものではありません。ある華人たちは、マレー人の老祖父ダトゥ公に出会ったとき、「これは他人のものだ」とは言わず、「これはおじいさんだ」と言い、豚肉の入っていない食事を供えました。これらはみな、海辺に足を下ろした人たちが、自分たちで少しずつ作ってきたものです。この違いのなかで、私は後ろの側に立っています。誰にも派遣されず、誰にも代わって声を上げてもらえなかった人たちの側に立っているのです。\n商会は華人自身が作ったのでしょうか、それとも母国が作ったのでしょうか。この二つの答えは、受け入れ国にとって、同じに聞こえるでしょうか。\n参考資料\n対照して読む：このシリーズの「南の隣人たち」（序文）、「許されたものと、奪われたもの」（インドネシア）、「もっとも成功した同化」（タイ）、「華語教育」（マレーシア）。『貨殖』「海外進出：東南アジアは中国の『中米』か」。『依帰』「宗親会の黄昏」 大伯公廟と観音亭、ダトゥ公。中華総商会、清朝商部、華僑事務委員会、国籍法。「竹網」とチャロン・ポカパン（来源底帳を参照） 画像の出典は各図の説明に記載 ","permalink":"https://tentao.pages.dev/ja/linju/d31/","summary":"\u003ch2 id=\"廟\"\u003e廟\u003c/h2\u003e\n\u003cp\u003eマレーシアでもっとも古い大伯公廟は、ペナンのタンジョン・トコン（丹絨道光）にあり、資料では1792年より遅くない創建とされます。当時はまだ漁村でした。大伯公への信仰は、ここからマレーシア、シンガポール、そしてインドネシアの一部へ広がりました。\u003c/p\u003e","title":"廟、会館、商会：自分たちの仲間を見分ける三つのもの"},{"content":"広東義山の碑 クアラルンプールの広東義山に、一つの碑があります。\n碑の正式名は「雪蘭莪華僑機工帰国抗戦殉難記念碑」、1947年に建てられました。建てたのは、当時のセランゴールの華僑救済団体（英語名は Selangor …… Relief Committee、中国語名は未確認）です。1952年、ある コラムによれば、その団体は毎年の追悼をクアラルンプール・セランゴール中華大会堂に委ねました。公祭はその後中断し、2021年に同会堂が再開しました。この年の「七七公祭」は7月7日（盧溝橋事件の記念日）でした。2026年は7月5日に行われ、約250人が参列しました。清明には、機工の遺族が個人で墓参りもします。\n彼らは誰か 1939年2月、南僑総会の主席である陳嘉庚が第六号通告を出し、華僑の若い運転手と修理工に、帰国して働くよう呼びかけました。\nアモイ集美の陳嘉庚記念館。陳嘉庚は南洋華僑の指導者で、1939年に機工を募る通告を出した。　出典：Wikimedia Commons、Peter Guo、CC BY-SA 2.0\nその年、彼らは九つの隊に分かれて帰り、合わせて3,193人、そのうち女性は4人でした。マラヤ、シンガポール、タイ、ミャンマー、ベトナム、フィリピン、インドネシアから来ていて、インドからの人もいました。\n彼らが向かったのは、滇緬公路（雲南とビルマを結ぶ道）でした。1939年から1942年に、その道で約50万トンの軍需物資が急ぎ運ばれ、そのうちのかなりの部分を、彼らが運びました。\n千人あまりが、戦火、交通事故、病気で亡くなりました。ほかの千人あまりは、戦後、自分たちが住んでいた場所に帰りました。残りの千人あまりは、中国に残りました。\nそのうちの一人を想像してみてください。二十歳を少し過ぎた若者が、ペナンやシンガポールで車の修理をしていて、一枚の通告を受け取り、工具箱を置いて、船に乗った。母親はおそらく止めなかったでしょう。止められもしなかったでしょう。彼は、その道にどれだけ曲がり角があるか、その山がどれだけ高いかを知りませんでした。知っていたのは、ひとつの国が戦っていて、車を運転できる人が必要だ、ということだけです。\n帰ってきてから 帰ってきた人たちは、マレーシアのあるコラムによれば、元の仕事に戻り、車を運転し、車を修理し、機械を整備し、それぞれの小さな町で、黙って何十年かを過ごし、あの数年のことを人に話すことはほとんどありませんでした。\n中国に残った人たちは、同じコラムによれば、多くは雲南に残り、家庭を持ち、東南アジアには戻りませんでした。南洋の親族とは、五十年あまり、連絡が途絶えました。南洋の家族は、息子の、夫の、父の消息を、ほとんど得られませんでした。\n五十年あまり。ひとりの母親が、息子を五十年あまり待ち、ある日、自分もいなくなってしまったかもしれない。この数字は、読むたびに、その先を読み進めるのがつらくなります。\nほかの碑 1951年11月11日、ペナンのジョージタウンにも、機工の記念碑が建てられました（英語名は Penang Overseas Chinese Anti-War Mechanics Memorial、中国語名は未確認）。\n2025年8月14日、クアラルンプールの広東義山に、「マラヤ南僑機工記念公園・記念館」が落成しました。園内に円環状の記念壁が立てられ、そのイメージは滇緬公路の「二十四のカーブ」から来ています。壁には、約3,200人の南僑機工の名前が刻まれています。\n約三千二百の名前が、一枚の壁に刻まれている。それは、この人たちが、はじめて、こんなふうにきちんと並べて書かれたことなのだと思います。\nもうひとつの碑：マラッカ、1948 もうひとつの碑が、マラッカにあります。\nマラッカの三宝山（Bukit Cina）に、「マラッカ華人抗日義士記念碑」があり、1948年4月5日に除幕されました。除幕したのは、イギリスのマラヤ連邦駐在高等弁務官です。碑には四つの文字があります。忠貞足式。ウィキペディアによれば、蒋介石の題字です。意味は、このような忠義と貞節は、手本とするに足る、というものです。\nこれが悼んでいるのは機工ではなく、1942年から1945年の日本占領期に殺された、マラッカの華人で、おもに日本の支配に抵抗した人たちです。その遺骨は、生き残った華僑がそれぞれの場所から集めて、三宝山のふもとに合葬しました。1972年に、この碑は最初の大修理を受けました。\nマラッカの三宝山（Bukit Cina）にある華人墓地。　出典：Wikimedia Commons、CEphoto, Uwe Aranas、CC BY-SA 3.0\nこれをここに置いたのは、セランゴールの機工碑と同じ時期のことだからです。1947年、1948年。戦争が終わったばかりで、生き残った華人が、自分たちの住む場所で、亡くなった人たちのために碑を建てたのです。\n二点は並べておくだけで、確かめていません。\n題字が蒋介石だというのは、いまのところウィキペディア一つだけが出典。 イギリスの高等弁務官がこの碑の除幕をしたこと。当時のマラヤは、まだイギリスの植民地でした。 ひとつの問い 先ほどのコラムの筆者は、ひとつの問いを出しています。マレーシアの華人社会は、南僑機工を、マレーシア華人史の一部としてではなく、中国の抗日戦争史の一部として扱ってきた、と。彼らは、この一段を華語中学の教科書に書き入れることを主張しています。\nこの問いは、南洋篇全体の問いだと思います。\n私が思ったこと これを読んで、私は言いようのない重さを感じました。\n1939年、彼らが行ったのは、自分が生まれた国ではありませんでした。トラックを運転して、ほとんど崖のような道で、他人の物資を、他人の前線へ運んだのです。およそ三分の一は、帰ってきませんでした。帰ってきた人たちは、何十年ものあいだ、あまり話をしませんでした。\nインドネシアやタイで、受け入れ国が華人に向けたいちばん固い非難は、「心がここにない」でした。このシリーズの序文「南の隣人たち」でも書きました。機工は、その非難のもっとも極端な見本です。彼らの心は、確かにほかの場所へ行き、命までも持っていった。\nけれども、私は「心がここにない」で、この碑を読むことができません。あの壁の三千二百の名前を見てください。ひとりとして、「不忠」の人はいません。彼らは、自分が住んでいるわけでもない国のために、手の仕事を置いて、一本の道に乗った人たちです。彼らに「心がここにない」と言うなら、それは彼らに対して不公平だと思います。\n反対から見る 第一に、1939年のマラヤはイギリスの植民地で、裏切ることのできる「受け入れ国」は存在しませんでした。独立は1957年です。\n第二に、「帰国して働く」のは戦時の特殊な事情であり、華人の一貫した方向とは見なせません。同じ人たちのなかで、千人あまりが戦後にマラヤやシンガポールへ戻り、そこで暮らしました。\n第三に、碑に書かれているのは「華僑」であって、「マレーシア華人」ではありません。この言葉は、1947年の意味と、2026年の意味とでは違います。これもおそらく、あのコラムの筆者が提起する問いの、半分です。\n私の主張はここで何を言うか 私の「内核」は、ひとつの社群に「求心力」を与えるためのものです。機工は、求心力がもっとも強く働いた例でしたが、向かう先は別の国でした。この一課は、私の主張にとって、正例なのか、反例なのか。私の答えは、どちらでもある、です。正例です。ひとつの組織の命令もなく、「私たちは一つの家だ」という感覚だけで、一群の人がどこまで行けるか。千人あまりが、命を山道に残すところまで行けた。反例でもあります。この求心力は、いったんひとつの国に結びつくと、人を遠くへ、そして危険な場所へ連れていき、しかも、その国は、多くの場合、彼らを覚えていてはくれない、とも教えてくれます。だから、私の求める「心」は、ひとつの国に結びつけてはいけません。倒れず、変わらず、あなたを忘れないものに結びつけなければならない。祖先、天、一つの碑、そして、いまも誰かが供えに行く場所。\nマレーシアの友人へ、そして機工たちの子孫へ。ひとつの細部があります。彼らは帰ってきたあと、あの数年のことをほとんど人に話さなかった。おそらく、誰も尋ねなかったからだと思います。だからここで、ひとこと尋ねたいのです。あなたのお父さん、おじいさんは、あのとき、どの車を運転していましたか。あなたに名前を、一枚の古い写真を、一つの時計を、残してくれましたか。もしあなたに答えがあるなら、私は知りたいです。このサイトに、その人のために、場所をひとつ、名前をひとつ、残したい。私には碑を建てることはできず、その人の物語を書き留めることしかできません。\nひとりの人が、自分が住んでいるわけではない国に、命を預けた。その人の碑は、誰の歴史の中に建てるべきでしょうか。\n参考資料\n対照して読む：このシリーズの「南の隣人たち」（序文、「心がここにない」）、「許されたものと、奪われたもの」（インドネシア）、「華語教育」（マレーシア）、「廟、会館、商会」 南僑機工：1939-02の第六号通告、3,193人（女性4人を含む）、九隊、滇緬公路、1939–1942年に約50万トン、千人あまりが犠牲、千人あまりが戦後に居住国へ戻り、千人あまりが中国に残る。マレーシアの碑：マラッカ華人抗日義士記念碑 1948（「忠貞足式」、蒋介石題、ウィキペディアによる）。セランゴール 1947、1952年にクアラルンプール・セランゴール中華大会堂に移管（コラムによる）、公祭は中断後2021年に再開（7月7日）、2026年は7月5日。ペナン 1951-11-11。2025-08-14 クアラルンプール南僑機工記念公園・記念館。あるコラムの論点 画像の出典は各図の説明に記載 ","permalink":"https://tentao.pages.dev/ja/linju/d32/","summary":"\u003ch2 id=\"広東義山の碑\"\u003e広東義山の碑\u003c/h2\u003e\n\u003cp\u003eクアラルンプールの広東義山に、一つの碑があります。\u003c/p\u003e\n\u003cp\u003e碑の正式名は「雪蘭莪華僑機工帰国抗戦殉難記念碑」、1947年に建てられました。建てたのは、当時のセランゴールの華僑救済団体（英語名は Selangor …… Relief Committee、中国語名は未確認）です。1952年、ある コラムによれば、その団体は毎年の追悼をクアラルンプール・セランゴール中華大会堂に委ねました。公祭はその後中断し、2021年に同会堂が再開しました。この年の「七七公祭」は7月7日（盧溝橋事件の記念日）でした。2026年は7月5日に行われ、約250人が参列しました。清明には、機工の遺族が個人で墓参りもします。\u003c/p\u003e","title":"彼らの碑：マレーシアの南僑機工"},{"content":"1839年にシンガポールで刷られた新約 1839年、シンガポールの堅夏書院（ジェンシア）が、『救世主耶蘇新遺詔書』という新約聖書を刊行しました。訳者はプロイセンの宣教師ギュツラフ。前の一篇で、「上帝」の語を聖書に書き込んだ人です。\nカール・ギュツラフ（Karl Gützlaff、1803–1851）、プロイセンの宣教師。　出典：Wikimedia Commons、ウェールズ国立図書館所蔵、パブリックドメイン\nこの本の「ヘブライ書」第七章、はじめの三節は、次のように訳されています。\n「昔亚伯拉罕败列王而凯旋，遇撒冷之王，至上帝之祭司，麦基洗德，蒙其祝福。」 （その昔、アブラハムは諸王を破って凱旋し、サレムの王、上帝の祭司メルキゼデクに会い、その祝福を受けた。）\n「夫麦基洗德译名本乃义王，又撒冷之王，即平王。」 （メルキゼデクとは、名を訳せばもとは義の王であり、またサレムの王、すなわち平和の王である。）\n「其无父，无母，亦无族谱，无始日，无终生，成如上帝之子，永为祭司也。」 （彼には父もなく、母もなく、系図もなく、日の始めもなく、命の終わりもなく、上帝の子のようになり、とこしえに祭司である。）\n八年後、この本の一つの版が、洪秀全の手に渡りました。\n聖書のなかの、誰にも説明しきれない人 メルキゼデクは、聖書にほとんど出てきません。\n『創世記』で、アブラハムが何人かの王を破って帰る途中、サレムの王メルキゼデクがパンとぶどう酒を持って迎え、祝福します。アブラハムは得たものの十分の一を彼に渡します。そのあと、この人は二度と現れません。\n千年以上たって、『ヘブライ人への手紙』の著者がもう一度彼を持ち出し、二千年のあいだ人が考え込んできた言葉を書きました。彼には父がなく、母がなく、系図がなく、生の始めもなく、命の終わりもなく、上帝の子のように、とこしえに祭司である。\nでは彼は誰なのか。天使だという人がいます。キリストが旧約のなかで一度姿を現したのだという人もいます。ごく普通のカナンの小国の王だという人もいます。説はつぎつぎに出ましたが、全員を納得させたものはありません。\nフランスの画家ラ・イールが描いた「アブラハムとメルキゼデクの出会い」。パンとぶどう酒を捧げて進み出ているのが、サレムの王メルキゼデク。　出典：Wikimedia Commons、ローラン・ド・ラ・イール、パブリックドメイン\nこれは、聖書のなかで誰もが認める空席です。\n洪秀全は、傍らに一言書いた 洪秀全の読み方は、まっすぐでした。\nヨーロッパの書物に載った洪秀全像。図の説明は本人と「伝えられる」とするが、真偽は疑わしい。　出典：Wikimedia Commons、Ford \u0026amp; West 石版、パブリックドメイン\n学者の李熾昌の研究によると、洪秀全は後に、太平天国が刷った聖書に眉批（欄外の書き込み）を加えました。『創世記』でメルキゼデクがアブラハムを祝福する箇所に、彼はこう書いています。メルキゼデク、「就是朕」（すなわち朕なり）。つまり、自分が若いころ天から降って現した「実績」であり、今日、降臨して王となる証拠になる、という意味です。\n太平天国が刊行した『旧遺詔聖書』の表紙。「太平天国癸好三年新刻」とある。洪秀全の眉批は、こうした重刷の聖書に書かれた。　出典：Wikimedia Commons、作者不詳、パブリックドメイン\n考えてみてください。父も母も系図も来歴もない人は、どの時代に現れても筋が通ります。\nここまで読んで、胸が少し酸っぱくなりました。洪秀全は、科挙に四度落ちた貧しい読書人です。あの時代、人の出身、系図、官位がそのまま「来歴」でしたが、彼にはそのどれもありませんでした。ところが外国人が訳した本のなかに、そのどれもなくても祭司になれ、王にもなれる人がいたのです。\nもう一句、見ておく価値があります。ギュツラフ訳には「サレムの王、すなわち平王」とあります。サレムは平和の意味です。洪秀全が「平王」の二文字を読んで何を思ったのか、私は知りません。知っているのは、彼が後に建てた国が太平天国という名だったことだけです。\n彼は、相手自身の本を使った この件で居心地が悪いのは、洪秀全の度胸ではなく、そのやり方です。\n「父なく、母なく、系図なく」は宣教師自身が訳したもので、「上帝の子」の語も宣教師が選んだものです。洪秀全は一字も作っていません。渡された本文を、字面どおりに読んだだけです。\nそして字面どおりに経を読むことこそ、プロテスタントの宣教師が中国の信徒に教えたことでした。彼らはカトリックが教会に解釈権を握らせていることに反対し、誰でも自分で経を読んでよいと主張しました。洪秀全はまさにそうして、読み進めるうちに、この空席に座ったのです。\nのちに宣教師たちは誰も彼を認めず、カトリックもプロテスタントも、彼の教義を異端と断じました。けれども彼を論破するには、まず一つのことを説明せねばなりません。同じ一冊を、あなたたちはそう読めて、なぜ彼はそう読んではいけないのか。\n裏返して見る 正統神学には、実は答えがあります。「予型（よけい）」といいます。\nこの読み方では、メルキゼデクは超自然の存在ではなく、キリストの「予型」、つまり先にキリストの姿を描き出した旧約の人物です。「父なく母なく系図なし」とは、聖書に彼の系図の記録がないということ。イスラエルでは祭司はレビ族の出で、系図がたどれなければなりませんが、メルキゼデクは系図に頼らずに祭司です。『ヘブライ人への手紙』の著者は、まさにこの「記録上の空白」を使って論じています。「上帝の子のようである」は比喩であって、身分ではありません。\nこの筋で行けば、洪秀全にこう問い返すこともできます。もしメルキゼデクが本当に始まりも終わりもないなら、どうして『創世記』でパンとぶどう酒を持って城を出て、アブラハムの十分の一を受け取るのか。彼には体があり、都市国家があり、ある具体的な一日のなかで生きている。あなたが使った節は、書いた人の論じ方があなたとちょうど逆なのです。\nもうひとつ、もっと大事かもしれないことがあります。洪秀全の「天上の家族」が最初に現れたのは、1837年の異夢のなかで、1848年に書かれた『太平天日』がその夢を記しています。彼が聖書に眉批を書くのは、1860年に太平天国が聖書を重刷したときまで待たねばなりません。\nつまり、夢が先で、経文を探したのはあとです。経文は幻を見た源ではなく、あとから幻を追認するために使われたのです。だから、空席が彼を待っていたのではなく、彼がまず座席を持っていて、それから本のなかに空席を探したのかもしれません。\nついでに ネットには、洪秀全の注として「麦基洗徳実朕全」という一句が流れています。\nこの一句の一次の出典は見つかりませんでした。学術文献にたどれるのは二つの版で、一つは『創世記』に、もう一つは『ヘブライ書』に書かれていて、言い回しも違います。あの六字の名文句は、おそらく後世の要約で、伝わるうちに原文のように扱われたのでしょう。\n「系図のない人」の話が、それ自身、来歴をたどれない伝聞を一つ抱え込んだ。考えてみると、なかなか面白いことです。\nこの話を、私は警告として語っています。経典に空席を残すのは、悪いことではありません。けれども誰かが、自分はそこに座れる、「これは私だ」と言い出したら、あとのことは人の手に負えなくなります。洪秀全が座ってのち、彼自身の言葉が最高の言葉になり、楊秀清は天父の口を借りて天王を押さえつけ、最後には旧約も新約も「記し違いが多く、誤りは改めるべし」となりました。数えきれない人が、そうして巻き込まれたのです。\nだから、自分が求めるものを思い描くとき、私はこの空席をわざと残していません。心に置いているのはこうです。天道は、語らない最高の神格で、降臨せず、憑依せず、誰にも旨を下さず、敬えばよく、求めなくてよい。孔子は先師、整理して伝えた人であって、天啓を受けた人ではなく、「これは天が直接私に告げた」と言ったことはない。両端を塞げば、「朕なり」と立ち上がれる人はいなくなります。これで万全だとは思いません。でも少なくとも、一節の経文を手に国をひとつ引きずり込む人は出ません。\nもし一冊の本に空席が残されていたら、誰がそこに座る資格を持つのか。\n参考資料\n『救世主耶蘇新遺詔書』、ギュツラフ訳、1839年シンガポール堅夏書院刊（台湾「信望愛」珍本聖書デジタル典蔵システム、底本はオーストラリア国立図書館蔵） モリソン、ミルン訳「ヘブライ書」7:3（同システム、対照用） 李熾昌「『聖書』在中国——太平天国対経文的詮釈」、『深圳大学学報』（人文社会科学版）2009年第6期 趙暁陽「太平天国刊印聖書底本源流考析」、『清史研究』2010年第3期 『太平天日』、1848 『創世記』第14章；『ヘブライ人への手紙』第7章 画像の出典は各図の説明に記載 ","permalink":"https://tentao.pages.dev/ja/yigui/e03/","summary":"\u003ch2 id=\"1839年にシンガポールで刷られた新約\"\u003e1839年にシンガポールで刷られた新約\u003c/h2\u003e\n\u003cp\u003e1839年、シンガポールの堅夏書院（ジェンシア）が、『救世主耶蘇新遺詔書』という新約聖書を刊行しました。訳者はプロイセンの宣教師ギュツラフ。前の一篇で、「上帝」の語を聖書に書き込んだ人です。\u003c/p\u003e\n\u003cp\u003e\u003cimg alt=\"ギュツラフ\" loading=\"lazy\" src=\"/img/yigui/e03/01.jpg\"\u003e\u003c/p\u003e\n\u003cp\u003e\u003cem\u003eカール・ギュツラフ（Karl Gützlaff、1803–1851）、プロイセンの宣教師。　出典：\u003ca href=\"https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Portrait_of_Chas._Gutzlaff_%284672542%29.jpg\"\u003eWikimedia Commons\u003c/a\u003e、ウェールズ国立図書館所蔵、パブリックドメイン\u003c/em\u003e\u003c/p\u003e","title":"父もなく、母もなく、系図もなく"},{"content":"ひとつの小話 こんな小話を聞いたことがあります。\n博物館の、ある展示品の前に、二人が立っている。ひとりは韓国人、ひとりは中国人。展示品の上の文字を、韓国人は読めず、中国人が説明してあげる。\nこの小話の出典は見つからず、本当にあったとは言えません。言えるのは、そのいくつかの点は本当だ、ということだけです。\n2022年のお詫び 2022年8月、韓国のある店が、「深切なお詫び」と書いた告知を出しました。告知には、「とても深く、切実に」という意味の漢字語が使われていました。\n一部のネットユーザーは、それを別の語、「退屈」と読み違えました。お詫びなのに、どうして「退屈」なのか、と店を批判したのです。\n同じ時期には、「今日」を金曜日だと取った人もいました。\nこれらの語はどれも、漢字があります。漢字が分かる人には、ひと目で意味が分かります。分からない人には、ただの読みの連なりが見えるだけで、その読みが別の語とぶつかってしまうのです。\n数字 韓国語の語彙のうち、漢字語がどれだけを占めるかは、人によって言うことが違います。57%、六割、七割、基準は書かれていません。いくつかの説のうち、いちばん低くても半分を超えます。\n2007年、成均館大学が新入生384人に調査を行い、『朝鮮日報』が結果を報じました。93%が「志気」の語を読めず、96%が「栄誉」を読めず、99%が「妥協」を読めませんでした。これは二次的な転述で、サンプルはある大学の新入生だけです。測られた漢字そのものは、手に入れていません。\n2062年まで翻訳する 『承政院日記』は、朝鮮国王の側近の機関が書いた日記で、1623年から1894年まで、二百七十一年にわたり、三千二百冊あまり、およそ2.4億字あります。2023年末までに、現代韓国語に訳されたのは37.4%。訳し終わるのは、2062年の見込みです。\n『承政院日記』。朝鮮王朝の国王の側近機関が書いた日記。　出典：Wikimedia Commons、Salamander724、パブリックドメイン\n『朝鮮王朝実録』は、1968年から1993年にかけて、一度翻訳されました。いまはまた訳し直されています。あの一度目の韓国語が、もう古くなってしまったからです。\n2017年に、韓国古典翻訳院の院長は言いました。この分野の専門家の平均年齢はとても高く、三十代の若い人が足りない、と。\nその場面を想像してみてください。静かな事務室で、白髪の人たちが、祖先の文字を、孫の世代の言葉へ、一字ずつ訳している。彼らは、自分が2062年まで生きられないと知っています。それでも毎日、続きを訳す。私は彼らに、ありがとうと言いたいです。\nどうしてこうなったか 1948年、法律は公文書を韓国語（ハングル）で書くことを求めました。1970年、教科書から漢字が取り除かれ、以後、漢字は中学・高校の選択科目にすぎなくなりました。以前の規定では、中学で900字、高校で1800字でしたが、いまは実施されていません。\n2015年、ある政権が教科書に漢字の注を加えようとしましたが、学校の強い反対にあって諦めました。2026年4月、国家教育委員会は、漢字教育の強化を検討するかもしれないと述べ、読み書き問題を担当する委員長は、この件は「もっとも論争がある」と言いました。\n反対する人たちは心配しています。韓国語のアイデンティティを損なう。塾通いを増やし、不平等を深める。ある言語学の名誉教授は、漢字の意味を理解することが、必ずしも読み書きの力を高めるわけではない、と言いました。支持する人のなかには、ある法学の教授がいて、漢字教育は、韓国語を正しく理解し使うために必要だと言っています。\n『訓民正音』（解例本）。世宗大王が作ったハングルは、漢字を知らない民にも読み書きできるようにするためのものだった。　出典：Wikimedia Commons、世宗大王、パブリックドメイン\nハングルは、すばらしい発明です。世宗大王がそれを作ったのは、字の読めない民にも、自分の言葉を書けるようにするためでした。漢字を手放したこの一歩には、誇りがあり、理由があり、「間違い」ではありません。私はただ、その誇りの裏側で、何を払ったのかを問いたいのです。\n光化門 光化門は、景福宮の正門です。\n1395年、それには漢字の扁額がありました。1968年、朴正煕が手書きしたハングルの扁額に替えられました。2010年、修復されたあと、また漢字の扁額に戻されました。2023年には、黒地に金文字に改められました。\n2026年1月、文化部の長官が、漢字の扁額の下に、さらにハングルの扁額を加えることを提案しました。75の団体が支持し、そのなかにはハングル学会もありました。歴史学者と文化遺産の専門家は反対し、成均館大学のある教授は、もとの姿を保つのが原則だと言いました。\n一枚の扁額が、ある世代が掛け、次の世代が外し、さらに次の世代が、また掛け直す。\n景福宮の光化門の軒下の扁額。　出典：Wikimedia Commons、Huntsmanleader、CC0\n私が思ったこと このことに、私には「こうすべき」という考えがありません。ひとつの国には、自分が何の字を読むかを決める権利があります。1970年のあの世代にも、理由がありました。新しい国には、誰もが身につけられる文字が必要だった。彼らは何かを捨てようとしたのではなく、国の読み書きを、一人ひとりの子どもの手に渡そうとしたのです。このことを、私は敬います。\n決めたのは、あの世代の人たちでした。勘定を払うのは、あとの人たちです。彼らは祖先の日記を開き、一つひとつの読みは分かるのに、一文全体が分からない。読めないのは、彼らのせいではありません。それでも、ここまで考えると、胸が少し痛みます。ひとりの子どもが、景福宮の門の前に立ち、顔を上げて、あの金文字の扁額を見るけれど、そこに何が書いてあるのか分からない。その三文字は、彼自身の国が、六百年あまり前に、この門につけた名前なのです。\n反対から見る 第一に、読めないことは、無いことと同じではありません。実録には韓国語訳があり、国王の日記は少しずつ訳されています。原文が読めないのは、韓国人だけではありません。英語の読者は『ベオウルフ』が読めず、私たちも甲骨文が読めません。\n第二に、中国人も笑うのは早すぎます。大陸のこちら側では、簡体字になってから、ふつうの人が繁体字の古典を読むのも、骨が折れます。小学六年間の統編教材は、古詩文を132篇選んでいます（124篇とする報道もあります）。2016年から使われている新版で、旧版より八割ほど増えました。これは補習をしているのです。\n第三に、あの小話は、逆にも語れます。中国人は、扁額の上の三文字が読めても、その背後の意味が分かるでしょうか。\n私の主張はここで何を言うか もし「内核」が、共通の文字と経典によって立つべきなら、韓国のこの一課は、何を意味するのか。ひとつの国が、みずから漢字を手放すのは、荷物を下ろしているのか、それとも自分の土台を壊しているのか。私の答えは、どちらも少しずつある、です。荷物は、漢字があまりに難しく、千年あまり、字が読めることは少数の人の特権だったこと。それを下ろして、何千万人もの子どもが、本を読めるようになりました。土台は、祖先が書き残した千年が、文字を替えたとたん、翻訳を通さなければ読めないものになったこと。私は、全員にもう一度漢字を学び直させるべきだとは思いません。私が考えるのは、別のやり方です。ごく少数の字、数十字、数百字を残す。清明、春節、祖先祭祀のときに、誰もが知っていなければならない字。祖先の名前、祭文のいくつかの言葉、扉の春聯。字は多くなくていい。一世代が覚えていられれば足ります。\n韓国の友人へ。私は「あなたたちは漢字を取り戻すべきだ」と言いに来たのではありません。ただ、ありがとうと言いたいだけです。二百七十一年の日記で、ひとつの国の毎日を書き残してくれて。『承政院日記』に書かれているのは、国王が今日、誰に会い、何を話し、何を食べ、どんな雨が降ったか、ということです。ひとつの国が、これほどの辛抱強さで自分たちの日々を記録したことは、とても貴重だと思います。これを、もっと多くの人に読んでほしい。2062年まで待たなければならないとしても。\n2062年に訳し終わったとき、原文を読む人は、何人残っているでしょうか。\n参考資料\n対照して読む：このシリーズの「千年の字」（ベトナム）、「字はあるのに、読めない」（日本）、「字は失われていない。争っているのは、その割合」（台湾）。『依帰』の「空き家の文廟」、「紀年」 韓国の漢字政策の年表（1948、1970、1972、2015、2026）。漢字語の比率、2007年成均館の調査、2022年の「深切なお詫び」事件。承政院日記37.4%、2062年。古典翻訳院。光化門の扁額。統編教材の古詩文 画像の出典は各図の説明に記載 ","permalink":"https://tentao.pages.dev/ja/linju/d40/","summary":"\u003ch2 id=\"ひとつの小話\"\u003eひとつの小話\u003c/h2\u003e\n\u003cp\u003eこんな小話を聞いたことがあります。\u003c/p\u003e\n\u003cp\u003e博物館の、ある展示品の前に、二人が立っている。ひとりは韓国人、ひとりは中国人。展示品の上の文字を、韓国人は読めず、中国人が説明してあげる。\u003c/p\u003e\n\u003cp\u003eこの小話の出典は見つからず、本当にあったとは言えません。言えるのは、そのいくつかの点は本当だ、ということだけです。\u003c/p\u003e","title":"祖先の字が読めない：韓国"},{"content":"八十二基の碑 ハノイの文廟は、1070年に建てられ、孔子を祀っています。1076年、そのそばに国子監が設けられました。ベトナム最初の大学です。\n中庭には、八十二基の石碑が、石の亀の背に立っています。碑には、1442年から1779年にかけて科挙に及第した進士の名前と出身地が刻まれています。2010年にユネスコのアジア太平洋地域「世界の記憶」に、2011年に世界の「世界の記憶」に登録されました。\nハノイの文廟で、石の亀の背に立つ進士碑。　出典：Wikimedia Commons、Mig Gilbert、CC BY-SA 2.0\n碑に載っている進士が何人かは、私が調べた複数の出典で数字が一致しないので、ここには書きません。\n毎年、何千何万という人がこの庭に入ってきますが、その多くは碑の上の字が読めません。\nその光景を想像してみてください。ベトナムの若者が、一基の石碑の前に立ち、携帯で撮影して、友だちに送る。碑には、五百年前に進士に受かったある人の名前が刻まれています。彼はまじめに撮るけれど、その名前が読めない。その名前は、彼の祖先の隣人のものなのに。\n春聯 2016年、ベトナムの英字紙 Viet Nam News が、こんな記事を書きました。春節に、文廟の門の前で、春聯を書いて売る人がいる。買う人は多い。買い手の多くは、書かれている字が読めず、その意味も知らない。\n春聯に書かれているのは、福・禄・寿のようなものです。彼らは図柄が分かり、赤い色が分かり、新年だと分かります。\nハノイの文廟で、ベトナムの「翁都（Ông đồ）」（老先生）が書をしているところ。　出典：Wikimedia Commons、Rungbachduong、CC BY-SA 3.0\n1936年、ベトナムの詩人、武廷連（Vũ Đình Liên）は『老先生』という詩を書きました。毎年、桃の花が咲くころ、その老先生は筆と墨を広げ、街角で春聯を書いている。通りかかる人は、年ごとに少なくなっていく。八十年あまり前のことです。（原詩は引用していません。現代の著作物だからです。）\nどうしてこうなったか ベトナムは朝鮮半島とは違います。ここでは、国家が自分から手放したのではありません。\nベトナムは、およそ千年のあいだ漢字を使いました。十世紀から、公式の文書は漢文でした。十三、四世紀からは、喃字（チュノム）も現れました。漢字の部品を使って、ベトナム語を書き表すものです。十五世紀から十九世紀にかけて、教養のある人たちは、喃字で民間の作品を書きました。\n国語字（クオックグー）は、十七世紀に、西洋の宣教師がラテン文字でベトナム語の発音を写したものです。フランス人は、二十世紀の最初の二十年のうちに、それを広めました。1910年に国語字の使用が求められ（二次資料）、1919年、最後の科挙がフエで行われ、啓定帝が詔を下して、儒学教育を廃止しました。\nそれ以後、学校で教えられるのは国語字になりました。\nハノイ文廟の正門。　出典：Wikimedia Commons、Daderot、CC0\n数字 「世界中で、喃字を読める学者は、百人に満たない」。この言い方は、ベトナム喃字保存基金会（1999年設立）と、消えゆく文字を扱うあるサイトから出ています。これが言っているのは喃字のことで、漢字ではありません。「学者」とは、流暢に読める人のことなのか、読み取れる人のことなのかも、はっきり書かれていません。元になった統計は見つけられず、その言葉のまま伝えるしかありませんでした。\n漢喃研究院はハノイにあり、前身は1970年にできた漢喃部門で、1979年に研究院に昇格しました。所蔵の数字は資料によって違い、2006年ごろは約二万冊、2022年の報道では三万五千冊近くとされ、基準が違うので、並べて置くことしかできません。\n研究院の専門家はこんなことを言いました。いま、学校で古典文学を教えるのに使われているのは、国語字に書き写されたもので、漢喃の原文ではない。そのために、授業のなかで誤りが出たことがある、と。\nベトナムの報道には、こんなものもありました。ヴィンフック省に漢喃の教室があり、生徒は、お年寄りだ、と。\n私が思ったこと うまく言えないことがひとつあります。韓国は、国家が1970年に、ひとつの道を選びました。ベトナムのこの道は、他人に推されて、のちに自分たちも歩きなれたものです。新しい文字は、字が読めることを、簡単にしてくれました。これは国語字を支持する人がよく言う理由で、私は数字までは確かめていません。それに反対するつもりはありません。ほとんどすべての人に字を読めるようにした国を、私は敬います。\nけれども、碑はまだ立っています。名前は祖先の名前なのに、読めない。それは字が読めないから、ではなく、その字が学校にないから、という、別の種類の失われ方です。ヴィンフック省の漢喃の教室に座っているのはお年寄りたちで、そのことを思うたびに、少し胸が酸っぱくなります。白髪の人たちが、小さな教室で、一画一画、自分の祖父が書いたかもしれない字をなぞっている。\n反対から見る 第一に、ベトナム人が読んでいるのは、翻訳が多い。翻訳で読むのは、読んでいないのと同じではありません。それも一つの読み方です。\n第二に、漢喃を小中学校に加えることについては、ベトナム国内にもいろいろな意見があります。支持する人は、歴史を理解するため、語の原義を理解するためだと言います。反対する人は、字が難しすぎて、生徒の負担が重く、教師も足りないと言います。ある保護者は、漢喃とラテン文字は、まったく違う二つの言語体系だと言いました。\n第三に、音を知るだけで習得できる文字が、ひとつの国を、数十年のうちにほとんど全員が字を読める国にした。得失は、計算しにくいことです。\n私の主張はここで何を言うか 千年の漢字が、百年のうちに、ベトナムでは「特別に学ばなければならないもの」になりました。もし「内核」を共通の文字と経典で立てるのなら、ベトナム人は、門の外にいるのか、中にいるのか。私の答えは、門の外にいる、でも、門は開けられる、です。ベトナムには千年の漢字と喃字があり、それは彼ら自身のもので、他人のものではありません。外にいるのは、この百年、学校が教えなかったからで、彼らが望まなかったからではありません。いつか、ひとりのベトナム人が、ハノイの文廟の、ある碑に書かれているのが誰なのか知りたくなったら、その門を開けるのを手伝いたい、と思う人がいる。その「人」は、必ずしも組織ではないでしょう。ひとりの翁都かもしれないし、ひとりの先生かもしれないし、漢喃の教室で、たまたま隣に座っている人かもしれません。\nベトナムの友人へ。ハノイの文廟の庭には、石の亀の背に立つ八十二基の碑があり、五百年前に進士に受かった人たちの名前が刻まれています。毎年、何千何万という人が入ってきて、その多くは読めません。旧正月には、門の前で老先生が春聯を書き、買う人はたくさんいます。赤い色が分かり、福禄寿が分かり、正月だと分かる。ヴィンフック省には漢喃の教室があり、そこに座っているのは白髪のお年寄りばかりです。あなたたちの祖先には、もうひとつの手仕事がありました。漢字の部品をほどき、一画ずつ喃字に組み直して、自分たちの言葉を書いた。それを何百年も書き続けた。そういう賢さを、もっと多くの人に知ってほしいのです。\n碑はまだ立っています。読める人がどれだけいれば、それはまだ読まれていると言えるのでしょうか。\n参考資料\n対照して読む：このシリーズの「怒りの海に身を投じたあと」（国語字の由来）、「祖先の字が読めない」（韓国）、「字はあるのに、読めない」（日本） ハノイの文廟、82基の進士碑、1919年の科挙廃止、国語字1910年、漢喃研究院、「100人未満」（基金会、基準不明）、2016年 Viet Nam News の春聯、ヴィンフック省の漢喃教室、1936年『老先生』 画像の出典は各図の説明に記載 ","permalink":"https://tentao.pages.dev/ja/linju/d41/","summary":"\u003ch2 id=\"八十二基の碑\"\u003e八十二基の碑\u003c/h2\u003e\n\u003cp\u003eハノイの文廟は、1070年に建てられ、孔子を祀っています。1076年、そのそばに国子監が設けられました。ベトナム最初の大学です。\u003c/p\u003e\n\u003cp\u003e中庭には、八十二基の石碑が、石の亀の背に立っています。碑には、1442年から1779年にかけて科挙に及第した進士の名前と出身地が刻まれています。2010年にユネスコのアジア太平洋地域「世界の記憶」に、2011年に世界の「世界の記憶」に登録されました。\u003c/p\u003e","title":"千年の字：ベトナム"},{"content":"あと一歩のところ 1946年11月16日、日本の内閣は「当用漢字表」を告示しました。1850字で、法律、公文書、新聞、雑誌に使う字の範囲を定めたものです。\nその年、占領当局のなかには、漢字が日本人の識字率の低さの原因であり、さらには戦争の原因でもあると考える人がいました。アメリカの教育使節団は、漢字を廃止してローマ字にすることに傾いていました。\n1948年には、全国的な識字調査が行われました。結果は、まったく字が読めない人は約2%でした（二次的な転述で、調査の名称と正確な数字は確かめていません）。人々が思っていたような低い識字率は、現れませんでした。漢字廃止の計画は、棚上げされました。\n1981年、「当用漢字表」は「常用漢字表」に改められ、1945字になりました。2010年に196字を加え、5字を減らして、2136字となり、今日まで使われています。\n日本人は漢字を失いませんでした。ただ、あと一歩で失うところでした。\n『常用漢字表』の2136字（1981–2010）。　出典：Wikimedia Commons、Tael、CC BY-SA 3.0\n字は、ぜんぶある 日本の街を歩くと、漢字はいたるところにあります。看板、新聞、駅。中国人が日本に行けば、大半は読み取れます。\n日本人が漢文を読むときは、別のやり方をします。漢字の横に記号をつけ、日本語の語順に直して、返って読む。高校の国語の授業では、ずっとそれを教えています。研究文献によれば、漢文教育は、いまの古典教育のなかで、いちばん難しい部分です。（これは要約のなかの言葉で、原文は読んでいません。）\n読めないもの 字はまだあるのに、江戸時代以前の人たちが書いていたのは、別の字でした。\n連ねて、省略して書く書き方で、くずし字といいます。手紙を書き、帳簿をつけ、日記を書くのに、これが使われました。今日の日本人は、学校で習わず、多くの人は読めません。\n小林一茶『おらが春』（1819）の一頁。江戸時代にくずし字で書かれた書物。　出典：Wikimedia Commons、小林一茶、パブリックドメイン\n2021年2月、凸版印刷は「ふみのはゼミ」というシステムを発表しました。AIでくずし字を識別するもので、文字認識の精度は九割を超えます。国文学研究資料館と、2015年から共同研究してきたものです。\nネットでは、くずし字を読める人は数千人しかいない、あるいは人口の千分の一だ、という言い方をよく目にします。探しましたが、出典がありません。しかも、この二つの言い方は数十倍違います。千分の一なら十数万人で、数千人ではありません。私は使いません。\nそんな場面を想像してみてください。ある日本人が、家の古い蔵で、曽祖父の残した一通の手紙を見つける。紙はすっかり黄ばんでいて、字は何本もの曲線になっている。彼はそれが日本語だと分かり、いくつかの字は分かるけれど、手紙全体は読めない。彼は写真を撮り、AIのプログラムにアップロードして、曽祖父が言いたかったことを、代わりに読み上げてくれるのを待つのです。\n私が思ったこと 日本のこの一課に、言葉にしがたい気持ちがあります。ひとつひとつの字は分かるのに、この一行は分からない。韓国の人たちが向き合っているのは、字が分からなくなったことです。日本の人たちが向き合っているのは、字は分かり、書き方も半分は分かるけれど、全体は読めないことです。それは同じ事柄の、深さの違う二つです。ひとつの文明が、自分の過去とのあいだに、一枚の隔たりを持つこと。それでも日本を見ていると、少し羨ましくもなります。街のすべての看板が、いまも漢字である。すべての子どもが、小学一年生から、毎日漢字を書いている。こうした「日常のなかの字」は、ひとつの文明のいちばん頑丈な根の層だと思います。私たちはみな、彼らから学ぶべきです。\n反対から見る 第一に、日本のこの層は、漢字の問題ではなく、書記の問題です。イギリス人が中英語の写本を読めないのも、同じです。\n第二に、今日の中国人も、草書や碑帖を読むには、専門の人に頼らなければなりません。これは日本だけの問題ではなく、長い書記の伝統を持つすべての社会がぶつかることです。\n第三に、日本は字を守りましたが、古い書物を読む人を守れたわけではありません。字があることは条件であって、保証ではありません。\n私の主張はここで何を言うか 日本は、漢字を日常のなかに残しました。もし「内核」が字によって立つのなら、日本はいちばん安定しているはずです。ところが、その出生率も、宗教も、社会も、緩んでいます。字は、内核のどの層なのか。私の答えは、字はいちばん外側の層、つまり看板だ、です。それは必要で、それがなければ祖先の言葉は聞こえません。でも、内核そのものではありません。内核は、字の背後にある日々です。誰に線香を上げるのか。なぜ上げるのか。一家が集まるのは、何のためか。日本が私にくれたこの一課は、はっきりしています。ひとつの国は、字を非常によく守りながら、同時に、こうした「日々」を少しずつ緩ませることができる。だから、字と日々は、いっしょに見なければならない。どちらが欠けても、足りません。\n日本の友人へ。1946年、漢字を廃止してローマ字にしようと主張する人がいましたが、1948年の全国識字調査で、その話は棚上げになりました。あなたたちは、あと一歩で漢字を失うところで、失いませんでした。だから私は、あなたたちの街を歩いて、看板を見て、新聞を見て、駅を見ると、胸が少し温かくなります。これは私たちが共有する字で、あなたたちはそれを守り抜いた。それから、こうも言いたいのです。あなたの家にも、くずし字で書かれた曽祖父の手紙や、祖母の帳簿があるかもしれません。紙はすっかり黄ばみ、字は何本もの曲線になっている。それらは、ただまだ誰にも読まれていないだけかもしれません。いつか、それらに口を開かせてあげられることを願っています。\n字は失われていないのに、書き方が失われました。どちらが、取り戻すのが難しいでしょうか。\n参考資料\n対照して読む：このシリーズの「神社は宗教にあらず」（国家神道。同じ占領期のもうひとつの改革）、「祖先の字が読めない」（韓国）、「千年の字」（ベトナム） 当用漢字1946（1850字）、常用漢字1981（1945字）、2010（2136字）。占領期の漢字廃止論と1948年の識字調査。凸版印刷「ふみのはゼミ」（2021-02-17）。「数千人／0.1%」という説には出典がない 画像の出典は各図の説明に記載 ","permalink":"https://tentao.pages.dev/ja/linju/d42/","summary":"\u003ch2 id=\"あと一歩のところ\"\u003eあと一歩のところ\u003c/h2\u003e\n\u003cp\u003e1946年11月16日、日本の内閣は「当用漢字表」を告示しました。1850字で、法律、公文書、新聞、雑誌に使う字の範囲を定めたものです。\u003c/p\u003e\n\u003cp\u003eその年、占領当局のなかには、漢字が日本人の識字率の低さの原因であり、さらには戦争の原因でもあると考える人がいました。アメリカの教育使節団は、漢字を廃止してローマ字にすることに傾いていました。\u003c/p\u003e","title":"字はあるのに、読めない：日本"},{"content":"字は、まだある 台湾の生徒は、小さいころから繁体字と注音符号を使います。高校の国語の授業では、文言文を読みます。\n韓国やベトナムとは違って、ここでは、漢字をなくそうと言う人はいません。争われているのは、別のことです。どれだけ読むか、です。\n台北孔子廟。　出典：Wikimedia Commons、Udo Schoene、CC BY-SA 3.0\n三つの数字 108課綱（高校の新課程綱要）より前は、普通高校の国語の授業で、文言文は45%から65%を占めていました。\n2017年8月、課程審議会（課審会）の高校分科会が、30%以下に下げることを一度提案しました。社会の議論は大きくなりました。\n2017年9月、課審会の総会で、二回の投票を経て、35%から45%と決まりました。推薦選文は、20篇から15篇に減り、さまざまなジャンルを含めること、郷土の素材も入れることが求められました。\n両側の言い分 課審会の説明は、こうです。必修の時間数が減り、選択科目が増えた。各教科の時間数が全般に減り、国語で教えられる篇数もそれにつれて減った。\n反対する人の言い方は、もっと重いものです。ある作家は、文言文を捨てれば、民族は「記憶のない」民族になる、と言ったそうです（これは大陸メディアの転述で、元の言葉は確かめていません）。この件を「脱中国化」だと見る人もいます。また、ある元高校教師は、108課綱の後、生徒の作文に問題が出ている、と言いました（これは一人の言い分です）。\n私は、この二つの言い方を並べるだけで、判断はしません。\n1966年の十月 1966年10月10日、蒋介石（中正）は『全国同胞に告ぐる書』を発表し、「中華文化復興運動」を始めました。彼は、大陸でその年に始まった文化大革命を、「五千年の歴史文化を断ち切るもの」だと批判しました。1967年7月、推進委員会が設けられ、彼自身が会長になりました。\n同じ月に、海峡の両側で、同じ「文化」が、二つの正反対の物語に入れられました。一方では、壊している。一方では、守っている。\nのちに、守るほうの側では、どれだけ守るかをめぐって、また争いが起きました。\n台北孔子廟の明倫堂。　出典：Wikimedia Commons、Taiwankengo、CC BY-SA 4.0\n私が思ったこと 三つの場所、三つのやり方。韓国は、国家が命令し、一度で決めた。ベトナムは、外の人に推され、歩くうちに自分のものになった。台湾は、ひとつの委員会が、一回また一回と投票して、ひとつの百分率を決める。台湾のこの節を読んで、少し羨ましくなりました。ここには少なくとも、ほかの場所にないことがひとつあるからです。みんなが、公然と争っている。争っているのは、三割五分か、四割五分か。数十篇の教材の中で、誰を残し、誰を捨てるか。ひとつの社会が、こういうことのために、テレビで、課審会で、何度も争う。それは、祖先の残した文字を本当に大切に思っている人が、たくさんいるということです。数字は、もう一度投票し直せます。この気持ちのほうが大事だと思います。\n反対から見る 第一に、割合が下がったことは、生徒が悪くなったことを意味しません。良くなったことを示すデータもありません。双方の言い方は、どちらも言い分です。\n第二に、課審会の理由は本当です。時間数が減れば、取捨選択が必要です。取捨選択すれば、捨てられたと感じる人が出ます。\n第三に、大陸のこちら側は、別の方向に進んでいます。統編教材は、小学校の古詩文を八割ほど増やしました。同じ心配に、両側が、正反対の処方を出したのです。\n私の主張はここで何を言うか 台湾には、字がまだあり、孔子を祀り、祭りもあります。字も経典もあるのに、なお「どれだけ」を争うということは、足りないのは字ではないのでしょう。足りないのは何か。私は、「なぜ読むのか」だと思います。高校生が『出師表』を読み、『岳陽楼記』を暗唱しても、その心に「この言葉は私に向けて書かれている」という感じがなければ、三割五分でも四割五分でも、彼には違いがありません。字、文言文、孔子廟、祭典。これらは台湾にすべてあります。私が問いたいのは、これらが、十六歳の人に、ある深夜、一つの言葉に出会わせ、突然、これは自分のことを言っている、と思わせたことがあるか、ということです。そういう瞬間は、課程綱要では規定できません。でも、それがあってはじめて、これらの文字はまだ生きていると言えるのです。\n台湾の友人へ。私は文字のなかで、あなたたちの課審会を読みました。2017年9月、課審大会は二回の投票で、文言文の割合を35%から45%と決め、推薦選文を二十篇から十五篇に減らしました。この争いは笑い話ではなく、ひとつの社会が、まじめに、ひとつの問いを考えている姿です。次の世代に、どれだけの「過去」を残すのか。あなたたちの子どもは、小さいころから繁体字と注音符号を使い、高校で文言文を読み、今日まで読み続けています。そして、そのために争う人がずっといます。あなたたちに結論を押しつけるつもりはなく、どんなレッテルでもあなたたちを言い表したくありません。\n三割五分と四割五分のあいだにあるのは、何でしょうか。\n参考資料\n対照して読む：このシリーズの「祖先の字が読めない」（韓国）、「孔教会はなぜ失敗したか」。『依帰』のなかで関連することを扱う単元 108課綱以前の文言文45%–65%。2017-08の30%の提案。2017-09の35%–45%、推薦選文15篇。1966-10-10『全国同胞に告ぐる書』。1967-07の推進委員会。大陸の統編教材の古詩文 画像の出典は各図の説明に記載 ","permalink":"https://tentao.pages.dev/ja/linju/d43/","summary":"\u003ch2 id=\"字はまだある\"\u003e字は、まだある\u003c/h2\u003e\n\u003cp\u003e台湾の生徒は、小さいころから繁体字と注音符号を使います。高校の国語の授業では、文言文を読みます。\u003c/p\u003e\n\u003cp\u003e韓国やベトナムとは違って、ここでは、漢字をなくそうと言う人はいません。争われているのは、別のことです。どれだけ読むか、です。\u003c/p\u003e\n\u003cp\u003e\u003cimg alt=\"台北孔子廟\" loading=\"lazy\" src=\"/img/linju/d43/01.jpg\"\u003e\u003c/p\u003e\n\u003cp\u003e\u003cem\u003e台北孔子廟。　出典：\u003ca href=\"https://commons.wikimedia.org/wiki/File:ConfuciusTempleTaipei.jpg\"\u003eWikimedia Commons\u003c/a\u003e、Udo Schoene、CC BY-SA 3.0\u003c/em\u003e\u003c/p\u003e","title":"字は失われていない。争っているのは、その割合：台湾"},{"content":"一枚の答案 韓国の子どもは、学校が終わると塾に行きます。\n2024年、韓国の家庭が私教育に使ったお金は29.2兆ウォンで、過去最高を更新し、十年前より60%増えました。80%の生徒が塾に通っています。2025年には27.5兆に下がり、五年で初めての減少でした。\n台湾では、教育部に登録された塾が17,710軒あります（年は確かめていません）。シンガポールでは、2023年に家庭が課外指導に使ったのが18億シンガポール・ドルで、一世帯あたり毎月104.8ドル。十年前は79.9ドルでした。\n日本には学習塾があり、同じことです。2015年のある推計では、日本の塾関連の総支出は約120億ドル、そのうち学習塾が約78億でした。この数字は古く、新しいものは見つけられませんでした。\nこれらの数字の背後にいる子どもを想像してみてください。十歳の子どもが、午後三時に学校が終わり、五時に塾に着いて、家に帰るのは九時。ランドセルは、肩幅より大きい。彼は、親がなぜそうするのか知りません。親のほうも、知っているとは限りません。ただ、みんながそうしているから、しなければ遅れる、と思っているのです。\nとても低い数字 場所 合計特殊出生率 年 韓国 0.76（公式の別の基準では0.75。2025年の暫定値は0.80） 2024 台湾 0.86 2024 シンガポール 0.97（居住者。2025年は0.87） 2024 日本 1.21（国連推計） 2023 マレーシア華人 0.8（2023年は0.9） 2022 ベトナム 今回は数字が取れなかった — マレーシア全国 今回は数字が取れなかった — 人口置換水準は、約2.1です。\nひとりで食べる 韓国は、2023年に単身世帯が783万世帯で、35.5%。2024年末には36.1%で、800万世帯を超えました。\n韓国は、「長期の孤立のあとに、ひとりで亡くなる」人を、別に集計しています。2023年は3,661人、2024年は3,924人で、7.2%増えました。\n日本は、単身世帯がすでに三分の一を超え、2040年には四割近くになると予測されています。日本の孤立死の数字は、出典ごとに前後が合わないので、使いません。\n台湾、シンガポール、香港の単身世帯は、数字が取れませんでした。\n三千九百二十四人。この人たちは、家族がなかったわけではなく、名前がなかったわけでもありません。ただ、たくさんの人がいる街で、ひとりで逝き、しばらく経ってから見つかったのです。\n私が思ったこと これらの数字は、「因果」を構成するものではありません。同時に現れている、というところを並べただけです。同じ土台がある。漢字、孔子廟、祖先祭祀、そして試験。同じ結果がある。子どもは大量に塾に通い、生まれる子どもは少なく、ひとりで食べる人はますます増える。私の判断は、これは工業化の下での原子化であり、その傾向はとても明らかだ、ということです。ひとつの社会が、「いっしょにいる」責任を、家族から、学校と市場に渡しました。学校は試験だけを司り、市場は値段だけを司る。「この子が、今晩、誰といっしょに食事をするか」を司る場所が、どこにもありません。\n反対から見る 第一に、東アジアに限ったことではありません。出生率の低さは、南ヨーロッパや東ヨーロッパでも起きています（数字は取っていません。要補充）。これを「東アジアの人々の問題」と言うのは、筋が通りません。\n第二に、「儒家文化圏」という括り自体に、論争があります。1998〜1999年の金融危機のあと、ある学者たちが一冊の本を書きました（JomoとFolkが編んだ『民族と商業』）。その要約によれば、この危機は、華人の商業を文化の本質に帰する説明に打撃を与えました。専門書は読んでおらず、書目の要約を引いただけです。\n第三に、塾通いも低出生率も、場所によって原因は違うかもしれません。一つずつ確かめていないので、書きません。\n私の主張はここで何を言うか 私は言ってきました。キリスト教やイスラムのような内核がなければ、東アジアの人々と華人は、現代と未来に、安定して存在できない。工業化の下での原子化が、すでにはっきりしているから、と。これらの数字は、その言葉の証拠なのか、それとも、ただ同時に現れているだけなのか。私の答えは、これらは「証明」ではなく、「示唆」だ、です。内核があれば数字がよくなる、とは言えません。言えるのは、ひとつの社会が、すべての人を「いっしょにいる」ようにするものを、全部、試験と値段に渡してしまったあとでは、人は、ひとりずつ立つようになる、ということです。私が問うのは、「出生率をどう引き上げるか」ではありません。その方法は持っていません。もっと前の問いです。ひとりずつ立っているこれらの人に、毎年、みんなでいっしょに立つ日があるか。清明、春節、冬至。そういう日こそ、ひとりの人に、自分はひとりではないと知らせるものです。次の篇「同じ一組のカードで、六通りの打ち方」が、マレーシアの数字を使って、私自身を検証します。\n日本、韓国、台湾、シンガポールの友人へ。あなたたちの子どもは、午後五時に塾へ行き、九時にやっと家に帰ります。かばんは肩より広い。あなたたちのお年寄りは、ひとりでご飯を食べ、灯りをひとつつけています。韓国では2024年、三千九百二十四人が、ひとりで亡くなり、しばらくたってからやっと見つかりました。私も同じ問いを考えています。誰もが先を急ぐ世界で、どうやって、わずかな時間を残し、一家が、年に一度でも、同じ食卓に座れるようにするのか。答えはありません。ただ、あなたたちといっしょに、この問いを、口に出してみたいのです。\n子どもは塾に通い、子どもは少なく、ひとりで食べる人は多い。この三つは、同じことでしょうか。\n参考資料\n対照して読む：このシリーズの「同じ一組のカードで、六通りの打ち方」（分岐）、「華語教育」（マレーシア）、「国家が一度儒家を推し、そして引っ込めた」（シンガポール）。『時事』のデータ台帳 塾：韓国29.2兆ウォン（2024）、27.5兆（2025）、参加率80%。台湾17,710軒。シンガポール18億ドル（2023）。日本は2015年の推計。出生率。単身世帯と孤立死。『民族と商業』 ","permalink":"https://tentao.pages.dev/ja/linju/d44/","summary":"\u003ch2 id=\"一枚の答案\"\u003e一枚の答案\u003c/h2\u003e\n\u003cp\u003e韓国の子どもは、学校が終わると塾に行きます。\u003c/p\u003e\n\u003cp\u003e2024年、韓国の家庭が私教育に使ったお金は29.2兆ウォンで、過去最高を更新し、十年前より60%増えました。80%の生徒が塾に通っています。2025年には27.5兆に下がり、五年で初めての減少でした。\u003c/p\u003e","title":"似かよった六枚の答案：日本、韓国、台湾、ベトナム、シンガポール、マレーシア"},{"content":"同じ一組のカード 次のものは、六つの場所すべてにあります。漢字の伝統。孔子廟。祖先の祭祀。試験を重んじる教育。\nこれらは前にもう書きました。参考資料にリンクがあります。\n進む先、分かれ目 字。韓国は、1970年から、教科書の漢字を取り除きました（「祖先の字が読めない」）。ベトナムは、1919年に科挙を廃止し、国語字が学校に入りました（「千年の字」）。日本は、1946年にあと一歩で廃止されるところを、2136字を残しました（「字はあるのに、読めない」）。台湾は、繁体字を使い、争っているのは、文言文の割合です（「字は失われていない。争っているのは、その割合」）。シンガポールとマレーシアでは、華人の学校は、一方に華語があり、一方に英語とマレー語があります（「華語教育」と、シンガポールの篇「国家が一度儒家を推し、そして引っ込めた」）。\n教え。各国で基準が違うので、私は数字を並べるだけにします。\n場所 数字 年 韓国 無宗教56.1%、プロテスタント19.7%、仏教15.5%、カトリック7.9% 2015年国勢調査 日本 六割以上が、自分は無宗教と答える（NHK） 2018年調査 ベトナム 宗教があると自己申告13.7%、カトリック6.1%、仏教4.8% 2019年国勢調査 シンガポール 仏教31.1%、キリスト教18.9%、イスラム教15.6%、道教8.8%、無宗教20.0% 2020（15歳以上の居住者） マレーシア イスラム教63.5%、仏教18.7%、キリスト教9.1%、ヒンドゥー教6.1% 2020 台湾 今回は取れなかった — ベトナムの行が測っているのは組織された宗教で、民間信仰や祖先崇拝はおそらくほとんど数に入っていません。センサスの説明文は読めていません。\n国家は宗教をどう扱うか。日本は、国家が「宗教ではない宗教」をつくり、そしてそれは解体されました（「『神社は宗教にあらず』」）。シンガポールは、国家が一度儒家を推し、そして引っ込め、共通の価値観に換えました（「国家が一度儒家を推し、そして引っ込めた」）。インドネシアは、孔教が許され、そのあと格下げされました（「許されたものと、奪われたもの」）。香港は、登録するが、禁じない（「登録するが、禁じない」）。\n六つの「内核」の候補 それぞれの場所の手元にある、いちばん「内核」らしいものを取り出して、数字と突き合わせて、ひと目見てみます。\n場所 手元にある「内核」の候補 数字に見えるもの 日本 漢字。かつての国家神道 国家神道はすでに解体された。六割以上が無宗教と言う。江戸の字は、多くの人が読めない 韓国 キリスト教（プロテスタントとカトリックで約27.6%）。成均館の釈奠 合計特殊出生率0.76。単身世帯36.1% 台湾 繁体字。民間信仰、祭孔 文言文の割合は、投票で決める。宗教の数字は取れなかった ベトナム 国語字。国家 漢喃は、読む人が少ない シンガポール 国家の共通価値観 国家自身は、一つの教えを出さない。出生率0.97 マレーシア 華人：学校、組織 人数は減り、華人の出生率0.8 一枚の表、一度の検証 私の言葉はこうでした。キリスト教やイスラムのような内核がなければ、東アジアの人々は現代に、立っていられない。\nいちばん直接的な検証は、「内核のある」社群と「ない」社群を、同じ国の、同じ制度の下に並べてみることです。\nマレーシアが、その条件です。公式の数字は、2022年に、華人の合計特殊出生率は0.8、マレー人は2.1、インド系は1.1。2023年は、0.9、2.2、1.2です。\nマレー人は、イスラム教を信じています。私の言葉には、ここに一つの証拠があります。\n反対から見る 第一に、同じ表のなかで、インド系も1.1です。インド系は、多くがヒンドゥー教を信じ、宗教のある社群で、数字は華人と同じように低い。宗教は、唯一の変数ではありません。\n第二に、韓国には、とても大きなキリスト教があります。プロテスタントとカトリックを合わせて、三割近い。それでいて、出生率は世界で最も低い部類です。私は、こう言うかもしれません。韓国のキリスト教は、外来の、教会のものであって、「内核」ではない、と。でもこの言い方は、「内核」をどう定義すれば、循環論法にならないのでしょうか。\n第三に、マレー人と華人の違いは、宗教だけではありません。都市と農村、収入、政策、結婚年齢、どれも違います。一つずつ確かめていないので、ここでは結論を出しません。\n第四に、イスラエルの数字は、別の方向を言っています。超正統派の合計特殊出生率は約6.6、世俗派は約2.0です（OECDとイスラエル統計局の転述、二次資料）。内核のある側がずっと高い。ただ、世俗派も東アジアより高い。これはまた、国家の政策と安全保障に関わり、別の場所で限定をつけて書いたので、ここでは広げません。\n第五に、「原子化」そのものです。データが与えてくれるのは、単身世帯と孤立死まで（「似かよった六枚の答案」）です。それが原子化の症状なのか、原子化そのものなのかは、別のことです。\n私の主張はここで何を言うか 私には、答えるべき問いが三つあります。一つめ。私の言う「内核」は、どんな条件を満たせば、「キリスト教やイスラムに似たもの」と言えるのか。私が考えているのは、この数点です。一、最高の神格がある。私のそれは「天道」で、何も言わず、敬して求めない。二、先師がいる。孔子は、法を立てた人、伝えた人であって、啓示を受けた人ではない。三、日々の礼がある。祖先祭祀、祭日、毎日できる小さなこと。四、ひとつの宗旨がある。「損有餘而益不足」。なぜこのように日々を過ごすのかを、人に分からせる。五、設計するのは「承認の基準」だけで、役職は設けず、教会も設けない。この五つがあって、はじめて「内核」と言えると思います。\n二つめの問い。マレーシアのこの表は、私の証拠になるのか。インド系の1.1と、韓国のキリスト教に、私はどう答えるのか。私の答えは、これらは証拠ではなく、私に対する検証だ、です。インド系の1.1は、宗教が唯一の変数ではないことを示しています。都市、収入、結婚年齢、どれも関わっています。韓国のキリスト教は、「教会を持つ宗教」でも、自動的に低出生率を治せるわけではないことを示しています。内核があれば数字がよくなる、と無理に言うつもりはありません。三つめの問い。内核は、低出生率を治す薬なのか、それとも「立っていられない」ことを治す薬なのか。私の答えは後者です。私が求めているのは、出生率を引き上げることではありません。それは宗教が保証できることではない。私が求めているのは、子どもがいてもいなくても、ひとりの人が、この世界で、自分は「来し方もあれば行く先もある」人間だと知っていることです。低出生率は、これをいっそう急ぎにする背景であって、私の目標ではありません。\nあなたへ。この六つの場所のどこに住んでいても。あなたの祖先が残したものと、私の祖先が残したものは、ほとんど同じ字、ほとんど同じ孔子廟、ほとんど同じ祖先を祀る日、そしてほとんど同じ一組の試験です。私たちは同じ一組のカードで、六通りの違う勝負を打ちました。ある場所は漢字を教科書から取り除き、ある場所は神社を国家の手から引きはがし、ある場所は一回また一回と投票して、どれだけ残すかを決め、ある場所は一校また一校と学校を頼りに、ひとつの社群を守ってきました。次の一局の前に、座って、それぞれの手のカードを開いて、見せあえたらと願っています。\nひとつの社群は、どれだけ「硬い」内核を持てば、立っていられるのでしょうか。どこまで硬くなれば、人を傷つけはじめるのでしょうか。\n参考資料\n対照して読む：このシリーズの字を扱った数篇（韓国、ベトナム、日本、台湾）、「国家神道」、「許されたものと、奪われたもの」、「華語教育」、「国家が一度儒家を推し、そして引っ込めた」、「登録するが、禁じない」。作者の総綱「天道教の天之道」 マレーシアの華人、マレー人、インド系の出生率。各地の出生率。各国の宗教統計。単身世帯と孤立死。『時事』のデータ台帳（イスラエルの項） ","permalink":"https://tentao.pages.dev/ja/linju/d45/","summary":"\u003ch2 id=\"同じ一組のカード\"\u003e同じ一組のカード\u003c/h2\u003e\n\u003cp\u003e次のものは、六つの場所すべてにあります。漢字の伝統。孔子廟。祖先の祭祀。試験を重んじる教育。\u003c/p\u003e\n\u003cp\u003eこれらは前にもう書きました。参考資料にリンクがあります。\u003c/p\u003e\n\u003ch2 id=\"進む先分かれ目\"\u003e進む先、分かれ目\u003c/h2\u003e\n\u003cp\u003e\u003cstrong\u003e字。\u003c/strong\u003e韓国は、1970年から、教科書の漢字を取り除きました（「祖先の字が読めない」）。ベトナムは、1919年に科挙を廃止し、国語字が学校に入りました（「千年の字」）。日本は、1946年にあと一歩で廃止されるところを、2136字を残しました（「字はあるのに、読めない」）。台湾は、繁体字を使い、争っているのは、文言文の割合です（「字は失われていない。争っているのは、その割合」）。シンガポールとマレーシアでは、華人の学校は、一方に華語があり、一方に英語とマレー語があります（「華語教育」と、シンガポールの篇「国家が一度儒家を推し、そして引っ込めた」）。\u003c/p\u003e","title":"同じ一組のカードで、六通りの打ち方：日本、韓国、台湾、ベトナム、シンガポール、マレーシア"},{"content":"一本の弁髪 1903年の春、東京。\n留学生会館の梁に、切り取られた一本の弁髪が掛けられていました。\n弁髪の主は、清朝政府が日本に派遣していた陸軍学生の監督です。馮自由は『革命逸史』に、この監督は姚という姓で、「有奸私事，穢騰學界」（男女のよからぬ事があり、その醜聞は学生界に広まった）と書いています。これは馮自由の言い方で、章太炎も『鄒容伝』に、「姚甲有奸私事」と書いているだけです。私に言えるのは、その場にいた人たちが、そう語っていたということだけです。\nその晩、鄒容は翁浩、王孝縝、張継ら五人を連れて姚の家に押し入り、「批頰數十，持剪刀斷其辮髮」（頬を数十回張り、鋏を持って弁髪を断った）、そして弁髪を会館の正梁に掛けました。\n鄒容（1885–1905）、『革命軍』の著者。　出典：Wikimedia Commons、作者不詳、パブリックドメイン\n事のあと、姚は日本の警察に人を捕まえさせようとしました。鄒容と張継は、上海に戻って身を隠しました。\n上海に戻った鄒容は、『革命軍』を書きました。\n彼はその年、まだ十八、九歳でした。\n弁髪は、留学生のなかでも一本の線だった この出来事は、魯迅が小説『頭髪の話』で、ひとこと触れています。\n小説の「N先生」は、留学中に弁髪を切りました。その理由を、彼はこともなげに言います。「これには別に奥深い訳があるわけではない、ただ不便だったから」。その結果、「弁髪を頭の上に巻いている同級生の何人かはひどく私を嫌い、監督も大いに怒って、官費を止めて中国に送り返すと言った」。\n数日後、この監督は「自分が弁髪を切られて逃げ出した」のです。切った人のなかには、鄒容がいました。\nこれは小説で、N先生は魯迅その人ではありません。けれども、ひとつのことを描いています。東京では、弁髪が一本の線だった。一方には切った人、一方には切らない人。線の両側にいるのは、革命派と保守派とは限らず、ときにはただ、便利か不便か、だった。\n魯迅には別の回想があります。1926年に書いた『藤野先生』です。上野の桜が満開のころ、花の下には「清国留学生」の速成クラスの群れがいて、「頭の上に大きな弁髪を巻き、学生帽のてっぺんを高く突き上げさせて、ひとつの富士山のようになっていた」と書いています。\n東京の日本人は、彼らをそう見ていたのです。\n魯迅自身が弁髪を切ったのは、1903年3月でした。許寿裳の回想では、弘文学院の江南班で、最初に弁髪を切ったのが彼でした。切ったあと、彼は許寿裳の自習室に入ってきて、顔にかすかに喜びの色がありました。許寿裳が「ああ、陣地が一新された！」と言うと、彼は手で頭のてっぺんをなでて、二人は顔を見合わせて笑いました。（この一節は王彬彬の文章からの転引で、『魯迅回想録』のページ番号が注記されています。許寿裳の原書は読んでいません。）\n魯迅（1881–1936）、1930年。　出典：Wikimedia Commons、作者不詳、パブリックドメイン\nけれども、魯迅自身は、のちにこのことをごく軽く語っています。1936年、最後の文章に彼は書きました。「私が弁髪を切ったのは、自分が越の人だからではなく……革命性もまったく含んでいない。結局のところ、ただ不便だったからだ。一つには帽子を脱ぐのに不便、二つには体操に不便、三つには脳天に巻くと、ひどく息苦しい」。彼はさらに言います。「事実としては、弁髪のない連中が、帰国したあと黙って伸ばし、二君に仕えない臣になった例も、とても多い」。黄興は東京で師範学校に通っていたとき、「ずっと断髪しなかった」。\nだから、弁髪を切ることは、当時、必ずしも革命と同じではありませんでした。\n帰国も簡単ではありませんでした。魯迅は『病後雑談の余り』にこう書いています。「私の弁髪は日本に残した。半分は宿屋の女中にかつらとしてやり、半分は理髪師にやった」。上海に着くと、まず付け弁髪を着けなければならず、「一本につき大洋四元、まけなし」。一か月あまり着けて、彼は、もし道中で落ちたらもっと見苦しい、と思い、「いっそ着けるのをやめた」。すると、「外を歩くと、道で受ける扱いが以前とまるで違った」、「いちばんましなのはぽかんと見られること、たいていは冷笑され、ののしられた」、「大きく言えば『外国と通じている』と指さされ、いまで言う『漢奸』のことだ」。\nのちに彼は、自分が中華民国を愛するのは、「大半、私たちに弁髪を切る自由があるようになったからだ」と言いました。\nひとりの若者が、ただ弁髪を一本切っただけで、自分の街に帰ると、冷笑され、ののしられ、「漢奸」と呼ばれる。ここまで読んで、彼のために疲れを感じました。\n日本のほうが先に切った おもしろいことに、日本自身も、三十年前に一度切っています。\n1871年、明治政府は「散髪脱刀令」を出しました。髷を切るか切らないか、刀を差すか差さないかは、今後は随意とする、という意味です。注意したいのは、「随意」であって、強制ではなかったことです。1873年には、明治天皇自身が髪を切りました。\n1872年、政府はさらに、官吏の正式の礼服を洋式に改めると定めました。同じ年、女性の断髪は禁じられました。\nだから、日本のこの一巡には三つの特徴があります。誰が決めたか。政府。強制か。断髪は強制ではなく、官吏の礼服は強制。誰に。男性が先で、女性はずっと遅く、女性の洋装化は男性より十五年ほど遅れました。（これらは日本語のウェブページの要約で、法令の原文は読んでいません。）\n対照しておきます。1645年、清軍が関内に入ったあとの剃髪令は、すべての漢人に強制されました。解除されたのは、1912年になってからです。\n切ったあと、何を着たか ここがいちばんおもしろいところです。\n1895年、孫文と陳少白は横浜で弁髪を切りました。馮自由の父が横浜で店を開いていて、その日、二人は店で切ったのです。服は、洋服商の譚発が代わって作りました。\n注意してください。1895年、弁髪を切ったあとに替えたのは、洋服で、ほかのものではありませんでした。\nその五年後、1900年に、章太炎は弁髪を切って、『解辮髪』という一文を書きました。彼が考えていたのは、切ることだけではありませんでした。自分は「年已立，而猶被戎狄之服」（もう三十になるのに、なお夷狄の服を着せられている）ので、「薦紳束髮，以復近古」（縉紳のように髪を束ね、近い古代の姿に戻りたい）と思った。けれども、「日既不給，衣又不可得」（日数が足りず、衣服も手に入れられない）。\n章太炎（1869–1936）。　出典：Wikimedia Commons、作者不詳、パブリックドメイン\nそこで彼は一歩退き、古書にある呉越の人の「断髪」にならいました。（『解辮髪』は、魯迅が「章太炎先生から思い出す二、三のこと」で引いており、原文は私もそこで読みました。）\n「衣又不可得」。この五文字は、1900年に、漢の衣冠を取り戻したいと思った人が、自分の口で言ったものです。\nこの五文字を読んで、私は胸が沈みました。ひとりの人が、自分の祖先の服を着直したいと思ったのに、一着も見つからなかった。誰もそうしたくなかったからではなく、その服が、二百年あまり、もう誰にも作られていなかったからです。\n1903年の東京の留学生のあいだでは、「洋服を着る人の割合がだんだん増え、さらによく見られたのは、日本の学生服だった」（これは日本の学者の研究の概括です）。1912年、民国が新しい服制を公布し、洋服と長袍馬褂は、ほとんど並べられました。漢服は選ばれませんでした。\nのちの中山装は、日本の学生服、洋式の軍の略装、そして中国の事情を結びつけたものだと言われます。（由来と年は説が一致せず、確かめていません。）\n香港のある仕立屋にある中山装。　出典：Wikimedia Commons、Peachyeung316、CC BY-SA 4.0\nだから、「弁髪を切ったあと、何を着るか」への、百年あまり前の答えは、洋服と日本の学生服でした。日本の学生服自体も、洋式の軍服から来ています。衣服は、二度、手渡されたのです。\n留日学生が日本で普段何を着ていたかについては、周作人が語っています。ある学者の転引では、彼と魯迅は東京で、「学校に行くときは学生服、普段は和服にはかまをはいて下駄をはいていた」、「衣、食、住のすべてが日本の暮らしだった」。彼らはわざとそうしていたのです。「暮らしの面から体験しなければ、日本のことは深く知りようがない」と考えたからです。（これは転引で、周作人の原文の章節は、まだ見つけていません。）\n何かを漢服の代わりにしようとしたのではありません。彼は、日本を理解しようとしたのです。\nひとつの言葉は、どう戻ってきたか 「革命」という言葉も、あの数年で、使い方が変わりました。\n馮自由は「『革命』の二字の由来」という小文を書いています。彼によれば、1895年より前、党人は「革命」の二字を名前に使ったことが一度もなく、太平天国から興中会まで、「造反」「起義」「光復」と言っていました。\n1895年、広州の蜂起が失敗し、孫文、陳少白らは日本へ逃れました。船が神戸を通ったとき、上陸して日本の新聞を買うと、そこに見出しがありました。「支那革命党首領孫逸仙、日本に到着」。\n孫文は陳少白に言いました。「革命二字，出於易經湯武革命順乎天而應乎人一語，日人稱吾黨為革命黨，意義甚佳，吾黨以後即稱革命黨可也」（革命の二字は、『易経』の「湯武革命、天に順いて人に応ず」から出ている。日本人が我が党を革命党と呼ぶのは、意味がたいへんよい。我が党はこれから革命党と称してよい）。\n馮自由はさらにこう補っています。日本人が、英語の Revolution を訳すのに、最初にこれを使った、と。\nだから、言葉は中国のもので、『易経』にあります。けれども、それを一つの党の名前とし、「政治と社会の大変革」の意味に使うようになったのは、日本を一周して、戻ってきたものでした。（これは馮自由が数十年後に書いた回想で、対話を一字一句の史料として扱うことはできません。）\n魯迅のあの言葉 三十年後の1934年、魯迅は木版画家の陳煙橋に手紙を書きました。その中のある一句が、のちに「民族的であるほど、世界的である」と書き換えられました。\n原文はこうです。\n「私が静物、風景、各地の風俗、街頭の風景を混ぜるよう主張するのは、このためだ。いまの文学も同じで、地方色のあるもののほうが、かえって世界的になりやすく、つまり他国に注目される。世界に打って出れば、中国の活動に有利になる」\nすぐあとに、あまり引用されないもう一句があります。\n「それに、題材がよいだけでは役に立たず、やはり技術が要る。もっとよくないのは、内容はたいして力がないのに、恐ろしげな外見だけがあって、まず普通の読者を脅かして追い返してしまうことだ。たとえば、このたびの無名木刻社の画集は、表紙がマルクスの肖像で、買うのをためらう人がいる」\n（この一節は、呉俊の2020年の文章が引いたもので、原信は読んでいません。）\nだから、魯迅が言ったのは、とても実際的な話です。木版画をもっと多くの人に見てもらいたければ、最初から脅かさないで、まず風景、風俗を描くこと。「地方色」は他国の注意を引きやすい方法だが、前提は、技術がよいこと。\n「民族的」と「世界的」のあいだに、魯迅は一つの条件を置いた。技術です。\n百年後 2003年11月22日、鄭州で、ひとりの電力労働者が、自分で縫った漢服を着て、街を歩きました。のちにこの日は「漢服外出の日」になりました。\nいまでは、漢服は、少なくない規模の輪になっています。\n漢服サークルの射芸の活動。　出典：Wikimedia Commons、Allervous、CC BY-SA 4.0\n日本にも、似た現象があります。日本の和服は、今日おもに人生の儀式で着られます。成人式、結婚式、卒業式。日常ではほとんど着ません。若い人のうち、どれだけが和服に興味を持っているか、レンタルが市場のどれだけを占めるかは、信頼できる全国の数字が見つからなかったので、ここには書きません。\nだから、これは二巡目です。百年前、憧れたのは洋服でした。いま、日常で着ているのは、やはり洋服です。民族の衣服は、祝いの日のもの、儀式のもの、写真を撮るときのものです。\n「ようやく目覚めた」と言う人もいるでしょう。私には、むしろ併存に見えます。\nもっと極端な例を見ておきます。湾岸諸国の民族衣装は、学者の研究によれば、その規範は国家が石油時代につくったもので、石油以前のその土地の服装とは同じではありません。公民が外来者よりずっと少ない国では、衣服は「公民」を見分ける標識になりました。発明されたものも、とても堅固な身分になりうるのです。\n私が思ったこと これらのことを結ぶと、問うているのは同じひとつのことです。衣服は、誰が決めるのか。1645年は清朝で、「従わない者は殺す」でした。1895年と1903年は自分自身で、日本で、隠れながら切りました。日本の1871年は政府で、使ったのは「随意」の二文字でした。2003年は、鄭州のひとりの労働者が、自分で一着縫いました。決める人は、何巡も入れ替わりました。いちばんいいのは、最後のものだと思います。誰も規定せず、誰も許可せず、ひとりの人が着たいから着る。\n反対から見る 第一に、辛亥革命への日本の作用を、言い過ぎてはいけません。同盟会が1905年に東京で成立したのは本当ですが、国内の会党、新軍、立憲派にも、同じように作用がありました。\n第二に、日本は革命党に、いつも友好的だったわけではありません。1903年、日本政府は清国公使の求めに応じて、拒俄義勇隊を解散させ、姚文夫もその後、日本の警察に頼りました。\n第三に、「目覚めた」という物語には、気をつけなければなりません。洋服を捨てた人はいません。日本の男性は1872年に洋服を着て、今日まで。中国の日常も同じです。民族衣装は、特定の場面で併存するのが主です。それに、百年前には、同時に、振り返る力もありました。国粋派、章太炎も、漢の衣冠の回復を唱えました。ただ、民国の公式が選ばなかったのです。\n第四に、湾岸の例は、逆にも使えます。国家が資金を出し、規定に書き込み、待遇と結びつけられた「伝統」は、批判する人の言う「発明された伝統」の、もっとも典型的な姿です。それが堅固なのは、待遇のおかげで、必ずしも共感のおかげではありません。\n第五に、魯迅のあの言葉が言っているのは木版画の戦略であって、普遍的な法則ではありません。\n民族の衣服は、ひとつの身分になるべきか。私の答えは、なるべきだ、ただし自発的に、祝いの日に着るものであって、規定されたものであってはならない、です。まえがきで言いました。私の求める「一致した文化の信仰」のなかには、「服章」という一つの部分があります。清明の日に、家族がそろってきちんとした服を着て墓参りに行く。成人の日に、祖先の装いを身につけて、一つの礼を行う。それは、ひとりの人が、ある日に、自分が誰の後ろに立っているのかを知るためのものです。けれども私は、誰かが着ていないからといって低く見られることも、どこかの政府がそれを規定に書き込むことも、望みません。湾岸の例は、私を強く警戒させます。一着の衣服が、待遇と結びついたとたん、それはもう「服章」ではなく、「証明書」になってしまう。私が求めるのは前者です。規定によらず、ひとりの人が、ある日に、そうしたいと思うこと。\n日本の友人へ、中国の友人へ。あなたたちの祖先は、一人は1871年に髷を切り、一人は1903年の東京で弁髪を切りました。弁髪を切ったその若者は、国に帰るとまず四元の付け弁髪をつけなければならず、一か月あまりつけて街を歩き、冷笑され、「漢奸」と罵られました。その数年前、章太炎は祖先の衣服を着なおしたいと思いながら、書き残したのは「衣又不可得」でした。百年あまり後に、鄭州のひとりの労働者が自分で漢服を縫って街を歩き、成人式や祝いの日に、祖先の衣服をまた一着ずつ着る人が現れるとは、彼らは知らなかったでしょう。どの世代が問うているのも、じつは同じ問いです。私は誰の子孫なのか。ある日に、ほかの人にもそれを見てもらいたいと思うか。\n一着の衣服を、他人があなたの代わりに決めたとしたら、あなたはそれをもう一度着たいと思うでしょうか。\n参考資料\n馮自由『革命逸史』：「『革命軍』の著者鄒容」「孫・陳の弁髪切りと服装替え」「『革命』二字の由来」（ウィキソース） 章太炎『鄒容伝』、『魯迅全集』第一巻『頭髪の話』の注による転引 魯迅『頭髪の話』（1920）、『藤野先生』（1926）、『魯迅全集』（中国マルクス主義文庫） 「魯迅の断髪写真」、中国作家網、許寿裳の回想による（許寿裳『亡友魯迅印象記』の原文の言葉は一字ずつ確かめていません。写真は1903年に東京で断髪したあとに撮られ、許寿裳に「自題小像」の詩とともに贈られました） 胡令遠「周作人の日本文化研究方法についての管見」、『日本学刊』、中国作家網2013年転載（周作人を引く） 呉俊「再論『民族的であるほど世界的である』——魯迅の手紙から異文化伝播を論じる」、『文芸争鳴』2020年（魯迅の1934年4月19日付陳煙橋あて書簡を引く） 日本の散髪脱刀令（1871年8月9日布告、断髪・脱刀を許したが強制ではない）、服制改革の詔書（1871年9月）と洋式礼服（1872年）：日本語ウェブページの要約 🟡 湾岸諸国の民族衣装：National Dress in the UAE: Constructions of Authenticity など（要約、原文は未読） 画像の出典は各図の説明に記載 ","permalink":"https://tentao.pages.dev/ja/linju/d46/","summary":"\u003ch2 id=\"一本の弁髪\"\u003e一本の弁髪\u003c/h2\u003e\n\u003cp\u003e1903年の春、東京。\u003c/p\u003e\n\u003cp\u003e留学生会館の梁に、切り取られた一本の弁髪が掛けられていました。\u003c/p\u003e\n\u003cp\u003e弁髪の主は、清朝政府が日本に派遣していた陸軍学生の監督です。馮自由は『革命逸史』に、この監督は姚という姓で、「有奸私事，穢騰學界」（男女のよからぬ事があり、その醜聞は学生界に広まった）と書いています。これは馮自由の言い方で、章太炎も『鄒容伝』に、「姚甲有奸私事」と書いているだけです。私に言えるのは、その場にいた人たちが、そう語っていたということだけです。\u003c/p\u003e","title":"弁髪を切ったあと、何を着るか：日本への留学生、日本、そしてひとつの「革命」という言葉"},{"content":"一、二年 まず韓国の話です。あなたのほうが、私よりよくご存じかもしれません。\n2022年3月、尹錫悦（ユン・ソギョル）は48.56%対47.83%で当選しました。差は0.73ポイントで、韓国が大統領を直接選ぶようになって以来、最小の差でした。敗れた李在明（イ・ジェミョン）は、これはあなたたちの敗北でも、民主党の敗北でもない、責任はすべて自分にある、と言いました。\n2024年4月の国会選挙は、野党側の大勝でした。共に民主党とその衛星政党を合わせて175議席、与党の国民の力とその衛星政党は108議席、ほかの小政党が17議席。三分の二は200議席で、野党のいちばん大きな塊でも、まだ25議席足りませんでした。\n2024年12月3日の夜、大統領は緊急戒厳を宣言し、およそ六時間後に解除しました。12月14日、国会は204票対85票で弾劾を可決しました（可決の基準は200票）。2025年4月4日、憲法裁判所は8対0で尹錫悦を罷免しました。6月3日、李在明が49.42%対41.15%で当選しました。敗れた金文洙（キム・ムンス）は、その夜、「謙虚に国民の選択を受け入れる」と言いました。\n2026年2月19日、ソウル中央地方裁判所の一審は、内乱の首謀者の罪で尹錫悦に無期懲役を言い渡しました。検察の求刑は死刑でした。彼は控訴し、二審は、私がこの一篇を書いている時点ではまだ判決が出ていません。\nそして、新しい大統領の支持率が落ちました。ギャラップ・コリア：2026年3月の最高は67%、8月に42%に下がり、10月9日に発表されたのは37%で、不満は51%です。6月の地方選挙では、民主党が多数を取りましたが、ソウル市長は国民の力の人のままでした。10月3日の開天節には、光化門で大統領の退陣を求める集会があり、警察の非公式な推計で約2.8万人でした。\n2016年12月31日、光化門前のろうそく集会。三か月後、憲法裁判所は朴槿恵の弾劾を認めた。　出典：Wikimedia Commons、Jirangmoon、CC BY-SA 4.0\nこの国の人たちのことを考えてみてください。二十年のあいだに、三人の大統領が弾劾の席に送られました。盧武鉉（ノ・ムヒョン）は2004年、国会が可決し、憲法裁判所が棄却。朴槿恵（パク・クネ）は2017年、認められた。尹錫悦は2025年、認められた。そのたびに、広場には、長いあいだ立ち続けた人たちがいました。\nでは、これは韓国自身の事柄なのか、それともどこにでもある疲労なのか。\n二、ある回答と、それが当たっていたこと、外れていたこと ソウルのあの大規模デモについて、あるネットユーザーがきっぱり言っていました。ソーシャルメディアのアルゴリズム、景気の悪化、世代間の対立が、有権者の基本の層をますます固くしている。それぞれ45%ずつ。揺れる人は三、四割から一割に縮んだ。政治家はもう中間を争わず、「絶対にあいつらに政権を取らせるな」という憎しみで動員する。政党交代の周期は、八〜十年から二年に縮んだ。彼の結論は、生きているうちに、普通選挙制が崩れて、個人専制か政党専制に置き換わるのを見るかもしれない、というものでした。彼自身、これは「暴論」だと言っています。\n私は数字を確かめました。\n外れていたこと：\n彼は、共に民主党が180議席を取り、ほとんど三分の二だ、と言いました。違います。175議席で、200に25足りません。 彼は、揺れる有権者が30〜40%から約10%に縮んだ、と言いました。これは二つの量が混ざっています。アメリカの下院で、「大統領には一方の党、議員にはもう一方の党に投票した」選挙区は、1984年に190あり、43.7%でした。2020年と2024年は、各16で、3.7%です。この量は、本当に崩れました。けれども、「支持政党のない無党派の有権者」は、ずっと一割ほどで、三、四割から落ちてはいません。 「ソウルで李在明に反対する大規模デモ」：私が確かめられたのは10月3日の一件だけで、二万八千人、しかも右派の集会でした。 当たっていたこと：\n大統領の支持率は、本当に大きく上下します。 「岩盤」：アメリカの分裂選挙区は16しか残っていない。ポーランドの2025年大統領選挙は50.89対49.11。オランダの2025年10月は、二つの党が各26議席で、差は一、二千票。台湾の2025年夏、31人の国民党の立法委員に対するリコール案は、ひとつも成立せず、最初の波の24件で、リコール賛成は37.7%から48.6%にとどまった。 成り立たないのは「二年ごとに変わる」です。アメリカ、イギリス（2022年から2024年に首相が三度替わった）、フランス、韓国はそうです。けれども日本は、2026年2月に、自民党が一党で316議席を取り、戦後の記録、三分の二を超えました。アルゼンチンの2025年の中間選挙では、ミレイの党がかえって強くなりました。どこも変わるのが速くなっているのではなく、片方に大きく偏る場所もあるのです。\nあの回答の下のコメントに、いちばんよいと思った二つがあり、ここに置きます。\nひとつは、45%の岩盤があるのなら、李在明の支持率はなぜ37%まで落ちるのか、というもの。これには答えられます。大統領への評価は落ちますが、投票先の盤はあまり動いていないのです。ギャラップの10月中旬の政党支持率は、民主党39、国民の力25。大統領への評価と党の盤は、別々のことです。\nもうひとつは、対立が深いほど、普通選挙が要る、なぜならそれは「一群の人がほかの一群の人を殺すのを避ける、最後の合意」だから、というもの。これは正しいと思います。あとでまた、ここに戻ります。\nアルゴリズムは? 2023年にMetaといくつかの大学が組んで、フェイスブックとインスタグラムで実験をしました。表示を時系列にし、リシェアをなくし、同じ考えの人ばかりの内容を減らす。三か月で、分極、政治的知識、態度のどれにも、有意な影響は測れませんでした。研究者自身が、期間が短すぎると注意しています。アルゴリズムが無関係だと証明するものではなく、短期の実験では測れなかった、というだけです。別のコメントの言い分は、統治能力の喪失でした。経済、債務、高齢化がまずあり、分極は表面にすぎない。これを誰かがデータで検証したことは、ありません。\n最後に、「普通選挙の崩壊」。これは予言なので、私は書きません。確かめられたのは一点だけです。フリーダム・ハウスの2026年報告書によれば、世界の自由度は20年連続で低下し、54か国が下がり、35か国が上がりました。「自由」な国に住む人は世界の21%で、二十年前は46%でした。ただ、フリーダム・ハウスが言っているのは、おもに、選ばれた指導者が抑制と均衡を弱めることで、有権者が二年ごとに入れ替えることとは別の話です。\n三、「置き換え」には、いくつの種類があるか この二年の出来事を、五つの道に分けてみました。\n道 例 私が確かめたこと 外から換える：廃止、延期、任期の改定 エルサルバドル、2025年7月、議会が57票対3票で憲法を改正し、大統領の連続再選の制限を廃止、任期を5年から6年に 憲法改正は事実。トルコの2028年の話は予測にすぎない 中から空洞化する：裁判所、選管が誰が選ばれうるかを決める ルーマニア、フランス、トルコ、パキスタン、タイ もっとも固い証拠は、この道にある 脇から補う：くじ引き、市民議会 アイルランド、フランス、ベルギー東部、パリ 本当だが、小さい。どれも諮問的 理由を換える：尚賢、「全過程人民民主」 シンガポール、中国 論証であって、実験ではない AIやアルゴリズムが人の代わりに決める アルバニアはAIの「大臣」を任命。UAEには32のAIアシスタント 「AIが政治的決定に取って代わった」という、確認された事例は見つからなかった。どれも助言 二つめの道については、少し多めに言います。いちばん実際的で、いちばん大事だからです。選挙は行われます。ただ、誰が選ばれうるかは、あらかじめ他人が決めている。\nルーマニア：2024年11月24日の第一回投票で、ジョルジェスクが首位。12月6日、憲法裁判所は、選挙全体を無効にしました。理由は、選挙運動のやり方と資金の不透明さです。彼と支持者はこれをクーデターと言い、裁判所とその後の再選挙は、そうではないと言いました。2025年5月の再選挙で、ニクショル・ダンが53.6%対46.4%で当選しました。双方がそれぞれの言い分を譲りません。 トルコ：2025年3月、イスタンブール市長のイマムオールが学位を取り消されました（大統領候補には有効な学位が要ります）。続いて拘束されました。政府は司法は独立していると言い、野党と人権団体は、これは政治的な事件だと言いました。 タイ：2024年8月、憲法裁判所が前進党を解散。2025年8月、裁判所がペートンタン首相を罷免。十七年のあいだに、裁判所に罷免された五人目の首相です。 フランス：ル・ペンは、欧州議会の資金の流用で有罪になり、2026年7月に控訴審が被選挙権停止を45か月に減らしました。彼女は2027年の大統領選挙に出られます。いまも最高裁に上告中です。 脇から補う道についても、その規模を見ておきます。アイルランドは2016年から2018年にかけて、くじ引きで選ばれた99人の市民が人工妊娠中絶を議論し、住民投票にかけることを勧告し、2018年5月の住民投票で66.4%対33.6%で可決されました。フランスの2019年の気候市民会議は、150人。勧告のうち、最終的に実施されたのは約五分の一で、そのほか半分あまりが、修正を加えて実施されました。ベルギー東部には24人の常設議会があり、議会と政府は受け入れるか拒否するかの理由を説明しますが、法的な拘束力はありません。くじ引きの議会を立法機関として扱っている国は、まだひとつもありません。\nもうひとつ、ここに入れておかなければ、この節が偏ってしまうことがあります。2026年4月12日、ハンガリーのオルバーンは、選挙でマジャルの党に敗れました。相手は三分の二の議席を取りました。彼はその夜、結果は痛いが、はっきりしている、と述べ、対立候補に祝意を伝えました。十六年間の支配者が、負けを認めたのです。これは、上に並べた下がっていく数字と、同時に存在しています。\n四、隣人たちを、同じ物差しで 東アジアのこれらの隣人を、私は同じ物差しで測ります。誰が投票するか。誰が選ばれうるか。どうふるいにかけるか。反対派に空間があるか。裁判所と選管の位置。\n誰が選ばれうるか。選挙の前にどう決まるか 最近の数字 韓国 候補者は自由に登録。中央選挙管理委員会は憲法機関で、政府に属さない。九人の委員を、大統領、国会、大法院長が三人ずつ指名 2025年大統領選挙の投票率79.4% 日本 候補者は自由。最高裁は2025年9月26日、2024年衆議院選挙の「一票の価値」を3対1で合憲と判断 2026年2月、自民党は465議席中316議席 台湾 候補者は自由。2025年夏、31人の立法委員と一人の市長へのリコールは、すべて成立せず 2024年の立法院は、国民党52、民進党51、民衆党8。三十年で初めて、一党も過半数に届かず シンガポール 大統領候補には「資格証明書」が要り、条件は公共部門の高位か大企業のCEO。国会選挙には集団選挙区がある。選挙管理局は首相府に属する。野党は合法で、議席がある 2025年5月、人民行動党の得票率65.57%、97議席中87議席。労働者党10議席。投票率92.83% ベトナム ベトナム祖国戦線が三回の「協議」を行い、定数を定め、名簿を作り、居住地の有権者の意見を聞く。正式な候補者の約93%が党員 2026年3月15日、500議席に864人が立候補、投票率約99.7% 中国大陸 県・郷の人民代表大会は直接選挙、市以上は間接選挙。法律上は定数より候補者を多くする（直接選挙では定数の三分の一から一倍多く）。政党、団体、または十人以上の連名で推薦できる 最近の県・郷の数字は取れなかった 香港 2021年から、候補者は資格審査委員会の審査を経る。立法会90議席のうち、選挙委員会が40、職能団体が30、地区直接選挙が20 2025年12月、地区直接選挙の投票率31.9%。2021年は30.2% この表について、すこし書き添えます。\n大陸の欄には、例がひとつあります。2011年、江西省新余の劉萍が無所属での立候補を表明しましたが、連名の推薦人が十人に達せず、認められませんでした。海外メディアの報道によれば、投票の日、彼女は宿泊所に閉じ込められ、移動投票箱で自分に一票を入れ、五日間自由を失いました。この経緯は複数の海外メディアと『財経』が報じており、当局の説明は、連名の推薦人が法定の十人に達しなかった、というものでした。全国人民代表大会常務委員会法制工作委員会の報道官は、当時、法定の手続きで指名された「正式な代表候補者」だけだ、と述べました。独立候補は、法律上、位置がありません。\nシンガポールの欄も、両面を書きます。大統領候補の「資格証明書」は、2023年の選挙で選挙管理局が三件を拒否しました。けれども野党は議席を獲得していて、飾りではありません。\nベトナムの欄は、公式の言葉を見つけられなかったので書きません。2026年3月19日には、ジャーナリスト保護委員会によれば、選挙の正当性を批判した記者が一人逮捕されました。単一の出典です。\n香港の欄は、2025年の候補者資格審査委員会は、一人の資格も取り消さず、161件の指名がすべて有効と確認されました。これも書いておかなければなりません。\nだから違いは、選挙があるかないかではなく、選挙の前に、誰が選ばれうるかを誰が決めるのか、にあります。\n上の七つの場所は、同じ一組のカードの七通りの打ち方で、前の『同じ一組のカードで、六通りの打ち方』につながります（あちらは六つでしたが、ここではマレーシアがなく、香港と大陸が加わっています）。\n台北の立法院。2025年夏、31人の立法委員へのリコール案は、すべて成立しなかった。　出典：Wikimedia Commons、Yu tptw、CC BY-SA 4.0\n五、負けを認めるのは何のおかげか では、あのコメント、「一群の人がほかの一群の人を殺すのを避ける、最後の合意」に戻ります。\n選挙は、なぜ平和に済むのか。負けた人が、舞台を降りるからです。彼はなぜ降りるのか。\nこの問いは研究者が扱ってきました。『敗者の同意』（Losers' Consent、Anderson、Blaisら、2005）という本があり、多くの国の調査をもとに、負けた人は、それでも制度を信じるのか、と問います。答えは曖昧でした。一人ひとりの事情によるし、環境にもよる。別の政治学者プシェヴォルスキには、よく引かれる言葉があります。民主主義とは、政党が選挙に負けうる制度である。負けた人が受け入れるのは、代わりのものがもっと悪いからで、そして、次は勝てると信じているからだ。\nこう見ると、負けを認めるのは、いくつかのものに支えられています。近年の例を並べます。\n一、裁判所。インドネシアは2019年と2024年、憲法裁判所が敗れた側の訴えを棄却し、敗れた側は受け入れました。台湾の2004年は、陳水扁が銃撃事件の翌日に三万票足らずで勝ち、連戦と宋楚瑜が裁判所に訴え、三度退けられました。韓国の2017年、2025年は、憲法裁判所の判決が、どちらも受け入れられました。けれども2025年1月19日、尹錫悦の正式な逮捕が認められたあと、その支持者たちはソウル西部地方裁判所に押し入り、その場で80人あまりが逮捕されました。裁判所は、最後の一枚の下支えですが、ひびもあります。\n二、利益と、「次もある」こと。負けたことは全部を失うことではなく、次にまた勝てる。豊かな社会ほど、卓をひっくり返す代償は大きい。\n三、この競争は公正だ、と信じられること。アメリカの2024年9月のギャラップ：投票が正確に集計されていると信頼する人は、民主党員で84%、共和党員で28%で、記録のあるなかで最大の差でした。この項目は、切れることがあります。\n四、共通の信仰と礼。社会学者ベラーは1967年に「アメリカの市民宗教」を提起し、トクヴィルはもっと前に、アメリカ人は宗教の精神と自由の精神を一緒に置いた、と言いました。パットナムとキャンベルの後の研究は、働いているのは神学ではなく、教会のなかの友人のネットワークだ、と言います。宗教を持つ人が地域の活動に参加する可能性は、宗教を持たない人の三倍から四倍だと（因果の部分は、私自身の主張です）。\n気をつけておきたいのは、この項目の証拠がアメリカのもので、語っているのは教会のなかの友人のネットワークであって、教義ではない、ということです。\n反例も並べなければなりません。レバノン：大統領はマロン派、首相はスンニ派、議長はシーア派。この宗派配分は、1989年のターイフ合意で外そうとしましたが、今日まで外れていません。大統領の座は、2022年10月から2025年1月まで、二年あまり空いたままでした。イラク：2021年の選挙のあと、一方が結果を受け入れず、2022年にグリーンゾーンで衝突があり、約三十人が死亡しました。ナイジェリア：2011年の選挙のあと、北部で三日間の暴動があり、ヒューマン・ライツ・ウォッチによれば800人以上が亡くなりました。\n共通の宗教は、負けを認めることと同じではなく、派が細かく分けられているほど、対立はかえって固くなります。だから、私の言う「共通の信仰」は、同じ一つでなければならず、それぞれが別々のものを拝むことではありません。\nでは、儒家はどう言っているのか。\n原典には、もともと「どう手渡すか」の方法があり、天命論のなかに書かれています。\n『尚書』康誥は言います。「惟命不于常」（命は常に一つの家にあるのではない）。『詩経』大雅・文王は言います。「侯服于周，天命靡常」（侯たちは周に服した。天命は常にあるのではない）。天命は、ひとつの家に定まったものではない。この二句は、どちらも孔子より前のものです。\n『孟子』には二か所あります。ひとつは、斉の宣王が、臣が君を殺してよいのか、と問う場面。孟子は答えます。仁義を壊す者は、残賊であり、残賊の人はただの一人の独夫である。独夫の紂を誅した人がいるとは聞いたが、君を弑した人がいるとは聞いていない。暴君は、君という名分から外されたのです。もうひとつは、堯と舜についてです。天は語らない。人がどこへ向かうかによって示す。諸侯で朝覲する者は、堯の子のところへ行かず、舜のところへ行った。訴訟を起こす者は、堯の子のところへ行かず、舜のところへ行った。歌を歌う者は、堯の子を歌わず、舜を歌った。\nそれから礼があります。『論語』泰伯：「泰伯其可謂至德也已矣！三以天下讓，民無得而稱焉」（泰伯は最高の徳と言うべきだろう。三度、天下を譲り、民は称えようにも称える手立てがなかった）。譲ることが、最高の徳として書かれています。『論語』八佾で孔子は、射について言います。君子には争うことなどない、あえて争うなら、射だろう。会釈して譲りあって堂に上がり、射終わったら降りて酒を飲む。この争いは、君子の争いである。争いが、礼のなかに収められています。\n孟子（孟軻）像。「至聖先賢半身像」の一幅から。　出典：Wikimedia Commons、作者不詳、パブリックドメイン\nけれども、この方法の歴史上の記録は、きれいなものではなく、それも書かなければなりません。\n漢の昭帝のとき、眭孟（眭弘）は春秋の道理にもとづいて上書し、漢家は堯の子孫で、国を伝える運命がある、皇帝は賢人を探して帝位を禅譲し、自分は百里の封地に退くべきだ、と言いました。彼の末路は、妖言で人を惑わし、大逆不道だという罪名で処刑されたことでした。五年後、宣帝が即位してから、彼の息子が召されて郎官になりました。 朱熹は、徳のある者が興り徳のない者が亡び、天命がすでに去り人心がすでに離れたなら、革命のことがあってよい、と言いました。けれども同時に、人の世の大倫は、聖人も守らなければならない、とも言いました。彼は、孔子が泰伯と文王を称えながら、武王の楽を「未だ善を尽くさず」と言ったことを読んで、そこに孔子の微意があると考えました。つまり、渡すべきときには渡さなければならないが、あまりまっすぐに言ってはならない、ということです。 日本の1339年、北畠親房は『神皇正統記』を書き、日本は神国で、皇位は一系で伝わる、中国で姓が替わること三十六度なのは「賢を択んで授ける」からだ、と言いました。彼は「易姓革命」を、退けるべきものとして扱いました。 康有為は1902年、同じ儒経を用いて、堯舜を「民主」と読みました。けれども同じ年に、海外の華人商人に手紙を送り、中国は立憲にとどめるべきで、革命はいけないと勧めました。同じ孔子が、先送りにもなれば、立てることにもなるのです。 今日を見てみましょう。2024年1月13日、侯友宜（ホウ・ユウギ）は敗れ、壇上で、自分の努力が足りなかった、政権交代を果たせず残念だと述べ、頼清徳を祝福しました。2025年6月4日、金文洙は敗北を認め、李在明を祝福しました。\nこれらの言葉のなかで、「天」は消え、「民」が残りました。\n孟子のあの句では、「天」は「民」の行いによって示されますが、「天」そのものは「民」と同じではありません。判断する権利を、「天」から直接「民」に渡してしまうと、負けを認める理由は、ひとつしか残りません。これは多数の意思だ、ということです。では、多数自身が「あなたは正しいのか」と問われるとき、誰が問うのでしょうか。\n東アジアの人たちが、普段、「負けたら受け入れるべきだ」とどう考えているかについては、アジア・バロメーターの関連する設問には、確かめられる結果が見つかりませんでした。この部分は、空白です。\n私がいま考えているのは、負けを認めるのは、一つの層だけに頼ってはいけない、ということです。裁判所は一層、利益は一層、「この競争は公正だ」は一層。この数層を、私は信じていますし、どれも取り換えたくありません。私が足したいのは、いちばん上の一層です。多数の上にあって、誰もが武器として振り回そうとしないもの。私はそれに「天」という名前をつけ、敬して求めない、と言います。私は、普通選挙が崩れると予言しているのではありませんし、それと引き換えにしたいわけでもありません。ただ、投票の背後には、負けた人と勝った人がいっしょに立てる場所が、どこかに要ると思うのです。この道は、先に歩いた人がいます。梁啓超は1902年に、はっきりと「保教」に反対する文章を書きました。孔子は哲学者であり教育者であって、宗教家ではない、と言い、さらに、いわゆる「保種」が保つのは黄種なのか華種なのか、境界はとても曖昧だ、と問いました。彼が反対したのは、読んでみると、権力によって「保つ」ことでした。だから私は、国家の手を借りない、と言うのです。私が求めるのは、共に使えるいくつかの日々と、天を敬うひとつの位置だけです。けれども、レバノンも見なかったことにはできません。共通の信仰も、それぞれが別々のものを拝むなら、かえって火薬になる。だから私の求める「一致」は、同じ一つのものでなければならず、そして自発的でなければなりません。\n反対から見る いちばん固い反論は、三つあります。\n第一に、負けを認めるのは、おもに利益と「次がある」ことに支えられていて、信仰は錦上に花を添えるものだ、というもの。日本の自民党は、1955年から2009年まで、一度の短い下野を除いて、ほとんど政権にあり、2009年に民主党が308議席を取って、麻生は大敗を認めました。2012年には野田が敗北を認め、党首を辞めました。信仰が彼らに負けを認めさせた、という資料を、私は読んでいません。見えるのは、法律、選挙の管理、そして次の機会です。これらの例も個々のケースであって、「敗北の文化」の体系的な証拠ではありません。\n第二に、儒家のこの「手渡す」方法は、歴史のなかでは、むしろ禁じるために使われることのほうが多かった、というもの。眭弘は殺され、朱熹は大倫を守り、北畠親房は易姓を拒み、康有為は革命に反対しました。原典にあることは、伝わったのがその半分だということを意味しません。\n第三に、私が「共通の信仰」を支えるのに使う証拠は、アメリカの教会のなかの友人のネットワークであって、東アジアのものではなく、まして儒家のものでもありません。東アジア版は、見つけられませんでした。それを書き入れたのは、この問いが本当だからで、私にはまだ答えがありません。\n韓国、日本、台湾、ベトナム、シンガポール、そして各地のあなたたちへ。\n私は、2025年6月3日のあの夜を読みました。負けた人が壇上に上がり、謙虚に受け入れる、と言ったことを。2024年1月に、侯友宜が板橋の会場に立って、支持者に向かって頭を下げたことも読みました。このことは、どの回も当たり前ではありません。胸の中のあの塊をのみ込まなければ、壇上には上がれません。しかも彼の後ろには、彼が負けを認めるのを望まない人たちが、たくさん立っているのです。\nあなたたちは、とても簡単に収拾がつかなくなる時代に、この難しいことを何度も何度もやってきました。\nもうひとつ言わせてください。この方法があと何年もつのか、私には分かりません。これを取り換えたら、もっとよくなる、とも言えません。私が思い出すのは、孔子が語った射礼です。君子には争うことなどない、あえて争うなら、射だろう。会釈して譲りあって堂に上がり、射終わったら、降りていっしょに一杯飲む。争ってもいい。争い終わったら、同じ堂に座る。この言葉は、あなたたちの祖先が読み、あなたたちの子どもたちも、まだ暗唱できるかもしれません。これは、どんな憲法よりも、私たちが共に持っているものに近いのかもしれないと、私は思います。\n負けた人が負けを認めるのは、裁判所の槌のおかげでしょうか。それとも、会釈と譲り合いのあとの、あの一杯の酒のおかげでしょうか。\n参考資料\n評価：🟢 一次資料または公式ページ。🟡 二次資料（メディア、ウィキペディア、書評の要約）。未確認のものは別に記す。\n韓国：2022年大統領選挙 48.56%／47.83%（🟡、Korea Heraldなど。最終的な数字は中央選挙管理委員会 2022-03-10による）。2024年国会選挙 175／108議席（🟡、YTN、Newdaily、JoongAng。選管委の数字による。nec.go.krは未読）。2024-12-14の弾劾 204対85（🟡、Al Jazeera、HRW）。2025-04-04の憲法裁判所 8対0（🟡、OPB／NPR、IDEA）。2025年大統領選挙 49.42%／41.15%、投票率79.4%（🟡、Al Jazeera）。金文洙「謙虚に国民の選択を受け入れる」（🟡、韓経の引用）。尹錫悦の内乱事件の一審（2026-02-19、無期、🟡、JoongAng、Korea Times）。二審は2026-05に忌避申立てのため中断（🟡）。ギャラップ・コリア 2026-10-09：37%／不満51%／民主党35%（🟡、Korea Times、JoongAng）。2026-10-03の光化門の集会 約2.8万人（🟡、警察の非公式な推計、弱い出典） ネットユーザーのその回答とコメント：ある人が転送してくれた資料で、手がかりとしてのみ使った。本文のすべての数字は別に確かめた。 その他の国：日本 2026-02-08 自民党316議席／465議席（🟡、nippon.com、ウィキペディア）。日本の最高裁 2025-09-26、2024年衆議院選挙は合憲（🟢、裁判所ウェブサイト）。台湾 2025年のリコール（🟡、CNAが引く中央選挙委員会）。ハンガリー 2026-04-12（🟡、OSW、Al Jazeeraなど）。ルーマニア、トルコ、フランス、パキスタン、タイの裁判所と選管の事例（🟡、Al Jazeera、HRW、OSWなど）。エルサルバドル 2025-07（🟡、Al Jazeera）。フリーダム・ハウス『世界の自由度2026』報道発表（🟢、2026-03-19）。アメリカの分裂選挙区数（🟡、Brookings の表、FiveThirtyEight、Ellis Insight の転述）。Meta 2023年実験（🟡、報道のみ。論文の原ページは未入手） くじ引きと市民議会：アイルランド市民議会 2016–18、フランス気候市民会議 2019–20、ベルギー東部の常設議会、パリ市民議会（🟡、各国政府のページと研究機関の要約）。OECD『Government at a Glance 2025』（🟡、要約） 東アジアの選挙制度：シンガポール選挙管理局 2025年報道発表（🟢）、シンガポール2025年選挙結果（🟡）。ベトナム2026年国民議会選挙（🟡、ウィキペディア、Tuoi Tre。公式の最終数字は未確認）。中国『選挙法』2020年改正（🟢、条文の転載）。劉萍の件（🟡、海外メディア）。香港2025年立法会選挙（🟢、政府報道発表、官報） 負けを認めることと信仰：Anderson, Blais, Bowler, Donovan, Listhaug, Losers' Consent, Oxford UP, 2005（🟢、出版社のページ。全文は未読）。Przeworski, Democracy and the Market, 1991（🟡、転引）。Bellah, \u0026quot;Civil Religion in America\u0026quot;, Daedalus, 1967（🟢、要約）。Putnam \u0026amp; Campbell, American Grace, 2010（🟡、書評）。ギャラップ 2024年9月の投票集計への信頼（🟡、転載）。レバノン、イラク、ナイジェリア（🟡、ヒューマン・ライツ・ウォッチの2011年ナイジェリア報告🟢）。インドネシア憲法裁判所 2019、2024（🟢／🟡）。台湾2004年（🟡、Jurist） 儒家の原典：『尚書』康誥、『詩経』大雅・文王、『論語』泰伯（作者の引用文庫所収。ウィキソースで一字ずつ照合。校訂本のページ番号とは未照合）。『孟子』梁恵王下第8章、万章上、尽心下、『論語』八佾、『漢書』眭弘伝、『朱子語類』巻三十五（泰伯篇）、梁啓超『保教は孔子を尊ぶゆえんにあらざる論』（1902）、康有為『孔子改制考』と1902年『南北アメリカ諸華商に答えて中国は立憲のみ行うべく革命は行うべからざるを論ずる書』、北畠親房『神皇正統記』（いずれもウィキソースで一字ずつ照合、内容を述べたのみ、🟢。校訂本とは未照合） 未確認：韓国・日本・台湾各国の公式な選管ページ。アジア・バロメーターの「負けたら受け入れるべき」の設問。東アジアの現代の負けを認める言葉における「天」の分布の正確なところ。二つの言葉の読み方にすぎない。 対照して読む：このシリーズの『韓国にはほんとうに「天道教」があった』（崔済愚）、『「神社は宗教にあらず」』、『孔教会はなぜ失敗したか』、『同じ一組のカードで、六通りの打ち方』、『国家が一度儒家を推し、そして引っ込めた』（シンガポール） 画像の出典は各図の説明に記載 ","permalink":"https://tentao.pages.dev/ja/linju/d49/","summary":"\u003ch2 id=\"一二年\"\u003e一、二年\u003c/h2\u003e\n\u003cp\u003eまず韓国の話です。あなたのほうが、私よりよくご存じかもしれません。\u003c/p\u003e\n\u003cp\u003e2022年3月、尹錫悦（ユン・ソギョル）は48.56%対47.83%で当選しました。差は0.73ポイントで、韓国が大統領を直接選ぶようになって以来、最小の差でした。敗れた李在明（イ・ジェミョン）は、これはあなたたちの敗北でも、民主党の敗北でもない、責任はすべて自分にある、と言いました。\u003c/p\u003e","title":"負けを認めるのは何のおかげか：韓国の二年と、東アジアの投票"},{"content":"『依帰』のこれまでの多くの篇は、おおむね、一つの文明は何で人をまとめるのか、と問うてきました。南方篇は、見方を変えて問います。人が散り散りになって、また別の場所に集まるとき、何を携えていくのか。私はそれを湖南と江西のあたりに置き、移民の道筋に沿って、四川、両広、福建にも足を延ばします。\nまず小さな話から。もしあなたが湖南の人、あるいは江西の人、あるいは先祖がその二つの省から出た人なら、たぶんこんな一言を聞いたことがあるでしょう。うちの先祖は、江西から移ってきた。多くの族譜にそう書かれています。私はこの一言から始めたいと思います。\n長沙の岳麓書院、976年創建。　出典：Wikimedia Commons、xiquinhosilva、CC BY 2.0\n二千年前、ここは一つのまとまりだった 司馬遷は『史記・貨殖列伝』で天下の風俗を述べ、「衡山、九江、江南、豫章、長沙」をまとめて「南楚」と呼び、その風俗は「大いに西楚に類する」と言いました。\n衡山と長沙は今日の湖南にあり、豫章は今日の江西にあります。二千年前、この二つの土地は一つのまとまりで、一つの名でした。\nのちに二つに分けられました。「江西」の名は、唐の開元二十一年（733年）の「江南西道」に由来すると言われます。最初は「江南道」の西半分にすぎませんでした。「湖南」はもっと直截で、洞庭湖の南という意味です。一つは行政区画の略称、もう一つは地理上の方位です。（譚其驤らの「わが国の省区名の由来」によれば、733年に江南道を東西二道に分け、西道は江西道と略称されて「江西」がはじめて行政区の名になった。「湖南」の名は、安史の乱後に置かれた湖南観察使に始まり、洞庭湖以南の湘水・資水流域を管轄した。）\nこの土地の一方には羅霄山脈があり、もう一方には二本の大河と二つの大きな湖があります。湘江と贛江、洞庭湖と鄱陽湖です。人がここからどこへ、どちらへ行けるかは、水と山が、とうの昔に大半を決めていました。\n岳陽の洞庭湖。　出典：Wikimedia Commons、Huangdan2060、CC BY 3.0\n鄱陽湖の衛星画像。　出典：Wikimedia Commons、NASA、パブリックドメイン\nひとつ問いたいこと：人はどう動いたのか 南方篇の主線は、ごく素朴なことです。人の流れ。\n私たちはよく、「どこの人か」は固定されたことだと思っています。けれど湖南と江西の歴史を開くと、ほとんどの人が「よそから来た人」だと分かります。元末明初、湖南の人口が大きく減り、江西の人が次々と西へ向かって、のちに「江西、湖広を填める」という言い方が生まれました。清初には四川の人手が足りなくなり、湖南の人がまた次々と西へ向かって、「湖広、四川を填める」と呼ばれました。魏源にこの件を書いたとされる一句があります。事が定まったのち、「江西の人は楚に入り、楚の人は蜀に入る」。（この句は、多くの論文が魏源『湖広水利論』として引用し、明末の張献忠の乱のあとの移民を指していますが、私は原文を取れておらず、孫引きとしか言えません。）\nそこで、このことを歴史のなかに置いて、確かめてみたいのです。人は、動くべきか。\n私自身の傾きは、動くべきだ、です。人は、原籍、生まれた小さな町、身分証の住所に閉じ込められるべきではありません。人は歩いて行け、別の場所に着いて、やり直せるべきです。これは、いろいろな面から、私がずっと考えてきたことです。自由な意志による移動こそが、現代社会の文明を示すのだと、私は考えています。\nけれど、これにはもっとも強い反対の側も用意しなければなりません。移民はいつも自由とは限りません。洪武年間には官が組織した移住があり、一隊ずつ、連行されて歩かされました。行きたい人が行ったのではありません。戦乱のなかの離散には、「自由」の二字を言う余地もありません。家を強いられて離れ、道中で半分が死んだ人。そういう「流動」は、私が求めるものではありません。\nだから南方篇が問うのは、じつは二つの問いです。一、どんな流動なら、よいのか。二、新しい土地に着いた人は、何を携えているのか。\n私が書かないこと あらかじめ言っておきます。南方篇が書かず、入れもしない種類のものが一つあります。地域性格です。\n「湖南人はこうだ」「江西人はこうだ」とは書きません。「湖南人は頑固だ」も、「江西人は実直だ」も書きません。そういう話は言うのも簡単で、聞いて心地よくもありますが、たいていは言い伝えられたもので、調べて出てきたものではありません。賛辞であってもいりません。一つの省の何千万人を一つの形容詞に押し込めるのは、そのひとりひとりに対して公平ではないからです。\n私が問いたいのは、制度、地理、移住、出来事です。この土地で何が起こり、それがここで暮らす人にどう影響したか。\n私が避けて通らないこと 南方篇は、1927年以後にも触れます。\n湘贛の境界は、のちの多くの大事件の出発点です。南昌蜂起、秋収蜂起、井岡山、瑞金、そして長征がここから出発しました。私はこれらを書きますし、1949年以後、二つの省の農村が何を経験したかも書きます。私が読む資料には、公式の数字、地方志、学者の研究、当事者の記憶があります。それらを並べ、それぞれの寸法で示します。\n事実は、できるかぎり確かめます。評価は評価として書き、事実に混ぜません。私は共産党について、共産主義について、見方を持っていて、持っていないふりをするつもりはありません。ただ、一つの見方を一つの事実のように書きたくもありません。この区別を、ずっと守ります。\nこのサイトは、中国大陸の外にいる読者に向けています。この機会に、壁の内側では言いにくい多くのことを、もう少しはっきり言いたいとも思います。ただ、私が求めるのは正確に言うことで、重く言うことではありません。\nこれから見ていくこと おおよそ、次のようなことです。\nまず「南楚」から始め、この土地の、二万年前の土器の破片、一万年以上前の稲、商代の青銅、屈原と賈誼を語ります。 次に唐代の一本の道が江西を切り拓いたこと、禅宗の「江湖を走る」こと、周敦頤、朱熹と張栻の岳麓書院、朱熹と陸九淵の鵝湖を語ります。 次に「填める」と「走る」：江西が湖広を填め、湖広が四川を填めたこと、族譜をどう読むか、景徳鎮と江右商幇。 次に曾国藩と湘軍、経世、そして「なぜ湖南は人材を出すのか」という多くの説のうち、どれが調べに耐えるか。 次に1927年以後の湘贛境界。 最後は、いま。両省の帳簿、広東にいる五百万人の湖南人、両省の出生数が減っていくこと、そして私がいちばん問いたい問い、人は動くべきか。 南昌の滕王閣。王勃は『滕王閣序』で、これは「三江を襟とし五湖を帯とし、蛮荊を控え、甌越を引く」と書きました。　出典：Wikimedia Commons、Ashish Yadav、CC BY-SA 4.0\n裏返して見る 南方篇の前提には、三つのもっとも堅い反対の側があります。\n第一に、私の言う「流動」は、聞こえがよすぎるかもしれません。洪武年間の官による強制移住と、戦乱のなかの逃亡は、自由な流動ではありません。それを、今日の若者が高速鉄道で広州へ働きに行くことと、同じ「流動」のかごに入れるのは、概念のすり替えではないでしょうか。\n第二に、族譜は私がいちばん引用したい材料であり、いちばんあてにならない材料の一つでもあります。族譜は名門に結びつけ、書き換えられ、書く人はたいてい、のちに豊かになった家です。「先祖は江西から来た」には、本当のものもあれば、みなが同じように書いたものもあるでしょう。\n第三に、地域の語りは、ステレオタイプになりやすい。私自身は避けたいのですが、湘軍と近代を書くときに、うっかり落ちてしまわない自信はありません。もしどこかを読んで、私が落ちていると思われたら、教えてください。\nあなたの家の年長者も、「うちの先祖はよそから移ってきた」と言ったことがありますか。そのよそとは、どこでしたか。\n参考資料\n『史記・貨殖列伝』：「衡山、九江、江南、豫章、長沙は是れ南楚なり、その俗は大いに西楚に類す」（ウィキソース） 「江西」は唐の開元二十一年（733）の「江南西道」から、「湖南」は唐の中後期の湖南観察使から：譚其驤ら「わが国の省区名の由来」、愛思想網転載 🟡 魏源『湖広水利論』の「江西の人は楚に入り、楚の人は蜀に入る」：多くの論文の引用で見られる（例：張国雄「中国史上の移民の主な流れと時期区分」、『北京大学学報』1996年第2期）。原書は未取得 🟡 対照して読む：『時事』の「人は動くべきか」を扱う数篇；『依帰』房子篇（湘中の邸宅、祠堂、族譜、祖先の墓） 図の出典は各図のキャプションに記載 ","permalink":"https://tentao.pages.dev/ja/yigui/xg00/","summary":"\u003cp\u003e『依帰』のこれまでの多くの篇は、おおむね、一つの文明は何で人をまとめるのか、と問うてきました。南方篇は、見方を変えて問います。人が散り散りになって、また別の場所に集まるとき、何を携えていくのか。私はそれを湖南と江西のあたりに置き、移民の道筋に沿って、四川、両広、福建にも足を延ばします。\u003c/p\u003e","title":"南方篇：湖南と江西、人はどう来て、どう去ったのか"},{"content":"子どものころ、年長者がこんなことを言うのを聞きました。あのとき南京を開いて、洋財を得た。\n言った人は学問をしていたわけではありません。食卓で、軒先で、ついでに口にしただけ。意味は、このあたりの大きな屋敷は、南京から持ち帰った金で建てたものだ、ということです。私はこの言葉をずっと覚えています。\n先に手の内を見せておきます。私は信じる側に傾いています。\n信じる理由：その場にいた人がいる 趙烈文は曽国藩の幕僚でした。同治三年六月二十三日、つまり1864年7月26日、彼は陥落後の南京について日記を書いています。原文を、一字ずつ読みました。\n壮健な太平軍の兵は、抵抗して殺された者を除けば、死んだ者は多くありません。大半は兵勇に捕まって荷を担いで城外へ運ばされるか、地下の窖（あなぐら）を掘らされ、掘り当てたら放されました。年寄りや弱い者、荷も担げず掘る窖もない者は「思うままに殺され」、通りの死体は十のうち九が老人でした。四十歳以下の女は、一人も残っていません。それを書きながら、彼は四つの字を記しています。「発指すべし」（髪が逆立つほどだ）。\n曽国藩の布告は城中に貼り尽くされ、良民を殺すな、女を奪うなと禁じていました。しかし数人の統領について、趙烈文は名を挙げています。彭毓橘、易良虎、彭椿年、蕭孚泗、張詩日。「ただ略奪を知るのみで、まったく従わない」。さらに蕭孚泗は天王府で金銀を取り出し、それは「不貲」、数えきれないほどで、その後に火を放って痕跡を焼いた、とも書かれています。\nこれが私の手元で一番硬いものです。城中で大規模な略奪があったこと。実際に手にした者がいたこと。痕跡を残すのを恐れた者がいたこと。曽国藩自身は、上奏文で城中は「貨物がまったくない」と述べたと引かれていますが、彼は当事者で、私の手元にあるのは孫引きだけです。この一句は手がかりとしてだけ扱います。\n帳簿：もう追わない いくら運び出したか。誰が取ったか。どう故郷へ運んだか。見つかる限りの資料を当たりましたが、一行も対応するものはありませんでした。\n考えて、これ以上追わないことにしました。当時の人は帳簿をつけなかったし、つけたとしても残さなかったでしょう。誰も書き残さなかった事柄について、「あったのか、なかったのか」を何千字も言い争っても、何も出てきません。それに金の出どころは一つとは限りません。戦功で得た官位と俸給が一つ、戦後に田畑や家を買ったのが一つ、故郷での付き合いや贈答が一つ。「発洋財」は中国語では思いがけない儲けを指す通称で、外国人の金とは限りません。\n帳簿より大事なのは、この金が、額がいくらであれ、最後に何になったかです。\n屋敷になった 2022年の『湖南日報』の報道によると、婁底市涟源の楊市鎮・三甲郷、婁星区の水洞底鎮一帯には、湘軍将領の旧宅が百か所以上残り、保存状態のよいものが17か所、そのうち省級文物保護単位が7か所だそうです。数字は報道のもので、私は数え直していません。楊家灘一帯の地方の文章には、これらの文武官僚が「錦を飾って帰郷」したあとで大きく普請をし、屋敷が軒を連ねる姿になったと書かれています。\n年長者は、もう半分の話もしてくれました。同じ軍にいた同郷の二人。一人は財を残して大きな屋敷を建て、もう一人は、年長者の言葉では「金は残せず、使うだけ」でした。これは口述で、書かれた出典はなく、人びとが言う話として受け取るだけです。ただ、ここには問いが置かれています。同じ金が、ある人の手では代々続く屋敷になり、百年余りのち文化財になった。別の人の手では使い切られ、子孫に語るものがほとんど残らなかった。\n曽国藩本人は、戦いの前の1849年前後、弟たちへの手紙で、三十歳を過ぎてからは「官に就いて財を成す」ことを恥と考え、金があればまず一族の貧しい者を助ける、と書いています。自分に課した決まりです。部下がどうしたかは、別の帳簿です。\n人が出て行った 湘軍が湖南を出たことは、大きな人の流出でした。湖南の人は江西、安徽、江蘇へ行きました。官位と名声、もしかすると金を持って戻った人もいれば、戻らなかった人もいます。\n戻った人は、金と名を故郷に置きました。屋敷、祠、書院、そして代々外へ出て行く読書人の自信です。戦後の湖南の文教が戦前を上回ったと言える資料は、見つかりませんでした。岳麓書院は宋代からあり、湖南の書院は戦後に始まったのではありません。一方、明の洪武から清の乾隆末までの湖南の進士は全国の1.8％に過ぎないという研究もありますが、出典は示されていません。どちらからも結論は出しません。言いたいのは、この線は確かにあるが、一本の線ではないということだけです。\nそれから あの大きな屋敷が今どうなっているかは、この一篇の仕事ではありません。『依帰（Yigui）』シリーズの「住まい篇」にある富厚堂と楊家灘の一篇には、旧宅が崩れ、食糧倉庫や工場に変わった経緯が書かれています。『時事』の郷土篇には、今の湖南の数字があります。屋敷が空になった。それは事実です。\n私が言いたいのは、屋敷が空になったあとのことです。\n湘軍は一世代の男たちを湖南から連れ出し、屋敷の列を持ち帰りました。屋敷はその後空になりましたが、人は止まりませんでした。今日、湖南に戸籍のある13人に1人が広東にいます。これは悪いことではありません。人は動けるべきです。「木は移せば枯れ、人は動けば生きる」。「水草を逐いて居る」。故郷にとどまり、同じ一枚の土地の中で全力で互いに争うのが、私の言う「内巻」（内向きの消耗競争）です。\n東アジアの人びとへの私の願いは、おおよそこうです。人は世界のどこでも生きていける。水草のあるところへ行けばいい。ただし、どこへ行っても持っていくものが一つある。共通の核です。祖先を祀ること、礼、節句、読める漢字の文章。動けて、散らばらない。守れて、自分の小さな土地に押し込められて競い合うことがない。\nだから湘軍のこの金を読むとき、私は額がいくらか、どの屋敷に入ったかは見ません。湖南を出た人たちが、「出て行く」ことを続いていく何かにできたのか。それとも金を屋敷に変えただけで、屋敷をその後の空白に残したのか。それを見ます。南方篇は、これからもそれを問い続けます。\nもし金が本当にあの城から来たのだとしたら、あの城のなかで外へ出られなかった人たちを、のちに誰か覚えていたでしょうか。\n参考資料\n趙烈文『能静居日記』同治三年六月二十三日（1864年7月26日）、ウィキソース『能静居日記』、原文を一字ずつ確認 🟢 曽国藩の諸弟への手紙、道光二十九年三月二十一日（1849）、『曽国藩家書』、ウィキソース、原文を一字ずつ確認。手紙の日付と篇題が一致するか未確認のため、本文は「1849年前後」とした 🟢 曽国藩の金陵克復の上奏：「いわゆる庫蔵なし……全く貨物なし」の大意：引用、上奏の題名と日付は未確認 🟡 湖南日報2022-01-13第8面「湘中に古宅多く 旧物は郷愁を誘う」（華声在線転載）、湘中の湘軍将領古宅の遺存（百か所以上、保存較良17か所、省級文化財7か所）：原文を読み、数字は報道のもので別に数えていない 🟡；楊家灘の地元の文章（華声在線2017）🟡 岳麓書院976年（宋開宝九年）創建、1167年（乾道三年）朱熹の来訪と張栻との会講、張栻が約1166年に招かれ主講：中国語版ウィキペディア「岳麓書院」🟡；湖南の明洪武から清乾隆末までの進士710人、全国の1.8%：沈登苗、『湖湘論壇』2000年第3期、愛思想網転載、文中に元の統計の出典なし 🟡 趙烈文のもう一つのよく引かれる日記：「掠奪を貪り、隊伍が大いに乱れ、中軍の各勇で営に残った者はみな出て搜括した」：郭廷以『近代中国史綱』経由の引用、日付は未確認 🟡 本文の図はプログラムで描いた概念図で、史料ではない ","permalink":"https://tentao.pages.dev/ja/yigui/xg36/","summary":"\u003cp\u003e子どものころ、年長者がこんなことを言うのを聞きました。あのとき南京を開いて、洋財を得た。\u003c/p\u003e\n\u003cp\u003e言った人は学問をしていたわけではありません。食卓で、軒先で、ついでに口にしただけ。意味は、このあたりの大きな屋敷は、南京から持ち帰った金で建てたものだ、ということです。私はこの言葉をずっと覚えています。\u003c/p\u003e","title":"南京を開いて洋財を得た：この金は突き止めなくていい、行き着いた先を見る"},{"content":"ネットのひとつの問い ネットでよく聞かれる問いがあります。なぜ荘子は道教でこれほど地位が低いのか。\nあるネットユーザーは古文を四か所並べました。荀子は荘子を「天に蔽われて人を知らず」と言う。『荘子・天下』では、荘子と老子が別々に書かれている。王羲之は『蘭亭集序』で「死生を一にし、彭殤を斉しくする」を虚誕妄作だと罵る。葛洪は『抱朴子』で荘子を批判する。\nこの四か所がすべて本当なら、「地位が低い」だけの話ではありません。道すがら、重みのある何組もの人たちが、荘子に反対していたことになります。\nまず「低い」とは何か ただ、その前に「低い」という字を問うておきます。\n唐の玄宗の天宝元年（742）、朝廷は荘子に「南華真人」の号を追贈し、その書を『南華真経』と改めました。同時に、文子（通玄真人）、列子（冲虚真人）、庚桑子（洞虚真人）も封じられています。これは『旧唐書』と『唐会要』の記載によるもので、私が読んだのは転述で、原書ではありません。\n明代の人が描いた唐の玄宗・李隆基の像。　出典：Wikimedia Commons、作者不詳、パブリックドメイン\nつまり、公式には彼は軽んじられていません。封号があります。\nでは「低い」とは誰と比べてか。老子とです。道教は老子を太上老君として奉じ、教のなかの神とします。李氏の唐の皇室は、老子を祖先とも認めました。荘子は「真人」で、その後ろの一段、この大神の弟子の世代にあたります。教は彼を敬いますが、教主ではありません。\nこれが「地位」のひとつの見方です。次に述べるもうひとつのほうが、これより大事です。\n四か所の原文 第一、荀子。 『荀子・解蔽』で、荀子は戦国の諸家をひとつずつ挙げていきます。\n墨子は用に蔽われて文を知らず。宋子は欲に蔽われて得を知らず。慎子は法に蔽われて賢を知らず。申子は勢に蔽われて知を知らず。恵子は辞に蔽われて実を知らず。荘子は天に蔽われて人を知らず。（日本語訳）\nここは荘子ひとりを罵っているのではなく、並べて挙げているのだと注意してください。どの家もどちらか一端に「蔽われ」ています。墨子は実用だけ、慎到は法だけ、申不害は勢だけ、恵子は言葉だけ、荘子は天だけ。荀子の言いたいことは、これらはどれも道の「一隅」であり、「そもそも道とは常を体して変を尽くす。一隅では挙げるに足りない」ということです。\nだから荀子が荘子を批判しているのは、「天だけを見て、人を見ない」ことです。\n第二、『荘子・天下』。 『荘子』の最終篇で、当時の諸家の学術をひとまとめに論評した文章です。関尹と老聃をひとつの段にまとめています。\n関尹、老聃は、いにしえの博大なる真人なるかな！（日本語訳）\nそして荘周だけを別の段にし、冒頭は同じ句です。\nいにしえの道術のここにあるもの、荘周はその風を聞いて悦ぶ。（日本語訳）\nどちらの段にも「その風を聞いて悦ぶ」が使われています。つまり『天下』の書き方では、関尹・老聃がひとつの系統、荘周が別の系統で、それぞれが「風を聞いて悦ぶ」のは古い道術の別の面です。これが、あのネットユーザーの言う「荘子と老子は同じ筋ではない」の根拠です。ただしこれはひとつの読み方にすぎません。『天下』篇が荘子本人の作かどうかは学界に争いがあり、これを「荘子の自述」とするのは行きすぎです。\n第三、王羲之。 353年、永和九年、王羲之は友人たちと会稽の蘭亭に集い、『蘭亭集序』を書きました。序の終わりに、こう書いています。\n古人は言う、「死生もまた大なり」と。なんと痛ましいことか！　昔の人が感興を起こした由を見るたび、まるで割符を合わせたようで、文に臨んで嗟悼しないことはなく、心の中で言い表すことができない。死生を一にするは虚誕、彭殤を斉しくするは妄作だと、固く知った。（日本語訳）\nここの「死生を一にする」「彭殤を斉しくする」は、荘子の言葉です。王羲之は言います。人が死を前にした痛みを読むたび、悲しまずにいられない。だから、生と死を同じものとし、長寿と夭折を同じものとするのは、虚誕であり、妄作だと知った、と。\n第四、葛洪。 葛洪は東晋の道教学者で、『抱朴子』を書き、神仙と養生を説きました。彼は荘子について三か所で語り、その意味はかなり違います。\n内篇巻八では、文子、荘子、関尹の徒をまとめて、その文字は「黄老を祖述し、玄虚を憲章する」けれど、「その大旨を演べても、永く至言なし」、「あるいはまた死生を斉しくし、生きて存るのを徭役とし、死に没するのを休息とみなして異なりなしという。それは神仙から千億里も離れている。どうして耽り玩ぶに足りようか」と言います。しかしすぐ続けて、彼らの寓言や譬喩には「なお採るべきものがある」とも言います。\n内篇巻十四では、もっと率直です。「俗人は荘周に大夢の喩えがあるのを見て、競ってまた死生を斉しくする論を張る。……老子は長生久視を業とし、荘周は泥中で尾を揺らすを貴び、網にかかった亀や、刺繍を着せられた牛にならず、飢えて粟を河侯に求めた。これによって、彼が死生を斉しくできないことが知れる」。つまり、荘周自身、供えられる祭牛になるより泥の中で尾を振る亀でいたかった。飢えれば穀物を借りに行った。だから彼自身、生死を本当に同じものとはみなしていなかった、という意味です。\n外篇巻四十三では、彼は荘子のために弁じます。「荘周の書は死生を一とするが、また牲を畏れ亀を慕い、粟を請うて飢えを救うこともある。もし言うところが純でないという理由でその文を棄てるのは、珠の曇りを治すために目をえぐり、湿痹を治すために足を切り、稗を憂えて穀を刈り、枯れ枝を憎んで樹を伐るようなものだ」。言うことが一貫しないからといって、本全体を捨ててはいけない。\n陸治「荘周夢蝶」（明代）。　出典：Wikimedia Commons、Lu Zhi、パブリックドメイン\n三人、同じ問題 三か所を並べると、ひとつ気づくことがあります。\n荀子は儒家で、求めるのは礼、人事です。王羲之は士人で、求めるのは亡き人への情です。葛洪は道教の神仙家で、求めるのは長生です。立つ位置はまったく違うのに、三人とも「死生を斉しくする」ことに反対しています。\nこれは偶然ではありません。これらの共同体、儒家の、士人の、神仙家のものは、どれも答えねばならないことがひとつあるのです。人が死んだら、どうするか。\n儒家の答えは喪礼と祖先祭祀です。終わりを慎み、遠きを追う。王羲之の答えは「痛み」です。真剣に悲しもうとする。神仙家の答えは、死なない方法、あるいは死を減らす方法を考えることです。\nでは荘子の答えは何か。『荘子・至楽』に有名な一段があります。\n荘子の妻が死んだ。恵子が弔いに行くと、荘子はちょうど箕踞（足を投げ出して座る）し、盆を鼓して歌っていた。（日本語訳）\n恵子はけしからんと思いました。荘子は言います。彼女が死んだとき、悲しまないわけがあるか。だが考えてみた。もともと彼女には生もなく、形もなく、気もなかった。やがて気が集まって形になり、形が生になり、いままた変わって死になった。春夏秋冬が巡るようなものだ。それなのに、私がまだ泣き続けていれば、天命を知らないことになる。だから泣くのをやめた、と。\n私はこの一段を、心を打たれる、そして孤独だと思いながら読みます。これは、いちばん近しい人が亡くなったとき、ひとりの人が見つけたやり方です。ひとりを慰めることはできても、群衆のために葬儀を営むことはできません。\n葬儀を営むには、みなが認める儀式が要ります。何を泣き、何を着て、何を言い、何日、どう葬るか。荘子のやり方は、一人ひとりが自分で悟らねばならず、悟れなければ受け止められません。\nだから私の読みはこうです。荘子は「貶められた」のではなく、使えなかったのです。人びとを集めようとする教は、核心に死への答えと、共通の儀式を持たねばなりません。荘子にはそれが出せません。彼が与えるのは自由です。\n裏返して見る 自分の側の弱点も挙げます。\n第一に、「低い」のは教の中だけです。 士人、文人、芸術のなかで、荘子の重みは決して低くありません。魏晋の玄学、逍遥の伝統、何代もの画家や詩人。陸治の『荘周夢蝶』は、明の人が描きました。「教」では二列目に置かれ、「人」の精神ではしばしば一列目です。\n第二に、葛洪はひとりにすぎません。 彼が代表するのは神仙家で、道教全体ではありません。彼は「寓言譬喩はなお採るべきものがある」とも言い、外篇で荘子を弁護してもいます。宋以後の道教、たとえば全真教が荘子をどう読んだかは調べていません。これはひとつの欠落です。\n第三に、「死生を斉しくする」こと自体が荘子の本意かどうかにも争いがあります。 葛洪自身が、荘周は「泥中で尾を揺らすを貴ぶ」、つまり実は死を恐れていたと言っています。そうなら、荘子が求めたのは「死は悲しむに足りない」ではなく、「死に怯えて魂を失うな」だったのかもしれません。この二つはまるで違います。\n私の見方 これらの原文は、私の構想にとても実際的な注意を与えてくれます。\n私が欲しいのは、みなが認める文化と信仰です。祖先を祀ること、礼、服章、節句、日々の暮らし。この核心は、死への答えです。毎年清明に祖先の墓前に立つ。その一瞬が、ひとりの人と一族がいっしょに、死を「過ごせる」ものに変える行いです。これは儒家の喪礼と祖先祭祀で、千年の歴史があり、私が残したいものです。\n私は荘子もとても好きですし、老子の「道を為せば日に損す」も好きです。ひとり、疲れたときに読むのは、とてもよいことです。でも私が欲しいのは、ひとりの慰めではなく、人びとがいっしょにできることです。だから私が思い描く核心のなかで、荘子は読み物になり、儀式にはなりません。\n荘子の「盆を鼓して歌う」にも、私は少し胸が痛みます。あの人は、妻の霊前で、ひとりで、あることを悟ったのです。彼が泣いたと、私は信じたい。けれど「ひとりが悟ったこと」を、「みなでどうするか」の答えにすることはできません。\n荘子だけの社会に、葬式は営めるだろうか。\n参考資料\n『荀子・解蔽』：「墨子は用に蔽われて……荘子は天に蔽われて人を知らず。……夫れ道は常を体して変を尽くす、一隅は以て挙ぐるに足らず」、ウィキソース、一字ずつ照合 🟢 『荘子・天下』：「関尹、老聃は、古の博大なる真人なるかな」「荘周はその風を聞いて悦ぶ」、ウィキソース、一字ずつ照合 🟢；『天下』篇の作者と性質：学界に争いあり 🟡 『荘子・至楽』：「荘子の妻死し、恵子これを弔う、荘子は方に箕踞して盆を鼓して歌う」、ウィキソース『荘子翼』巻五による検索抜粋 🟡（各本に異文あり） 王羲之『蘭亭集序』（353）、ウィキソース、一字ずつ照合 🟢 葛洪『抱朴子』内篇巻八・巻十四、外篇巻四十三（外篇巻四十二には客の問い「伯陽は道徳を首とし、荘周は逍遥を篇の冠とす」もある）、ウィキソース、一字ずつ照合 🟢 唐の玄宗天宝元年（742）荘子に「南華真人」を追号：『旧唐書・玄宗本紀』『唐会要』、ネットの転述による 🟡；道教が老子を太上老君として奉ずる：通説 🟡 ネット上の関連する議論（ネットユーザーの見解、手がかりとしてのみ） 併せて読む：『依帰』の入土為安の一篇、「宗教はどこで勝つのか：教義ではなく、一つの鍋にある」；作者の選題ノート（欠けているのは「死後」：仏教が埋めた穴） 画像の出典は各図の説明に記載 ","permalink":"https://tentao.pages.dev/ja/yigui/e118/","summary":"\u003ch2 id=\"ネットのひとつの問い\"\u003eネットのひとつの問い\u003c/h2\u003e\n\u003cp\u003eネットでよく聞かれる問いがあります。なぜ荘子は道教でこれほど地位が低いのか。\u003c/p\u003e\n\u003cp\u003eあるネットユーザーは古文を四か所並べました。荀子は荘子を「天に蔽われて人を知らず」と言う。『荘子・天下』では、荘子と老子が別々に書かれている。王羲之は『蘭亭集序』で「死生を一にし、彭殤を斉しくする」を虚誕妄作だと罵る。葛洪は『抱朴子』で荘子を批判する。\u003c/p\u003e","title":"荘子は道教で、本当に地位が低いのか"},{"content":"ネットのひとつの問い ネットでこう聞く人がいました。女真人が治めた金国では、漢人は宋より暮らしがよかったという人がいるが、信じるか。\n上位に出た回答に、賛同が多く集まりました。投稿者はまず、山東の女性、楊妙真の話をします。「梨花槍」を使い、戚継光も『紀効新書』に書いている人です。次にひとつの場面。1220年ごろ、山東や江蘇北部の道で、金朝で裕福だった女真人や契丹人が一家を連れて南へ逃げ、紅襖軍に囲まれ、「老いも幼きもまとめて殺し尽くされた」。こういうことは元好問が自分の目で見たから、「屠戮浄尽、無復噍類」と書いたのだ、と言います。\n回答の趣旨はこうです。金国の漢人は暮らしがよかったというのか？ 漢人が立ち上がったとき何をしたか見てみろ。\nここには半分の真実があり、半分は確かめる必要があります。\nまず「暮らしがよい」側から この説は、何もないところから出てきたわけではありません。\n『金史』では、世宗（在位1161〜1189年）は称賛の多い皇帝です。『金史』を編んだ人たちは、本紀の後ろに賛を書きました。\n即位して五年、南北は和を結び、民と休息した。……この時、群臣は職を守り、上下相安んじ、家ごとに足り人ごとに満ち、倉廩に余りあり、刑部が一年に断ずる死罪は、あるいは十七人、あるいは二十人、「小尭舜」と号した。これがその効験である。（日本語訳）\n「一年に死罪が十七人、二十人」は、目に浮かぶ一句です。ただし注意が要ります。これは史臣の賛語であり、『金史』が編まれたのは元の時代です。良いことを言っているのは、数十年後に振り返った人たちです。\n同じ『金史』の、別の面 けれども同じ『金史』には、ほかのことも書かれています。\nその一、差役。 世宗の朝廷で、財産に応じた差役の割り当てが議論されたとき、ある大臣はこう言いました。「女直人は猛安謀克の僕従差使を除き、余に差役なし」（『食貨志一』）。猛安謀克は女真人の軍事・戸籍の編制です。つまり女真人は、自分たちの猛安謀克に仕える以外に差役がない。差役を担ったのは漢人でした。\nその二、括地。 金朝は女真人を中原に移し、「猛安謀克、漢地に雑厠す」。彼らに土地を与えねばなりません。方法は「括地」「撥地」「民田を刷る」でした。世宗は在位中、自分でもこう言っています。\n朕、括地のことの行うところ極めて不当と聞く。皇后荘、太子務の類のごとき、ただ名称をもって便ち官地とし、百姓の執る憑験は、一切問わず。（日本語訳）\n（『食貨志二』）もう一句、宰臣に言ったことがあります。山東で刷った民田はすでに女真の屯田戸に分けた、余地があれば民に返せ、と。また大臣の梁粛にはこう言いました。「これは民地と称すといえど、みな明らかな証拠がない。括って官地とするに何の不可があろうか」。これらは同じ人の言葉です。不当だと感じながら、不可はないとも思っている。\n1141年ごろの金・南宋・西夏。山東は金の東部、淮河の北。　出典：Wikimedia Commons、Albert Herrmann \u0026amp; Georg Westermann、パブリックドメイン\nその三、役人自身も恨みを知っていた。 1215年（貞祐三年）、朝廷は河南で括地を行い、南遷する軍戸を落ち着かせようとしました。侍御史の劉元規は上書します。\nさきに河北、山東ですでにこの挙があり、民の茔墓、井灶はことごとく軍の有となり、怨嗟と争訟は今に至るまで絶えない。もし再びこれを行えば、大いに衆心を失うであろう。（日本語訳）\n朝廷は聞き入れて、この括地を取りやめました。\nこの一句は、長く目を離せませんでした。「民の茔墓、井灶はことごとく軍の有となる」。墓、井戸、かまど。みな人のものになったのです。\n1214年、臨淄 ここで元好問に戻ります。\n1214年、モンゴルが北から攻め込み、金は都を中都から南京（開封）に移しました。この年、山東は乱れました。元好問は後に、完顔懐徳という人のために神道碑を書きました。碑に書かれているのがこの年です。\n貞祐二年、代わるに期あり。しかるに中夏は兵を被り、盗賊充斥し、たがいに支党となり、衆は数十万に至り、郡邑を攻め下し、官軍制する能わず。渠帥は岸然として名号をもって自ら居り、拨地の酷を仇とし、種人に睚眦し、必ず殺して後に已まんことを期す。営塁、散居、侨寓托宿を問わず、群不逞が哄起してこれを攻め、跡を尋ね影を捕らえ、余力を遺さず、二三日ならずして、屠戮浄尽、また噍類なし。墳墓を発掘し、骸骨を荡棄するに至るまで、所在みな然り。（日本語訳）\n平たく言えば、こうです。そのころ「盗賊」があちこちにいて、呼応し合い、数十万の数になり、城が次々と攻め落とされ、官軍は抑えられなかった。首領は堂々としていて、恨んでいたのは「拨地」の残酷さであり、「種人」、つまり女真人を一人も許さず、殺し尽くすまでやめないと決めていた。兵営に住む者も、散居する者も、人の家に身を寄せている者も、群衆が一斉に立って襲い、足跡をたどって追い、二、三日もたたないうちに「屠戮浄尽、無復噍類」。墓まで掘られ、骨は捨てられた。\nこれがその一句の出どころです。本物で、しかも回答が言ったより激しい。墓まで掘っているのです。\nただ、三つの点がその回答と違います。\n一、時と場所。 書かれているのは1214年の山東（碑の主は臨淄令）であって、1220年ごろの江蘇北部ではありません。\n二、「紅襖軍」の三文字はありません。 碑文は「盗賊」「渠帥」と言っています。私が『金史』の楊安児・劉二祖の乱と結びつけたのは、時間と場所が合うからです。『金史』には、楊安児・劉二祖が敗れたあと、その残党が「しばしばまた団結し、所在で寇掠し、みな紅納襖を着て相識別し、『紅襖賊』と号した」とあります。これは私の推定です。\n三、原因は、碑文が自分で言っています。「拨地の酷を仇とす」。\n山西省忻州の元好問墓前にある元好問像。　出典：Wikimedia Commons、Outlookxp、CC BY-SA 4.0\n同じ碑文に、もうひとつのこと その回答が引かなかったのは、この文の直後の数句です。\nひとり臨淄の民のみ、令君の仁に感じ、視ること猶お血属のごとく、百方に匿い、合家の父子で甘んじて死地に就く者あり。人心すでに定まり、確然として移らず、その掩蔽はいよいよ深く固くなった。かくのごとくして数か月の久しきに及んだ。（日本語訳）\nその県令は完顔懐徳といい、女真の宗室で、1213年に臨淄の県令に任じられました。碑には彼が「華腴に生長しながら、法度をもって自ら検す」と書かれています。酒を飲まず、怒らず、細かくなく、鞭で威を立てない。数日のうちに上下が「歓然として、一堂のうちにあるが猶し」。\nほかの土地の女真人は、きれいに殺されました。けれども臨淄の民は、「令君の仁に感じ、視ること猶お血属のごとく」、彼を匿い、数か月匿い続けました。ある者は「合家の父子、甘んじて死地に就く」。一家の父と子が、彼を匿うために死んでもよいと思った。\nその後、大帥の仆散安貞（駙馬都尉という肩書も碑にあります）が兵を率いて東に来て、完顔懐徳はようやく隠れ場所から出て会いに行きました。彼は承制で官を授けられましたが、もう官に就く気はなく、南へ移って亳州に住み、1221年十二月に六十歳で亡くなりました。\nひとりの県令が、殺し声の満ちる中で、人びとに命がけで守られた。ここを読んで思い出したのは、巻き込まれた、名前の残らない人びとのことでした。誰かが、そうしろと決めたわけではないのです。\nそれから、鎮圧 話は半分だけでは語れません。金の側でも、殺していました。\n『金史・仆散安貞伝』には、二年後の貞祐四年（1216）、仆散安貞が兵を遣わして郝定を討ち、「連戦してみな克ち、九万人を殺し、降る者三万余」とあります。これは金朝自身の戦報で、数は確かめようがなく、殺されたのが蜂起した人びとか、巻き添えを含むのか、伝は分けていません。続いて「河北は残破し、干戈相い尋ぐ」。紅襖軍の残党は名を変えてまた起こりました。『金史』は数人の名を挙げ、「おおむねみな李全、国用安、時青の徒なり」。\n楊妙真は、李全の妻です。『宋史・李全伝』には、彼女が後に部下に言った言葉があります。「二十年の梨花槍、天下に敵手なし。今、事勢すでに去り、撑拄行かず」。戚継光の『紀効新書』では、巻十『長槍総説』に「そも長槍の法は、楊氏に始まり、これを梨花と謂い、天下みな尚ぶ」とあり、「二十年梨花槍、天下無敵手」も引かれています。\nモンゴルと金の戦争（1211〜1234）の概念図。出典：Wikimedia Commons、Megzer、CC0\nでは、「暮らしがよかったか」 問いに戻ります。金国の漢人は、宋より暮らしがよかったのか。\n私は答えられません。理由は具体的です。\n第一に、比べられる数字がありません。 金国の漢人と南宋の民を同じ物差しに載せられるデータは見つかりませんでした。見つかるのは、史臣の賛語が数句、皇帝の言葉が数句、官僚の上書が数通、碑文が一篇。どれもひとつの断片です。\n第二に、「よい」は、誰が、どの世代が、どの土地がによって違います。 大定年間（世宗）、河北と山東は比較的安定し、史臣は「小尭舜」と称えました。貞祐年間にはモンゴルが来て、金は南へ遷り、括地、軍籍の徴発、重い徴収が重なり、山東は一夜で乱れました。同じ朝廷、三十年の間に、二つの様子があります。\n第三に、見えるのは過程です。 初めは制度でした。女真人は差役が軽く、漢人は重い。女真人のために土地を括り、墓、井戸、かまどが人のものになる。これは土地と徭役の話です。のちに、乱世の中で、これが「種人に睚眦し、必ず殺して後に已まんことを期す」に変わり、民族の殺し合いになりました。碑文では、「拨地の酷」と「種人」は、続けて書かれています。\nここから「誰が生まれつきどうだ」という結論を引き出したくはありません。見えるのは、まず制度が引いた線があり、のちに乱世になると、人がその線に沿って殺した、ということです。\n裏返して見る 自分の側の弱点も挙げます。\n一、元好問が書いたのは、女真の県令を称える碑文です。 碑文は元来、その人の良いところを選んで書くもので、「ひとり臨淄の民のみ」の話は目立つように書かれたはずです。この件を裏づける第二の出典は、私にはありません。\n二、「1220年ごろの江蘇北部」の場面は見つかりませんでした。 あの回答は生き生きと語っていますが、一次の記録は見つかりません。なかったという意味ではなく、私が読んだのが1214年の臨淄だった、ということです。\n三、金朝でも、漢人に出世の道はありました。 金には科挙があり、漢人も官になれました。この方面の数字は手元にないので、この一篇では触れていません。上で述べた差役と括地は、金朝のひとつの面にすぎません。\n私の見方 読み終えて、胸にいちばん重く残るのは二つの光景です。\nひとつは、墓が掘られたこと。「墳墓を発掘し、骸骨を荡棄す」。誰の墓であれ、掘られれば、それは一族の根を抜かれることです。どちらの側のこの行為にも、私は理由を探したくありません。\nもうひとつは臨淄です。あたり一面に殺気が満ちるなか、女真の県令が、漢人の民に命がけで数か月匿われた。彼らは民族の理論を読んだことはなく、ただ、この人は「仁」の人だと感じ、「視ること猶お血属のごとく」したのです。\n私はずっと、私が求めるのはひとつの民族の帰属ではなく、みなが一致して認める文化と信仰だ、と言ってきました。この二つの光景は、その思いを強めます。人を生かすのは、その人がどの「種」に属するかではなく、他の人がその人をどんな人として認めるかです。\nだから私がより気にかけるのは、ひとつの社会に、あなたが誰であれ、みなが認めるものがあるかどうか、です。あるなら、臨淄のあの数か月に、生き延びる人が数人増えます。なければ、どちらが漢人でどちらが女真か、刃の下ではみな同じです。\nもしあの年、あなたが臨淄のひとつの家だったら、戸を開けますか。\n参考資料\n元好問「臨淄県令完顔公神道碑」、『遺山集』巻二十八（貞祐二年、1214）、ウィキソース、一字ずつ照合 🟢 『金史』巻一〇二「仆散安貞伝」：「楊安児・劉二祖の敗れて後……みな紅納襖を着て相識別し、『紅襖賊』と号す」；「九万人を殺し、降る者三万余」（貞祐四年）、ウィキソース、一字ずつ照合 🟢 『金史』巻四十七「食貨志二」：括地の諸段、世宗「朕、括地のことの行うところ極めて不当と聞く」、「山東の刷った民田は、すでに女直の屯田戸に分けた」；貞祐三年の侍御史劉元規の上書、ウィキソース、一字ずつ照合 🟢 『金史』巻四十六「食貨志一」：「女直人は猛安謀克の僕従差使を除き、余に差役なし」、ウィキソース 🟢 『金史』巻八「世宗紀下」賛：「『小尭舜』と号す」、ウィキソース 🟢 『金史』巻四十四「兵志」：猛安謀克、漢地に雑厠す、ウィキソース 🟢 戚継光『紀効新書』巻十「長槍総説」、ウィキソース 🟢；『宋史』巻四七七「李全伝」下（楊氏：「二十年梨花槍、天下無敵手」）、ウィキソース 🟢；楊妙真と李全の生涯：『宋史』巻四七六・四七七、『続資治通鑑』、断片のみ 🟡 ネット上の関連する議論（ネットユーザーの見解、手がかりとしてのみ） 見つからなかったもの：金国の漢人と南宋の民の生活水準を比べられるデータ；1220年ごろ江蘇北部で紅襖軍が女真人を殺した一次記録 併せて読む：作者の調査ノート（優遇と民族意識）；『依帰』の「世界は私たちを呼ぶが、どれも『漢』ではない」；『隣人たちの天』の「辮髪を切り終えて、何を着るか」「六枚のよく似た答案」（制度が民族の線をどう引くか） 画像の出典は各図の説明に記載 ","permalink":"https://tentao.pages.dev/ja/yigui/e119/","summary":"\u003ch2 id=\"ネットのひとつの問い\"\u003eネットのひとつの問い\u003c/h2\u003e\n\u003cp\u003eネットでこう聞く人がいました。女真人が治めた金国では、漢人は宋より暮らしがよかったという人がいるが、信じるか。\u003c/p\u003e\n\u003cp\u003e上位に出た回答に、賛同が多く集まりました。投稿者はまず、山東の女性、楊妙真の話をします。「梨花槍」を使い、戚継光も『紀効新書』に書いている人です。次にひとつの場面。1220年ごろ、山東や江蘇北部の道で、金朝で裕福だった女真人や契丹人が一家を連れて南へ逃げ、紅襖軍に囲まれ、「老いも幼きもまとめて殺し尽くされた」。こういうことは元好問が自分の目で見たから、「屠戮浄尽、無復噍類」と書いたのだ、と言います。\u003c/p\u003e","title":"金国の漢人は、宋より暮らしがよかったのか"},{"content":"一、離れていく回答 よくある問い方はこうです。同じ東南アジアなのに、ベトナムは漢字文化圏に数えられ、タイはどうして数えられないのか。\nまず、あるネットユーザーの回答から。おそらく多くの人には好かれないものです。彼は言います。漢人は実は南北二つの民族で、北の半分は「胡化」された。南の漢人とタイ人はもともと一家だ。自分は中華文化に何の感覚もなく、信じているのは上座部仏教だ、と。\n私は、この手の話の血統を確かめることも、材料に使うこともしません。ひとりの人が、ある文化に感覚がないと言うのは、その人の事柄です。私は、ある言葉を思い出しました。原子化です。自分と、とても大きな「私たち」のあいだに、溝があると感じている人がいる。その溝は、本当にあって、ただ「二つの民族」という物差しで測らなくてもいい。この回答は、ひとつの声として記録しておくだけにします。言い争いはしません。\n別のネットユーザーは、もう少し平実に言っていて、うなずく人も少なくありません。タイ人は、南の百越から分かれ出て、西や南へ向かい、クメール帝国の影響の下に落ち着いた。彼らの文字は、クメール文字をまねて作られ、仏教はクメールとインドから来た。中原は雲南とビルマに隔てられ、影響は局所的でしかない、と。\nこちらは大筋で正しく、直すべきところが二か所あります。以下、順に述べます。\n二、まず「文化圏」をほどく 「中華文化圏」という言葉は、しばしばいくつかのものの総和です。漢字。儒家の経典。漢伝仏教。そして一揃いの律令と科挙。\nこの四つで、タイを測ってみます。字は、漢字ではありません。経典は、四書五経ではありません。仏教は、上座部で、漢伝ではありません。官制は、科挙ではありません。四つとも、違います。\nだから、「文化圏」の意味が、「この四つがすべてある」なら、タイは確かに入っていません。\nけれども、続けて問いたいのです。それはどの圏に入ったのか。そして、漢人とのあいだは、どんな関係なのか。\n三、彼らはどこから来たか タイ人が話すのは、タイ・カダイ語族の言葉です。タイ、ラオス、壮、傣を書いた篇で、この語族は中国南部のものだと言いました。\n故郷はどこか。長いあいだ、雲南の南詔だと言う人がいました。1964年、アメリカの学者牟復礼（Frederick Mote）が、それはありえない、と書きました。1966年、Gedney は広西南部のさまざまなタイ系方言を研究し、原始タイ語の故郷を、広西とベトナムの境あたりに置きました。のちに、地理情報の方法で計算した人もいて、結論は広西、貴州に落ちました。\nいつ移動したのか。タイの学者 Pittayawat Pittayaporn が2014年に発表した研究は、原始南西タイ語にある、いくつかの層の漢語借用語から推し、南西へ移動して、インドシナ半島に入った一派は、およそ八世紀から十世紀のあいだだとしました。\n面白いことに、タイ語のいちばん底の層には、もともと漢語があるのです。それらは広西にいたときに借りたもので、その時、この言語はまだ動いていませんでした。いくつかの語は、バンコクに着いても、まだ使われています。\n1253年にモンゴルが大理を滅ぼしたことは、また南への移動の波の原因だとよく言われますが、それはもっとあとのことです。\n四、落ち着いた場所 タイ人は南へ進み、チャオプラヤー川の流域に着きました。そこは空っぽではありませんでした。\nチャオプラヤー川の中下流の「羅斛」（Lavo、今のロッブリー）は、もとはモン人の土地でした。十世紀から、クメールの勢力が入ってきました。碑文によれば、スーリヤヴァルマン1世のときに、クメール帝国の行政に組み込まれました。\nモン人、クメール人は、すでに文字を持ち、仏を持ち、王の礼儀を持っていました。タイ人は、あとから来た者でした。\n「暹」という名前は、古クメール語の碑に、七世紀にはすでにあり、syam と書かれています。意味は不確かで、奴隷の名簿によく出てきて、学者は、下流域のどこかの地名だと推測しています。アンコール・ワットの回廊には、行進する軍隊を刻んだ浮き彫りがあり、「暹」（Syam Kuk）と記されていて、多くの学者は、後のタイ人を指すと考えています。ただ、それが地名なのか、民族名なのかは、確かではないと注意する人もいます。\n中国人が知っていたのは二つ、暹と羅斛でした。元の時代には、双方と行き来がありました。のちに二つがひとつに合わさり、それが十四世紀半ばに建てられたアユタヤ（大城）王朝で、中国人は「暹羅斛」と呼び、さらに略して「暹羅」と言いました。\nだから「暹羅」という言葉の半分は中国人の呼び方で、もう半分は、クメール人のもっと古い呼び方です。\nアンコール・ワットの回廊の浮き彫りにある「暹」（Syam Kuk）の兵。多くの学者は後のタイ人の先祖と読むが、意味は不確かだとする人もいる。　出典：Wikimedia Commons、CC BY 4.0\n五、字 タイ文字は、どう生まれたのか。\n伝統的な説明はこうです。1283年、スコータイの王ラームカムヘーン（Ram Khamhaeng）がタイ文字を作った。1292年と刻まれた碑が、バンコクの国立博物館にあり、最初の「まとまった」タイ文です。\nこの碑は、何十年も争われてきました。1987年に、アメリカの学者 Vickery が、これは「東南アジア史のピルトダウン人」ではないか、と問う論文を発表しました（ピルトダウン人は、科学史上有名な偽造事件です）。のちに、美術史家のなかには、モンクット王（ラーマ4世）が偽造したと考える人もいました。1990年には電子顕微鏡による分析があり、この碑の年代は、ほかの四つのスコータイの碑と同じ古さだ、と言いました。いまも決着はついていません。さらに、パヤオ県の Wat Bang Sanuk にある碑をもとに、タイ文字は1219年までさかのぼれると考える人もいます。\n面白いのは、碑がどの王朝のものであろうと、二つの派がともに認めていることです。この文字は、古クメール文字の一種の草書体から改められました。改めるときに、いくつかの字母を簡略化し、新しいものを加え、声調記号を加えました。\nバンコク国立博物館のラームカムヘーン碑。碑には1292年と書かれている。13世紀のものかどうかについて、学者のあいだには、いまも論争がある。　出典：Wikimedia Commons、Michael Gunther、CC BY-SA 4.0\nその場面を想像してみてください。自分の言葉を話す一群の人が、他人の土地に落ち着いて、他人の文字を見て、きれいだと思い、それで自分の言葉を記したいと思った。そのまま写しはしませんでした。改めて、符号を足しました。彼らの言葉には声調があったからです。\n六、仏、そして王 仏教は、どうやって来たのか。\n十三世紀、スコータイの王は、僧たちを招きました。彼らは半島の南部、ナコーンシータンマラート（Nakhon Si Thammarat）から来ました。Lankavamsa（「セイロンの系譜」の意）と呼ばれる系統に属し、上座部です。王は、リーダーの長老を僧王に任じました。のちのスコータイの王のなかには、リタイ（Lithai）がいて、三十あまりのパーリ語の経論を読み、『三界経』を書きました。タイ史上、最初の「研究」書だと言われます。\n注意してください。この系統は、セイロンから半島を経て、スコータイに来ました。アンコールから来たのではありません。アンコールは、当時、おもにヒンドゥー教と大乗仏教で、のちに上座部に転じました。\nスコータイのワット・マハータート。旧市街でいちばん大きな寺。13世紀後半、スコータイはセイロンの系譜の上座部僧団を迎えた。　出典：Wikimedia Commons、Gary Todd、パブリックドメイン\n王のほうは? アユタヤ王朝が台頭してから、三度アンコールを攻め落としました。1369年、1388年または1389年、1431年。一説には、アユタヤはクメールの宮廷の人材を一群連れ帰ったと言われます。アユタヤの王は、クメールから、宮廷の礼儀、「王は神である」という観念、そしておそらく宮廷の舞も学びました。チュラーロンコーン大学のある研究は、王室用語を比べています。スコータイと初期アユタヤの王室の語彙は、形と造語の面で、アンコール期のクメール王室の語彙の影響を受けています。\nつまり、字はクメールから、仏はセイロンから、宮廷はアンコールから学び、漢字、四書、漢伝仏教、科挙は、ひとつもありません。これがあのネットユーザーの言う大意で、当たっています。直すべきなのは、仏教のところです。\n七、でも、中国人はずっといた もし話がここで止まるなら、結論はこうなります。タイと中国には、関係がない。\nけれども、そうではありません。\n1371年、アユタヤの使者が、明の使者とともに南京に着き、訓練された象、六本足の亀、いくつかの土産物を持って行きました。これが最初の朝貢です。一説では、1369年から1439年のあいだに、アユタヤは全部で68回の使節団を送り、ほかのどの朝貢国よりも多かった。この数字は Lockard の2010年の論文によるもので、明実録とは照らしていません。\n朝貢は、政治であり、商売でもあり、船には人もついて来ました。1767年にアユタヤはビルマに滅ぼされ、翌年、トンブリーの鄭信（タークシン）がシャムを立て直しました。彼の父は潮汕の人でした。これらは、タイ華人の同化を書いた篇で述べたとおりです。\n姓。1913年、国王ラーマ6世は、すべての人が姓を持つよう命じました。多くの華人の家庭が、自分の姓をタイ文字の形に改めました。タクシン・シナワット一家は1938年に姓 Shinawatra を取り、最初の音節の「Shin」は「丘」に由来します。バンハーン（Banharn Silpa-archa）の姓の archa は、タイ語で「馬」の意味で、漢人の姓の「馬」をサンスクリット語に訳したのだと言われます。（ウィキペディアとタイ語の資料によります。）\n祭り。清明、春節、中秋は、バンコクにもプーケットにも、ずっと祝う人がいます。プーケット島の九皇節は、閩南人が「九皇大帝誕」と呼び、旧暦の九月に、九日間、精進します。伝説では、福建から来た芝居の一座が、鉱山で熱病（マラリア）にかかり、九皇大帝を拝んでいなかったことを思い出して、精進して祈ると、病気が治り、それから毎年行うようになったといいます。伝説の中の年代は、「およそ二百年前」です。伝説の年代は、一般に1825年ごろに置かれますが、口伝で文献はありません。病気はコレラだという説も、マラリアだという説もあります。\nプーケット島の九皇節（斎戒節）の夜の通り。閩南人と潮汕人が持ち込んだ祭りで、タイ南部でおよそ二百年祝われてきたと言われる。　出典：Wikimedia Commons、Phuket@photographer.net、CC BY 2.0\n数字もあります。タイの華人は、人口の10%から14%と推定されています。2018年の少数民族権利団体のある報告では、約10%から12%、六、七百万人。2012年の推計では、11%から14%、約950万人です。そのなかで、潮汕人が最大の集団です。けれども2000年の国勢調査では、家でまだ中国語を話す人は十数万人にすぎません。この数字は資料によって引かれ方が違い、原表は見つけられていません。測っているのは言語であって、人ではありません。\nこの二つの数字を並べると、分かります。彼らは消えてはいない、ただこの言葉を話さなくなっただけです。彼らの「中国」は、口にはなく、祭りのなかに、神棚のなかに、そしてひとつの姓の最初の音節のなかにあります。\n八、一枚の図 これらの年を、並べてみます。\n言葉は、広西で形づくられた。人は、八世紀から十世紀に南へ下った。文字は、クメール文字を土台に改められた。仏は、十三世紀にセイロンから来た。宮廷は、十四世紀にアンコールに学んだ。そして中国人は、1371年から、ずっとそこにいた。\nだから、タイが「中華文化圏の国」にならなかったというのは、そのとおりです。けれども、その道は中国人から一度も離れませんでした。タイが歩いたのは別の道で、漢人と華人は、ずっとその道のわきを歩いていたのです。\n九、私がいま考えていること 私はたくさんの篇を書いてきましたが、問いはいつも同じです。東アジアの人は、何によっていっしょにいるのか。このタイの一篇には、私が長く立ち止まったところがひとつあります。\nタイには、とても強い、まとまりの核があります。ひとりの国王。ひとつの仏教。自分たちの字。それは漢字ではなく、儒家でもありませんが、人口のおよそ一割、数百万の漢人の子孫の社群を、そのなかに受け入れました。この人たちは、追い出されず、もうひとつの「民族」にもなりませんでした。彼らはタイ人で、その多くは、清明の日に、いまも祖先の墓参りに行っています。\n私はこれまで、華人がまとまる核を持つなら、それはおそらく漢字と結びついているだろうと考えていました。タイは、それをあらためて考え直させました。私がいま考えているのは、字は同じ一揃いでなくてもよく、日々は同じ一揃いでありうる、ということです。清明、春節、中秋、プーケットの斎戒。漢字を書かない人も、祝っています。私が求める「一致した文化の信仰」は、みんなが同じ字でそれを書くことを、求めないのかもしれません。確信はありません。だから「いま考えていること」と言うのです。\n反対から見る いちばん固い反論は、三つあります。\n第一に、「圏」という言葉自体が、外から見た言葉です。タイ人自身は、自分たちが「入らなかった」と思っているとは限りません。ある国の字は、自分で作ったもの、仏は自分で選んだもの、宮廷は自分のもの。なぜ、他人の「圏」の一員にならなければならないのか。この問いは、タイ人にとっては、おそらく奇妙なものです。\n第二に、朝貢は、文化と同じではありません。1371年からのあれらの使節団（一説には六十八回）は、国と国の礼と商売であって、字や経典が伝わってきたものではありません。この一篇に入れたのは、「この国は中国人とずっとつながりがあった」ことを示すためで、「だからタイは中国文化の影響を受けた」と言いたいのではありません。それは別のことです。\n第三に、私が挙げた祭りと姓は、華人の社群が持ち込んだもので、タイ人のものとは限りません。プーケット島の九皇節は、閩南と潮汕の人の祭りで、タイの仏教徒が参加するかどうかは、別の話です。「タイに清明がある」と「タイ人が清明を祝う」は、同じ文ではありません。\nタイの友人へ、そして祖先が潮汕の人で、いまはタイ語を話している友人へ。\nまず、ありがとうと言わせてください。あなたたちは、とても大きな国を、自分たちの字、自分たちの仏、自分たちの王で守り抜き、誰かの字に持っていかれませんでした。あなたたちの祖先が他人の字に声調記号を足した話を読んで、それはとても穏やかで、とても主体的なやり方だと思いました。\nあなたたちのなかで、祖先が潮汕、閩南、客家、海南から来た人たちに。なぜ漢語を話さないのか、と問うつもりはありません。私が問いたいのは、別のことです。清明の日、あなたはどこへ行きますか。あなたの子どもは、その日になぜ行くのか、知っていますか。\nひとつの国で、字は自分たちのもの、仏は自分たちのもの、王は自分たちのもの。一方で、一家の祖先の墓は、別の国にある。この二つは、ひとりの人のなかに、無理なく並んで収まるでしょうか。\n参考資料\n評価：🟢 一次資料または学術出版物のページ。🟡 二次資料（百科事典、メディア、講座の要約）。未確認のものは別に記す。\nタイ人の起源：F. Mote, \u0026quot;Problems of Thai Pre-history\u0026quot;, 1964（🟡、学術論文の転述）。W. Gedney, \u0026quot;Linguistic Diversity Among Tai Dialects in Southern Kwangsi\u0026quot;, 1966（🟡）。P. Pittayaporn, \u0026quot;Layers of Chinese Loanwords in Proto-Southwestern Tai as Evidence for the Dating of the Spread of Southwestern Tai\u0026quot;, Manusya, 2014（🟢、書誌。全文は未入手、年代8–10世紀は要約による） 羅斛、暹、暹羅：羅斛史（🟡、ウィキペディアと各ページのミラー。多くの箇所で矛盾しており、「初期はモン人が中心、10世紀からクメールに属し、13世紀末に離脱」のみ採用）。暹と羅斛は中国語史料では二つの政体で、のちに並べて「暹羅斛」と呼ばれた（🟡、シンガポール国立大学の東南アジアデータベース）。syam が7世紀の古クメール語の銘文に出ることと「Syam Kuk」の浮き彫り（🟡、Ferlus 2007の要約、東南アジア考古学のサイト。Ferlus の全文は読めていない） 文字：スコータイ文字は古クメール文字の草書体に由来し、1283年と1292年という伝統的な説（🟡、ウィキペディア）。ラームカムヘーン碑の真偽論争：Vickery 1987、Piriya 1988、1990年の電子顕微鏡分析、Chamberlain 1991論集（🟡、ウィキペディアの転述。Siam Society の JSS 第83巻 Vickery の論文の書誌🟢、全文は未読）。Wat Bang Sanuk の碑（C.107）（🟡） 仏教：Lankavamsa の系統とスコータイ（🟡、タイの学術誌と仏教図書館の要約）。1257、1277年（単一出典、ベトナム語、🟡）。リタイ『三界経』（🟡） 宮廷：アユタヤによるアンコール攻略三回（1369、1388／9、1431、🟡、Briggs の論文書誌、ウィキペディア）。「神王」の観念、宮廷の礼儀、王室語彙（🟡、チュラーロンコーン大学の論文要約） 中国との関係：1371年のアユタヤから明への朝貢（🟡、Siam Society の講座要約。石井米雄の論文書誌）。約68回（🟡、Lockard 2010、百科事典の引用による） 華人：タイの華人は10–12%（🟡、少数民族権利団体の2018年報告）。11–14%、2012年（🟡）。2000年国勢調査 231,350人（🟡、ウィキペディア）。1913年の姓氏法と姓の華人由来（🟡、ウィキペディア）。清明、春節、中秋のバンコク、プーケットでの祝い（🟡、ウィキペディア）。プーケットの九皇節（🟡、タイの財団、観光サイト。伝説が中心） ネットユーザーの二つの回答：ある人が転送してくれた資料で、手がかりとしてのみ使った。そのなかの事実の主張は、一つずつ別に調べた（中国語版の站版説明を参照）。 対照して読む：このシリーズの『もっとも成功した同化』（タイ）、『同じ語族、それぞれの天』（タイ、ラオスと壮、傣、苗）、『廟、会館、商会』、『同じ一組のカードで、六通りの打ち方』 画像の出典は各図の説明に記載 ","permalink":"https://tentao.pages.dev/ja/linju/d50/","summary":"\u003ch2 id=\"一離れていく回答\"\u003e一、離れていく回答\u003c/h2\u003e\n\u003cp\u003eよくある問い方はこうです。同じ東南アジアなのに、ベトナムは漢字文化圏に数えられ、タイはどうして数えられないのか。\u003c/p\u003e\n\u003cp\u003eまず、あるネットユーザーの回答から。おそらく多くの人には好かれないものです。彼は言います。漢人は実は南北二つの民族で、北の半分は「胡化」された。南の漢人とタイ人はもともと一家だ。自分は中華文化に何の感覚もなく、信じているのは上座部仏教だ、と。\u003c/p\u003e","title":"タイは「中華文化圏」に入るのか？　この問いは半分まちがっている"},{"content":"何年も問われてきた問い 知乎に、2025年にはもう人が問い始めていた問いがあります。現代中国で、儒家は打ち倒されたのか。\n私が読んだとき、回答は549件あるとされ、見られるのは454件、コメントは六百件あまりでした。とても典型的な問いです。誰が答えても、言い合いになります。\n私が見たかったのは、誰が正しいかではありません。これだけ多くの人が、いったい何を言い争っているのか、です。\n一、ふたつの言い方、ひとつの説明 まず大まかな様子から。\nひとつは「とっくに倒された」という言い方です。科挙はなくなり、宗族は壊され、私塾は止まり、官になるのに儒学は要らない。ある回答の書き出しは、1948年以後、儒家は徹底的に打ち倒された、というものです。\nもうひとつは「倒せない」。いちばん票の多い回答は、1,539の賛同で、別のことを言っています。五四運動は確かに儒家を倒した。問題は、そのあと何か悪いことがあるたびに、もうなくなった儒家をまた引っ張り出して打ち、何でも儒家のせいにしてきたことだ。これを続ければ、儒家は「すべての中国人のために十字架を背負う」存在になり、最後は別のキリスト教になる。その下で票の多いコメント（484の賛同）も同じことを言っています。それを、どこにでもいて因果を超えた大悪役に仕立てると、かえってその信者たちが底を打って跳ね返す、と。\nこのふたつは、実は矛盾しません。ある回答は、レヴィンソンの言葉を引いて、儒学は「栄えある形で博物館に退いた」と言い、そのうえでこう続けます。本当に標本なら、なぜこれほどの破壊力があるのか。今日の病は、誰が養っているのか。\nこれは、この問い全体のなかでもっとも誠実な自己矛盾だと思います。一方では、すでに博物館に入ったと認めながら、他方では、汚職、内巻、低い出生率、若者が結婚しないことまで、みな儒家のせいにする。博物館に入ったものは、人を結婚させなくはしません。\nある回答はこう言います。「すでに舞台を降りた伝統を罵るのは、深く見えて、現実の何にも手を触れなくて済む」から、と。それが正しいかどうか、私にはわかりません。ただ、読み終えて、とても具体的な感触がありました。この問いが終わらないのは、儒家がここで二つの役を同時に演じているからです。ひとつは、すでに死んだもの。もうひとつは、何でも責められるもの。双方が、それを使っています。\n二、倒れたのは何か 整理のとても明快な回答が、ひとつあります。答えた人は、西洋哲学を学んだ出身で、いまは日本に住んでいると言います。この問いは丸ごとは答えられない、まず層に分けねばならない、と。\n彼は三つの層に分けます。\n道、つまり学説そのもの。この層は確かに倒れた、と彼は言います。経学はもはや知識ではなく、今日、五経を通読して地位を得る人はなく、それを研究する人は哲学科や歴史学科にいて、アリストテレスを研究する同僚と同じ研究室に座っている。\n器、つまり学説を伝えていく仕組み。蒙学の読本、家訓、郷約、族譜、科挙。子どもが言葉を話せるようになった日から、挙人に合格するまでを管理した。光緒三十一年に科挙が廃止され、私塾が止まり、家訓は刊行されなくなり、宗族はその後数十年で次々と解体し、祠堂はほかの用途に使われた。この層がいちばんひどく壊された、「これこそ本当の意味で倒されたということだ」と彼は言います。道は器がなくても立つが、器がなければ伝わらないからです。\n習、考えなくてもやってしまう決まり。年長者が入ってきたら立つか、誰が上座に座るか、贈り物をもらったらいつ返すか、親が老いたら引き取るか、外で恥をかいたとき、なぜ真っ先に家族に申し訳ないと思うのか。この層はほとんど影響を受けていない、と彼は言います。儒家をまったく信じないと言う人を誰でも見つけて来ても、彼は根拠をひとつも言えないが、やる。しかも近所の人とだいたい同じようにやる。\nだから彼の結論はこうです。打ち倒されたのではなく、供給を断たれた。習はまだ動いている。習を作る機械が止まったのだ。第一世代は祖父母の教えた決まりで暮らす。第二世代は第一世代の残った見本で暮らす。第三世代は、何で暮らすのか。\n「それは、批判して貶めるやり方では起こらない。誰も教えなくなる、というやり方で起こる。ずっと静かで、ずっと徹底的に。」\n私はこれをこの一篇の核としました。「倒れたか」の言い争いを、数えられる問いに替えてくれるからです。今日、六歳の子どもに誰が教えているのか。何を。どうやって。別の回答もまったく同じところに触れています。「大学のすべての専攻を見てごらん、儒家の課程はあるか」。また別の回答はこう言います。大多数の人は『論語』の十章あまりのほかに儒家のことを何も学んでおらず、そのほかの科目では儒家は紹介よりも批判のほうが多い。当局がある思想を推すなら方法は試験だ。進学にも、大学院にも、公務員にも要る。古代は、それができた。今日は、ひとつもない。\n三、「一口の鍋」がない 二つ目の問題は、組織です。\nある回答は、はっきりと言います。どんなイデオロギーでも、長く保つには組織の資源が要る。イスラム教の背後にはモスクがあり、カトリックとプロテスタントの背後には教会がある。イラン革命のとき、パーレビ王朝はモスクに手を出せなかった。モスクが自前の財政を持ち、自給できたからだ。ポーランドの政変の背後にはカトリックがあった。逆に、儒家は改革開放の時期にはほとんど何の役割も果たさなかった。もちろん果たせるはずもなく、当時は自分自身が泥の仏だった。孔府や孔廟も、財政の支えがなければ「一日ももたない」（この一句は回答者の言葉で、私は確かめていません）。だから、今日の人びとが孔廟に祭孔に行き、国学の講座に通い、漢服を着ても、彼の見るところ「博物館に青銅器を見に行ったり、映画館に歴史ドラマを見に行ったりするのと違いがなく」、文化体験と消費であって、社会規範としての強制力はない、ということになります。\n私は前の一篇（『宗教はどこで勝つのか：教義ではなく、一つの鍋にある』）で、同じことを書きました。宗教は、組織と福祉で勝つ。この回答は、逆の側から言っています。儒家は、この鍋がないから負ける。\n彼は最後に、少し冷たく言います。独立した組織と財政を欠いた構造が変わらなければ、儒家は現代においてふたつの形のままだ。国家レベルでの文化的な象徴と道徳資源としての借用か、大衆文化の消費のなかの「歴史の人形」、それに学界の論文の課題か。\n別の回答は、とても具体的な細部を付け加えています。大学の儒学院は、「本質的にはマルクス主義学院の仕組みを真似たもの」で、その源はまたキリスト教の「神学校と職業宣教師」の体系だ。中国の歴史にそのようなものはなく、儒学の体系に「職業として論争する人」はいない。（これはあるネットユーザーがコメントで別の回答を引いたもので、私は確かめていません。）\nここまで読んで、私は反対向きの問いを思いました。もし儒家が自前の鍋を持つなら、それは何であるべきか。宗族の祠堂か。書院か。それとも別のものか。私が読んだ回答のなかに、それを真剣に展開した人はいません。「南方の宗族の復興」と答える人、「祠堂がだんだん復活している」と言う人（後者は反対の口ぶり）はいますが、どれも一、二句です。\n四、誰の儒家か 三つ目の問題はもっと根本的です。「打倒」と言うとき、打たれているのは、誰の儒家なのか。\nある回答は、ただ一言、問うています。「あなたが倒そうとしている儒家は、どの儒家か。孔子の儒家か、程朱理学の儒家か、満清のころの封建礼教か。」\n別の回答はもっと長く書いていて、大意はこうです。孟子、荀子、董仲舒、程朱は、みな「孔子の口を借りて、自分の言葉を語った」。「孔子は結局何と言ったのか」の最終解釈権を握った者は、二千年前の亡霊に、今日のどんなことにも判を押させることができる。さらに具体的に言う回答もあります。董仲舒から、朝廷が儒家の最終解釈権と改訂権を持つようになった。これが毒の源だ。今日、儒はとっくに起き上がらないが、この「悪龍」はまだいて、ただ儒家の皮を着ているかどうかは、もう重要ではない。\nここには、とても重要だと私が思う区別があります。儒家の敵は、儒なのか、それとも「最終解釈権が朝廷にある」ことなのか。「反儒」の回答の多くが反対しているのは、実は後者です。「護儒」の回答の多くが守っているのは、前者です。両側とも、自分は同じものについて話していると思っています。\nもうひとつの種類の回答は、秦暉の「儒表法裏」を引きます。表では仁義を語り、底には編戸斉民、行政統制、資源の収奪がある。打倒されたのは外側の層で、内側の層は清算されていない。この説が正しいなら、今日の多くの事柄は、本来儒家のせいにすべきではないのに、儒家のせいにするのにはとても都合がいい。その「表」が目に見えるからです。\n五、「何かに対して」担ぎ出す 四つ目の問題は、読んでいていちばん居心地が悪かったものです。\nこの問いの下に、299の賛同を得た回答があり、一句だけです。「ムスリムの拡張、フェミニズムの氾濫、移民政策の緩和に直面して、儒家を持ち出さずに何を待つのか。」別のコメントは、フェミニズムが中国の男性に与えた刺激は、「反儒のあとは、断固たる擁儒になる」ことを証明している、と言います。ほかにも、公羊学の「大復讐」、「儒家のバーサーカー」、「華夷の弁」を語る回答があります。\nこれらの言い方がみな間違いだと言うのでも、そう言う権利がないと言うのでもありません。言いたいのはひとつの観察です。この問いの下では、「持ち出された」儒家が、しばしば「何に反対するか」で定義されている。 フェミニズムに反対、移民に反対、外来の宗教に反対、「外国崇拝」に反対。「それが何を建てられるか」を語る回答は、ごく少ない。\n私自身にとって、これは小さくない警告です。私が立項のときに言ったのは、一致した文化信仰の宗教、祖先を祀ること、礼、節句、読める漢字の文章、でした。民族の帰属はそれぞれあってよい。もし「儒家の反発」が主に「誰に対して」で人を集めているのなら、集まるのはひとつの感情であって、鍋ではありません。この点で、先の答えた人の「文化擬態」という言い方は耳に心地よくありませんが、彼が思い出させているのは同じことです。ネット上の反発は、現実の組織ではない。\n六、あとふたつの欠け 五つ目は、権限と責任です。\nいくつもの回答が、同じ意味のことを言っています。古い「それぞれが分に安んじ、権と責が対等」な秩序は壊され、新しいものは起きなかった。1948年のある教授の家の食事の映像を使って、「老人が真ん中に座り、卵は孫に譲り、食事中は話さない」を語る人。朱明の天子が国門を守り、君主は社稷に死ぬ、がずっと称えられてきたが、今日の人にそれがあるか、と言う人。さらに、「私たちは今、何も構築できていない」とまで言う人。これらの回答には、性別対立の口ぶりを帯びたものも多く、その部分は書きません。データは『時事』にあります。\nひとつだけ記しておきます。この言い方のなかで、真剣に受け止める価値がもっともあるのは、「古いものを壊して新しいものを建てなかった」という部分です。これは、確かめに行けることです。\n六つ目は、悪への備えです。\n道、器、習に分けた回答者は、問いの補足にあった疑問、つまり「なぜ儒家は非人間的な性について何も論じず、人を無防備にするのか」に、とても真剣に答えています。彼は半分は認めます。儒家の悪論は欠如論で、悪は善が覆われた状態だ（孟子の牛山の木）。しかしこれは中西の違いではなく、アウグスティヌスもそう言う。もう半分は、備えるというのは、もともと儒家の担当ではなかった。荀子、韓非、二千年の律令刑名は、「人は頼れない」ことを軸に作られており、「外儒内法」の「内法」の半分が備えなのだ、と。\nしかし彼は、ひとつの本物の欠陥を認めます。儒家は、個人の堕落は語れるが、制度的な悪は語れない。 決まりを守り、親孝行で、家族にとてもよい普通の人の大群が、どのようにして、粛々と力を合わせて、とても大きな悪をなすのか。儒家の政治的想像のなかでは、悪事の源は、いつも君が不仁であるか、吏が不良であるかです。だから権力を縛る手段は、諫言、清議、史筆しか残らず、二千年のあいだ、制度が育たなかった。この一点については「弁護しない」と彼は言います。\nこの一言は残す価値があると思います。回答欄全体のなかで、儒家を護る人自身が指摘した、数少ない欠陥のひとつだからです。\n七、私の見方 まず、この問いの回答を四つにまとめます。学説は倒れた、規矩は残っている、規矩を伝える機械は止まった。自前の組織と財政がない。「誰の儒家か」を誰も決めていない。反発はしばしば「何かに対して」である。\nこのうち三つについて、それぞれ見方があります。\n「供給を断たれた」。 道、器、習に分けた回答を読んだとき、これは言い争いの終わらない問題を、行動に移せる問題に替えてくれた、と思いました。六歳の子どもに誰が教えるのか、何を、どうやって。倒れたかどうかは重要ではなく、供給が断たれたかどうかが重要です。私は、断たれたと思います。\n「器」の層について、私が思うのは祠堂です。 祠堂は、既成のものです。場所があり、姓があり、祖先を祀る日があり、かつては学校を営み、義荘を営み、争いを調停することも兼ねていました。この問いの下に、「祠堂がだんだん復活している」と、悪いこととして何気なく言う回答がありました。私はむしろ、そこにこそ真剣に目を向けるべきだと思います。私は『宗教はどこで勝つのか』で、祠堂は居民委員会と養老院を兼ねられるか、と問いました。この一篇とあの一篇は、同じ問いの両端です。あれは、それが鍋になれるかを問い、これは、それが規矩を次の世代に伝えられるかを問う。まだ答えはなく、方向として祠堂を選んだだけです。書院も、国学講座も選びません。\n「何かに対して」の反発は、押し出されたものだと私は見ています。 私の見方はこうです。この反発の「対して」の大半は、中共と外来の馬教（マルクス主義）に押さえつけられて生まれたものです。百年押さえつけられ、何でもそれのせいにされたものが、息ができるようになったとき、最初の動きが、押さえつけたものに「対して」になるのは、当然です。だから私は、これらの人を警戒すべき相手とは思いたくありません。彼らは、押さえつけられすぎた人たちで、口にできるものを探している人たちのようです。大事なのは、この「対して」が、だんだん「何を建てるか」に変わっていくことです。そうでなければ、集まるのはただの気で、鍋ではありません。\nこの三つを合わせたのが、この問いへの私の答えです。儒家は打ち倒されたのではなく、供給を断たれた。供給をつなぎ直すには、祠堂から始める。そしていまネット上にあるあの気は、押し出されたもので、受け止めてよいが、受け止めたからには、建てられるものを渡さなければならない。\n","permalink":"https://tentao.pages.dev/ja/yigui/e120/","summary":"\u003ch2 id=\"何年も問われてきた問い\"\u003e何年も問われてきた問い\u003c/h2\u003e\n\u003cp\u003e知乎に、2025年にはもう人が問い始めていた問いがあります。現代中国で、儒家は打ち倒されたのか。\u003c/p\u003e\n\u003cp\u003e私が読んだとき、回答は549件あるとされ、見られるのは454件、コメントは六百件あまりでした。とても典型的な問いです。誰が答えても、言い合いになります。\u003c/p\u003e","title":"いまの儒家の苦境：打ち倒されたのではなく、供給を断たれた"},{"content":"ひとつの問い方 いま、四十歳前後になって、いつか故郷に帰ろうと考え始める人がいます。野菜を作って、鶏を何羽か飼って、近所はみな顔見知りで、空気がよく、ゆっくり暮らせる。\n一方、聞いただけで首を振る人もいます。村の付き合いは重い。誰が家を建てた、誰の子が受験でうまくいった、何でも比べられる。よく聞く言葉があります。「人の無きを笑い、人の有るを恨む」。それに病院は遠く、子どもたちは近くにいません。\nどちらも嘘は言っていません。同じものについて、ひとりはその良い面を、もうひとりは悪い面を語っているのです。そのものには、すでに名前があります。「郷土中国」です。\n問題はこうです。それはまだあるのか。もうないのなら、いつ、なぜなくなったのか。\n費孝通が書いたもの 『郷土中国』は費孝通が1940年代に書いたものです。西南連合大学で「農村社会学」を講じ、授業での考えを文章にして『世紀評論』に十四篇発表し、1948年に上海観察社から本になりました。\n彼が言うのは、中国の底は「郷土的」だということです。人は耕作で食べ、土地は動かず、人もあまり動かない。一生ひとつの場所に住み、村の人はみなお互いを知っている。これが「熟人社会（顔見知りの社会）」です。関係は、石を水に投げたときの波紋のようで、自分を中心にして一輪ずつ外へ広がる。これが「差序格局」です。ものごとを治めるのは法ではなく、みなが認める決まり、年寄りの言葉、幼いころから学ぶ礼で、本ではこれを「礼治」といいます。\n先に言っておきます。これは「類型」を書いた本で、統計ではありません。「郷土」「差序格局」をどう定義するかは、学界でいまも争いが続いています。ここでは物差しとして使います。郷土中国の本来の姿を基準に、この物差しがその後どう短くなったかを見るのです。\n何本かの糸が切れた 郷土中国はある一日に崩れたのではありません。布から縦糸と横糸が一本ずつ抜かれていくようなものです。まず時間の線を並べ、いちばん重い糸は後で別にお話しします。\n1905年：通路が切れた 1905年9月2日（光緒三十一年八月初四）、清朝は上諭を出しました。1906年から、郷試・会試を一律に停止し、各省の歳試・科試も停止する。袁世凱、張之洞ら数人の大臣が連名で奏請したものです。千三百年ほど続いた科挙は、ここで終わりました。\n当時の人は感じていました。厳復は「わが国数千年のうち、最大の挙動」と言い、山西の挙人、劉大鵬は日記に憂いを書きました。（二つとも転述で、原書は読んでいません。）\n何を憂えたのか。歴史家の羅志田にはひとつの見方があります。科挙は官を選ぶだけでなく、「上下を通じる」機能があった。伝統的な読書人は「耕読」を語り、多くは農村で学び、合格すれば都市に出て官になり、官を終えたら故郷に帰り、喪に服すにも帰った。人、情報、金が、こうして都市と農村のあいだを循環した。\n科挙が廃止されると、この通路が切れました。羅志田はこう言います。新式学堂は学ぶことを「私」から「公」に変え、貧しい家の子はますます学びにくくなり、農村の読書人は減り、識字率が下がった。新式学堂を出た学生は、村の人が認めないことを学び、自分も残りたがらず、都市へ向かった。\nここまで読んで思い出すのは、居場所を失った年配の先生たちです。彼らは何かに反対したわけではなく、一生学んだものが一夜で役に立たなくなったのです。\nこの一刀は清朝自身が下したもので、外からの圧力に迫られたものでもあります。それでも郷土はそれだけでは散りませんでした。紳士はいて、族はいて、祠堂はあった。ただ、上へ行けず、帰ってもこられなくなったのです。\n国家が手を伸ばしはじめた 郷土中国にはもともと中間の層がありました。郷紳、族長、顔のきく人たち。彼らは国家と農民のあいだに立ち、片方では国家のために働き、片方では郷里のために口をききました。\n歴史家の杜賛奇は華北の農村を研究して言います。国家はより多くの税を取り、より多くのことをするために村へ手を伸ばし、結果は逆になった。もともとの「保護型」の地方の指導者は、国家のために同郷人から搾り取ることを望まず、一人ずつ退き、替わって上がってきたのは「利益追求型」で、間で抜き取って金にした。国家が下へ伸びるほど農村は搾られ、国家と農民のあいだにあった文化の結びつきも切れた。彼はこれを「国家政権の内巻化」と呼びます。（読んだのは中国語の評述で、原書は読んでいません。）\nこの段階では、郷紳はゆっくりと入れ替えられました。次の段階は、入れ替えではなく、取り壊しです。\n導火線は階級闘争 1927年の湖南 1927年、毛沢東は湖南に戻り、農村を三十二日歩いて、『湖南農民運動考察報告』を書きました。その中に、題がそのまま「土豪劣紳を打倒せよ、一切の権力を農会へ」という節があります。\n原文のいちばん大事な数句を、ここに写します（1927年の原文で、のちの『毛沢東選集』の改訂版ではありません）。\n紳士の権力がすでに倒れ、農会は唯一の権力機関となり、まことに「一切の権力は農会へ」が実現した。夫婦のいさかいのような小事までも、農民協会へ行って解決せねばならない。（日本語訳）\n第二期においては、農民の絶大な権力を打ち立てねばならず、農会を批判することを許してはならず、一切の紳権を打倒し、紳士を地面に打ち倒し、さらには足で踏みつけねばならない。……要するに、どの農村にも短期間の恐怖現象をつくり出さねばならず、そうでなければ農村の反革命派の活動を鎮圧することも、紳権を打倒することも決してできない。矯めるには必ず過ぎるまで行わねばならず、過ぎなければ矯められない。（日本語訳）\n費孝通と照らし合わせてみましょう。彼の本では、郷土社会で「夫婦のいさかい」があれば、威望のある人を呼んで裁いてもらう。「礼治」は長老、教化、みなが認める決まりに頼る。1927年のこの報告が書いているのは、その位置の担い手がどう替わったかです。裁く人は郷紳から農会に替わり、決まりの出どころは「みなが認める礼」から「批判を許してはならない」に替わりました。\nこれは1927年、1949年までまだ二十二年あります。\n1950年：一人ひとりに成分を割り当てる 1950年8月、政務院は『農村の階級成分を区分する決定』を出しました。（採択と公布の日付には、8月4日と8月20日の二説があります。）土地の占有と、自分で労働しているかどうかによって、農村の人を地主、富農、中農、貧農、雇農に分けました。同年6月の『土地改革法』は、第一条で地主階級の封建的搾取の土地所有制を廃止し、農民の土地所有制を実行すると述べ、第三条は「農村における祠堂、廟宇、寺院、教会、学校および団体の土地とその他の公有地を没収する」と述べています。\n土地を分けられた農民が本当に土地を得たことは、下でまた述べます。ただ成分というものは、村をもう一度分類し直しました。これ以後、あなたが誰であるかは、どの家の人か、世代がどうかだけでなく、どんな成分かでも決まるのです。\n社会学者の郭于華と孫立平は、土地改革の「訴苦」を研究して、非常に的確に述べています。訴苦とは、農民の日常の苦難を取り出し、「階級」という中間のカテゴリーを通じて「国家」とつなぐこと。人はそれによって「階級の一員」「人民」「群衆」となり、現代的な意味の「公民」ではなくなった。彼らの国家観は「感恩型」である。（要旨に依拠。原文『歴史と社会』2002年は未読。）ほかの学者の評述にも、訴苦は「貧しい農民を、党が設計した農村の階級闘争に引き込む心理動員の技術」だとあります。\n郷土のもともとの糸は、「己」を中心に一輪ずつ外へ広がるものでした。家、族、村、郷。訴苦と成分は、その輪の外に別の糸を引きました。あなたと彼は、同じ階級かどうか。\n1962年から1978年：綱にした 1962年9月、八期十中全会が「決して階級闘争を忘れるな」と提起しました。その後、都市と農村で「社会主義教育運動」（四清）が展開し、さらに1966年の文革へ。1978年12月の十一期三中全会に至って、ようやく「階級闘争を綱とする」という標語の使用をやめると決まりました。\n1962年から1978年まで十六年、1950年から数えれば二十八年。ひとりの人が生まれ、結婚し、子を持つまでと、ほぼ同じ長さです。この世代の成長期のすべてが、この標語の下で過ぎました。\n人の心のなか ここで、話を人の心に移したいと思います。\n私は、この件でいちばん重いのは、祠堂が何座壊されたか、族田がどれだけ没収されたかではなく、人と人のあいだの線が断たれたことだと考えています。お互いに警戒し、お互いに密告する。歴史上のどの時期よりも激しい。これは私の判断で、誰も測ったことはありません。人数を比べることはできず、比べられるのは制度です。\n秦の商鞅の変法には、「告奸」令がありました。奸を告げない者は腰斬、奸を告げる者は敵の首を取った者と同じ褒賞、奸を匿う者は敵に降った者と同じ罰。（『史記・商君列伝』、引用による。）これは、告発を法に書いて重く賞し重く罰した、歴史上有名な例です。\nしかし漢の宣帝から、もうひとつの糸がつながります。地節四年（前66年）、詔書は言いました。「父子の親、夫婦の道は、天性なり」。それ以後、子が父母を、妻が夫を、孫が祖父母を匿うことは問われず、父母・夫・祖父母が子・妻・孫を匿うことも、死罪に至らなければ問われませんでした。これが「親親相隠」で、儒家の「父は子のために隠し、子は父のために隠す」という言葉が、初めて国家の法令に書き込まれたのです。のちに唐律には「同居相為隠」があり、宋律・明律にも似た規定があります。（学界の総説による。原文は未読。）つまり、秦のあとの二千年、法はつねに家の人のために抜け道を残していました。あなたは彼を告発しなくてよい。\nこれに対し、現代の法では、2012年に『刑事訴訟法』を改正して（第百八十八条、2018年に第百九十三条に改められた）ようやく、証人が正当な理由なく出廷しない場合、裁判所は強制出廷させうるが、被告人の配偶者、父母、子は除く、と書かれました。草案の説明が挙げた理由は、「配偶者、父母、子に法廷で被告人を告発させるよう強制することは、家族関係の維持に不利である」でした。ある学者は、これは刑事裁判が初めて家族関係の維持を考慮に入れたものだが、完全な意味の証言拒否権ではないと評しています。（総説による。）\n1949年以後から2012年までのあいだに、法が親族のためにこの抜け道を残したことがあったか、私は条文を調べきれていません。ここで言えるのは、これは調べに行ける帳簿だ、ということだけです。\nもうひとつの手がかりはネットのものです。この問いの議論のなかに、77の「いいね」がついたコメントがあります。「孔子にこだわる連中は、何千年かけても、夫婦子どもが大規模に互いを密告するような荒技はやれなかった」。ひとりのネットユーザーの言葉で、私は手がかりとして受け取り、証拠とはしません。\nいま、何が残っているか 社会学者の呉重慶は、今日の村に「主体なき熟人社会」という名をつけました。青壮年が長く不在で、村にはまだ人が住み、みなお互いを知っているけれど、村の「主体」、ものごとをさばき、発言し、場を支えることのできる人たちは、みな出て行った。彼のまとめは、世論が効かなくなり、「面子」の値が下がり、社会関係資本が散った、というものです。（総説による。原文『読書』2011年は未読。）\n1980年以後、人民公社は一つずつ撤去され、政社分離、郷政府の再建、村に村民委員会を置く。1985年までに、5.6万余の人民公社が9.1万余の郷鎮政府となり、その下に94万余の村民委員会ができました。（数字は転述。）国家は村から一歩退き、空いた位置を、誰も引き継ぎませんでした。\n続いて人が外へ出ました。農村人口が全国に占める割合は、1978年末で約82%、1995年末で約71%、2025年末で約32%。いま全国の農民工は三億近く、本郷鎮を離れた人は一億七千万余。2000年代初めから農村の学校は大量に統合され、2013年から2024年に農村の小学校は半数以上減りました（『村の学校』）。2006年1月1日から農業税は全面的に廃止され、二千六百年余りの「皇糧国税」は終わりました。これは良いことです。けれど同時に、国家と各農家のあいだの、一年に一度触れ合う最後の糸が、なくなったことも意味します。\n家のなかの権力も、手が変わりました。閻雲翔は郷里の黒竜江の下岬村に十数年付き添い、『私生活の変革』を書き、もとの家はピラミッドで、世代、年齢、性別が三つの支点だった、集団化がまず一度これを砕き、1980年代以後は一人っ子政策と人口移動がいっしょに、権力の重心を若い世代に押しやり、「4-2-1」の逆立ちした形を生んだ、村の人は「祖父が孫になり、女が天に上った」と言った、と述べます。（書評と取材による。原書は未読。）\nここまで来て、はじめの問いに戻ります。\n農村の付き合いの圧力は大きい、誰が家を建てた、誰の子が学校に行ったと、みな比べられ、「人の無きを笑い、人の有るを恨む」。村の世論による拘束はすでに昔ほどではなく、面子は値打ちを失った、という人もいます。この二つの言い方は、どちらも正しいと思います。\n私の読み方はこうです。比べることと噂話は残っている。受け止めてくれる底は、なくなった。 昔の郷土では、人に見られてはいたが、背後にも人がいました。族には義田があり、祠堂には公有財産があり、族長が出てきて調停し、老いれば子孫がいて、死ねば祭る人がいた。いまは輪は残っています。村の顔見知りという輪は。しかし輪のなかで物事を管理していたものは、ひとつずつなくなりました。底を受け止めるということは、結局、信頼を要します。何かあったとき、誰かが手を差し伸べてくれると信じられること。これは私が推し出した読み方で、直接そう述べた研究はありません。\n今日の故郷、研究は何と言うか はじめの二種類の人、憧れる人と恐れる人に戻ります。私は研究を探して、「空巣（子が出て老人だけが残る）」「人情の付き合い」「老人の暮らしぶり」を測った人がいるかを見ました。結論を先に言うと、一部は測られていて、一部はまだです。\n空巣。 よく引かれる「農村の空巣老人は七割を超える」は、私が調べた出典では、民政部のある官僚の2022年の発言で、全国の高齢者のうち空巣老人は半分以上、一部の大都市と農村地域では70%を超えることもある、というものでした。これは公式の発言で、調査データはなく、言っているのは「一部の地域」であって、全国の農村の平均ではありません。基準も入り乱れています。「配偶者とだけ暮らす」を空巣と数えるものもあれば、独居だけを数えるものもあります。2019年の全国農村固定観察点の数字は、高齢者のいる農村家庭のうち、12.9%が老人の独居、34.3%が複数の老人だけの同居で、合わせて47.2%（世帯基準で、個人基準ではない）。（二次の転述による。原表は未読。）\n人情。 閻雲翔は黒竜江の下岬村で1989年から1991年に現地調査を行い、『贈り物の流れ』を書きました。村で贈られる贈り物は「人情」を贈るもので、返礼は人情の借りを返すこと、親疎は差序格局のとおりに並ぶ。村の幹部への贈り物は、かえって幹部と普通の村民のあいだの等級を再生産する、と言います。（書評による。原書は未読。）一方、Xi Chen は農村家庭の長期の礼金記録を使った研究を行いました。贈答ネットワークの中心に近い家庭ほど、非公式の保険を得られる。同じ研究は、経済的な不平等と婚姻市場の競争が、贈答ネットワークの構造に影響する主な要因だとも述べます。（要旨による。）全国代表の調査を使った会議論文は、その使った調査年に、87%の家庭が贈答のやり取りをし、一年の贈り物（現金と現物を含む）は平均約2,013元、その年の一人当たり収入の11.7%だった、と述べます。（要旨のみ読んだ。）人情の帳簿には、保険の面もあり、負担の面もあります。\n老人の暮らし。 いちばん胸にこたえる一組は、農村の高齢者の自殺の研究から来ています。劉燕舞はいくつかの地域のデータを整理しました。1980年代には、農村の自殺者のうち、若者が約59%、高齢者が約24%。2000年以後の十年では、若者は約9%に過ぎず、高齢者が約79%。（地域事例の整理で、全国標本ではありません。公式記録は高齢者の自殺をしばしば「正常死亡」として登録するため、数はまだ低めかもしれません。）賀雪峰は2008年の湖北京山の調査で、そこに高齢者に不利な決まりがあることを見つけました。老人は子に多くを期待してはならず、病気になっても子に迷惑をかけない。自殺はしばしば「子のため」と理解される。そして村の人はそのことで子を責めない。他人の家の事だからです。彼がのちに河南済源で見たのは別の姿でした。兄弟が分家したあと、親が自立できなくなれば順番に扶養し、質は総じて比較的高く、調査した村には老人の自殺が一例もなかった。彼の説明は、済源は「北方小親族型」の村で、村民が不孝への他人の評価をとても気にする、というものです。（爱思想に転載された原文と総説による。事例としてしか使えません。）\nこの二つの地域の対比から、私が読み取ったことは、同じく子が都会に出て老人が残されるのでも、村の噂や評価がまだ効く場所では老人の暮らしがやや良く、世論が効かなくなった場所では老人の暮らしが悪い、ということです。これは二つの研究を並べて私が読んだもので、彼らの結論ではなく、二つの地域の事例にすぎません。\nあの「記憶」。 互いに警戒し合った記憶は、今日どう現れるのか、と聞きたいかもしれません。これを直接研究した論文は見つかりませんでした。あるのは傍証です。Bai と Wu は文革前後の県レベルのデータを使い、文革の強度が高かった県、および文革期に学校へ通った世代では、今日の信頼が有意に低いことを見つけました。全国調査データを使った別の研究は、この低下が親友に対しては「接着」し、同僚やあまり知らない人に対しては「隔てる」ことを見つけました。王裕華（Yuhua Wang）は、文革の暴力が重かった地域では、人びとの国家指導者への信頼がより低いことを見つけました。（いずれも要旨による。全文は読めておらず、著者とデータの出所は原文に従ってください。）これらの研究が測ったのは「信頼の水準」で、「この記憶が今日の老後と人情にどう影響するか」を測ったものはなく、それが子へ伝わるかを検証したものもありません。だから「影が代々伝わる」は、いまのところ推測であって、既存の結論ではありません。\n照らし合わせ：東南アジアの園区 この二年、これらの資料を読むあいだ、ずっと横に置いていたことがあります。東南アジアの電信詐欺の園区です。\nまず調べられることから。国連人権高等弁務官事務所の2023年8月の報告は、ミャンマーで少なくとも12万人、カンボジアで約10万人が、園区に閉じ込められ、ネット詐欺を強いられていると推計しました。ラオス、フィリピン、タイは目的地または中継地です。報告は、これらの人の多くが男性で、多くは所在国の国民ではなく、拷問、恣意的拘束、性暴力、強制労働を受けていると述べ、高等弁務官の言葉は「彼らは犯罪者ではない」でした。2026年2月にはさらに新しい報告があり、国際アムネスティの2026年6月の報告は、16か国出身の73人の生存者を記録しています。（メディアの転述による。基準はそれぞれ異なります。）\n園区は摘発もされました。2025年10月、ミャンマー軍はKK園区を攻略し閉鎖したと発表しました。メディアによれば、2025年2月に中緬泰合同行動が始まって以後、7,600人余りの中国籍の容疑者がミャワディから中国へ護送されました。同月、米財務省はプリンス・グループ関連の146の対象を制裁し、米司法省は約12.7万ビットコイン、当時の価値で約150億ドルの没収を申し立てました。2026年1月、カンボジアは中国の要請で、プリンス・グループ会長の陳志を逮捕し引き渡しました。\n誘拐には、多数の生存者の証言と国際機関の記録があります。臓器は？ そういう説はありますが、確認されていません。2022年にカンボジア警察は、調べた結果「臓器売買」は園区が従業員を脅すためのおどしで、実際に摘出はなかったと述べました。2026年にタイの当局は記者を連れて国境の園区の手術室を見せ、使った疑いがあると述べましたが、法医学的な証拠も、遺体も、臓器を摘出された人の証言もなく、しかもタイとカンボジアの間には領土の争いがあるので、これらの言い方にはそれぞれの立場があります。ですからこの一点は、いまのところここまでしか書けません。\n中に閉じ込められた人を、一筆で「悪人」と書くことはできません。あの報告の言葉は私たちに向けられています。多くは求人広告にだまされた若者で、パスポートを取り上げられ、殴られ、次々と転売されたのです。彼らの親は、家で一本の電話を受けました。\nなぜこのことをこの一篇に入れるのか。それは後の「私の見方」で述べます。\n裏返して見る まず最も強い反対から。「破壊」はなく、変わっただけかもしれません。\n春節に帰郷する何億もの人、清明の墓参り、古い家、ふるさとの訛り。これらは消えていません。ある町で祠堂が再建されたことも、まだそれを望む人がいることを示します。「郷土」は死んだのではなく、「生きるための根」から「ふるさと」に変わり、感情になった。この言い方はおそらく正しい。それが答えられないと私が思うのは、感情が老人の医療と日常を受け止められるのか、ということです。\n第二に、階級闘争には「部分的な真実」の土台がありました。 郭于華と孫立平自身も、階級の区分は、農村にあった「部分的に本当の」社会分化の上に築かれたと指摘しています。土地改革で、土地のない農民、少ない農民が土地を得たことは本当で、その後に起きたことのせいで消してはいけません。感恩も、すべてが教え込まれたわけではありません。\n第三に、「外来」という言い方には、「告発と連座は秦にもあった」と問われるでしょう。 上の商鞅の「告奸」令は、土着の法家です。秦暉は、伝統中国は「儒表法裏」だと言いました。表では仁義を語り、裏では編戸斉民ともう一層の管理がある。さらに、「皇権は県に下らず」「県以下は自治」という言い方も全部正しいわけではなく、皇権は里甲、保甲、胥吏によって村にまで伸びていた、明代から一部の地域では、朝廷が宗族を里甲によって編み直し、宗族は外殻だけになった、と注意を促します。（評述による。原文は未読。）だから「伝統的郷土は自治のよい場所だった」という像は、一部は後世の想像です。この見方に従えば、抜かれたのは「国家が宗族を借りる」仕組みで、必ずしも「自治」ではありません。そして「密告」は、馬教が発明したものではありません。\n第四に、過去の人を、個性がなかったとは思わないこと。 閻雲翔の本は、書評者に疑問を投げかけられました。個人化した家庭生活は、社会主義時期の農村にだけあったのか。伝統社会にも、私通の激情があり、親不孝な息子もいて、過去には個人がいなかったと先に決めてはいけない。\n第五に、「他人にはためらいがない」は、1949年以後に始まったとは限りません。 費孝通『郷土中国』に、「私人の道徳をつなぐ」という題の一篇があります。差序格局では、道徳は関係に従って動き、近い人には語られ、遠い人、見知らぬ人には、決まりがゆるむ。（私は篇名と大意だけ引き、原文は確かめていません。）そうなら、よそ者に手がゆるいという欠点は、郷土にもともとありました。1949年以後の変化は、「近い」輪まで取り壊したことかもしれません。\n第六に、園区の中の人は多くの国から来ていて、仕切る側も一か所の人だけではありません。 国連の報告は、園区で強制労働させられている人の多くは所在国の国民ではないと述べ、陳志は、カンボジア内務省によれば、カンボジア国籍を持っていたことがあります。他方、7,600人余りが中国へ護送された事実は、中の大陸の人が少なくないことを示し、悪事をなす者もいれば、だまされて拘束された者もいます。だから「ためらいがまったくない」といった一般化は、私は「相当数の人」までしか書きません。\n第七に、抑圧が低い信頼を残すのは、馬教だけとは限りません。 Xue と Koyama は清代1660年から1788年の文字の獄を研究し、打撃を受けた地域では、地元の善堂のような民間慈善が約38%少なく、今日そこの人びとは見知らぬ人への信頼がより低いことを見つけました。（ワーキングペーパー。雑誌版は確認できず。）つまり、抑圧が残す後遺症は、もっと一般的な仕組みで、1949年以後だけのものではありません。これは私の判断を覆しはしませんが、思い出させてくれます。馬教はこの仕組みをもっとも徹底して、もっとも広い範囲で使ったが、その「もっとも」は、数字で証明できません。\nこの七つを、私はみな認めます。認めたうえで、それでも、想像ではないものがいくつかあると思います。\n私の見方 私は、郷土中国は外来の馬教に徹底的に破壊された、人の心まで一緒に、と考えています。\n先に言っておきます。人が外へ出ること、私は止めません。「木は移せば枯れ、人は動けば生きる」、「水草を逐いて居る」。人は動けるべきで、一生、原籍・原地に縛られるべきではない。1980年以後の人の流出は、大半がよりよい暮らしへ向かうものでした。これは私が言う「破壊」ではありません。私が言う破壊は、別のことです。\n導火線は階級闘争でした。1927年、毛沢東は湖南で「一切の紳権を打倒せねばならない」「どの農村にも短期間の恐怖現象をつくり出さねばならない」と書きました。そのとき打倒しようとしたのは、郷土のなかで国家と農民のあいだに立つ中間層でした。1950年の成分区分と訴苦は、村の人を「誰の家の、誰の年長者」で認めるのをやめさせ、「何の成分」で認めるようにしました。1962年にはまた綱とされ、十六年続きました。私の見方では、このやり方が効いたのは、人間の性のなかのいちばん楽な数点、恐れ、妬み、立場をひっくり返したい気持ちをつかんだからです。それが使われれば、族長や郷紳がまた出てきて口をきく必要はなく、誰もが進んで人を見張ります。これは私の判断で、史料では証明できず、これらの資料を読み終えたあとの私の考えにすぎません。\n亡き父が言った言葉があります。上に大きな毛沢東がいて、下はみな小さな毛沢東、杯の大きさの、指の大きさの。私は何年も聞いてきて、いまやっとわかりました。権力は一番上にだけあるのではなく、一層ずつ複製されて降りてくる。どの層にも小さな版がいて、手のなかのほんの一片で、あなたが暮らしやすいかどうかを決める。こういう構造のなかで、人は互いに警戒し合います。身近なだれが、あなたを管理している小さな版なのか、わからないからです。（この段の父の言葉の理解は私のもので、父の原話ではありません。）\nだから私は、破壊されたのは祠堂、族田、郷紳だけでなく、人と人のあいだのわずかな信頼もだ、と言うのです。\n上の時間線をもう一度見ると、抜き去られたものは四つあります。ひとつは通路、上下をつなぐ道で、1905年に切れました。この一刀は馬教には属しません。ひとつは受け止める底、族田、義荘、祠堂のような公有財産と公共の建物で、1950年以後に取り上げられ、のちに建て直されたものもあるが、三十年後でした。ひとつは決まりの伝承、次の世代に決まりを教える場所で、学校から祠堂、家の最後の年寄りまで。そしてもうひとつが信頼です。前の三つは補えます。補うには金と場所と時間がかかります。四つ目はいちばん補いにくいと思います。それは建物ではなく、ひとりの人がもうひとりの人に対して持つ底力だからです。\n東南アジアの園区も、この線の上で見られると思います。私の見方はこうです。数十年の破壊と、注入式の教育が、相当数の人から、「これはしてはいけない」という敏感さを失わせ、底線を守れず、人倫も顧みなくなった。郷土で人を縛っていたもの、顔見知りの目、祖先、神仏、「恥」という二字が、ひとつずつ取り払われ、代わりに入ったのは「目標が正しければ手段は問わない」と「他人を警戒せよ」でした。顔見知りの輪を出て、誰も自分を知らない場所に行けば、止めるものがありません。園区でだまされ、拘束された人たちは、これの別の端です。彼らは身を守ることを教わらず、戻れる受け止めの場所もありませんでした。これは私の判断で、調査の結論ではありません。\nだから、老いてから田舎へ帰ることについて、私の見方はこうです。故郷がいいかどうかを聞くのではなく、この四つがいくつ残っているかを聞け。 一つ欠ければ、「憧れ」は「誰も面倒を見ない」に変わりやすい。\nこの四つのなかに、歩ける道がひとつあると思います。祠堂です。『いまの儒家の苦境』で私は、儒家のこちら側は「供給を断たれた」と言い、供給されるのは「器」だと述べ、思い浮かべたのは祠堂でした。それは既成のものです。建物があり、姓があり、祖先を祭る日があり、昔は学校を営み、公有財産を管理し、争いを調停することも兼ねていました。村に戻らねばならないとは、私は固執しません。人が出るなら、都市にも、海外にも、「どこから来たか」と「どこへ行くか」をつなげられる場所ならどこにでもありえます。『農村にはあと何人残っているか』で私は書きました。この一式は、持ち運べるものでなければならない、と。\n互いに警戒し合うことを教え込まれた社会で、信頼はどこからやり直せるのか。\n参考資料\n評価：🟢 原文または公式の数字を読んだ；🟡 二次の転述（検索要約、書評、総説）、原書は未読。\n毛沢東『湖南農民運動考察報告』、1927年原文、中国語マルクス主義文庫『毛沢東集』版（『毛沢東選集』版と改変がある）🟢：https://www.marxists.org/chinese/maozedong/collect/01-038.htm 『中華人民共和国土地改革法』（1950）第一条、第三条（ウィキソース）🟢 国家統計局の農村人口比率、農民工モニタリング報告（『農村にはあと何人残っているか』参照）🟢 費孝通『郷土中国』、上海観察社、1948；成立と概念は学界の総説による 🟡 光緒三十一年八月初四（1905-09-02）科挙廃止の上諭；厳復、劉大鵬の反応は王学泰の文章などの転述による 🟡 羅志田「科挙制の廃止が農村にもたらした社会的帰結」「科挙制の廃止と四民社会の解体」、『権勢の移転』所収、北京師範大学出版社、2014 🟡 杜賛奇『文化、権力と国家：1900—1942年の華北農村』、江蘇人民出版社（中国語訳）🟡 『政務院の農村階級成分の区分に関する決定』、1950年8月（全文は未読）🟡 郭于華・孫立平「訴苦：農民の国家観念形成の媒介機制」、『歴史と社会』2002 🟡 『中国共産党第八期中央委員会第十回全体会議コミュニケ』、1962；十一期三中全会、1978（いずれもコミュニケ原文は未読、総説による）🟡 『史記・商君列伝』の「告奸」令；『漢書・宣帝紀』地節四年詔；『唐律疏議・名例律』「同居相為隠」、学界の総説により、原文未確認 🟡 2012年『刑事訴訟法』改正、第百八十八条（現第百九十三条）、および陳璧生ら学者の評述 🟡 『農村に人民公社を建てる問題に関する決議』（1958）；1983–85年政社分離の数字は総説による 🟡 閻雲翔『私生活の変革：ある中国の村における愛情・家庭・親密な関係 1949—1999』、上海書店出版社、2006；書評と取材による 🟡 呉重慶「『熟人社会』から『主体なき熟人社会』へ」、『読書』2011、総説による 🟡 秦暉『伝統十論』「宗族の外殻の下の朝廷の意志」、評述による 🟡 国連人権高等弁務官事務所2023年8月の報告（ミャンマー少なくとも12万人、カンボジア約10万人）と2026年2月の更新、ニュース転述による 🟡：https://www.unognewsroom.org/story/en/1763/hundreds-of-thousands-trafficked-into-online-criminality-in-southeast-asia-ohchr 国際アムネスティ2026年6月のカンボジア園区報告（生存者73人、16か国）、メディアによる 🟡：https://interaksyon.philstar.com/politics-issues/2026/06/09/314680/amnesty-says-cambodia-scam-centers-still-operating-despite-crackdowns/ KK園区、ミャワディ送還（7,600人余り、基準は一定せず）、プリンス・グループ制裁と陳志引き渡し、騰訊ニュース、ウィキペディアなどによる 🟡：https://news.qq.com/rain/a/20261007A05GYV00 タイ当局の O'Smach 園区「手術室」への疑い（未確認）🔴：https://www.nationthailand.com/news/general/40070780；カンボジア警察の2022年の説明、メディア転述による 🟡 民政部2022年記者会見（空巣老人が半分以上、一部地域で70%超）、メディア転述による 🟡；全国農村固定観察点2019年（文献の引用による）🟡；第7回人口センサス（農村の60歳以上 23.81%）🟢 閻雲翔『贈り物の流れ：ある中国の村における互恵原理と社会ネットワーク』、上海人民出版社；The Flow of Gifts, Stanford UP, 1996；書評と取材による 🟡 Xi Chen, \u0026quot;Gift-giving and Network Structure in Rural China: Utilizing Long-Term Spontaneous Gift Records\u0026quot;, PLoS ONE, 2014（IZA DP 8642）🟡：https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC4128647/ Fanghua Li \u0026amp; Yuan Tian, \u0026quot;Social Network, Gift Exchanging and Inequality in China\u0026quot;、SIOE 2016会議論文（要旨のみ）🟡 劉燕舞「農村高齢者の自殺とその危機介入（1980—2009）」、『農民自殺研究』；賀雪峰「中国で老いて頼る所なし——農村高齢者自殺調査報告」「農村高齢者はなぜ自殺を選ぶのか」（いずれも湖北京山、河南済源の調査、爱思想の転載と総説による）🟡 Liang Bai \u0026amp; Lingwei Wu, \u0026quot;Political movement and trust formation: Evidence from the Cultural Revolution (1966–76)\u0026quot;, European Economic Review 122, 2020 🟡（要旨のみ）：https://ideas.repec.org/a/eee/eecrev/v122y2020ics0014292119301916.html Yuhua Wang, \u0026quot;The Political Legacy of Violence During China's Cultural Revolution\u0026quot;, British Journal of Political Science 🟡（要旨のみ） Melanie Meng Xue \u0026amp; Mark Koyama, \u0026quot;Autocratic Rule and Social Capital: Evidence from Imperial China\u0026quot;、ワーキングペーパー（NBER、MPRA版）🟡：https://mpra.ub.uni-muenchen.de/84249/ 日本国土交通省『過疎地域等における集落の状況』類の調査（2006：7,873集落、12.6%）；大野晃「限界集落」、日本語の要約による 🟡：https://www.mlit.go.jp/common/000029292.pdf ","permalink":"https://tentao.pages.dev/ja/yigui/e121/","summary":"\u003ch2 id=\"ひとつの問い方\"\u003eひとつの問い方\u003c/h2\u003e\n\u003cp\u003eいま、四十歳前後になって、いつか故郷に帰ろうと考え始める人がいます。野菜を作って、鶏を何羽か飼って、近所はみな顔見知りで、空気がよく、ゆっくり暮らせる。\u003c/p\u003e\n\u003cp\u003e一方、聞いただけで首を振る人もいます。村の付き合いは重い。誰が家を建てた、誰の子が受験でうまくいった、何でも比べられる。よく聞く言葉があります。「人の無きを笑い、人の有るを恨む」。それに病院は遠く、子どもたちは近くにいません。\u003c/p\u003e","title":"郷土中国はいつ消えたのか"},{"content":"調べられる問い 前の一篇は、最後にひとつの問いを残しました。中国の村が空になったのは、発展が速すぎたからか、それとも壊し方が徹底しすぎたからか。\nこの二つの説明は、隣の国々について違う予測を立てます。\n「発展が速すぎた」なら、隣の村は、壊されたことがあってもなくても、やはり空になり、老います。\n「壊し方が徹底しすぎた」なら、隣の村は、人が出て行ったあとも、人を受け止められるもの、宗族、廟、講のようなものが、もっと多く残っているはずです。\n一つ目の予測は調べやすい。二つ目は難しい。調べられたものを先に並べます。\n日本：人は去り、殻は残った 日本には「限界集落」という言葉があります。65歳以上が半分を超え、村の共同の仕事もやっと回っているような集落のことです。国土交通省の2006年の調査では、そうした集落は7,873か所、12.6%でした。\nでは村の組織は。まず自治会（町内会）です。総務省の調査で、全国の自治会の加入率は、世帯ベースで、2010年が78.0%、2020年が71.7%と、十年間ずっと下がっています。けれども自治会という組織そのものは、全国で29万から30万のあいだで、三十年ほとんど変わらず、2023年は295,838団体でした。つまり、殻は残り、中の人が減ったのです。1970年の世論調査では、20歳以上の90.2%が自治会に加入したことがあるとされましたが、調査方法が違うので、そのまま比べられません。\nもうひとつの細部。十年のうち、人口一万人未満の小さな自治体は、加入率の下がり方がいちばん小さく、3.1ポイントだけでした。いちばん下がったのは人口20万から30万の都市で、7.6ポイントです。小さな土地の人は、かえって抜けにくいのです。（総務省調査の転述による。）\n次に神社。神社本庁が包括する神社は約7.8万社（2017年末の数）。ある整理によれば、その約三割の神職は「兼務」、つまり一人で何社も受け持っていて、そうすることで過疎地の神社が一社ずつ消えていかずにいます。兵庫県の但馬地方は、神社が738社、宮司は29人で、平均すると一人が25.4社を担当し、兵庫県の平均は10.7社です。（2022年の神戸新聞の報道による。）神社界自身も認めています。氏子（その神社を支える村の家々）が減れば収入も減り、宮司は引き受けたがらず、神社はさらに世話をする人がいなくなる、という悪循環になる。兼務の宮司さえいなくなって、「不活動神社」になったものもあります。\nだから日本の様子はこうです。村は空になり、老いた。神社や自治会のような組織は、殻の多くは残っているが、中は薄くなっている。\n韓国：私たちより老いている 韓国の数字はもっと目立ちます。2020年の農林漁業総調査では、農家人口のうち65歳以上が42.3%で、十年前の21.7%から倍になりました。同じ年、全国人口で65歳以上は16%にすぎません。2025年の暫定結果は51.3%で、初めて半分を超えました。ただしこの調査は農地台帳などの行政資料も加えており、2020年とそのままは比べられません。別の2024年の年次調査では55.8%という数字もあります。\n並べてみると、桁がはっきりします。中国の第7回人口センサスでは、農村の65歳以上は17.72%です。基準は違い、一方は「農家」、もう一方は「農村の常住人口」なので、どちらが老いているかは直接には言えません。けれども「隣の農村は私たちよりずっと老いている」とは、安心して言えます。\n韓国の門中、宗中、つまり同じ宗族の組織が、この数十年にどう変わったかは、今回は引用できる数字を見つけられませんでした。\n台湾：廟は残っている 台湾の内政部の寺廟登録では、2008年末に島全体で登録されたものが11,731座、うち道教の寺廟が78.4%、仏教の寺廟が19.5%でした。2002年末は11,423座です。増えた主な理由は、未登録の寺廟に登録を補うよう政策が促したためで、新しく建てられたとは限りません。（内政部統計の転述による。最新の全国の総数は見つけられていません。）\nもうひとつ「祭祀公業」というものがあります。清代と日本統治期の移民が、故郷の祖先を思い、子孫が資金を出し合って田畑を買い、その収益を祖先の祭りと会食に使う。土地は多く祖先の名義で登記されます。内政部には今もこれを説明する専用のページがあり、各県市も祭祀公業法人の名簿を公開しています。人類学者の林美容は、草屯一帯の土地公廟を研究し、土地公廟を聚落の指標と見ました。（以上は一つの町の研究にすぎません。）\n台湾の農村の高齢化と、宗祠や祭祀公業の数がどう関係するかは、数字で示した資料を見つけられませんでした。\n並べてみる 日本 韓国 台湾 中国 村が老い、空になった はい（限界集落12.6%） はい（農家65歳以上 42% → 51%、基準が変わった） 数字なし はい（農村60歳以上 23.81%） 村の組織はまだあるか 自治会29万、三十年変わらず 見つからず 登録寺廟1.1万座 祠堂が建て直された（湘中のある町の例：三十年あまり空いて） 中の人 加入率78% → 71.7%。神社の三割は兼務、氏子は減る 見つからず 見つからず 『郷土中国はいつ消えたのか』を参照 この表から私が読んだのは、隣の村も同じように空で、同じように老いているということです。これは「発展が速すぎた」という説明を支えます。人が外に出るのは、どこにでもあることです。\nけれども「殻が残る」ことは、「中に人がいる」ことではありません。日本の神社は、約三割が兼務に頼り、氏子が減っていると答える宮司は六割を超えます。だから「隣の組織は残っていて、私たちのはなくなった」とも、今は言えません。\n今回言えるのは、ここまでです。 いちばん肝心なところ、韓国の宗族、台湾の宗祠、中国の比べられる村レベルの組織は、並べて置ける数字がありません。この表は誰の判断の証人にもならず、誰かを論破するためにも使いません。私の判断は、これに頼っていません。\n裏返して見る 第一に、隣の村も「壊され」ました。1945年12月、占領当局は「神道指令」を出して神社と国家を切り離しました。それは一つの体系の解体で、ただ、解体の方法が中国とは違ったのです。『隣人たちの天』で書きました。だから「隣は壊されたことがない」という前提そのものが正確ではありません。\n第二に、自治会のような殻は、行政の殻にすぎないかもしれません。三十年間、数が変わらないのは、それが行政の末端の一段として扱われているからで、村の人が望んでいるからではないのかもしれない。殻の数は、村の人がまだ集まれるかどうかを、直接には示しません。\n第三に、基準の違うものの比較は、言い過ぎになりやすい。この一篇で使った数字は、どれも年も基準も違い、桁を見るだけにしかなりません。\n私の見方 これらの数字を読み終えて、考えたことが三つあります。\n第一に、「空になった」ことを、もう争いの材料にしないこと。東アジア全体が空になっています。発展は確かに速かった。争うことは何もありません。人が外に出ることを、私は止めないと、前の一篇で言いました。\n第二に、「空になったあと、受け止められるか」こそが、比べるべきものです。日本の自治会や神社は、殻が残り、中は薄くなっていますが、少なくとも人をまた入れていける殻があります。湘中のあの町の記録で私が見たのは、殻そのものが三十年間途切れ、祠堂が三十年あまり空いてやっと建て直された、ということです。（一つの町の例で、全国を代表するものではありません。）この違いは、これらの表では測れません。私の判断もこれに頼っていません。理由は前の一篇で述べました。\n第三に、補うべき数字は、すでに上に挙げました。韓国の門中、台湾の宗祠と祭祀公業、中国の比べられる村レベルの組織。これからも探します。\nもし隣の村では殻が残っていて人がいなくなり、私たちの村では殻がなくなり、人も出て行ったのなら、どちらが受け止めやすいだろうか。\n参考資料\n評価：🟢 原文を読んだ；🟡 二次の転述（検索要約、メディア、公的ページ）、原文は未読。\n国土交通省『過疎地域等における集落の状況』類の調査、2006（限界集落 7,873か所、12.6%）🟡：https://www.mlit.go.jp/common/000029292.pdf 総務省『自治会・町内会の活動の持続可能性について』（全国1,741自治体の回答；加入率 2010年78.0%、2020年71.7%；2023年の自治会等 295,838）🟡：https://www.soumu.go.jp/main_content/000777270.pdf；国立国会図書館 ISSUE BRIEF No.1306（2025-02-04）『自治会・町内会の現状と今後の在り方』🟡 神戸新聞『神職の人手不足が深刻 過疎地の神社、宮司１人で８０社担当も』、2022-05（但馬 738社、宮司29人）🟡：https://www.kobe-np.co.jp/news/sougou/202205/0015299611.shtml 冬月律、中外日報『［論］』2019-12-11（神社本庁包括 約7.8万社、約三割の神職が兼務）🟡：https://www.chugainippoh.co.jp/article/ron-kikou/ron/20191211-002.html 島根県神社庁『過疎化、少子･高齢化に関わる神社運営状況アンケート調査 集計結果』、2024-09 🟡 韓国 2020年農林漁業総調査（農家人口65歳以上 42.3%）；2025年暫定結果（51.3%、基準は2020年と異なる）；2024年の別の調査（55.8%）、農民新聞、ニュース1、ソウル経済などの転述による 🟡 中国の第7回人口センサス：農村の60歳以上・65歳以上 23.81%、17.72%（『農村にはあと何人残っているか』参照）🟢 台湾内政部『寺廟登記概況』（2008年末 11,731座；2002年末 11,423座）、および「祭祀公業及び神明会」の説明ページ 🟡：https://www.moi.gov.tw/cp.aspx?n=160；全国宗教資訊網の統計報表 https://religion.moi.gov.tw/ChartReport/Index?ci=1\u0026cid=2 🟡 林美容、草屯鎮の土地公廟と祭祀圏の研究、総説による 🟡 1945年12月の「神道指令」：『隣人たちの天』D02 の参考資料を参照 『郷土中国はいつ消えたのか』『農村にはあと何人残っているか』『祠堂が戻ってきた』 ","permalink":"https://tentao.pages.dev/ja/yigui/e122/","summary":"\u003ch2 id=\"調べられる問い\"\u003e調べられる問い\u003c/h2\u003e\n\u003cp\u003e前の一篇は、最後にひとつの問いを残しました。中国の村が空になったのは、発展が速すぎたからか、それとも壊し方が徹底しすぎたからか。\u003c/p\u003e\n\u003cp\u003eこの二つの説明は、隣の国々について違う予測を立てます。\u003c/p\u003e\n\u003cp\u003e「発展が速すぎた」なら、隣の村は、壊されたことがあってもなくても、やはり空になり、老います。\u003c/p\u003e","title":"隣の村も空になった：空になったあと、何が残るのか"},{"content":"「TenTao」とは TenTao は、私の故郷の方言で「天道」を読んだ音です。標準中国語では tiandao、「天の道」です。\n中国語の日常では「天道酬勤」（天は勤める者に報いる）、「天行健」（天の運行はすこやか）といった言葉に出てきます。私が込めたいのはその意味ですが、孔子より前までさかのぼったものです。\n『尚書』の「無逸」篇は、周公が若い王に与えた戒めで、「君子は逸に溺れない」と始まります。殷の王たちと周の文王をたどり、勤めて怠らなかった王は長く在位し、生まれながら安逸に暮らした後の王たちは短かったと言います。三千年前の「天道酬勤」です。\nひとつ正直に書いておきます。「天道」の二字は、『尚書』の信頼できる篇には出てきません。そこで語られるのは「天」と「天命」です。よく引かれる「天道は善に福し淫に禍す」は四世紀に偽作された篇のものです。ですから TenTao が借りたのは考え方であって、その書物の文句ではありません。\nこのサイトについて 私は中国語でいくつかのエッセイのシリーズを書いています。中国そのもの、隣人たちと海外の華人、世界の文明と宗教、インド、湖南と江西、そして住まい・子ども・老後といった暮らしについて。\nどれも一つの問いをめぐっています。中国、韓国、日本、ベトナム、そして世界各地に散らばる東アジアの人々を、何が結びつけうるのか。求めているのは共通の文化と信仰であって、単一の民族アイデンティティではありません。\n私には私の傾きがありますが、どの篇もそれに対するいちばん強い反論を示そうとしています。日本語訳は機械ではなくAI（Claude）による翻訳で、母語話者の校閲はまだです。誤りを見つけたら教えてください。\n連絡先 賛成でも反対でも、tentao@duck.com へお便りをください。開かれた時代ですし、私も開かれた心でいたいと思っています。考えのある人がもっと集まってくれたら、Telegram のグループを作るかもしれません。\n","permalink":"https://tentao.pages.dev/ja/about/","summary":"\u003ch2 id=\"tentaoとは\"\u003e「TenTao」とは\u003c/h2\u003e\n\u003cp\u003e\u003cem\u003eTenTao\u003c/em\u003e は、私の故郷の方言で「天道」を読んだ音です。標準中国語では \u003cem\u003etiandao\u003c/em\u003e、「天の道」です。\u003c/p\u003e\n\u003cp\u003e中国語の日常では「天道酬勤」（天は勤める者に報いる）、「天行健」（天の運行はすこやか）といった言葉に出てきます。私が込めたいのはその意味ですが、孔子より前までさかのぼったものです。\u003c/p\u003e","title":"このサイトについて"},{"content":"八つのシリーズは、それぞれ違う領域を扱いながら、同じ一つの問いを追っています。総覧をご覧ください。日本語に訳したのは、いまのところ『隣人たちの天』だけです。\n『依帰』――中国の天国と天下\r中国自身を縦に見る：名教、衣冠、祠堂、族譜。南方篇は湖南と江西を人の流れから。（「依帰」＝頼りにし、立ち返る信念）\n11 篇\n隣人たちの天\r中国の外の儒教文化圏の隣人たち（朝鮮半島、日本、ベトナム、琉球、台湾）と、東南アジアの華人。\n32 篇\n奪舎――文明の延命術\r世界の文明と宗教を横に比べる：誰が神を替え、誰が征服されて征服者を書き換えたか。\n26 篇\n時事\r家、車、子ども、結婚、老後、お金：公開された数字とほかの土地でやってきたことで見る。\n8 篇\n鈍行列車――インドはどこへ向かうのか\rインドの現在と未来。東アジアとの対照としても。\n9 篇\n秘本――私たちはなぜ偽史を愛するのか\r癸酉本、洪清仮説、西洋偽史論：偽史はどう一層ずつ育ち、私たちはなぜそれを愛するのか。\n3 篇\n貨殖――熙熙攘攘、みな利のために来たり利のために往く\r金融と経済、学びと実践。儒家の「商」の部分を補う。\n3 篇\n","permalink":"https://tentao.pages.dev/ja/series/","summary":"\u003cp\u003e八つのシリーズは、それぞれ違う領域を扱いながら、同じ一つの問いを追っています。\u003ca href=\"/ja/\"\u003e総覧\u003c/a\u003eをご覧ください。日本語に訳したのは、いまのところ『隣人たちの天』だけです。\u003c/p\u003e\n\r\n\u003csection class=\"series-item\"\u003e\r\n  \u003ch2\u003e\u003ca href=\"/ja/yigui/\"\u003e『依帰』――中国の天国と天下\u003c/a\u003e\u003c/h2\u003e\r\n  \u003cp\u003e中国自身を縦に見る：名教、衣冠、祠堂、族譜。南方篇は湖南と江西を人の流れから。（「依帰」＝頼りにし、立ち返る信念）\u003c/p\u003e\r\n  \u003cp\u003e\u003csmall\u003e11 篇\u003c/small\u003e\u003c/p\u003e\r\n\u003c/section\u003e\r\n\u003csection class=\"series-item\"\u003e\r\n  \u003ch2\u003e\u003ca href=\"/ja/linju/\"\u003e隣人たちの天\u003c/a\u003e\u003c/h2\u003e\r\n  \u003cp\u003e中国の外の儒教文化圏の隣人たち（朝鮮半島、日本、ベトナム、琉球、台湾）と、東南アジアの華人。\u003c/p\u003e\r\n  \u003cp\u003e\u003csmall\u003e32 篇\u003c/small\u003e\u003c/p\u003e\r\n\u003c/section\u003e","title":"シリーズ"},{"content":" RSS https://tentao.pages.dev/ja/index.xml\n上のアドレスを RSS リーダー（Feedly、Inoreader、NetNewsWire、Reeder など）に登録すると、新しい記事が公開されるたびに届きます。シリーズごとのページにもそれぞれ RSS があるので、一つだけ追うこともできます。\nメール購読 メール購読はまだ準備中です。いまは上の RSS をお使いください。\n","permalink":"https://tentao.pages.dev/ja/subscribe/","summary":"\u003cdiv class=\"subscribe-box\"\u003e\n  \u003ch2\u003eRSS\u003c/h2\u003e\n  \u003cp\u003e\u003ca class=\"subscribe-rss\" href=\"https://tentao.pages.dev/ja/index.xml\"\u003ehttps://tentao.pages.dev/ja/index.xml\u003c/a\u003e\u003c/p\u003e\n  \u003cp\u003e上のアドレスを RSS リーダー（Feedly、Inoreader、NetNewsWire、Reeder など）に登録すると、新しい記事が公開されるたびに届きます。シリーズごとのページにもそれぞれ RSS があるので、一つだけ追うこともできます。\u003c/p\u003e\n  \u003ch2\u003eメール購読\u003c/h2\u003e\n  \u003cp\u003eメール購読はまだ準備中です。いまは上の RSS をお使いください。\u003c/p\u003e\n\u003c/div\u003e","title":"購読"}]